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2009年12月29日火曜日

カンバセーション 盗聴('73)  フランシス・フォード・コッポラ


<孤独感と妄想観念の相乗作用によって集約された人格イメージの内に>



  1  一貫して漂うブルーな風景 ―― その映像構築力



 この映画を観て、そこで描かれた世界に類似する二本の映像がある。

 一本は、40年も前に観た、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の「欲望」(1966年製作)で、もう一本は、近年観た、フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマル 監督の「善き人のためのソナタ」(2006年製作)。

 前者は、一貫して「愛の不毛」を中枢的なモチーフとして気だるいような作品を発表してきたアントニオーニ監督が、ここでも件のモチーフとの関わりを捨てることなく、「現実と虚構のボーダーの曖昧さ」を描くことで、現代社会の虚構性を抉るテーマ性を包含させていたのに対して、後者は一党独裁下の閉鎖的状況下で、その体制の維持に生きる男の「孤独と救い」を描いていた。

 極めて前衛的で形而上学的な色彩が強い前者の映像的構築力は抜きん出ていたが、好みの問題から言えば、この作品に限って言えば、その不条理性の濃度の深さに対して、私の映像感性とどうしても折り合いがつかなかった。

 後者は、心地良き音楽を聞いただけで、堅固な自我が溶けていく映像展開の、その心理描写の甘さに対して多いに不満だけが残された一作だった。

 両作共に、当該社会の有りようを批判する観点を多分に含みながらも、前者は、「現実と虚構のボーダーの曖昧さ」、後者は、「自分のプライバシーを決して開かない孤独性」というテーマ集約によって説明できるだろう。

 そして、本作の「カンバセーション 盗聴」というテーマを突き詰めていくと、前2作のテーマ性を併せ持ちながらも、高度に発達した現代社会へのダイレクトな批判は抑えられているような印象を受ける。


 「ゴッドファーザー」(1972年製作)、「地獄の黙示録」(1979年製作)のような大作に比べれば、コッポラ作品の中では極めて地味であり、且つ、そのテーマも底が抜けるほどに暗鬱で、映像が放つサスペンスフルな緊迫感とは裏腹に、そこに一貫して漂うブルーな風景の印象は、厳しく破滅的な作品を好む私の映像感性に共振するものがあった。(画像はフランシス・フォード・コッポラ監督)

 一貫して漂うブルーな風景の印象を作り出したのは、孤独な主人公の視線によって映像が構築されていたからである。



 2  苦境に陥った盗聴プロの失態 ―― ストーリーライン①



 一度観たら忘れられない映像プロットを、フォローしていこう。

 ショッピングのメッカであるサンフランシスコのユニオン・スクェアで、若い男女の会話を盗聴していたハリー・コールは、通信傍受の名うてのプロフェッショナル。

 そのアベックは、盗聴よけのために辺りをグルグル回っていたが、ハリーたちは、その二人の会話を残らず録音するという至難の仕事に挑んで成功した。

 後に、盗聴仲間のプロにハリーが語った話では、3段階指向性マイクにモスフェット・アンプを使って、二人を尾行させるという高度な手法によって成功したというもの。

 

サンフランシスコのユニオン・スクエア(イメージ画像
その際、ニュース・カメラマン2人を使って、200ヤード離れたビルから望遠レンズでマイクを照準させたと、ハリーは説明した。

 ハリーのその説明を聞いていた盗聴プロは、ハリーに渡したボールペンに仕掛けた盗聴によって、そのハリーの言葉を全て盗聴したというオチがついて、孤独癖の強いハリーを怒らせてしまった。

 盗聴屋が盗聴されるという屈辱以上に、決して仕事の内容を他言しない男が真剣にそれを語らざるを得ないほどに、自分が置かれた状況の不安感、恐怖感を顕在化させている内的風景を露呈させていた。

 だから、一切を盗聴のゲームに還元させてしまう相手のビジネス感覚に、ハリーはネガティブに反応してしまったのである。

 と言うのは、この時点でハリーは、自分が仕掛けたユニオン・スクェアでの盗聴が、薄気味悪い事件にインボルブされる不安感に苛まれていたのだ。

 彼が盗聴したテープを依頼主の会社の専務に持ち込んだとき、留守の専務に代わって応対した秘書が彼のテープを強引に奪おうとして、それを拒んでその場を去ったトラブルに端を発した心地悪い事態が発生していたからである。

