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2011年6月9日木曜日

誰がため('08)     オーレ・クリスチャン・マッセン


<複雑な状況下に捕捉された人間の、複雑に絡み合った心理の様態を映し出した秀作>



 1  「約束された墓場」である「約束された悲劇」の物語



 本作は、死を極点にする「非日常」の鋭角的な時間を日常化した男たちの、「約束された悲劇」を描いたものである。

 「約束された悲劇」とは、「過激なテロリスト」の人生が、そこにしか流れ着かないような「約束された墓場」である。

 映像が映し出したものの多くは、「過激なテロリスト」によるテロルの連射であり、まるでそれは、退廃的な文化を特定的に切り取った、フィルムノアールのダークサイドの臭気に満ちていた。

 ダークサイドの臭気に満ちていた立憲君主制国家の名は、第二次世界大戦下のデンマーク。

 ナチスドイツから「保護占領」という形で侵略された立憲君主制国家において、欧州王家として長く続いた王室は守られ、国内政治も継続性を保証されていた。

 既に、1934年6月末の「長いナイフの夜」で突撃隊を粛清し、党内権力を掌握したばかりか、国家権力を手中に収めたアドルフ・ヒトラーは、デンマーク王国を同じアーリア系のゲルマン民族の国家と主観的に認知していたため、クリスチャン10世をコペンハーゲンに留まることを許可すると同時に、デンマーク国民の象徴として、その地位を保証したのである。

 それが、「保護占領」の内実だった。

 そんな中途半端な国家で起こった反ナチ・レジスタンス運動が、熱きナショナリズムの推進力を自給できなかったのは、このような歴史の制約に起因するものだ。


 
そんな中で、細々と立ち上げたレジスタンス運動に挺身する、二人の男。

本作の主人公である、フラメンとシトロンという、コードネーム(暗号名)を持つ二人の青年である。

 「全身コミュニスト」でない彼らは、ピュアなナショナリスト、或いはパトリオットとして、この困難な時代の心臓部に自己投入していくのだ。

 彼らは、「ホルガ・ダンスケ」という大規模な地下組織の幹部であるヴィンターの暗殺指令によって、主に裏切り者のデンマーク人を抹殺する使命を帯び、それを遂行する。

 23歳の若いフラメンは大義に燃えて、淡々と使命を遂行していくが、30歳を過ぎたシトロンは妻子持ちであるが故にか、簡単に人を殺す行為を回避している。

 だから、シトロンはフラメンの運搬係という任務に甘んじていた。

 元より、地下で組織されたレジスタンス運動の本質は、その日常性の一切が、「非日常化」されているという極限状況を常態化しているので、言わば、彼らは「非日常の日常化」の極限状況下で、厄介なミッションを遂行していくのだ。


 それ故にと言うべきか、同国人への暗殺という行為に対して感覚鈍磨していく様相を呈するのは、殆ど時間の問題だった。

 感覚鈍磨させない限り、自我の拠って立つ大義が守れないのだ。

 そんな極限状況下で若い自我を支えるのは、「恐怖支配力」の有無であると言っていい。

 「恐怖支配力」というメンタリティは、「過激なテロリスト」たちの継続力を保証し、感覚鈍磨によって希釈化された「合目的的テロル」への全人格的投入が、そこに生き残された一縷(いちる)の知性による「疑念」を払拭していくのだ。

 この辺りの心理については、後述する。

 本作の主人公である二人の青年が、感覚鈍磨によって希釈化された「合目的的テロル」への全人格的投入に相応しき人物造形されていたとは、とうてい思えないからである。



 2  敵対者への鋭角的な闘争心を身体化した男の悲哀



 「よく自問する。なぜ、こんなことを?なぜだ。理由その1。ドイツの軍服を着た売国奴ども。近づくのも御免だ。いつもたるんでいやがる。ウジ虫どもめ。理由その2。新聞でプロパガンダを謳うナチのブンヤども。皆、理由がある。ヨーンは4月9日にナチスが来るのを見た。長い隊列を見て、憤怒したそうだ。そして、吐いた。吐き気が続いた。去年の夏、妻のためにラジオを買うまで、非合法の新聞を作っている奴らが、自分と同じ思いだと知るまで・・・彼らは地下活動を始めた・・・」

