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2008年12月11日木曜日

鉄道員(ぽっぽや/'99)     降幡康男


 <聖者の大行進>


「鉄道員」は、感動を意識させた原作と、同じく感動を意識させた映像が結合し、私には些か厭味な映画になった。

映画はとても良くできている。

完成度もそれなりに高いので、日本アカデミー賞を総舐めにした理由も納得できなくはない。

しかし、それらが却って私には馴染めないのだ。

「さあ、全て要所を抑えた。非の打ち所のない良質な映画を苦労して作ったのだから、皆、この映画を観に来て、思う存分泣いて欲しい。エログロナンセンス溢れたこの国の愚劣な文化に浸かっている人々に、本物の感動を届けたい。さあ、本物の日本映画を皆で共有しよう」

勿論、誰もこんな思い上がったスピーチをする者がいないだろうが、この映画を観終えた私の耳には、そんなメタメッセージが聞こえてしまうのである。

別にこの秀作にケチを付けたくないのだが、私には近年、この国の文化のある種の過剰さがとても疎ましく感じられるので、どうしてもそのラインでこの「鉄道員」を観てしまうことになる。

この国のある種の過剰さ。

それは「感動」に対する需要の過剰、その需要に過剰に応えてしまう「感動」の供給の過剰、即ち、感動の押し付けの過剰という目立った現象である。


例を挙げれば切りがないが、メディア各局の24時間チャリティ番組での感動譚の大洪水。

「母はかくも偉かった」、「父はかくも強かった」、「ここに今、宿怨を晴らして、親子が一つになる」、「恩師への愛を綴る」、金八先生の極端な理想形、そして極めつけは、かつて某放送局で人気の高かった「知ってるつもり」という番組。

スタジオには、要所で涙腺の弱いゲストを呼んで、感動放送の後に必ずカメラを向けて、泣き好きタレントのクローズアップ。


先日もテレビを観ていたら、「あなたの欠点は何ですか」と問われた無骨イメージの男性が、間髪入れず、「すぐ泣くことです」と答えていた。

質問者が、「えっ、どういうときに?」と聞いてきたら、この男性は「感動する映画や、感動する話を聞くと、すぐ目頭が潤んでしまうのです」と、長所を語る者のように答えたから、その無邪気さに失笑を禁じ得なかった。

この男性は、この国では、感動の涙が充分に人格セールスになり得ることを弁(わきま)えているのである。

「母の優しさ」とか「強き父」、更に「偉大なる恩師」、「不良の改心」、「親子の一体」、「地域の結束力」、「無私なる人々」、「殉教(職)者」等々といった美しいとされるものが、豊かさを増幅していく社会に伴って姿を消していくほど、失われた共同体を志向する思いが、このような価値の人工的な復権を必要以上に求めてしまうのである。