 「深入りはよせ。これは危険なテープだ。用心することだな」


 この専務秘書を名乗る男の恫喝が、仕事に関する一切の好奇心を捨てたはずのハリーの心を動かしたのである。

 更に、依頼主の会社内でハリーが視認した一人の男こそ、彼が引き受けている盗聴の対象となっている人物であった。しかもエレベーターの中で、ハリーは盗聴対象の女とも出会ってしまったのである。

 翌日、ハリーはそのテープの内容が気になって、何度もテープを掘り起こした。

 『ジャック・ター・ホテル 日曜の3時に773号室』と若い男。
 『電話も盗聴されているみたい』と若い女の声。
 『我々を殺す気だ』と若い男。

 これがあのときの、若い男女の会話の中に挿入されていたのである。


 そしてその肝心なテープが、あろうことか、依頼主である専務の秘書が放った女によるハニートラップによって盗まれてしまったのだ。

 自分のプライバシーを頑なに守る盗聴屋が、度々犯すプロらしくない失態について、物語としての不自然さを指摘する向きも多いが、このときのハリーが置かれた顕著な不安心理を思えば、決してこの描写が不自然であるとは言えないだろう。

 なぜなら、完璧な仕事をしてきた男が初めて経験する事態の深刻度が、男の自我の均衡を大きく崩してしまったと考えられるからである。

 苦境に陥ったハリーは、依頼主の会社に向かった。

 依頼主の専務は、ハリーから奪ったテープを繰り返し聴いていた。

 その重苦しい専務室に身を置いたハリーが、そこで視認した一枚の写真。それは、彼が盗聴していたアベックの若い女性だった。

 更に、彼が受け取った金を確認している際に、その眼の前に置かれたもう一枚の写真。そこには、専務と彼女がにこやかに並んで写っていたのである。

 彼女は専務の妻だったのだ。

 ハリーは盗聴テープと引き換えに報酬を受け取る際に、依頼主の専務に向かって、どうしても確認したい一言を口にした。

 「彼女をどうします?」

 その問いに、背を向けて座っている専務は答えなかった。

 映像はこのとき、『我々を殺す気だ』というテープの声を、流れの中で聞かせて見せた。見事な演出だが、些か出来過ぎの感があるとも言える。



 3  破壊し尽くされた部屋の片隅で、サックスを吹き続ける男 ―― ストーリーライン②



 日曜の3時。

 ハリーはその足で、ジャック・ター・ホテル、773号室に向かった。

 問題のホテルに着いたハリーは、773号室が塞がっていることをフロントで確認し、隣の部屋を取って盗聴を開始した。

 まもなく彼は、バスルームの中に盗聴を仕掛けて、隣室の物音を聞き取っていたが、彼の耳に侵入してくる音の正体が、テレビの機械音と人間の肉声が混淆されているような音声だった。

 結局、事態を正確に特定できないハリーは、突然、殺人事件の妄想に襲われた恐怖を経験したことで、カーテンを閉め、部屋を外部から完全に遮断した暗闇の状態にして、テレビの人工音声をマックスにさせた中でベッドに横たわっていた。

 暫くして、幾分気分を戻したハリーはベッドから起き上がり、ホテルの自室を出て、隣室をノックし、反応がないことを確認した後、扉の鍵を工作して開け、音も立てずに侵入していった。

 しかし部屋には既に、ルームサービスが入った後だった。


 それでも不安を隠せない彼は、忍び足でバスルームの中に入り、トイレの水を流した瞬間だった。そこから、真っ赤な血が逆流して溢れ出てきたのである。

 ハリーは再び依頼主の会社に戻って、専務秘書に会いに行ったが、門前払いにされた。

 その会社を出た後、ハリーは車の中にいる例の若い女性を視認したが、勿論、相手からの反応はなかった。

 その直後、眼に飛び込んできた新聞で、ハリーは盗聴の依頼主であった専務の自動車事故死の報を知るに至った。

 特段に震撼する表情を露わにすることなく新聞を読む男の防衛意識が、映像に記録されたのだ。

 映像はその後、極めて複雑な描写を連射させていく。

 専務の事故死によってメディアに囲まれている若い女と、その傍にいる例のアベックの男、専務秘書などを映し出し、その緊迫感の隙を縫って、男らが専務の全身をビニールで覆って襲うシーン、更に、若い女に襲いかかる専務を、後方から男が襲うシーンなどを挿入する。

