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2009年7月2日木曜日

歩いても 歩いても(‘07)   是枝裕和


<『非在の存在性』の支配力、その『共存性濃度』の落差感>



序  リアリズムで抜けていく「人生論」不在の状況の寒々しさ



近年、私が観た邦画の中では、最も上出来の映像だった。

映像全体から伝わってくる空気感と臭気は、私の体性感覚の内に微細な部分をも溶融して、老夫婦の加齢臭のみならず、阿修羅の異形(いぎょう)性まで吸収するに及んで、この作品が、「日常性下に嵌め込まれた非日常の情感濃度」をも映し出す映像であることを感受せざるを得なかったのである。

昨今の邦画界に氾濫する「情感係」ムービーと決定的な所で切れているという点においても、本作は充分に評価できる一篇になっていたが、敢えて言わせてもらえば、「いつもこうなんだよな。ちょっと間に合わないんだ」などという、映像のテーマ性を特段に強調して押し付けるような決め台詞を用意したり、最後のナレーションを挿入する「余分さ」がなお張り付いていて、削って、削って、削り抜いた末に、救いようのない人間の愚かさを、そのまま残酷なまでに映し出してくれた成瀬映画を最も好む私としては、その「余分さ」の分だけ失望させられてしまったのも事実。

それにしても、「ふと口にした約束は果たされず、小さな胸騒ぎは見過ごされる。人生は、いつもちょっとだけ間に合わないことに満ちているのだ」という、言わずもがなの人生の現実を訳知り顔で気取って見せる、本作の公式HPの薄気味悪さには閉口した。

このフレーズを多くのブロガーが多用しているのを目の当たりにして、正直、リアリズムで抜けていく「人生論」不在の状況の寒々しさを痛感させられた思いであった。



1   「非在の存在性」の支配力、その「共存性濃度」の落差感 



―― 批評に入っていく。

この映画の重要なテーマが、上述したように、「黒姫山」の話と、そこに脈絡する「いつもちょっとだけ間に合わない」という次男の言葉に象徴されるように、一年に1、2回しか会うことのない両親の「老い」の実感(横山家の浴槽で、バリアフリーの手すりを見る描写が印象的)を感じつつも、そこに満足に寄り添えない心情にあると考えられるが、私は敢えてそんな映像から特定的にテーマを切り取って、「非在の存在性」という極めて人間学的な問題提起性を重視しているので、その一点に焦点を絞って言及したい。

敢えて難しい表現を使えば、「『非在の存在性』の支配力、その『共存性濃度』の落差感」という風に把握できるだろうか。

公式HPから、簡単にストーリーを紹介する。

「ある夏の終わり。横山良多(りょうた・注)は妻・ゆかりと息子・あつしを連れて実家を訪れた。開業医だった父(横山恭平・注)と昔からそりの合わない良多は現在失業中ということもあり、気の重い帰郷だ。姉・ちなみの一家も来て、楽しく語らいながら、母は料理の準備に余念がない。その一方で、相変わらず家長としての威厳にこだわる父。今日は、15年前に不慮の事故で亡くなった長男(純平・注)の命日なのだ…」

父の家に何とか引っ越ししたいと思っている長女、ちなみと信夫(営業マン)の夫婦は、明朗でドライなキャラクターとして描かれている。

彼らは映像の前半において、家族一同が集まった賑やかさを演出する潤滑油的役割を果たしていくが、映像のテーマ性に濃厚に脈絡する役割を担うことなく、その日の内に退散する。

左から次男家族、とし子、後方は恭平
テーマ性の中で重要なのは、どこまでも老夫婦(恭平、とし子)と、次男家族(良多、ゆかり、あつし)である。

彼らは共に、「非在の存在性」という人間学的なテーマ性を、何某かの重量感の誤差の中で、どこまでも固有な様態を内化させながら、意識の表層辺りで騒ぐ微妙な共存ラインの内に、そこだけはなお失えないもののように抱えているのである。



2  次男家族の「非在の存在性」



―― まず、次男家族の問題。

子連れで再婚したゆかりは、かつてピアノ調律師の夫がいて、その夫と死に別れた後に、次男の良多と再婚するに至るという、それほど稀有なケースとは言えない環境下にある。

一人っ子のあつしは、ピアノ調律師の父を尊敬し、その職業を自分の未来の夢とするような繊細な少年である。

そんな繊細な少年が、横山家においてあるピアノを見て、その鍵盤をゆっくりと、繰り返し叩くシーンがあった。

少年の心の中に亡父のイメージが深々と張り付いていて、父との思い出を消去できないで沈潜しているのだ。

当然ながら、児童期になれば死の意味、即ち、「死の普遍性」(生ある者は必ず死ぬこと)、「死の不動性」(死んだものは動かないこと)、「死の不可逆性」(死んだら生き返らないこと)を認知できているので、死の意味を理解できずに、ミシェル少年の主導する十字架集めという「モーニングワーク」(「喪の仕事」とも言う)をなぞるだけの5歳の幼女、ポーレットとは決定的に切れていると言えるだろう(「禁じられた遊び」)。

