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2010年5月26日水曜日

時計じかけのオレンジ('71)   スタンリー・キューブリック


<「自己統制の及ばない反動のメカニズム」への痛烈な糾弾の一篇>



1  「超暴力」の限りを尽くして ―― ミルクバー、ナッドサット言語、そして「第九」の陶酔感覚



その詳細は後述するが、本作は、「ルドビコ心理療法」と呼ばれる洗脳実験の「治験前」と、「治験後」の様態を描き出す映画である。

ここでは、「治験前」を象徴する、バイオレンスと集団レイプの連射によるハードな映像を簡単にフォローしていく。

全体主義的な様相を見せつつある管理社会下にあって、近未来のロンドンの都市の秩序は乱れ切っていた。

治安状態の悪化は、ティーンエージャーのギャング集団を跋扈(ばっこ)させ、集団同士の乱闘を常態化させていた。

その中にあって、アレックスをリーダーとする4人の不良少年による、バイオレンスと集団レイプの蛮行が、執拗に描かれていく。

映像の冒頭シーン。


左目に付け睫(つけまつげ)をする異様な出で立ちによって、リーダーの座を誇示するアレックスがミルクバーで飲むミルクには、興奮作用を惹起する麻薬成分が含まれていて、ここで供給された熱源の異常な昂揚感の中で「夜のプラン」を練っている。

ナッドサット言語(英語とロシア語より成る、合成的な人工言語)によって説明される3種類の興奮剤が、アレックスたちを「超暴力」へと駆り立てていくのだ。

この夜の「超暴力」のラストショーは、反政府的作家の大邸宅への略奪的侵入。

作家本人への暴行と、その妻への身の毛も弥立(よだ)つ集団レイプ。

「超暴力」の限りを尽くして帰宅したアレックスが、自室で放った一言。

「申し分ない夜だった。完璧な仕上げは、ルドヴィヒの音楽に任せよう」

陶酔しながら「第九」を聴くアレックスが、そこにいた。

ここまでの所要時間は、約17分程度。

「治験前」の映像のエッセンスは、殆どそこに凝縮されていた。

「ヤーブル」、「デポチカ」、「ホラーショー」、「フィリー」、「マレンキー」、「ドゥーク」、「グブリ」、「ヤーブロッコ」、「ノズ」、「ブリツバ」、「トルチョック」、「スパチカ」、「ダダ」、「マム」、「スルージュ」等々。

その意味は想像可能だが、多くは読解困難なナッドサット言語を記録すると、以上の通り。


因みにこれは、字幕翻訳家として、その名を知らしめた原田眞人(「KAMIKAZE TAXI」、「金融腐蝕列島」等で著名な映画監督/画像)の仕事であった。

更に、ビリーボーイ一派(ライバルの非行少年グループ)との喧嘩の情報を知った更生委員の訪問があり、アレックスの自室で、彼の急所を鷲掴みしながら、「申し分ない家があり、頭も悪くないのに、悪魔が体を這い回るのか」などと戯(じゃ)れて恫喝する描写は、この国の権力機関の腐敗ぶりを存分に露呈させていた。

映像のその後の展開は、軟派したアレックスのセックスシーン(BGMの多用と、ノンストップの早送り)と、仲間の裏切りに遭って逮捕されるシーンに集約されるが、後者こそ「治験前」を終焉させるシーンとして、映像前半の括りとなっていく。

以降、「治験後」の映像展開をフォローしていく。



2  「時計じかけのオレンジ」 ―― 「治験後」の人格改造による「脆弱性」



本作は、一人の少年犯を洗脳することで、「悪人」を「善人」に変貌させていく一つの心理療法の、その「治験前」と「治験後」の様態を描き出すことによって、人間の「衝動性」と、その主体人格の自我の変わりにくさに肉薄した「主題性」の明瞭な挑発的映像である。

以下、簡単にその洗脳実験のプロセスと、それによる変貌の様態をフォローしていこう。


ルドビコ医療センターで実施される、「ルドビコ心理療法」と呼ばれる洗脳実験の内実は、眼球に覚醒剤を注入した状態で、バイオレンスと集団レイプの映像を被験者に集中的に見せることによって、それらに対する拒絶反応を示す人格改造の方略である。