 これは、映像冒頭でもフラメンのモノローグ。

 ヨーンとは、シトロンの本名である。因みに、フラメンの本名はベント。

 1940年4月9日。

 この日こそ、ナチの「保護占領」が開かれた日だ。

 このモノローグにある、フラメンの相棒であるシトロンの嘔吐こそ、自我が拠って立つ基盤となる国土を汚した敵対者への激しい憎悪の噴出である。

このヒューマンな男もまた、フラメンと同様に、ミッションの遂行に感覚鈍磨していくプロセスが開かれるのだ。

 ドイツ軍将校との相打ちによって、フラメンがテロリストとしての本来の使命を機能し得なくなったからである。

 代って、妻子持ちのテロリストとして、シトロンが覚悟を括って自らを立ち上げていくが、「過激なテロリスト」に変容していくには、それほどの時間を要しなかった。

 見る見るうちに、シトロンの相貌は尖り切ったものになり、その人格から滲み出す鋭角的な闘争心に触れた彼の妻は、まもなく、愛人を作って夫の元から離れていく。

 以下、そのときの会話。

 「話があるの。好きな人が・・・」とシトロンの妻。

 一瞬の「間」ができた。

 「こんなことは望んでいなかった。残念だわ」と妻。

 「愛」を復元させる意思を見せるかのように、妻の体を貪る夫。

 「やめて。お願い、聞いて」

 夫は妻から離れて、最も知りたくない事実を確認しようとする。

 「何者だ?」
 「関係ない」
 「誰だ?」
 「誰でもない」
 「答えるんだ!どこの男だ!俺が怖いか?お前を傷つけたことはない」
 「彼を殺すわ。名前を言えば、殺すんでしょう?そうでしょう?」
 「何を言い出すんだ!それは違う。勘違いだ!愛してる」

 嗚咽する妻は、夫を避けて、車から降りていった。

 本作の中で、私が最も感慨深く鑑賞したシーンである。

 恐らく、妻は愛人を積極的に選んだのではない。

 夫に寄り添えなかっただけなのだ。

 夫に寄り添えない女が、自立して生きていくのが困難な状況下にあって、彼の妻は愛人の元に走ったのではないか。

 少なくとも、シトロンはそう考えた方に違いない。

 その方が、自我の蒙る裂傷が少なくて済むのだ。


 妻子を失ったシトロンが決定的に変容していくのは、このプライバシーが契機になっていた。

 今や、シトロンもまたフラメンと共に、この時代の尖った状況の只中を激しく疾駆する「過激なテロリスト」になっていく。



 3  「戦争に正義も何もない。標的を倒すだけだ」



 「過激なテロリスト」たちの自我を、激しく揺動させる事態が出来した。

 彼らに暗殺指令を出していたヴィンターの意図が自己保身のためのものと分り、彼らは持っていき場のない感情を噴き上げていくのだ。

 「俺らは踊らされ、イギリスから命令など出ていない。秘密を知った者は、無実でも殺され・・・」

 このフラメンの告知に、失ったものの大きさを知るシトロンは、感情的に反駁するだけだった。

 「黙るんだ!いいか、よく聞け!俺らが殺したのは、皆悪党だ。あのドイツ人将校も、悪党だから撃った。彼が地下運動家だったと、今更言われても・・・ヴィンターのような金持ちを信じるからだ。金だけのために生きているクソどもだ。ケティを撃てばよかったのに。腑抜けにされて」

