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2010年9月26日日曜日

黒いオルフェ('59)        マルセル・カミュ


<「死への誘い」という劇薬を内包する奇跡の愛の悲劇的な破綻>



1  「カーニバルの朝」 ―― その弾き語りの誘(いざな)い



この映画で描かれた、リオ郊外のスラムに生きる黒人青年のオルフェとユリディスの奇跡の愛と、その悲劇の様態は、冒頭でのオルフェの弾き語りの中で歌われていた。

その曲名は、「カーニバルの朝」。

悲しみは果てなく、幸せは朝の露
幸せは陽とともに生まれ
静かに輝き落ちる
恋の涙のように
貧しい者はカーニバルに浮かれて酔うのが幸せ
貧しい者は働き続け
束の間の夢に生きる
夢の中に描くは
誇り高き王子の姿
ささやかな喜びよ
悲しみは果てなく、幸せは朝の露
幸せは鳥の羽
吹けば消し飛ぶ
そよ風にそっと吹かれても
落ちて消えていく
落ちて消えていく
果てしない悲しみを

一度聴いたら忘れられない、叙情性豊かなメロディに乗って展開する物語は、カーニバル前日の熱気と昂揚感の渦中で開かれていった。



2  「死への誘い」という劇薬を内包する奇跡の愛の悲劇的な破綻



本稿では、総論的に言及していこう。

この映画の成功は、ギリシア悲劇という自己完結的な神話的宇宙と、そこに住む人々の熱気がギラギラと照り返す太陽の下で弾ける、カーニバルという自己完結的な祭事が融合することで、一定の芸術表現の高みにまで映像を構築したことにある。

この両者を繋ぐキーワードは、〈生〉と〈性〉の賛美と、表裏一体の関係にある「死への誘い」(死の受容)であると言っていい。

つまり、こういうことだ。

自然現象の寓意、神々の物語や英雄伝説に象徴される、様々に理不尽で不条理なる「死への誘い」を集合させた物語であるギリシア悲劇と、カーニバルが包含する「原始性」、「眩暈感」、「非日常」、「脱秩序」という要素が、太陽に灼かれる場所の中枢で融合することで、現代の愛の神話を蘇らせるに至ったのである。

コルコバードのキリスト像とリオデジャネイロ(ウキ)
「太陽に灼かれる場所」とは、南半球の大都市リオデジャネイロ。

そこに住む人々が身も心も存分に炸裂させる、「リオのカーニバル」の賑わいの中で、虐げられてきた黒人同士の一つの愛が奇跡的に分娩された。

オルフェとユリディスである。

婚約中のオルフェが、「死神」の仮面を被った男に追われて逃げて来たユリディスを庇い、殆ど一目惚れの如き奇跡の愛が生まれるに至った。


ユリディスを追う男は、紛れもなく「死神」(以下、「死神」)。

既にユリディスは、この「死神」からの逃走の恐怖によってすっかり疲弊し、否が応にも、彼女の自我のうちに「死への誘い」のイメージが具象化しつつあった。

婚約者の激しい嫉妬を買ってまでも、ユリディスの命を助けようとするオルフェは、その努力虚しく彼女を天宮へと昇天させてしまったのである。

ユリディスの亡骸を抱くオルフェ
「死神」に命を吸い取られたユリディスの亡骸を抱き上げて、オルフェは太陽に最も近い場所に連れて行こうとするが、そこで足を滑らせて崖から滑落する悲劇によって物語は閉じていった。

オルフェを慕うリオの少年たちは、見よう見真似で覚えた彼の作った音楽を、彼のギターで弾き、歌い始めたのである。

その少年たちの拙い調べに乗って、眩い太陽の下、ユリディスの生まれ変わりのような少女が一人、軽快に踊り繋いでいた。

悲劇によって閉じる映像は、新しい時代を担う少年少女たちの生命の力動感をフィルムに刻むことで、そこに小さくも、未来に思いを託す予定調和のエピソードをメッセージ化したのである。

元々、アフリカ系の黒人奴隷が持ち込んだ「全身プロレタリアート」を象徴し、カーニバルで炸裂する激しいサンバのリズムと、若手ミュージシャンたちによって創始されたばかりの、ナイロン弦ギターによるボサノバのデリケートなサウンドが弾ける、世界で有数の大カーニバルのうちに、そこに住む人々の熱狂を束ねて、今年もまた怒涛のように流れ込んでいったのだ。

