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    4 か月前

2010年8月3日火曜日

ザ・中学教師('92)   平山秀幸


<「学校崩壊」の現実をハードボイルド性の内に吸収される危うさ>



1  「学校とは、それぞれが与えられた役をきちんと演じる演劇の舞台だ」



本作は、「ゆとり教育」の非合理性を真っ向から指弾する一篇である。

「アンチ詰め込み教育」と「アンチ管理教育」を克服する方略として提示された、魔法の教育方針である「ゆとり教育」全盛の渦中で、この類の映画を立ち上げていくには、「ハードボイルド」の色彩の強い作品以外の方法論が存在しなかったと思わせるに足る、アンチ・センチメンタリズムの映像構成によって貫流されていた。

社会に漂流する緩くて甘美な「教育ロマン」への希求が澎湃(ほうはい)する空気を裂くには、出勤前の腕立て伏せを日課とし、校門開閉するや否や自家用車で入校した後も、広い校内で発声練習する男を主人公にするという戦略が格好の方法論であったと言うのだろうか。

既にその男のルーティン自身が、そこから開かれる特定的な「前線」としての学校空間で出来する、極めて厄介なプロブレムへの自己投企への覚悟を示唆するものだろう。

まさに、「ハードボイルド」の世界で闘う者の挑発性が、映像のファーストシーンによって浮かび上がっていったのである。

男は、桜中学2年1組の担任教諭の三上。

その三上が通う学校空間で出来する厄介なプロブレムについてのエピソードは、ここでは省く。

その代わり、この映像の中で、男が生徒たちや同僚の教諭たちに、そこに特段の感情を込めることなく淡々と語った言葉を、以下に拾ってみよう。

「タバコは法律で禁止されているから、駄目だ」

これは、クラスの男子3名に対する物言い。

当然、ペナルティがついてくる。

そのペナルティの内容を、班単位での自治指導を進めている生徒たちに決定させたのである。

「お前たちが充分個性的であるということは良く分る。でもな、桜中に来るときだけは、普段の自分は捨てて来い。学校は自分の家とは違う。お前たちは、制服という衣裳を着て、生徒という役を演じ、俺は、このスーツとネクタイという制服を着て、教師という役を演じる。つまり、学校というところは、それぞれが与えられた役をきちんと演じる演劇の舞台のようなところだ。以上」

これは、ペナルティを決定した直後での、相当に力のこもった三上の説教で、恐らく、本作の中で最も重要なメッセージとも言える内実を持っていた。

「学活は遊びじゃない。周りに迷惑を掛ることは止めて下さい」

これは、隣の学級を担任する美術教師の長内に対する抗議。

因みに、美術教師の長内は、「金八」気取りの放任主義の女性教諭。

「卒業した生徒に興味はない」

これは、卒業した生徒たちの同窓会の誘いに対する答え。

「義務を守らずに、権利を主張する資格はない」

これは、万引き生徒を謹慎処分にするという提案。

「日本は法治国家でしょ。社会のルールを教えるのは教師としての原則です。教師が権力の手先だなんて当たり前のことが不満だったら、教師なんて辞めてしまいなさい。社会に通用する人格を育成する場が学校。個人の自由意思で作られた私塾とは違う」

これも、謹慎処分の提案に異議を唱えた長内に対する反論。

「明君を捨てる事ですね。明君のことしか考えてこなかったご自分を変える事です。家出でもしてみたらどうですか。不良になっちゃいなさい」

これは、三上のクラスの明が、息子と一緒に風呂に入る日常を延長させている溺愛の母が、とうとう息子から暴力を振るわれるに至って、三上に相談に来た際に言い放ったもの。

「ここはホテルじゃありません。私を頼りにされても困ります。自分自身の問題なんですから」

これも、明の母へのきつい一言。

家出を実行した彼女が、三上の家に泊まりに来た甘さを批判したものだ。

「この程度で壊れるような家庭なら、家庭なんかいりません」

これは、三上の長女の祐子が、学校で限度を超えるいじめに遭っている現実に対する反発から、鳥小屋に放火事件を惹起した件の娘の担任教諭の心配に対して、そこもまた明瞭に言い切った言葉。