シトロンが感受する不条理の思いは、底知れぬほど深い。

 彼は既に妻子と別れているのだ。

 「黙れ。自分の本名を知る女にのぼせ上がるとはな。黙れ!」

 「合目的的テロル」に対して、感覚鈍磨させたつもりのシトロンの自我は、大義に縋れないと継続力を保持し得ないのだ。

 因みに、ケティとは、フラメンの本名がベントである事実を知る女だが、厄介なことに、そのケティを愛するフラメンには、密告者の疑いを抱かれた彼女を殺せない。

 「俺は、無実の者を撃っていない」とシトロン。
 「どうして気づかなかった・・・俺たちだけが、ゲシュタポに追われる羽目に。これが、正義か・・・」

 このフラメンの根源的な問題提示に、シトロンは、そこだけは明瞭に言い切った。

 「戦争に正義も何もない。標的を倒すだけだ」

 それは、大義に縋り得なくなった男の開き直りでもあった。

 逆に言えば、それだけ、自我が縋りつく大義を飢渇しているのである。

 敵を追い詰めていた彼ら自身が、今まさに、内側から崩されていくのだ。

 テロリスト同士の、車内での緊迫した会話だった。



 4  「全身テロリスト」に成り切れない、「過激なテロリスト」の「約束された墓場」



 法外な懸賞金をかけられてまで、極限状況に追い詰められていた二人にとって、必死に縋りつく「大義」を自己確認するには、彼らを追い詰めた張本人である、ゲシュタポのリーダーのホフマンを屠ること以外ではなかった。

 かつて一度、フラメンは、ホフマンをカフェの奥に追い詰め、その命を屠る寸前までいきながら、躊躇して引き下がってしまった直近の過去がある。

 形式的には、ホフマンを救う警察隊の出動によって、フラメンの野望が砕かれるに至ったが、それ以上に、その際、彼が語ったマヌーバーに包み込まれて、野心を挫かれてしまったのである。

 ホフマンが、その若者に語ったのは、以下の言葉。

 「君は敵を殺せば、社会が変ると思うか?自分が悪党どもの、ただの道具だとは考えなかったのか?国家社会主義は確かに理想だが、幻想に過ぎん。君も幻想を捨てて、私と生き延びないか?」

 「悪党ども」とは、ヴィンターのこと。


 前述したように、フラメンには、自分が恋する年上の女が、「二重スパイ」であるという情報を得ながらも、彼女を殺害できなかった弱さがあるのだ。

 その死の直前に、ホフマンの居場所を得るという口実ながら、実父に会いに行く23歳の若者のナイーブさが、そこに垣間見える。

 結局、政治経験も人生経験も豊富な、ホフマンのマヌーバーに呆気なく懐柔されたかの如き、23歳の若者の甘さこそが、彼を自死に追い遣った心理的風景であろう。

 彼はまた、独軍の高級将校ギルバートと対峙したときも、「敵と話すな」というレジスタンス運動の基本ルールを破り、相手の人格が放つオーラに尻込みしたエピソードを持っていた。

 非常に重要なシーンなので、再現してみる。

 「ヴィンターの遣いだな」とギルバート。
 「はい。この書類を届けに来ました」とフラメン。

 その後、ドイツ語が上手いと褒められ、慌てて弁明するフラメン。

 「レジスタンスの一員か?」

 沈黙して答えられないフラメンに、ギルバートは言葉を添えていく。

 「今日は遣いだろ?警戒は無用だ。私はヒトラーやナチスのシンパではない」

 暫く「間」ができた後、フラメンは「総統に忠誠を」と思わず口走った。

 「信条の問題だ。君はパルティザンのメンバーだな。興味深い。前線を持たぬ兵士。優秀な兵士か?代償を払う覚悟は?」
 「代償とは?」
 「君はどう思う。“人生”か?」

 返すべき答えを失っているフラメンの心を読み切って、ギルバートはゆっくりレクチャーしていくのだ。

 「いいかね。戦争に参加する理由は3つ。まず、出世のためだが、兵士としては失格だ。平和を望み、死を恐れるからだ。次は、祖国に対する愛国心だ。夢中にはなれるが、夢見る者には挫折する。強さも忍耐強さもない。若さとは、軽率で生意気なものだ。だが、情熱を持って心底没頭すれば、優秀な兵士になれる」

 ここで、フラメンは最も大事なことを性急に聞こうとした。

 「3つ目は?」
 「敵に対する憎悪だ。相手を憎めば、不可能なことも可能になるのだ。繊細な人間以外にはな」
 「なぜですか?」
 「彼らには、知性と猜疑心があるからだ。もし裏切られたら憎悪は消え、猜疑心が残る。戦争向きではない。神も戦争がお嫌いだ。君の理由は正当なものだ。いい兵士になれる」