要するに、「グリーフワーク」(対象喪失による悲嘆を受容し、乗り越えていくプロセス)が自己完結できていないのである。

その少年が、母(ゆかり)との会話の中で、父の思い出を否定するシーンが印象的に描かれていた。

祖母に連れ立っての墓参の帰路での、小さなエピソードである。

「昔チョウチョ採ったね、軽井沢で。パパと一緒に。覚えてる?」
「覚えてない」
「今度、パパのお墓参りも行こうよ」
「どっちでもいい」
「どっちでもってことないでしょ」

息子の心を正確に斟酌(しんしゃく)している母は、息子の肩を優しく抱くだけで充分だった。

母に肩を抱かれても照れを感じない思春期前期の少年だったが、それでも内側に潜む感情を隠すほどの防衛的自我は育っているのだ。

良多とゆかり
義父(良多)を「良(りょう)ちゃん」と呼ぶ少年は、義父に愛着を感じていても、義父との会話が途切れてしまうとき、義父の方が逆に少年に対して、「義理の息子」を感じてしまうのである。

「学校、どう?」と良多。
「普通…」とあつし。

ここで義父は、既に言葉に詰まってしまう。それでも義父は、妻に聞き知った気になる話を、遠慮ぎみに振っていく。

「あのさ、昨日、ママから聞いたんだけどね…ウサギのこと…何で、死んじゃったのに笑ったの?」
「面白かったから」
「何が?」と良多。
「だって、怜奈(れな)ちゃんが、皆でウサギに手紙書こうって言うんだもん…」とあつし。
「いいじゃない、手紙書けば」
「誰も読まないのに?」

父親としての「意見」を押し出すことに遠慮するかのように、反応すべき適切な言葉を持てない義父が、そこにいた。

「パパ」と呼ぶべき対象を簡単に切り替えられない少年の内側に、「パパ」という名の固有名詞の、その「非在の存在性」が大きく支配していたのである。

それは、少年の母もまた同様だった。

印象深い母子の会話が、就眠前の横山家の一室に用意されていた。

「さっき、変だったね、お婆ちゃん」とあつし。

後述するが、「お婆ちゃんのエピソード」とは、事故で喪った長男の純平の「生き返り」と信じて、部屋に舞い込んだ蝶を、祖母のとし子が必死に追い駆け回る話である。

「お婆ちゃんにはそう見えたのよ」と母のゆかり。
「もう、いないのに?」
「死んじゃってもね、いなくなっちゃうわけじゃないのよ。…パパもちゃんといるのよ、あつしの中に。あつしの半分はパパで、半分はママでできてるんだから」
「じゃあ、良ちゃんは?」
「良ちゃんはね、これから入って来んのよ。ジワジワーっと」

再婚相手への愛情が結ばれてきてもなお、母のゆかりの中に、決して簡単に消してはならないと念じる、ピアノ調律師の亡夫への思いが心地良く漂流しているのである。

彼女もまた、「非在の存在性」に支配されているのだ。

寧ろ、それを捨てない思いの中で、良多との「共存」を少しずつ開き、「普通」の自然の律動によって、その濃度を深めようとしているのである。

因みに、このシーンの直後、少年の後日回想風のモノローグが繋がった。

「僕は秋の運動会でリレーの選手になりました。今日、黄色い蝶を見ました。パパと軽井沢で捕まえたのと同じやつです。僕は大きくなったら、パパと同じピアノの調律師になりたいです。それが無理なら、お医者さんになりたいです」(あつしの作文)

「お医者さんになりたいです」という思いの発火点は、横山家訪問の影響であることが容易に想像されるだろう。



3  横山家の老夫婦の心の世界、及び、「非在の存在性」



―― 次に、その横山家の老夫婦の心の世界を考えてみよう。

かつて開業医を営んでいた横山恭平は、パターナリズム(家父長主義)の申し子のような頑固者だ。この人物が、この映画で頻繁に使われる、「普通」という範疇に包含されるとはとても思えないのが正直な実感。

確かにこの国には、制度的なバックボーンを後ろ盾とした「父権主義」が横行した歴史的経緯を否めないにしても、それでも多くの男たちは、実質的な「母権性社会」の「無限抱擁」の世界に、常にどこかでぶら下がっていたという印象が強い。

いつの時代でも、虚栄を張って生きるだけの、この国の男たちのメンタリティには驚くほどの偏差など拾うべくもないのだ。

横山恭平
横山恭平も、そんな男の一人であると言っていい。

口先では威張っているくせに、自分の浮気の事実まで女房にしっかり把握され、「ブルーライト横浜」(注1)という「浮気証明のレコード」を四六時中聞かされるが、その浮気の事実が発覚したのが、次男家族が泊まりに来る長男の命日であったという、計算されたかの如く間抜けなオチまでついていた。