「教師は、生徒の人生を全て引き受ける訳にはいかないんだよ」

これは、シンナーの過飲によって、誤って学校のプールで事故死した生徒の問題で、葬儀に出席した帰りの寿司屋で、長内に批判されたときに語った言葉。

絶えず、己が行動の根拠を確信的に提示する三上のプロフェッショナル性が際立っていた。

因みに、長内の批判の内容は以下の通り。

「三上先生は上島君のことを生活指導の教材にしたんですか?上島君に申し訳ないと思わないんですか?」

まさに、このときの三上の言葉は、本作の基幹メッセージとも言える重量感を持っていた。

「死んだ人間を弔うことうより、生きている生徒を指導することのほうが大切です」
「管理教師らしい言い方ね」
「管理は学校教育の必然です」

この短い会話は、事故死した生徒の問題によってマラソン大会の中止の提案に対して、生徒たちの結束強化の目的で、「クラス対抗の駅伝大会」の実施を求めた三上を揶揄する女性教諭との遣り取り。

映像のラストシーン。

家出した長女がタフな経験をして帰宅し、それまでよりも明らかに成長した溌剌さを身体表現する思春期の自我が躍動していたとき、「味噌汁くらい自分でよそりなさい」と言って、頬を打つ父親である三上の一貫した姿が映し出された。

いつもの腕立て伏せと発声練習のルーティンを淡々とこなした後、教室空間という「前線」に、襟を正して踏み込んでいく教育実践のプロフェッショナルが、今日も凛として立ち上げられていた。



2  「学校崩壊」の現実を「ハードボイルド」性の内に吸収される危うさ



ここでは、簡単に本作の批評をしてみよう。

正直言って、映画の出来は決して上出来とは言えない。

なぜなら、人物造形が目立って類型的であることだ。

主人公三上の「ハードボイルド」性と、若い女性美術教諭長岡の対極性の構図が目立ち過ぎてしまって、作り手の狙いが些か過剰に表現されてしまっていたのである。

しかも、「生徒=善」を主唱する「放任主義教育」が、自らのスタンスを梃子でも変えない沈着冷静な男の、その「ハードボイルド」性の美学の内に平伏すという構図は、たとえそれが実話に基づいた人物造形であったにしても、その鋭角的な関係を一篇の表現作品の内に昇華させていくときには、「善悪二元論」的な対極性の構図に振れていくことを回避する抑性的構成が機能するものである。

それが、この物語で反故にされてしまった印象を持つ。

何より、それが残念でならないのだ。

明瞭な主題提起を意図した、映像構成の構築的表現というイメージがくすんでしまいかねないからだ。

このような映画には、「信念熱き者」の突破力の内に、「偽善性」の濃度の深さのみを基準にした教育実践の是非を収斂させていくという手法は似合っていないと思うからである。

この一点が、「信念熱き者」の「ハードボイルド」の物語イメージを、映像の前面に押し出さざるを得ない特徴的性格を決定付けてしまったのである。

そして、私が気になった二点目。

それは、観る者に「学校崩壊」の危機を与えるイメージが勝ち過ぎてしまったためなのか、そこで拾われる尖ったエピソードが、100分強の映像の内にギュウギュウ詰めに押し込められてしまったこと。

仮にそのエピソードの全てが実話であったとしても、一艘の船に乗せるものの重量オーバーのイメージを内包してしまうと、却って、観る者に物語のリアリティを崩す視覚的効果しか齎(もたら)さないであろう。

もう少し、基幹の主題に関わるエピソードのみを絞って、それらを出来る限り深めていく表現こそ必要ではなかったか。

如何にも、「学校崩壊」の悲惨の現実がここまで深刻になっているという問題意識の提示が、物語の「ハードボイルド」性の内に吸収されてしまえば、それは単に一篇のアクションムービーの如きものとして消費されてしまうだけだろう。

それが何より残念でならなかった。

私自身、この種の映像の提示を評価しているだけに、その挑発性が却って気になってしまったのである。

 平山秀幸監督
但し、一貫して生徒に媚びず、彼らの曖昧な言動に対して、常に「根拠」を問うばかりか、彼らからのどのような発問や不満の表明に対しても、「根拠」を提示する「教師像」には、まさにそれこそが「俺は、このスーツとネクタイという制服を着て、教師という役を演じる」というブレない生き方が鮮明に描かれていて、作り手の主題提起の姿勢だけは充分過ぎるほど伝わってきたのは間違いない。

生徒の「現在」の「時間」をより良くするために、自らが「堅固な楯」になるという覚悟を持っているが故に、本作の主人公は「好かれる教師像」ではなく、生徒たちと適正な距離を取ることで、「煙たがれても、役割を担う教師像」を立ち上げていたのである。

