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    4 か月前

2011年1月9日日曜日

アメリカン・ビューティー('99)      サム・メンデス


<「白」と「赤」の対比によって強調された「アメリカン・ビューティー」の、爛れの有りようへのアイロニー>



1  小さなスポットで睦み合う青年と少女



本作を、一人の青年が支配している。

リッキーという名の、18歳の青年である。

ビデオカメラで隣家の少女を盗撮したり、麻薬の密売で小遣いを稼ぐ危うさを持つ青年だが、そんな男に盗撮される当の少女が、青年のうちにピュアな心を感受し、自然の成り行きで会話を持つに至る。

隣家の少女の名は、ジェーン。

女子高生である。

以下、そんな会話の中で、リッキーがジェーンに語った一つのエピソードを紹介する。

本作を貫流するテーマが含まれているからだ。

「君に一番美しい作品を見せよう」

そう言って、リッキーはジェーンに、自分が撮ったビデオを見せていく。

ビデオを見せながら、リッキーは語っていく。

白い袋が宙を舞うビデオ画像
「この日は今にも雪が降り出しそうで、空気がピリピリしていた。宙を舞う白い袋。遊びをねだる子供のように僕にまとわりついた。15分もの間。その日、僕は知った。全てのものの背後には、生命と慈愛の力があって、何も恐れることはないのだと。何も。これはビデオ映像だけど、忘れないために撮影した。この世で眼にする、美の数々。それは僕を圧倒し、心臓が止まりそうになる」

後述するが、嗚咽交じりの、このリッキーの言葉が、本作で描かれた「アメリカン ・ビューティー」の一切を相対化し切っているのである。

今度は、その後の二人の会話を拾っていこう。

「自己構築と規律の世界」をリッキーに押し付けて、形式的に服従させるだけの彼の父。

元海兵大佐である。

リッキー
リッキーは、その父のことを語っていくのだ。

「15歳のときマリファナで陸軍学校へ。適応できず、父と大喧嘩。殴られた。普通の学校に戻されたら髪型をからかわれ、キレた。相手を本気で殺そうと思った。だが引き離され、今度は神経科に送り込まれた。そのまま2年間、薬物療法」

すかさず、ジェーンが反応する。

彼女もまた、父親への不満が沸騰し切っているのだ。

「お父さんが憎い?」
「いいや。悪い人じゃない」
「そんな父親、私なら憎むわ。もう憎んでいるけど」
「なぜ?」
「私の友だちのアンジェラに夢中になるようなバカ男よ」
「娘に夢中にならずに?」
「嫌だ、気味悪い。でも、もう少し関心を持ってくれたら・・・傍目(はため)には無害な父親に見えても、私には大きな精神的ダメージを」
「どんな?」
「私にだって、自己構築と規律が必要なのよ・・・あんなパパ、死んだ方がいいのよ」
「僕が殺そうか?」
「殺ってくれる?」
「金がいるよ」
「子守のバイトをして3000ドル溜まっているの。豊胸手術のためよ。でも・・・」


ビデオカメラの前で、冗談で反応する少女と、それを承知の上で冗談で返す18歳の青年が、二人だけが占有する小さなスポットで精神的に睦み合っていた。



2  欺瞞との訣別、そして「アメリカン・ビューティー」の妖艶な舞いと、その自壊への瞬間(とき)



二人の会話から察する限り、リッキーの孤独と非行の原因が彼の家族にあり、とりわけ、元海兵大佐の父親にあることが推察される。

リッキーの父親は、一人息子に「自己構築と規律の世界」を強要する男であり、密かにナチ関連の秘蔵品のコレクタションをする、超保守的で狷介(けんかい)な人物像とは裏腹に、ラストシーンでの行動で露呈されたように、自らが嫌って止まないゲイの傾向を持っていた。

要するに、ホモセクシャルへの異常な憎悪を身体化する、彼の権威主義的な行動の本質は、自らのうちに封印する同性愛の性向を見透かされないための防衛戦略であって、それは、この男のコンプレックスの裏返しであるということだ。