こうして、第1号被験者であるアレックスへの、内務大臣の管轄下での洗脳実験が開かれていった。

「瞬き封じの『リドロック』。正気とは思えなかったが、好きにさせてやった。最初は、ハリウッド風のプロの『シニ―』で大満足。殊に音響が『ホラーショー』。迫真的な叫びや呻き。荒い息遣いと、『トルチョック』の効果音を存分に『スルージー』できた。しかもその上、懐かしきあの真っ赤なワイン(鮮血)が工場で大量生産されるように、流れ出した。奇麗だった。不思議なことに、現実世界の色が本物らしいのは、スクリーンの上でだけ。だが、ずっと見続けていると、それほど楽しい気分ではなくなってきた」(アレックスのナレーション)

相変わらず、ナッドサット言語満載のアレックスの洗脳実験は、鮮血溢れるバイオレンス映像の連射によって、感覚鈍磨するどころか、次第に生理的嫌悪感が生まれてくる。

次は、集団的レイプ映像のリアルな映像。

「6,7人目の『マルチック』が『スメック』笑いで襲う頃には、私は遂に吐き気を覚えた。いくら眼球を動かしても、映像から完全に逃げられない」(アレックスのナレーション)

アレックスは我慢し切れず、とうとう叫んだ。

「止めようよ。気分が悪い。吐けるように何かくれ」

それに対する博士の答えには、一応の合理性を持っていた。

「直に薬が効いて、死んだも同然の状態になる。激しい恐怖と無力感に襲われる。被験者の一人によると、それは、溺れ死ぬ感じらしい。その過程において、患者は治療の主目的たる連係を確立する。自分が置かれた苛酷な状況と、目撃している暴力との連係だ」

「吐き気は、快方に向かっている証拠よ。健全な人間は、恐怖と吐き気で嫌悪感に反応するわ。健康になりつつあるのね」

これは、女性ドクターの説明。

当然、実験は継続された。

アレックスの視界に入る対象は、ナチスの行進のフィルムの後、戦闘機からの大量爆撃の映像が続いた。

ここで遂に、アレックスは呻き声を発した。

以下、その際の会話を再現する。

「苦痛の中で漸く気がついた。ガンガンと鳴り響くその音楽は、ルドヴィヒ・バン(ベートーヴェン)作曲の第九第四楽章」
「罪悪だ!」
「罪悪?何が罪悪なんだね?」と博士。
「ルドヴィヒを使うなんて。彼には責任がないのに。作曲しただけなのに」
「BGMのことを言っているの?」と女性ドクター。
「そうだ」
「これは多分、刑罰の要素だな。気の毒だが、君のためだ。暫く付き合ってもらう」
「あんまりです!」
「君が選んだことだ」
「もう充分だと思います。先生。超暴力や殺人は、本当に間違っています。恐ろしいことです。しっかり学びました。治ったんです!」
「治っとらんな」
「反社会的なことは悪い!人は皆、幸福に生きる権利があります!」
「診断を下すのは、我々だ。2週間足らずで自由になれるよ」

その拷問のような、長い2週間が経過した。

今度は、アレックスに対するルドビコ心理療法の「成果」を、内輪で公開実験するショーが開かれた。

その場で、アレックスは一方的に暴力を振るわれ、靴の裏まで舐めされられる始末。


更に、ヌードの女性を前に性衝動が発動せず、吐き気を催すばかり。

ショーの後、アレックスは内務大臣に尋ねた。

「成功したんですか?」

それに対する内務大臣の答えは簡潔だが、要点を押さえていた。

「成功したとも。要するに、被験者は悪への傾斜をパラドックスとして善に傾く。暴力行為への衝動が、強烈な肉体的苦痛を伴います。それと対処するために、彼は正反対の行動に走ります。質問は?」

ここで、アレックスを庇護し続けて来た、刑務所付け牧師が疑義を唱えた。

「選ぶ能力!本人に選ぶ能力がないんじゃないか。私欲と肉体的苦痛への恐怖が、彼を醜悪な自己卑下に駆り立てるんだ。そこには誠意の欠片もない。非行は防げても、道徳的選択の能力を奪われた生き物に過ぎない」

この主張こそ、作り手の主張であると言っていい。

それに対する内務大臣の答えは、良くも悪くも、為政者の典型的反応であった。

「些細なことです。動機や高級な倫理観は別問題。我々の目的は犯罪抑圧です。彼は人を苦しめるより、自らが苦しみ、ハエを殺そうと考えただけで気分が悪くなる。再生です!天地たちと歓びを分ち合おう!」