映像総体を貫流する、この乱痴気騒ぎの如き熱気が集合する「非日常」で、「脱秩序」の炸裂は、その内側で自給する「眩暈感」を沸騰させながらも、人々の熱狂を充分に吸収し、浄化した後で自己完結することで、彼らが呼吸を繋ぐ本来の日常性へと連結させていくのである。

カーニバルの時空を揺るがす音楽と踊りと、眩く照り返す太陽の丘、そして、そこに生まれた奇跡の愛と悲劇的な破綻。

この絶妙なアンサンブルが、色彩豊かな造形美術の芸術表現にまで高められて、南半球で作られた一つの映像が世界映画史に印象深く刻まれたのである。

そういう、極めて情感濃度の深い映画だった。



3  「祭と死」 ―― 一大カーニバルの「魔境への誘(いざな)い」という危うさ


ここに、リオのカーニバルについての簡潔な記事がある。


「南米の真夏を彩るブラジル・リオデジャネイロのカーニバルが24日、始まった。28日までの期間中、国内外から70万人の観光客が押し寄せる見込みで、街全体がサンバの熱気に包まれる。24日は市民から選ばれた『カーニバルの王様』に、リオ市長の権限を象徴する大きな鍵が渡される式典で開幕。市中心部のメーン会場で、子どもたちのサンバチームがパレードを繰り広げた。リオ市内では連日のように最高気温が35度を超す中、2週間ほど前から大小の街頭パレードが各地で行われてきた。26、27日夜にはメーン会場で14の有名チームが徹夜でパレード。音楽や山車、衣装の華麗さを競い、祭は最高潮に達する」(nikkansports.com 2006/2/25)

サンボードロモでの、サンバ学校のパレード(ウキ)
この記事を読むまでもなく、この祭が最大級のカーニバルである事実は周知のこと。

本作でも描かれていたように、一説には、このカーニバルの期間中に100人程度の死者が出ているとも言われている。

ここでは、本稿の批評のキーワードである、〈生〉、〈性〉の賛美と表裏一体の関係にある「死への誘い」という劇薬を内包する「祭」の本質について言及したい。

従って、「祭と死」の関係がテーマになる。

「ハレ」と「ケ」。

それは一言で要約すれば、「非日常」(「ハレ」)と「日常」(「ケ」)を表現する概念であるが、詳細は拙稿からの引用で本稿をまとめていきたい。

以下、「魔境への誘(いざな)い」(「心の風景」所収)からの部分引用である。

日常性の向うに、それを脅かすパワーを内包する、幾つかの尖った非日常的な世界がある。

上手に駆使することで日常性を潤わせ、その日常性に区切りを付け、自我に自己完結感を届けさせてくれるような微毒な快楽がそこに含まれているので、それは人々を深々と捕捉してしまうのである。

それらは「性」であり、「祭」であり、「薬」であり、「暴力」である。

全てが死のイメージに繋がっていて、人々をいつでもその魔境に誘(いざな)って止まないのだ。

リオのカーニバル・ブログより 
そして「祭」こそ、近代の最も合法的で、管理され、解毒処理された快楽装置である。

そこでは、殆ど「死」のイメージが脱色され、様々に加工され、商品価値を持つ何かとして市場に供されている。

近代以前でも村落内の小行事は多かったが、しかし季節の節目となる大行事の様相は、小行事のそれとは比べものにならないほど、ハレに向かうエネルギーに満ちていた文化を、殆どそれ以外にない表現力によって充分に立ち上げていた。

それに比べると、現代の「祭」の多くは、人々が待ちに待ったハレの行事の解放系というよりも、著しく日常性と接続していて、そこにこそ、ある種の魔境性を脱色した現代の祭事性の本質が潜んでいるとも言える。

人類史上の際立った快楽装置は、そこに含まれる「死」のイメージ=非生産的で、脱秩序的なエネルギーへの警戒から、当然の如く、権力サイドの神経を磨耗させ、権力によるシビアな支配と管理を必然化させている。