 恐らく、切れ目のないその一連の描写は、ハリーの想像世界を顕在化したものだろう。従って、彼はこの時点で、事件の本質が自分の想像していた展開と真逆であると考えたのだ。

 しかしなお、事態の正確な流れを映像は語ってくれない。どこまでも、ハリーの視点のみで映像がシフトしていくからである。

 そんな不分明な状態で、映像はラストシーンの戦慄の世界に入っていく。

 サックスを吹いているハリーの部屋に、一本の電話。


 受話器を取って、ハリーが恐る恐る「ハロー」と言っても、無言で切れたのだ。

 そして、再び電話が鳴った。

 「気づいているようだな。深入りはよせ。盗聴しているからな・・・」

 恫喝の電話だった。

 皮肉なことに、その直後から、自室を舞台にしての、盗聴屋ハリーの盗聴器探しが開かれたのである。

 空調の蓋を開け、カーテンを取り除き、電気のソケットを外し、電話機を分解し、そして遂には、彼が最も大切にしていたマリア像を叩き壊したのだ。

 しかし、何も出てこない。盗聴器の片鱗すらも見つからないのだ。

 それでも、彼は狂ったように部屋中を解体していく。

 壁と床を完全に破壊しても、結局、そこには何もなかった。


 破壊し尽くされた部屋の片隅で、サックスを吹き続ける男が映し出された後、何事もなかったかのように映像は閉じていった。



 4  湿潤性のない荒涼とした心象風景 まとめとして①



 「都市生活者の心の荒廃」という言い方をするとき、そこで想定されるイメージは、「都市生活者は他人の不幸に無関心である」という文脈で語られる何かであろう。

 そして、その文脈に対峙するときの一般的物言いは、「共同体社会では他人の不幸に無関心でいられない。だから、そこでは人々は皆、親切で優しい」というイメージラインで把握されるのが常である。

 しかし結論から言えば、この先入観含みの決めつけ的把握は基本的に間違っているか、それともあまりにアバウトな独断に満ちている。

 確かに共同体社会では、人々は他人の不幸に無関心でいられない。なぜなら、他人の不幸が自分の不幸に直結してしまうからである。

 共同体社会で人々が協力的であり、相互扶助的であるのは、そうしなければ自分の生活と安全が保障されないからだ。
 
 逆に言えば、共同体社会を脱した都市生活者が他人の不幸に無関心でいられるのは、他人の不幸が自分の不幸に直結しないからであって、それ以外の何ものでもないのだ。故に、「都市生活者の心の荒廃」という命題は成り立たないのである。

 例えば、大きなマンションの棟内で、自分の住居空間と離れて暮らしている人の顔や名前を知らなくても、マンション生活者は何も不自由しないばかりか、彼らの不幸の現実すらも知り得ないのだから、関心の持ちようがないのである。

 寧ろ、他人から不必要な干渉を受けることなく手に入れる、極上の私生活の自由を求める発想を捨てることがないが故に、相互に相手を知らずしてマンション棟内で出会っても、挨拶する程度で済ますという形式的行為こそが、その人たちの普通のルールであり、等身大の規範となっていると言えるだろう。

 共同体社会を脱して、高度に発達した近代社会を作り上げた結果、その一つの集約点である大都市での煌(きらび)やかな生活様態には、私権の拡大的定着という飛び切りの快楽が待機していたので、人々は必要以上に他者から干渉されることのないプライバシーを堅固に保持し、それぞれの私的生活圏の中で、自分の気に入った仲間とのみ、特別な関係を構築していく自由が与えられているのである。

 そんな「絶対防衛圏」の限定的なバリアの内側で、同じ趣味を持つ者たちとのサークルや、ミクシーなどの様々な疑似共同体を仮構することで、特定的な関係を切り結んでいると言えるだろう。