映像を通して最も重要な、この本質的問答の内に、挑発的映像である本作の「主題性」が明瞭に凝縮されていた。

以下、本作のビデオジャケットの解説が、そのエッセンスを要約しているので、ここに引用する。


「喧嘩、盗み、レイプ、殺人に明け暮れる良心のかけらもない若き人間ハンター、アレックスは、逮捕され刑務所に入れられて、『無害』な人間に改良するための様々な治療法が施される。その結果誕生したのは、『時計じかけのオレンジ』――つまり表面的には健全で完全だが、その内部は自己統制の及ばない反動のメカニズムのせいで廃人同様となった人間だった・・・・」(『時計じかけのオレンジ』ワーナー・ホーム・ビデオジャケット解説より)

本作の基本モチーフは、「表面的には健全で完全だが、その内部は自己統制の及ばない反動のメカニズムのせいで廃人同様となった人間」の、その「治験前」と「治験後」の様態を描き出す映像以外ではないだろう。

ともあれ、「治験後」の「廃人同様となった人間」を見せるショーは終焉し、14年の刑期を終えることなく、かつての殺人犯のアレックスは、人畜無害な人間に変貌したことで、釈放されるに至ったのである。



3  「自己統制の及ばない反動のメカニズム」への痛烈な糾弾の一篇



釈放の翌日、自由の身になったアレックスは、「治験前」の彼の思惑とは違って、自分の居場所を失う惨めさだけを曝け出していく。

帰宅後、自宅のソファーで寛ぐ居候の青年を殴ろうとして、吐き気を覚えるアレックスがそこにいた。

それは、ルドビコ心理療法による、「治験後」の「廃人同様となった人間」のあられもない「脆弱性」の露呈の現実であった。

以上の把握に立脚すれば、「治験後」の映像で繰り返し描かれる、アレックスの嘔吐シーンは極めて重要な描写なので、解説を加えていこう。

何より「第九」を聴いて、アレックスが吐き気を催すのは、「第九」によって駆り立てられた攻撃的、且つ性衝動が、所謂、動物の「真空行動」を例に挙げるまでもなく、言わば「本能行動」として発動していく一連のプロセスが、人格内部で構造的に妨害されている現実を示している。

ここで言う、動物の「真空行動」とは、反射を作動させる「解発」(様々な因子によって行動が誘発されること)によって惹起する「生得的解発機構」が、刺激されたままの状態で置かれると、必ず同様の行動を発現させるということ。

例えば、馬を厩舎に閉じ込めた状態で、「移動中枢」を刺激すると、その馬は必ず暴れ出してしまうということであって、私たちはこれを「本能行動」と呼んでいる。

無論、人間には「真空行動」は存在しない。

「本能的行動」は部分的に残っているが(「睡眠欲」、「食欲」など、「生存」に関わる欲望に限定)、しかしそれは、必ず同様の行動を発現させる「真空行動」とは切れている行動様態である。

即ち、本作における「アレックスの吐き気」という条件反射的な行為を考えた場合、「生得的解発機構」が刺激されたままの状態で置かれた場合での、「真空行動」的発動の如き様態を示すのは、人格内部で構造的に妨害させている、危うい人体実験により強制的に作られた、「洗脳的自我」の支配力に因っていると言えるだろう。

然るに「洗脳的自我」は、単に表層的な行動規範として作られたものなので、アレックスの人格総体を統括するほどの圧倒的支配力を持ち得ていないのだ。

人格総体を統括できない中空の状態下にあって、「洗脳的自我」によってのみアレックスの振舞いが身体化されるという構造性の中で、それでも完璧に支配し切れないで残された彼の内側の攻撃的・性的衝動が、「洗脳的自我」の支配力の内に、その発現を強引に封殺されてしまっているのである。

アレックスは、この決定的な自我分裂によって、最も安易な選択肢である自殺という手段に流れ込んでいった。

しかし、アレックスを人体実験した内務大臣の「人格復元療法」によって、彼がより凶悪な悪へと変貌していくという映画のオチには、まさに人間の行動選択の自由を完全に奪い取る、極端な加工的、且つ、人為的行為を指弾する作り手の確信的メッセージが内包されていて、そこにこそ映像の基幹的主題を明瞭に読み取ることが可能となるだろう。

この映画は、「暴力の肯定・否定の是非」という「倫理的次元」における問題提起でも何でもなく、前術した会話に象徴される政治的行為への痛烈な風刺であると読解できるのである。


但し、映像から読み解く作り手の思考の内に、「暴力」を人間の本源的問題と考える文脈が伝わって来るのも事実。

しかし有史以来、人間の「暴力」が消失した時代が存在しないという事実は、それが人間の「本能行動」であることを決して意味せず、ここでは単に、人間が「最も攻撃的で暴力的な存在体」であるという事実の認知に収斂される何かである、と読み解くべきだろう。