この必要以上の心の振れ方が、人々の感動の需要を、目立って集合させてしまうという流れを作り出してしまうのだ。

そしてもう一つは、印象的なまでに目立ってきた情緒過多社会の到来がある。

現代家族は、既に最も小さな情緒共同体と化していて、この小宇宙で育まれる次世代の自我も、その生誕のときから、充分に情緒のシャワーを被浴してきている。

降幡康男監督
ホットな視線と期待の中で成長する自我は、知性や理性で訴えてくる情報よりも、情緒をたっぷり含んだ情報にこそ馴染んでしまっているのだ。

人前ですぐ泣いたり、僅かなことにも過敏に反応したりする若者たちの心情風景の中に、情緒の不足に耐えられない自我の脆弱さが貌を覗かせている。

感動に殺到する社会の根柢に、こんな自我の脆弱さが絡んでいるようにも思えるのだ。

反応過多な社会が、其処彼処(そこかしこ)でより大きな感動を欲しがっているのである。


―― さて、「鉄道員」である。


人々の共同体への思い、家族の繋がりへの幻想、一途さへの讃歌、女の優しさ、素朴なる自然、偉大な大地、友情の輝き、無欲なる心、そして殉職の栄光・・・・。

あらゆる美しきものが、そこにはうんざりするほど詰まっている。

美しきものが、美しきものとして、そのまま映像の中に映し出されているのだ。

そこには変化球の衒(てら)いが全くなく、ダイレクトに、ズドンと直球勝負で攻め込んでくる。

実力がなければできない芸当だ。

手慣れた仕事師の風格が、それぞれが一幅の絵画になるような映像を巧みに繋ぎ合わせていく。

巨匠のワールドの中に、既に、感動の配合の妙が約束されていたかのようだ。

―― 物語はあまりに単純である。

定年間近の、廃線を迎えるローカル線の駅長が、長い付き合いの親友が進める天下り的な転職の誘いを拒んで、その駅で殉職するという話である。

ベストセラーになった40ページほどの短編の原作を少し膨らませて、自然描写豊かな、味わい深い作品に仕上がっているのは確かである。

然るに、物語のコアには、生後まもなく昇天した愛娘が、その成長した姿を父親に見せに来るという異次元的な再会譚があり、ここでも、近年目立つ「死者との情緒的交叉」という、安直な物語の文脈ををなぞっていく映像の仕掛けは、それだけで充分に過剰であった。

原作者は、どうやらこの手の安っぽいメルヘンが好きらしいが、さすがに映像はそこに、時代を共有したポッポ屋の同志との友情を均衡させることで、単純な家族の絆の理想形への思い入れだけで流そうとはしなかった。

多くのものを適度に抑えることで、映像に秩序を与えようとしたようにも思われる。

その秩序に無理はないが、しかし、それにしても綺麗過ぎる。

皆、それぞれが一幅の絵画として、そこに自己完結性を持ってしまっているかのようなのだ。

そして、それぞれが純化の機能を果たし、何か束になって、一番美しきものに昇華されていくようでもあった。

その流れに、天の邪鬼な私には最後まで馴染めなかったのだ。


鉄道員(ぽっぽや)号・ブログより
雪の北海道があって、SLから続く、まもなく廃線と化す単線がある。

そこに愚直なまでの男がいて、生涯に二度ない恋をして、生涯に二人といない友情を育て上げて、早すぎる老境に入っていく。

愛児の早逝という無念の過去と、愛妻の病死が男をより寡黙にさせて、陽春描写をカットさせた映像のうちに、その孤独なる仕事師の像を印象的に焼きつけていくのだ。

私はこの物語の主人公のような男の生き方に、別に違和感を持っている訳ではない。

しかしその主人公を高倉健が演じると、なぜか、ストイックな求道者のようなキャラクターに見えてしまうのだ。

自らが定めた規範の頑固なキーパーの役を演らせたら、この人の右に出る者はいないという嵌り方で、いつでも高倉健が演じ切ってしまうから、物語の様々なる美しき借景を従えて、この種の人格像が、寡黙の王道を抜け切っていくときの空気の仕切り方が、正直、肌に合わないのである。

そんな奇跡的な俳優が、恐らく、初めて挑んだ老境の役回りを見事に演じてしまうことで、物語の主人公共々、俳優としても充分に自己完結した世界がそこに展開された。

しかしその映像の流れ方に、「精神貴族」としての固執の仕方にしか、失ったものを回復させたい人々の思いが拾えない窮屈さがある、と見てしまうのは私だけだろうか。

そして何よりも、私に最も不快感を残したのは、ポッポ屋の娘を演じた広末涼子。

聖性を衒(てら)ったようなその厭味な演技のうちに、作り手がたっぷりと仮託しようとしたかのようなメッセージ、即ち、「今の若い子には、援助交際とは無縁な、こんな純粋な次世代のモデルがいるんだ」という含みが感じられて、正直、感情移入が拒まれてしまった。

そのとき、私の内側を突き上げてきた一つのイメージ。

それは、「この映画は、まさしく『聖者の大行進』に相応しい」というものだった。

(2000年2月)

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