阿片、組織暴力、組織売春等は言うに及ばず、どれほど防衛しても死者を出してしまうリオのカーニバルは言わずもがな、スペインの「牛追い祭り」として著名なサン・フェルミン祭は、死傷者が現出してしまう夏祭りであるが故に、海外からの観光客を多く集めるとも言えるのだが、今や環境団体による反対運動も活発化してきている現状だ。

無論、そこに当局の万全の準備が、最低限の防波堤の機能を果たしているのは言うまでもない。

大地の神に捧げるために血を流すことを前提にする、疑似喧嘩の祭りとして有名なボリビアの「ティンク」、更に、他人に危害を加えないものの、自分の体に針や矢を貫通させた状態で練り歩く、マレーシアの「タイプーサム」のような奇祭等の伝統的な祭事が、もし統制の埒外に置かれたらどうなるか。

答えるまでもないだろう。

サンボドロモで弾ける、リオのカーニバルのような典型的な祭事でなくても、我が国の夏祭りの全ては警察当局の管理下に置かれ、道路規制を踏まえて予定調和のラインに流れていく。

管理に隙が出ると、暴発の恐れがないとは言えないからだ。

三社祭・本社神輿各町渡御の様子(ウィキ)

例えば、近年の浅草三社祭では、神輿の上に男たちが乗って過剰なパフォーマンスをする行為を禁じているが、これは、東京都の迷惑防止条例の中の「粗暴行為禁止条項」に相当するからである。

因みに、青森ねぶた祭りの際の「カラス跳人(はねと)」の暴走を取り締まる当局の把握もまた、同様の文脈である。

また、毎年話題になる、黒石寺(岩手県)の蘇民祭(厳冬の中の祭り)が警察の厳しい管理下に置かれるのは、全裸を許容する祭事の奇習性が、反社会的なパフォーマンスへの含みとして当局に把握されるからである。


既にこれらの行動様態に対する認識のうちに、一切の祭事の脱秩序的性格が示されていると言えるだろう。

言わずもがなのことだが、現代の祭りは、必ずしも、「神への感謝」という文脈に集約されるものにはなっていない。

黒石寺蘇民祭HPより
寧ろ、非日常性への架橋という祭りの持つ本質的な性格が、近代社会に集中的に現出した過剰消費の経済システムと強力にリンクすることで、非日常的なレジャー様態の多くが現代的な祭事性を形成していると考えることもできる。

勿論、そこでは充分に魔境への接続が絶たれている。

祭りの拡散こそ、現代社会の欠落した統合性の現れであるとも言えるだろう。

穿(うが)って言えば、共同体を脱出した都市消費者は、それぞれの日常性の中に、その日常性を暫時、脱出するための非日常的な時間を人工的に繋いでいって、その往還によってもたらせた快楽をたっぷりと消費するという構図が、そこにある。

一人一人が、各自の祭りを愉しむのである。

この祭りの中に、それぞれの自己完結を求めるのである。

エンドレスな日常を、「私(私たち)の祭り」の中で区切りをつけるというこの試みが、果たしていつでも成就しているかどうかは疑問だが、自己完結感を求めた現代人の方法論の多くが、身近なるレジャー消費の中でこそ、様々に実現している現実を無視する訳にはいかないだろう。

―― 以上の言及で明らかなように、多くの死者を出すリオのカーニバルは、本質的に「死への誘い」という劇薬を内包する「祭」でもあった。

そのリオのカーニバルを格好の舞台にした本作は、前述したように、様々に理不尽で不条理なる、「死への誘い」を集合させた物語であるギリシア悲劇と、カーニバルが包含する「原始性」、「眩暈感」、「非日常」、「脱秩序」という要素が、太陽に灼かれる場所の中枢で融合することで、現代の愛の神話を蘇らせるに至ったのである。

本作の成功は、人々の熱気が集合する「非日常」(「ハレ」)で、「脱秩序」の炸裂は、その内側で自給する「眩暈感」を沸騰させながらも、人々の熱狂を充分に吸収し、浄化(「ケ」)した後で自己完結することで、彼らが呼吸を繋ぐ本来の日常性へと連結させていくのである。

その一大カーニバルの只中で、ギラギラと照り返す太陽の下で弾ける、カーニバルという自己完結的な祭事が融合することで、一定の芸術表現の高みにまで映像を構築したこと。

これに尽きるだろう。

(2010年9月)

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