反射を作動させる解発によって惹起する「生得的解発機構」と呼ばれる、「本能行動」という最大の能力を持つ他の動物と異なって、著しくその能力を欠く人間の場合、恐らく、前頭前野に中枢を持つと思われる自我によって、一切の生物学的、社会的行動の代行をしているので、それが人間の生存・適応戦略の羅針盤になっているに違いない。

問題なのは、その自我が「先行する世代」の教育によってのみ、その基本形が形成されるという由々しき現実である。

従って、その自我の形成は「先行する世代」の教育によって為される基本的営為でありながらも、どこまでも「自我の確立」に関わる自己運動は、人格主体の選択的行為によって達成されるべきものであるということ、それに尽きるだろう。

それは、「選ぶ能力!」と叫んだ牧師の指摘に収斂される文脈である。

本作は、「自己統制の及ばない反動のメカニズム」への、些かコメディ風の味付けを被せた痛烈な糾弾の一篇であるということだ。

その指摘は基本的に間違っていないが、但し、私たち人間が本能の代わりに、常に未形成の鎧を纏(まと)う宿命を負う、何とも頼りない「自我」によって行動せざるを得ない本質的な「脆弱性」を持っているということ。

その認知こそ重要なのだ。



4  「暴力」は「暴力」によってしか収斂できない、人間の歴史のエンドレスな「暴力史」の宿痾



ここでは、本作の根幹に据えられた「暴力」の問題について言及する。

「暴力」の本質とは何だろうか?

まず、「暴力」とは、「攻撃的エネルギーが、他者に対して身体化される行為」の総称である。

これが、「暴力」に対する私の定義である。


この把握に則って、「暴力」の本質を定義すると、「他者を物理的、或いは心理的に、自分の支配下の内に強制的に置くこと」であると言えるだろう。

従って、国家権力こそが最強の「暴力装置」となるということだ。

誤解を恐れずに言えば、「主権」(「統治権」、「独立性」、「最終的決定権」)、「領土」、「国民」から成る「国民国家」において、その「国民国家」の最適サイズと矛盾しない限り、「暴力装置」の設置は不可避であり、必要悪であるだろう。

ともあれ、その辺りの構造性について、映像から検証してみよう。

主人公のアレックスは、国家権力の人体実験によって、その人格の中枢を強制的に改造され、所謂、「洗脳的自我」を持つに至った。

その結果、彼は暴力に対する極端な拒否反応を示すが、却ってそれが、彼の社会的適応を困難にさせていったことは既に言及したとおりである。

この映画が面白いのは、そんなアレックスの人体実験を批判する者たちの反政府的言動に対して、敏感に反応した内務大臣が、無力化したアレックスを元の人格に戻すという重要且つ、決定的なエピソードを挿入したところにある。

国家権力によって無力化された若者が、再び「超暴力」を自在に駆使する人間に復元するという、ラストシーンの構図は充分にアイロニーが効いていた。

自殺未遂によって一命を取り留めたアレックスが、国家管理の特別病棟で加速的に復元していくプロセスこそ、この映像の最大の狙いであったに違いない。

手足が不自由なアレックスが、自分を無力化した人体実験の統括者である内務大臣に、ステーキを一口ごとに食べさせて、悦に入る描写はまさに本作の真骨頂だった。

セックスの妄想に耽るアレックスがそこにいて、不敵な笑いを浮かべるとき、国家権力によって無力化された男の「洗脳的自我」が解かれて、より凶暴な「超暴力」を弄(もてあそ)ぶ「悪しき犯罪者」へとシフトしていく物語ラインの、トラジェディー(悲劇)を包含したコメディータッチの展開の内に、作り手の些か声高で、鮮明な「主題提起力」が検証的に映像化されていたのである。

そこでの印象的な会話を、再現してみよう。

言うまでもなく、会話の主は、内務大臣とベッド上のアレックスである。

「我々を友人だと思ってくれ。充分な世話をする。最高の治療を約束する。この国には、とんでもない人間がいて、政治目的でね。彼らは、君が死ぬと喜ぶ。政府を非難できるしな・・・我が党は君に関心がある。退院後の心配も無用。全ての面倒を見る・・・確かに現政府は、君のためにひどく不人気になった。報道機関は、我々を非難する見解を示した。だが、世論は変わりやすいし・・・そこでアレックス。君がその方面で活躍し、世論を操作する。分るね、私が何を言いたいか?」