そんな小心な男が支配する家庭は、当然の如く陰鬱で、彼の妻は一貫して笑みを見せることがなく、表面的に狷介な男の振舞いに合わせるだけの「仮面家族」の典型であると言っていい。

父親への上辺だけの服従を延長させているリッキーは、冒頭のビデオ撮影での、感情のこもった言葉に見られるように、極めて感性豊かな青年。

ここで語られる、「白い袋の舞い」に象徴されるのは、先進文明社会にあって、全く目立つことはないが、それでも自律的な有機性を持って、心地良く自己運動を絶やさない「慈愛と生命感」に満ちた「美」であると言っていい。

リッキーは、その「白い袋の舞い」を、単なるポリ袋と見ず、「神」によって付与された「美」であると視認し、受容したのである。

そんな青年のピュアな心に振れたジェーンは、彼の手を握り、強い共感の思いを表現する。

ジェーンもまた、一人娘の彼女を点景として構成される核家族の中で、倦怠期を常態化させている両親の下で、思春期反抗の心情をストックさせていた。

ストレスを溜めて、浮気に走る女性営業ウーマンの母親(キャロリン)と、あろうことか、自分の親友のアンジェラに本気で恋をする父親。

この父親こそ、本作の主人公であるレスターである。

ジェーン(左)とアンジェラ
レスターは、チアガールであるアンジェラに、「アメリカン・ビューティー」を感じ、彼女のハートを射止めるために、筋トレする日常性を平気で繋ぐ男だが、愚かではあるものの、決して人格障害者ではない。

彼女を見るまでは、ごく普通の中年サラリーマンだった。

ところが、アンジェラへの激しい恋心=性的感情によって、それまでの躍動感のない、変り映えしない日常性と決別し、一人の「スーパーマン」(マッチョ)像を立ち上げていくのだ。

仕事をあっさり辞めて、妻との不和は極点にまで流れていくが、その妻の不倫の現場を、ハンバーガーショップの店員となったレスターが視認したときの一言は、明らかに、この夫婦の終末期的様相を露呈させていた。