 これが、現代の都市生活者の、特段に目立つことのない、ごく普通の一般的な風景であると言えるのかも知れない。

 ところが、この疑似共同体は疎(おろ)か、自分が特定的に切り結んだ恋人との特別な関係に対しても、自分の裸形の自我を殆ど晒すことなく、ただひたすら相手の肉体を貪り、そうでなかったら、その極めて限定的な時間の中の限定的な会話を通して、束の間の自我の安寧を確保するというルールの如き縛りの内に、そのアドホックで閉鎖系の関係を、単一消費的に自己完結させていくという継続性のない生き方がある。


 これが、映像で紹介された本作の主人公の、際立って湿潤性のない荒涼とした心象風景を見せる孤独の様態だった。



 5  車内の光線の陰翳にまで反応する男の防衛的自我 まとめとして②



 男の孤独の様態について、具体的に書いていこう。

 盗聴屋としての一仕事を終えた男、ハリー・コールが帰宅する場面を記録した映像序盤のシークエンスがあまりに印象深いので、その描写を再現して見る。

 外部世界から厳重に遮断され、何種類かの鍵に守られた自室に戻ったとき、突然、警報機が鳴った。

 それはハリーが外部侵入者を防ぐためのツールだったが、この日は彼の誕生日であったので、誕生プレゼントを渡すために管理人が合い鍵を持って入って来たのだ。

 ハリーはそのことを確認するために管理人に電話し、「誰にも合い鍵を持って欲しくない」旨を伝えたのである。

 しかも彼は、管理人に自分の誕生日が知られていることに不安を持ち、「では、私の年も当てて下さい」と質問し、それが外れていたことに安堵するという念の入れようだった。

 「郵便物は秘書箱に回すようにします。鍵を渡さんで済む」

 男はそう言ったのだ。

 そこまでにして自分のプライバシーの保持に拘泥する男の人生は、殆ど究極の孤独の様態を呈していた。

 そんな男にとって唯一の心の捌け口は、レコードによって臨場感を人口的に作り出して、サックスを演奏することだった。

 思えば、サックスの大きな特徴はヴィブラートにあると言われていて、音を伸ばすときに、音高を保ちながらも、その高さを揺らすことが可能であるとされる。それによって人間の心の揺れを表現することで、孤独な響きを刻むことができるのである。

 

バリトンサクソフォーン(イメージ画像
まさにサクソフォーンとは、男の心象風景を的確に表現する楽器であった。

 そして演奏後に、レコードから流れてくる万雷の拍手によって、男の趣味が自己完結するのだ。

 これが、誕生日を迎えた男の、誰もいない部屋での時間の過ごし方だった。

 ハリーにはまた、合い鍵を持って出入りするエミーという恋人がいた。

 勿論、その合い鍵は女の部屋に侵入するためのもので、自分の部屋に女を案内する鍵ではなかった。

 誕生日にもらったワインを持って、エミーの部屋を訪れたとき、彼女はハリーが42歳の誕生日を迎えたことを初めて知ったのだ。

 その一点において、自分のプライバシーを恋人にも明かさないハリーの異常な用心深さが透けて見えるのである。

 とりわけ、その日、エミーから「階段の陰で見張ってたわ。一時間も。私を信用してないのね」と言われて、ハリーは途端に気分を害してしまった。

 なぜなら、この日に限って、必要以上に自分のプライバシーに侵入してくるエミーの態度に、彼の過剰な防衛的自我は、自らの「絶対防衛圏」を浸蝕する臭気を嗅いでしまったのである。

 エミーの生活費を置いて、ハリーは不愉快な気分のまま、彼女の部屋を去って行った。

 恐らくいつもそうであるように、帰りのバスの中で見せるハリーの表情には全く生気がなく、車内の光線の瞬時の陰翳にまで反応する態度は、必ずしも、抜きん出た盗聴技術の超絶的技巧の能力と重ならないほどの神経質ぶりだった。


 以上が、映像が切り取って見せた、男の孤独の様態のその断片である。



 6  ルールを破った男の危うい飛翔の果てに まとめとして③

 