本音を暈(ぼか)しつつ、アレックスの「再起」を求める内務大臣の長広舌に対する、肝心の当人の反応は明快だった。

「よく分りました。夏深き青空の如き明快です。任せて下さい」

最後に、内務大臣から「第九」の大音響のプレゼントがあり、いつしか病室を囲繞するカメラマンたちに親指を立て、OKサインを送るアレックスの表情には、もう無力なる者の本質的「脆弱性」から切れ、自在に羽ばたく一羽の猛禽と化していた。

セックスの妄想によって、完全に復元したアレックスの不敵な笑みの後に、「雨に唄えば」のBGMが追い駆けていく。

ラストシーンの、この一連のシークエンスから読解できるのは、前述したような、「洗脳的自我」における 「選択できない人生の悲哀」であると同時に、それと濃厚にリンクして、「他者を自分の支配下に置く」という「暴力」の本質に関わる超ド級のアイロニーであったということだ。

他者を支配することによってしか成立しない「暴力」の連鎖には、終わりが見えないということなのだ。


「暴力」は「暴力」によってしか収斂できない、人間の歴史のエンドレスな「暴力史」の宿痾(しゅくあ)こそ、作り手であるスタンリー・キューブリック(画像)は問題にしたかったのだろう。

そういう映画だったのである。



5  本作への的外れな幾つかの批判について ―― 余稿として



本稿の最後に、本作への的外れな幾つかの批判について一言。

それは、本作を「暴力を助長する映画」と認定し、上映禁止を主唱する類の批判の無意味さが、全て根拠の希薄な「モラル」に拠って立っていること。


1971年に製作され、翌年に公開されたこの「時計じかけのオレンジ」を観て、衝撃的な影響を受けたアーサー・ブレマー(画像)という名の、21歳の若者の事件(アラバマ州知事のジョージ・ウォレス暗殺未遂)が現出した事態の一面のみを強調する指弾が、結局、「法体制」ではなく、曖昧な「モラル」をバックボーンにしている風潮は、決して「健全な社会」の証ではないと言える。

私から言わせれば、この種の犯罪者は、「時計じかけのオレンジ」のような映画を発火点として利用しただけで、実は、この種の映画なしでも犯罪を強行したに違いないと思えるのだ。

なぜなら、この映画を鑑賞した後、多くの者が「気持ち悪い」と思う感情こそ、「暴力嫌悪」の証であるからだ。

そういう人は、良くも悪くも、この映画から特段の「学習」を媒介することなしに、最初から「思考停止」の穴倉に潜ってしまうだろうし、或いは、この映画を気に入った者も、映画から受けた何某かの興奮を、直ちに、「超暴力」を弄(もてあそ)ぶ「悪しき犯罪」に直結させる行為に走る訳がなく、縦(よし)んば、件の者が「暴力肯定」の思想に流れ込んでいったにしても、それもまた、単にこの映画を発火点として利用しただけに過ぎないのである。


「超暴力」を弄ぶ「悪しき犯罪」に利用し得る対象を文化のアイテムに求めるとき、主観の枠をマキシマムに拡大すれば、殆ど全ての文化事象が当て嵌まるのだ。

それを、特定の文化のアイテムの、特定的な表現作品にのみ求めることへの根拠は、あまりに稀薄であると言わざるを得ないのである。

「超暴力」を弄ぶ「悪しき犯罪」に流れ込む者の自我の未成熟の問題を、映像表現の「性質(たち)の悪さ」に還元させる短絡性こそ、「モラリスト」のある種の怖さであると言ってもいい。

ついでに書けば、本作が資本主義の末路の様態であるという決め付けによって、殆ど予約されたかのような、安直な「批評」で括ったつもりの御仁も多々見えるが、言うまでもなく、この類の「批評」もまた、無媒介にイデオロギッシュな印象力の硬直さによって、しばしば情感暴走するだけに厄介であるだろう。

或いは、本作が全体主義への批判に収斂されるものでもないだろう。

私から言えば、「全体主義国家」(実際は、中途半端な全体主義)に設定した方が、主題を提起しやすかっただけだ。

それよりも、SF作品であるはずなのに、「電話を貸して下さい」と現れるアレックスの描写等々を見る限り、人間の様々なフィールドにおける未来を予測することが如何に困難なことであるかが分るだろう。

近未来の人間の様々なフィールドにおける未来を予測できない私たちに、分ったような「世界観」の提示が出来る訳がないのだ。

まして、「資本主義」の次に訪れるだろう、「在るべき理想社会」にバラ色の未来を約束させる「克服史観」の誤謬について、私たちはもっと謙虚に受容すべきではないのか。

そんな風にも思うのだ。

(2010年5月)

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