「君が幸せなら、僕は構わん。これからは僕に、ああしろ、こうしろと、2度と言うな」

彼にはもう、アンジェラに象徴される「アメリカン・ビューティー」=「真紅のバラ」しか見えないのである。

ジェーンはその思いを、リッキーに「嫌だ、気味悪い」と吐露した。

レスターと妻
常識的に言えば、そんな父親をリスペクトする娘が存在する訳がないのだ。

本作で描かれた関係で、このリッキーとジェーンの関係のみが、最も清廉なイメージを観る者に与えている。

リッキーから見れば、容貌自慢のアンジェラは、平凡で醜悪極まりない、自己顕示欲の強い女子高生でしかなかった。

その辺りのエピソードが、終盤に用意されていた。

「何て情けない人なんだ」と父に洩らして、欺瞞的な父と訣別したリッキーは、自分を信じ切る母に、家出を告げた。

「僕は出て行く。可哀想なお母さん。お父さんを頼みます」
「ええ、いいわ。レインコートを着て行きなさい」

それが、リッキーの母の心のこもった反応だった。

その足で隣家に寄った青年は、ジェーンに覚悟を迫った。

「僕はNYで暮らす。一緒に来るかい?」
「ええ」

この一言が、ジェーンの反応だった。


そのとき、ジェーンを止めたのが、友人のアンジェラ。

「人と違う生き方をするわ!完全過ぎるあなたとは違うのよ」

ジェーンは凛として、アンジェラにそう言い切ったのだ。

「ええ、私はブスじゃないわ」

このアンジェの厭味な反応に対して、リッキーは言い切ったのだ。

「君は醜い。退屈で、平凡な女だ」

リッキーに本質を突かれたアンジェラは、ただ狼狽(うろた)えるばかりで、抗弁すべき何ものも持ち得なかった。

そんなアンジェラの心を、ようやく占有できたと信じるレスターは、彼女の蠱惑(こわく)的な誘惑に乗ってベッド・イン。

ところが、アンジェラは、自らが処女であることを告白したのだ。

それは、真相を知られることで、相手から嘲笑されないための防衛的な告白だったが、レスターは決して彼女を嘲笑することはなかった。

それどころか、少女を優しく包み込む一人の大人がそこにいた。


それは、レスターが、本来の「美」に最近接する心的行程が開かれていく瞬間だった。

アンジェラの「美」は、「真紅のバラ」の色彩、即ち、偽りだらけの「アメリカン・ビューティー」でしかなかったのである。



3  「白」と「赤」の対比によって強調された「アメリカン・ビューティー」の、爛れの有りようへのアイロニー



元々、普通の人間の、普通の優しさを持つ男の立ち居振る舞いが、「真紅のバラ」に搦(から)め捕られて、内なるストレスの貯留によって、一時(いっとき)歪んだ様態を露わにしていたにせよ、本来の日常性を復元していくに足るだけの「欺瞞性への気付き」の能力が捨てられていなかったのである。

存分に皮肉な映像は、気付いたときに訪れた、レスターの「死の予約」をなぞっていく。

リッキーの父親による犯行だった。

「かみさんが他所(よそ)の男と寝ていて平気なのか?」
「平気さ。見せかけの夫婦でね。“僕らは普通の人間”というインチキCMなのさ」

ずぶ濡れの雨の夜、筋トレに励むレスターを訪ねたリッキーの父との会話だった。

この会話が、レスターの「死の予約」の始まりだった。

自分の息子のリッキーが、レスターとゲイに関係にあることを誤解し、レスターを訪ねた際に、思わず露呈したホモセクシュアルな行動。

リッキーの父親こそ、ホモセクシュアルだったのだ。

「悪いが、何か勘違いしている・・・」

レスターにそう言われて、親に叱られた子供のように、嗚咽交じりに帰っていく男。

その直後の、男によるレスターの射殺は、絶対知られたくない秘密を、隣家の主に知られたことによる犯行であったに違いない。

ごく普通の家庭の、ごく普通の人々が呼吸を繋ぐ日常性に生まれた亀裂が、次第にその復元が困難となる様相をブラックユーモア仕立てで描き切った末に、主人公の死によって閉じていく映像は、「アメリカン・ビューティー」を追い駆けた男が、そこで初めて辿り着いたであろう、本来の「美」の世界の有難さを提示して見せた。

レスターはそのとき、幸福だった時代の家族の写真を見ていたのである。

以下、「死の予約」を宿命づけられたレスターの、最後のナレーション。

「死の一瞬、全人生が眼の前をよぎると言われている。しかし、その一瞬は一瞬ではないのだ。それは大洋のように果てしなく広がる時間。ボーイ・スカウトのキャンプで草原にひっくり返り、流れ星を見ていた僕・・・ジェーン、僕のジェーン。そしてキャロリン。こんなんことになって腹が立つかって?美の溢れる世界で怒りは長続きしない。美しいものがあり過ぎると、それに圧倒され、僕のハートは風船のように破裂しかける。そういうときは体の緊張を解く。すると、その気持ちが雨のように胸の中を流れ、感謝の念だけが後に残る。僕の愚かな、取るに足らぬ感謝の念が」

ここに語られている主人公の思いこそ、作り手のメッセージであるだろう。

「白」と「赤」の対比によって強調された、「真紅のバラ」で塗りたくられた「アメリカン・ビューティー」の、偽りだらけの爛れの有りようへのアイロニーこそ、本作の基幹メッセージであると言っていい。

ジェーンと共に、家を出る覚悟をするリッキー。

それを受容する母。

置き去りにされた父親。

リッキーとジェーンは一発の銃丸によって、レスターの死を知り、一瞬凍りつく。

しかし、若い彼らの濃密な交叉の中で見せた、「白い袋の舞い」に象徴される、ありふれた「美」のうちに、この国の病んだ家族文化の迷妄を突き抜けていく、一筋の光明が垣間見えるのだ。