他人のプライバシーを盗み取る盗聴屋という仕事に対して、深い負い目を感じるほどのナイーブさが、男には内在していた。

 それにも拘らず、男の盗聴技術は、「アメリカ西海岸随一の腕利き」と評価されるほどのプロフェッショナルな何かだった。

 「負い目を感じる自己」と、「盗聴技術の匠の手腕」という二つの矛盾した認知が、男の自我にいつも同居しているのだ。

 それ故に、その思いが何かの拍子に突沸(とっぷつ)することがないように、男は自我の表層に見えやすい形で、極めて自己防衛的な文脈を持つ物語を仮構していたと思われる。

 具体的に言えば、それは、自分が引き受けた仕事に関わるプライバシーに対して、一切の好奇心を抱かないというルールであった。

 そのルールの堅固な縛りによって、「盗聴される側の最低限の私権を担保する」という文脈の物語を仮構し、その防衛的なスキルを徹底化させたのである。

 そして、他人のプライバシーへの好奇心の封印は、男自身のプライバシーの過剰な防衛意識という、ダメージコントロールをも逸脱させたようなリバウンド現象を出来するに至った。

 このことは、特定他者のプライバシーを盗み取るという行為が如何に犯罪的であるかという認知を、男が保持していることを意味するだろう。

 盗聴屋という仕事に「負い目を感じる自己」を認知しつつも、「盗聴技術の匠の手腕」というプロの誇りが自我を守るのだ。

 しかし、「盗聴技術の匠の手腕」を継続させていけばいくほど、不特定他者からのプライバシ―への攻勢に幾重ものバリアを築き、そのアウトリーチの類をも遮断し、自らの拠って立つ安寧の基盤を極限的に狭隘化し(レコードという人工的機械を利用してのサックス演奏)、その行為の直後に、より深く孤独を実感するという悪循環がそこに形成されるのである。

 それ故、自己矛盾による突沸の恐怖に晒されたとき、男はしばしば、カトリックの司祭の前で懺悔するのだ。

 その日もまた、若いアベックへの「重武装」的な盗聴行為の後、男は深々と懺悔したのである。

 以下、その懺悔の内実。

 「罪を犯しました。前の告白から3カ月。私は、幾度も神の名を使って罵り、新聞置き場から、金も払わずに新聞を取り、不浄な考えを楽しみました。今している仕事では、若い男女を傷つけそうです。以前にも、私の仕事で傷ついた人がいます。今度もまた同じことを。それは直接、私の責任ではありませんが、その罪を心から悔いています」

 このように、男は自分の罪悪感を希釈化するために、繰り返し、自分の職業上の犯罪的行為を懺悔するに至るのだ。それなしに彼の自我は、一定の安寧の境地を手に入れられないのである。

 しかし男は、遂に自分のルールを破ってしまった。

 その経緯については、プロットラインの章で記述した通りだが、男は若いアベックの置かれている心情、とりわけ、女に対する深い同情を寄せた必然的結果と言うべきか、彼女を守ろうとする意識を作り出してしまったのである。

 その辺りの描写を、映像は印象的なシークエンスを挿入することで、彼の意識の内奥に肉薄していた。

 白煙の霞がかかった公園のような小さなスポットで、女が男を振り切って逃げて行く。

 「聞いてくれ。私はハリー・コール。怖がらないで。私は一方的だが、貴方のことを知っている。話したいことがあるんだ・・・子供の頃、大病をした。左腕と左足が麻痺し、半年も歩けなかった。医者は治らないと言った。母は、私を熱い風呂に入れた。それが治療法だった。来客で母が去ったとき、私の体がずれて沈み出した。湯が鼻まできて、気がつくと、母が体中に聖油を塗っていた。そのまま死にたかった。5歳のとき、父の友人の腹を私は打った。1年後に彼は死んだ。君たちは殺される。恐ろしいのは・・・殺すことだ」

 この夢のシーンは、男が参加した通信傍受の大会で、迂闊にも、肝心なテープがハニートラップによって盗まれてしまった際に、一人寂しく、無機質の風景の中で就寝してしまったときの出来事。