それを象徴したのが、「クラス対抗の駅伝大会」の成功の際、三上の顔色を好奇の眼でちらちらと窺うクラスの生徒たちの冷めた視線の描写であった。

三上が「良くやった」と一言放って、情感を乗せない拍手で「駅伝大会」の成功を称えても、その拍手に反応しない生徒たちの態度こそ、三上が大切にする適正距離による教育の成果であるとも言えるのである。

要するに、主人公三上という中学教師は「プロ教師」に徹していたということ。

その一言に尽きるだろう。

以下、映像とは没交渉の言及になるが、、筆者自身の「人生論的」、且つ「教育論」について簡単に言及してみたい。



3  「プロ教師の会」の主張と映画鑑識の危うさ



日教組の提起に端を発し、後に文部科学省が告示する教育課程の基準である「学習指導要領」に則って実施された、「ゆとり教育」(中学校では、1981年度から2011年度まで実施)によって醸成された、「アンチ詰め込み教育」、「アンチ管理教育」が支配する空気の真っ盛りの渦中にあって、「別冊・宝島」などの雑誌や著作を通して、独自の管理教育論を展開する中で、「ゆとり教育」の偽善性と非合理性に対して真っ向から指弾する一群の教師集団があった。

今では、その名を知らぬ者がいないだろう「プロ教師の会」(埼玉教育塾)である。

河上亮一
「学校崩壊」(草思社)という著作を上梓している河上亮一が主宰する、教育現場のシビアな現実の内に確固たるプロ意識を抱懐して、その身を投入するリアリストの集団である。

近年、「高校が崩壊する」(革思社)などの著作等で、高校崩壊の現実を鋭利な切れ味で語る、高等学校教諭の喜入克の主張が良く知られるところである。

「授業中に私語しても悪いとも思わないような生徒が続々と登場しつつある。これは、三十年間現場の教師として生徒と格闘し、十年前から学校の危機に警告を発してきた著者が、いま学校で起こっていることをつぶさに報告、なぜ現在のような状態に立ち至ってしまったかを示すとともに、再生への道を探った真に衝撃的な本である」

これは、「学校崩壊」のキャッチコピー。

ここに、「プロ教師の会」主宰者である、河上亮一のインタビュー記事があるので紹介する。

「今の子どもたちは、自分が一人前で、教師と対等だと思っている。だから教師の言うことを聞かなくてはいけない理由はないわけだ。騒いでいるA君に『静かにしなさい』と言うと、『何でおれだけ?』と言う。『お前の授業は面白くないんだよ。おれたち二人の会話の方が重要なんだ』と言い出す。これでは教育は成り立たない。

生活の仕方も身に付いていない。給食をぽとぽと落としながら食べる。ほうきでごみを掃けないし、五十分間、座っていられない。四、五歳の時に覚えるべきことができないでいる。子育てと教育のシステム全体が壊れている。

日本が豊かになり、子どもが我慢する必要がなくなったからだ。自由が最大限に重要視され、強制されるとキレる。経済的に豊かになったツケが教育に回ってきた。今までは『学校は学ぶ場で、生徒は教師の言うことを聞くものだ』という世論があった。それがなくなったから、古い学校システムが崩壊した。私は当然の結果だと思う。

ただ私は義務教育の最終的な目標は、子どもたちの社会的な自立を手助けすることにあると思っている。基礎的な知識とか、生活の仕方、他人と一緒にどう生きるかを、できる範囲で教えていくしかない。しかし、文部省はどんどん自由を促進しているから、学級崩壊はこれからも増えるだろう。見方を変えれば、古い学校を壊すんだから、いいことかもしれない。


サイト・地球のココロ・板橋区立桜川中学校総合的学習支援事業
しかし問題が二つ残る。レベルの高い総合的学習(注)を導入すれば、生徒の学力差は広がるだろう。それから、私は『学校崩壊』で体育祭や文化祭でクラスがまとまっていく様子を紹介したが、学校行事はだんだん少なくなっている。つまり、集団行動の訓練ができなくなる。この問題にも文部省はまだ答えてない。

私は授業では、教科書をいかに理解しやすく教えるかを第一に考えている。例えば、日本国憲法の前文を勉強する時に、生徒に自分の言葉で書き直させたのもそのためだ。これからも、例えば日清戦争を過去の事実として教えるだけでなく、今の生活にどんな影響を与えているか、を取り上げたいと思っている。

担任を持ったら、毎日の出来事を日記に付け、一日を振り返ってみることにしている。年を取ると頭が固くなる。そうやって自分の行動を客観視しないと、変わっていく子どもたちについていけない。