映像は、鋭角的な青春の劇薬性をイメージさせつつも、このような少女の補完があれば、その近未来を軌道修正していく、もう一つのイメージをも提示して見せた。

サム・メンデス監督
まさに、このような青年の劇薬性によって動かされた物語の逢着点に、主人公の「予約された死」が待機していたにせよ、「失って初めて知る本来の『美』」を手に入れることで終焉する男の物語は、決して暗鬱で、救い難い括りではなかった。

考えても見よう。

この映画で描かれた家族は、「病理」と呼ぶにはあまりに平均的な、イギリス流に言えば、「ロウアー・ミドル・クラス」の家族である。

「パン」の問題を解決した「ロウアー・ミドル・クラス」の家族が、情緒で繋がれなくなったとき露呈される裸形の自我が、無軌道に稜線を伸ばす欲望を抑制し得なくなったとき、このような家族の様態を晒すであろうという現実を、この映像は巧妙に切り取って見せたのである。

殆ど文句のつけようがない、完璧な映像を構築する才能に脱帽するばかりである。



4  現代家族のアポリア



現代家族とは、「パンと心の共同体」であると私は考える。

勿論、家族には、分娩による育児と教育という、血縁の継承に関わる基本的役割があるが、しかし家族の成員にとって、「家族」を実感的に感じるものは、家族間の情緒的交叉の内に形成される見えない親和力の継続的な確認であり、そこで手に入れる安寧の感情と言ったものだろう。

そこで安寧に達する家族成員のそれぞれの自我こそが、まさにそれが解き放たれた実感となって、家庭という空間に、しばしば過剰なまでに身を預けるのである。

解放された自我は、そこで裸形の自我を曝け出し、外部環境で溜め込んだ膨大なストレスを存分に吐き出すのである。 

更に、家族とは言わば、「中性共同体」であると言ってもいい。

夫婦間にのみ性交が認知されているが、それはあくまでも、家族の中枢としての父と母の、その親和力の強化と確認を保障する機能として、充分な有効性を持つからでもあると言えるだろう。


但し、相思相愛で結婚した男女も、「物理的共存」を延長させていく間に、肝心の〈性〉が脱色されていくことも否定し難い現実である。

解放された自我は、そこで裸形の自我を曝け出し、外部環境で溜め込んだ膨大なストレスを存分に吐き出していくばかりか、そこではオナラやゲップが飛び交うことも日常化しやすくなるからだ。

不必要な仮面が悉(ことごと)く剥ぎ取られていくのは夫婦にとって良いことかもしれないが、「男」と「女」の〈性〉を守りたければ、裸形の自我を晒す行為に抑制系を媒介させる必要があるのだ。


その意味で、「物理的共存」を延長させていく夫婦もまた、限りなく「中性化」しやすいのである。


「アメリカン ・ビューティー」の夫婦の倦怠感の本質もまた、この文脈で説明可能な関係性であったと言えるだろう。

閑話休題。

同時に、家族は「役割共同体」でもある。

一人の成熟した男は、「父親」や「夫」を演じ、一人の成熟した女は、「母親」や「妻」を演じ、未だ成熟に達しない男児や女児は、それぞれ「息子」や「娘」、或いは「兄」、「弟」や「姉」、「妹」という役割を演じている。

それぞれの役割が相互に補完しあって、一つの空間内に、家族という血縁共同体を形成するのである。

然るに、このような共同体にあって、それぞれの役割を形式的にすら演じられなくなったとき、そこに裂け目が生まれ、それが本来持っているであろう求心力を劣化させていくのは自明である。

しかし、近代以前の普通の家族的共同体の結合力の中枢には、「情緒」よりも「パン」の方により比重が置かれていたが、この縛りを失った現代家族のミドルクラスにおいては、「情緒」のみが求心力になっていく。

その求心力を失ったミドルクラスの悲哀こそ、ブラックユーモア含みの本作で描かれた「アメリカン ・ビューティー」の、紛れもない「現在性」だった。

(2001年1月)

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