 そのとき見た夢の中の女は、男の熱心な呼びかけに度々振り返るが、全く返事をせずに立ち去ってしまったのである。

 男の夢の終りに現れたシーンが、例のホテルでの惨劇の描写だったことを考えれば、現実と虚構の境界を彷徨う男の妄想観念は、この辺りから開かれていったと考えられる。

 以降、本作で描かれたプロット展開のリアリティの濃度が相当に曖昧になっていったのは、映像がどこまでも男の主観的視座によって特定的に切り取られていたからだ。

 ともあれ、男のこのようなルール違反の行為の原点には、男の盗聴行為によって3人の犠牲者(殺人事件?)を生んでしまった「ニューヨークの一件」と深く関与するであろう。

 この「ニューヨークの一件」について、映像は詳細に語らないが、カトリックの司祭の前で懺悔した告白の中に、「その罪を心から悔いています」という言葉が含まれていた事実によって想像し得るものである。

 「ニューヨークの一件」こそが、男のルール違反の行為の原点にあった。

 だから男は、遥々、遠く隔たった西海岸にまで移動してきたのである。その身体移動の本質は、内的逃亡以外の何ものでもなかったに違いない。

この一連の不可解な〈状況〉の内に全人格的に呑み込まれた挙句、ルールを破った男がダッチロールしつつも、その身を投げ入れた危うい飛翔の果てに、何が待機していたのか。

 次章で言及しよう。



 7  破壊の対象が自分の内側に向かうことを加速させてしまう男の悲哀  まとめとして④



 どこまでも、映像は男の視点のみでドラマを刻々と描いていくから、彼の内側の混乱の内実が、ダイレクトに観る者に反映されていく。

 従って、観る者の混乱と戸惑いは、同時にハリー・コールの混乱と戸惑いであった。

 そのバリアが、映像理解の障壁となって立ち塞がるが、彼の自我の迷妄をも追体験していくことで、私たちは彼の妄想の世界の深みに誘(いざな)われていくのである。

 その辺りを検証していこう。

 「ニューヨークの一件」のトラウマから、ハリー・コールは若いアベックに同情し、自己の絶対ルールを壊すに至った。

 しかし、徐々に男の自我の砦が液状化して、現実と虚構の境界線が崩壊していくのである。

 それが徐々に進行していくから、観る者はそのボーダーが判然としないまま、男の自我の砦の液状化のプロセスに呑み込まれていってしまうだろう。

 ここで重要なのは、映像を通してハリーが得た情報は、彼の耳に入って来た盗聴音のみであって、映像で映し出された事件の現場を目撃した訳ではないのである。

 全ては、ハリーのネガティブな想像と、そこにリンクする不安含みの言語からの類推に過ぎないのだ。

 そこで観る者が確信できる情報は、専務の死の事実と、若いアベックたちが殺されなかったという事実のみ。

 従って、提供された映像が事実なのか妄想なのかについて、結局、最後まで分らずに、観る者の想像力の主観の世界に押し戻されてしまうのである。

 更にここで確認すべきは、ハリーという人間の特殊な心理的文脈である。

 映像の情報を前提にした場合、多くの「盗聴屋」は世俗との均衡の中で生きていると想定できるから、普通の人並みな生活を送ることが可能かも知れないが、それに対して、ハリーの場合は、プライバシーを遮断した閉鎖系の中で生きているので、必要以上に妄想観念に囚われやすいリスクを抱えているということだ。

 従って、ハリーにとって、その自我の安寧の拠点となる唯一の確かさの実感は、サックス演奏の世界のみに求められると言えるだろう。

 サックスの音だけは、ハリーを裏切らないからである。

 ―― もう一度、ここでハリーという人間の特殊な心理的文脈に沿って、時系列的に「殺人事件」の中枢を整理してみよう。

 「ニューヨークの一件」以来、ハリーの内側に盗聴行為に対する、ある種の罪悪感が形成されたと思われる。
    ↓
 彼はその罪悪感を希釈化するために、「依頼主のプライバシーに対して全く好奇心を持たない」というルールを設けた。
    ↓

 しかし、映像に記録された盗聴行為の予想だにしない暗転によって、依頼主の秘書による恫喝への反発もあり、彼の中で若いアベックに対する好奇心と同情心が生まれたのである。
    ↓
 不安含みの事態の暗転した流れの中で、日曜午後3時、彼は問題のホテルに足を運んだ。
    ↓
 しかし、そこで彼が知り得たものは、特定できない音声による混乱した事態の迷妄ぶりだった。