教師がしなくてはいけないことは、学校がどういう状況にあるのかを、もっと外に向かって発言することだ。保護者会でも正直に報告する。銀行と同じで、気が付いたらつぶれていたなんてひどい話だ。その前に現状を外に知らせるべきだ。

ただ、保護者から子どもたちにどう接していけばいいのか聞かれても、現場の教師である私には答えようがない。お父さんお母さん自身が、どう子どもを育てたいのかを考えてほしい」(中国新聞‘99.11.10)

「プロ教師の会」の主張の8割くらい同意する私としては、納得のいく論旨である。

ただ残念ながら、教育実践のプロフェッショナルである河上亮一には、映画を監修する権限も鑑識する能力も持ち合わせていなかったようである。

責任と覚悟に裏打ちされた三上の正論を、「ハードボイルド」の美学の内に収斂させてしまうことで、彼の存在を「特別な人間の個性的な行動」という文脈に流れ込む危うさについて、もう少し考えるべきではなかったのか。

それは、彼を「変人教師」にすることによって構築された物語の、その「格好良さ」だけを特化してしまう危うさでもあった。


(注)児童、生徒が自発的に課題学習を行うように、教師がサポートする授業のこと。



4  「夢教育」の物語の幻想と、学校倫理のコアとしてのルールの定着



「教育者は人格的完成者でなければならない」という、大方の人々に共通した観念がある。

私はこれを「夢教育」の物語と呼んでいる。

教育とは、人間が人間を一人前の自立した立派な人間にする行為である、という殆ど疑うことをしない観念がそこに纏(まと)わりついていて、私が幾ら「教育とは当該社会への適応をアシストする仕事である」という最も合理的な説明をしても、恐らく形式的合意しか得られないに違いない。

私たちは、知らずの内に、教師個人に「熱血」、「勇気」、「利他心」、「純粋」、「誠実」、「無欲」、「清貧」、「自己犠牲」などのモラルを求め、罷り間違っても不倫に走ったり、金勘定をする者があってはならないと考えている。

ピエトロ・ダ・コルトーナが描いたパウロ(ウィキ)
これはまるで、パウロが「ローマ人への手紙」で書いた原罪思想そのものである。

パウロはそこで、「貪欲、悪意、憎悪、悪年・・・悪口する者、愚かな者・・・不誠実な者、憐みのない者」の一切を否定したのである。

私たちは、人間の「邪悪」な欲望の否定の鑑を教師の原像にしているかのようだ。

そして最も困ったことには、不良生徒は根が純粋であって、それがたまたま、学校の教師の非人間的対応によって性格が捩(ね)じ曲げられただけであるという、もう一つの物語が、この類の物語の底層に張り付いていることだ。

従って、一人の「金八先生」の出現によって「不良少年」は改心するはずだという、次の物語に繋がっていくと決め付ける短絡性。

何のことはない。

「夢教育」の物語は、「英雄物語」と「青春物語」の睦みであって、かくて、これが全ての「感動譚」の定番となった。

更に、「夢教育」の物語と並んで大衆的に支持されている、もう一つの物語もまた厄介である。

「学校は、もっと『個性教育』を進めるべきである」という物語である。

「個性教育」を、一人一人の性格や能力に合わせて、それぞれに長所を伸ばす教育であるという風に考えた場合、結論からいうと、学校の「個性教育」は殆ど不可能であるということだ。

端的に、その理由を列記していく。

第一に、学校の集団性からの制約である。

第二に、現代の子供の過剰なまでの平等志向の壁である。

前者についていえば、教育心理学で、ドイルによる「学級の諸特性」という研究が知られている。

まず学級とは、様々な複雑な環境因子の集団であることを押さえる必要がある。

その因子とは、「多様性」(子供たちの欲求がバラバラであること)であり、「同時性」(多くの事象が同時に起こる)であり、「即時性」(生徒の行動への対応がすぐ求められる)であり、「予測困難性」であり、「歴史性」(過去からずっと継続されること)であるということである。

