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2010年9月10日金曜日

名画短感⑪      望郷('37)


ジュリアン・デュヴィヴィエ監督




本作は、「愛と自由」に関わる人生の選択についての映画である。

難しく言えば、こういうことだ。

自己完結的な「箱庭」で保証される「捕縛からの自由」というローリスクの安寧の中で、「限定的な欲望系のうちに自足する生き方」を捨て切れないか、それとも、自己未完結的な「箱庭」で保証されない「捕縛からの解放」というハイリスクを覚悟して、「非限定的な欲望系の稜線を伸ばす生き方」を拾い切るか、この取捨選択についての映画であるということだ。

そこに「異性愛」の問題が濃密に絡み合うことで、叙情性の濃度の深い一篇の愛憎の物語が構築されたのである。

ペペ・ル・モコという名を持つ「犯罪のカリスマ」は、女にも眼のない「モテ男」だった。

そんな「モテ男」が、何とか自己完結的な「箱庭」のうちに限定的な欲望系を繋いで生きてきたが、しかし女にも眼のない「モテ男」の常で、パリからパトロン付きでやって来た、一人の美女ギャビーとの出会いによって、まさに己が置かれた〈状況〉の限定性が強いてくる、欲望系のスモールサイズの有りように気付かされるに至った。

一般に人間は、自分の眼の前に、ほんの少し手を伸ばせば具現し得る欲望の稜線がリアルな振れ方をするとき、それを手にせずにはいられなくなるという「性(さが)」がある。

ペペ・ル・モコもまた、この「性(さが)」に捕捉され、それまで相対的な安寧と欲望の出し入れを保証していた狭隘さを感受して、意識が明瞭に認知する感情のラインが騒ぎ出すことで、遂に「現在の自己の有りよう」に我慢し難くなってしまったのである。

だからペペ・ル・モコは、女を追ってカスバの曲析した石畳を、遮蔽するものの一切を駆逐する勢いを駆って疾走した。

「ギャビー!」

名場面とされるラストシーンの中で突沸した男の欲望系は、もう「捕縛からの解放」というハイリスクの代償を支払ってまで、「非限定的な欲望系の稜線を伸ばす生き方」を拾い切る生き方しか選択できなくなっていたのである。

ペペ・ル・モコが追ったのはギャビーであったに違いないが、心理学的に言えば、ギャビーに象徴される「華やかなるパリ」という、確かな記憶への実感的郷愁であり、それは「望郷」以外の何ものでもなかったのだ。

―― 本作の舞台となった土地が妖しげに放謝する、異国情緒の芳醇さ。

そこは今なお、多くの人々の旅情を掻き立てているようだ。

「ムザブの谷と『望郷』のカスバ・アルジェリア探訪 10日間」という観光コースにもあるように、共に世界遺産の指定を受けている独特の地形を持つこの土地は、フランスの植民地時代のの残滓を今でも残している。

荒涼とした砂漠の中に広がるパステルカラーの集落群のムザブの谷と異なって、アルジェ市街から離れた丘陵に位置するカスバは、曲析した石畳の坂道が密集し、100メートル以上の高低差を持つ起伏に富んだ地形となっていて、迷宮のように複雑に束なった市街は、まさに犯罪者には格好の巣窟と化していた。

ペペ・ル・モコは、そんな個性的な土地に、己が欲望系をスモールサイズ化して張り付いていたが、「華やかなるパリ」という、確かな記憶への実感的郷愁を深々と誘(いざな)うギャビーとの出会いによって、自我の澱に封印させてきた「望郷」への思いを噴き上げてしまったのである。

そんな男にとって、アルジェ市街から離れた丘陵に位置するカスバの市街とは、どこまでも異郷の地でしかなかったのだ。

(2010年9月)

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