 但し、そのホテルの危ういスポットで、「殺人事件」が出来したというイメージを抱いたのは、ハリーの想像の絵柄の全てが、映像で一方的に提示されたからに過ぎないのである。
    ↓
 その後、彼がトイレの水を流したときに、真紅の赤が逆流する現場に立ち会うが、映像が観る者に提示したのはそこまでで、その直後には、ハリーが件の会社に向かうシーンにシフトされていた。

 従って、真紅の血液の逆流の映像は、恐らく、ネガティブな予見を前提にしたハリーの恐怖感覚のイメージを、そのまま写し撮ったに違いないであろう。

 既に彼には、ハニートラップによるセックスの後の、浅い眠りの中での若い女への呼びかけのシーン辺りから、その自我が妄想の世界に誘(いざな)われていくモチーフを現出させていたので、今や、現実と虚構のボーダーが不分明になっていたのである。

 その後の映像展開の流れで出来したインパクトが、防衛的な彼の自我を決定的な混迷に陥れるのだ。

 ハリーが件の会社で視認した事態は、明らかに、これまでの彼の想像ラインと真逆の展開になっていくことを認知せざるを得なかったからである。
    ↓
 「殺人事件」によって死んだのは依頼主の専務であり、若いアベックと専務秘書が無傷の状態で彼の視界に捕捉されたとき、彼の中で構築された事件のイメージが、「若いアベックと専務秘書による専務の殺害」という想像ラインの決定的な転換の内に形成されたのである。

 自己ルールを破った男のハードなペナルティを受ける者の如く、彼の中で何かが壊れ、より深い迷妄の闇に捨てられていくのだ。
    ↓
 一切を放擲した男の悲哀は、その想像ラインの転換だけで終焉しなかった。

 自宅に戻った男が、あってはならない電話のコール音の衝撃によって、男は遂にそれ以外にない唯一のプライバシーの砦を、自らの手で壊しにかかるのだ。

 しかし、そこから何も発見されなかった。

 恫喝の電話もまた、彼の妄想だったのか。

 映像は何も語らずに、男の防衛的自我の安寧の砦を自壊させた果てに、唯一残された、それ以外に何も実体性を持ち得ないであろう、サックスという最後の砦を死守し、それを演奏する男の孤独を映し出して閉じていったのである。

 結局、破壊の対象が自分の内側に向かうことを加速させてしまう男の悲哀を、鮮烈なる映像は、そこだけはきっぱりと抉り出してしまったのか。



 8  孤独感と妄想観念の相乗作用によって集約された人格イメージの内に まとめとして⑤




 ハリーという男は、一体何だったのか。

 或いは、ハリーという男は、この映画が作られた状況下にある「アメリカ」という、相当に厄介な病理を抱えた国民国家の象徴としてイメージされたのかも知れない。

 ハリーにとって女の存在は、「アメリカ」の援助を求めるベトナムの傀儡政権であり、更に、ハリーが最後まで大切にしていたマリア像は、ベトナム戦争に土足で侵入するときの大義名分であった、「アメリカの正義」というきな臭い文脈であるのかも知れない。

 しかし、傀儡政権が「アメリカ」の意に沿わなかったように、ベトナム戦争の大義名分もまた、絶対命題としての継続力を持ち得なかった。

 それ故に、ハリーもまた女から裏切られ、マリア像も破壊し尽くされてしまったのか。

 いや、そんな深読みが殆ど意味を持ち得ないほどに、本作の映像構築力は抜きん出ていた。

 結局、観る者は最後までハリーの視線に同化し、悲しいかな、彼の必然的な崩れ方にも付き合って、最終的に〈状況〉から置き去りにされてしまったのではないか。

 一切が「虚構・幻想・妄想」だったとも言えるし、或いは、ハリーの想像通りの恐怖のシナリオが、その後も不安を肥大させながら延長されて、ハリーに間断なく襲いかかっていくように、観る者の貧弱な想像力をも無化してしまうのかも知れない。

 ハリーという男は、孤独感と妄想観念の相乗作用によって集約された人格イメージの内に、単独者として自らを立ち上げることが可能でありながらも、その人生を生き抜く覚悟なしに突き抜け切れない現代社会の鬼っ子として、作り手が実験的に提示した魂の具現ではなかったのか。

 本作をそのようにイメージするのも、蓋(けだ)し興味深いだろう。

(2009年12月)

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