この複合因子を統一させて、生徒を授業に参加させていくことが教師の最大のテーマである。

お金を出した成人男女が、「○○教室」に通うのとは訳が違うのである。

そこには、「静かにしなさい!」と怒鳴る大人の存在は不要である。

特別な管理も必要ない。

ところが、それでなくても規範意識の緩んだ30人から35人の子供たちを、45分間集中させることは、「怒らない先生」では殆ど不可能である。

教師には、ここで適正管理が求められる。

それは威圧し過ぎないように、許容し過ぎないような管理である。

少人数・複式学級における学習活動の展開・ブログより
それには、一定のルールを定着させるしか方法はない。

教師はここで、「同時性」と「予測困難性」を克服するのである。

これは、子供の学習成果を最大限に高めるための合理的な教育実践である。

即ち、ルールの定着こそ学校倫理のコアである。

なぜなら倫理とは。あらゆる選択肢の中から最善の方法を選ぶことであるからだ。



5  教科学習を巡る子供たちの内的・外的環境について



本稿の最後に、教科学習を巡る子供たちの内的・外的環境について言及したい。

子供の「勉強しよう」という気持ちが、「さぼりたい」という気持ちと常に表裏一体の関係になっていて、この心理的均衡を、少しでも自分の評価を高めることが社会的適応を有利にするという損得原理(現実原則)の初歩的な判断から、仕方なく勉強に向かうという方向で日常的に「克服」している経験的事実を、まず私たちは把握する必要がある。

我慢しつつも勉強に向かう行動傾向は、子供の自我が「快・不快」の原理の支配から脱却しつつあることの端的証明であり、当然ながら、その原理との共存の中で、様々な状況性を露わにしつつ、そこで出来する心理的均衡の矛盾への合理的対応を迫られていることの証左でもあると言える。

子供が勉強することを苦痛と感じることは、それ自体決して問題事ではないのだ。

従って、子供が勉強することを苦痛と感じることの責任が、一方的に教師にあると考えている人は、子供に内在する多様な「能力」の差の問題を無視していると言わざるを得ないだろう。

個々の子供の努力傾向や好奇心の強弱もまた、広義に言えば、「能力」の範疇に含まれるからだ。

言うまでもなく、学習能力の不足を持つ子に対して、特定教科の学習を強いるのは教師ではない。

厳密に言えば文部省でもない。

一つの国民国家の中で生きる人々が共通に持っている文化に適応せんとする、社会的力学の総体である。

数学が嫌いな子に数学を勉強させるのは、その子を数学者にさせるためではない。

ましてや、一部の愚かな教育評論家が言うように、その子にコンプレックスを植え付けるためなどではない。

ブルーナー
私の記憶違いでなければ、アメリカの教育心理学者として知られているジェローム・ブルーナーは、「生徒が学校で数学を学ぶ意味は、子供の知的能力の開発にある」というようなことを書いていた。

以上の把握の文脈で言えば、数学的学習の訓練が、人間の合理的、演繹的、抽象的思考力や直観力などを培養すると信じられているからである。

そして以上の人間の諸能力が、人間が社会的に生きていく上で基幹的能力として考えられているである。

学習能力の不足を持つ子に対して特定教科の学習を強いる者の根柢に横臥(おうが)するのが、一つの国民国家の中で生きる人々が共通に持っている文化に適応せんとする、社会的力学の総体である事実を認知するならば、数学が嫌いな子に数学を勉強させる行為の現象が、本作のテーマでも扱われたように、学校の「管理主義」という様態を具現させてしまうのは殆ど不可避であると言っていい。

もっと言えば、学校の管理主義化の根柢には、家庭のフレンドリー化などに起因する生徒たちの規範意識の後退があり、学級集団はその形骸化を防ぐために、逆に管理強化の方向に動いてしまうというジレンマがある。

と言っても、学校としては、昔と変わらぬ普通の学校作りを目指しているだけなのだが、管理嫌いの過敏な生徒には、学校が彼らのストレスの温床になってしまうのである。

かつての如き、地域共同体の支えを失った学校のごく普通の対応や要請が、ますます突出した現象として印象付けられていくのだ。

無理な理想を押し付ける「金八先生」のスーパーマン性の瑕疵
「口うるさい先公」とか「サラリーマン教師」とか平気で蔑称しながら、無理難題を押し付けてくる家庭の身勝手さは問うまい。

また、学校を見殺しにした地域が悪いのではない。

機能不全化した地域共同体も、見回りパトロールとか、夏の盆踊りとかの形式的行事によって「季節」を糊塗しつつ繋いでいかなければ、疑似共同体を仮構できないような状況なのである。

豊かさはあらゆる共同体を、確実に内側から突き崩していく。

それがたまたま地域に及び、家庭に及び、学校に及んでいる光景を、私たちは身近に目撃しているだけなのである。

このような時代状況下で、なお「地域」が生き残っている時代の中で、私たちが勝手に作った「夢教育」に関わる幾つかの物語を、学校の教師たちにのみ一方的に押し付けることが、どれほど乱暴で困難なことであるかについて、もういい加減私たちは学習すべきなのである。

(2010年8月)

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