 ここで、矢も盾もたまらず、フラメンは銃口をギルバートに向けたが、「やはり、そうか」と落ち着いて応える相手は、「君は間違っている」と言いながら、神に祈るのだ。

 もうこれで、フラメンはギルバートを殺せなくなった。

 命乞いをせず、堂々と「過激なテロリスト」に対峙する態度に圧倒されたのである。

 映像の中で、最も重要な会話の一つがここにある。

 「裏切られたら憎悪は消え、猜疑心が残る」

 まさに、この言葉通り、「敵に対する憎悪」の継続力を保持し得ない繊細な人間ゆえに、裏切りによって猜疑心が残ってしまう「過激なテロリスト」 ―― それがフラメンであり、シトロンだった。

 ギルバートを殺せず、その場から立ち去っていったフラメンの後姿を目視して、独軍の高級将校は、そう思ったに違いない。

 要するに、彼らは「過激なテロリスト」には成り得ても、「全身テロリスト」には成り切れなかったのだ。

 それ故、彼らの運命は、ホフマンを屠ることが叶わず、「約束された墓場」である「約束された悲劇」に流れ込んでいったのである。



 5  複雑な状況下に捕捉された人間の、複雑に絡み合った心理の様態を映し出した秀作




映像は、そんな彼らの曲折的人生を、一貫して乾いた筆致で描き出し、そこに一片の感傷を拾い上げることもせず、「過激なテロリスト」が内包する、極めて人間的な脆弱さを抉り切ったのである。

 やがて、彼らを生んだ母国で、彼らが「顕彰」の対象となったとは言っても、この作り手は、まさに人間的であるが故に「全身テロリスト」に成り切れなかった二人が、物語の中で吐露したように、複雑極まる大状況下にあって、そこに呼吸を繋ぐ者たちの心理の複雑な振幅を冷徹な視座で捉えることで、「一切の戦争には、正義も大義も何もないのか?」という根源的な問題提示を、観る者に送信したのであろう。

 何より、この映画の良さは、複雑な状況下に捕捉された人間の、複雑に絡み合った心理を短絡的に類型化することをせず、〈状況〉の中で呼吸を繋ぐ人間の複雑さの様態を、そのまま映し出したところにある。

 即ち、「『絶対悪』としてのナチスドイツ」⇔「『絶対善』としてのレジスタンス運動」という類型的な構図を、映像構成の根柢から削り落しているのである。

 ドイツの高級将校ギルバートと、「ホルガ・ダンスケ」という大規模な地下組織の幹部であるヴィンターという人格造形を、この善悪二元論のうちに嵌め込んでいないのだ。

 大義や正義なしに動けない、二人の「過激なテロリスト」の心理的混乱の原因がヴィンターのマヌーバーにあると知ったとき、彼らは束の間動けなくなった。

 動けない彼らを駆動させたのは、依然として、ナチス占領下にある国土への愛着であった。

 しかしこの愛着は、ギルバートが言うように、敵に対する憎悪にまで膨らみ切れないのだ。

 そこに、猜疑心が入り込んでしまったからである。

 
こんな複雑な状況の只中で、二人は失われた大義を取り戻すべく、本来の敵に向かっていった果てに、自爆・自死する。

 その辺りの、複雑に絡み合った心理の振れ方を描き切った映像は見事だった。

 ただ、惜しむらくは、二重スパイの女に搦(から)め捕られた、若きテロリストの悲哀を表現するに足る何かが足りなかった。

 若きテロリストをハニートラップした女の心理描写が弱いのである。

 だから、ラストシーンで見せた女の涙は、物語の普通のサイズの範疇をも逸脱させるという一点において、観る者の情感投入を阻んでしまったと言わざるを得ないのだ。

 それだけが残念に思う。

 ともあれ、そのような映画として、普通の人間の、普通の感性のうちに受容するに足る秀逸な一篇 ―― それが、「誰がため」だった。

(2011年6月)

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