風呂場の浴槽の向こうで、その事実をさりげなく話す女房の腹の括り方の前で頭を抱える仕草を見ると、この男の父権的振舞いの底も浅いのだ。その意味から言えば、この人物も「普通の日本人」の範疇に含まれると言えるだろうか。

ついでに書けば、「歩いても歩いても 小舟のように 私はゆれて ゆれてあなたの胸の中 足音だけが ついて来るのよ」という歌詞を持つこの曲を、良多を背負った若き妻が夫の浮気現場を確認した後、駅前のレコード店で選定したのは、浮気癖の抜けない夫への痛烈な皮肉であるだろう。

何十年もの長きにわたって夫の浮気を知りながら、その不満をパチンコ通いなどで発散しつつも、その直接的な感情をおくびにも出さなかった妻が、よりによって狙い澄ましたかのような、最愛の長男の命日に、70歳を悠に越えた隠居身分の夫に向かって平然と言い放つとき、そこには、「偉そうなことを言っても、あなたの一挙手一投足は見透かされているのよ」という、陰々滅々たるメタメッセージが存分に含まれているに違いない。それもまた、「普通」の範疇に含まれるのだろうか。


(注1)1969年に、いしだあゆみが歌って大ヒットした曲。映画のタイトルになった言葉を含む歌詞は、以下の通り。

街の灯りがとてもきれいね
ヨコハマ ブルーライト・ヨコハマ
あなたとふたり 幸せよ
いつものように愛の言葉を
ヨコハマ ブルーライト・ヨコハマ
私にください あなたから

歩いても歩いても 小舟のように
私はゆれて ゆれてあなたの胸の中
足音だけが ついて来るのよ
ヨコハマ ブルーライト・ヨコハマ
やさしいくちづけ もう一度

(作曲 筒美京平・作詞 橋本淳)


ともあれ、この男には、長男純平の死は、一人の少年の命を助けた勇気ある行為の忌まわしき結果であり、その事実が開業医としての後継ぎを喪った辛さを忘れ難いものにしているが、まさにそれが、「あってはならない事態」による「非在の存在性」の大きさを形成しているように思えるのである。

まさにその一点において、妻とし子の内側に深々と澱んでいる、「非在の存在性」の支配力と分けていると考えられるのだ。

相当の長い年月を要するだろう、妻のグリーフワークの重量感に比較すれば、引退した開業医のグリーフワークの深刻度は、長男純平によって命を救われた少年が青年に成長している現在に至っても、その「感謝と報恩を身体化するための訪問」を強いられる「非日常のセレモ二―」の必要度において、決定的に分れると言えるだろう。

老夫婦とあつし
横山恭平にとって、明らかに、「感謝と報恩を身体化するための訪問」を強いられる青年(良雄)の顔など見る気にもなれないのだ。

だから彼の眼から見れば、誠実な振舞いを身体化する青年がどれほど「感謝と報恩の非日常のセレモ二―」を繋いでも、「あんな下らん奴のために、何でよりによってウチのが。他に代りは幾らでもいたろうに」という、差別意識丸出しの傲慢な感情しか持ち得ないのである。

「お前はもう来るな」という所が、彼の本音なのだ。

しかし、この喰えない男には、この言葉が吐き出せない。

何故か。

邪気丸出しの男のそれと比較して、もっと喰えない妻のとし子が、青年に対して、「感謝と報恩の非日常のセレモ二―」を必要としている事実を認知しているからだ。

とし子の心の中に深々と根を張っている、「非在の存在性」の大きさを象徴する描写を確認してみよう。

テレビで、海の遭難事故を伝えるニュースがあったときのこと。

「遺体は神奈川県横浜市の会社員…岩場に打ち上げられて…」

画面に釘付けになる母。

冒頭での調理のシーン
慌てて、テレビを消す長女のちなみ。

「あの子、前の晩、珍しく一人で泊まってった。あの日、玄関で靴磨いていたのよ…そしたら急に『海、行って来るって言って…』…『気を付けてって言って』…台所から…奇麗に磨かれた靴だけが並んでたのよ…その景色がね、眼に焼きついちゃって…もうちょっと早くあたしが声かけてればね…無理して助けることなかったのよ…自分の子供でもないのに」

独り言のような母のくぐもった声が、突然、封印されることのない感情を押し出していた。

部屋をよぎる子供たちの足音で、一瞬、母の声がかき消されるが、そんな物音すらも届かない、閉ざしても閉ざし切れない澱んだ心が、「現在」の時間と地続きの「過去」の情景を開いて見せていた。

次の描写は、青年が帰った後、次男の良多が母に小遣いを渡す場面。

長女の家族との同居を拒絶する母には、離婚後の次男と共に住みたいという思いがあった。

とし子と良多
そんな次男に小遣いをもらって素直に喜ぶ母に、良多は、「感謝と報恩の非日常のセレモ二―」でしかない青年の訪問を止めさせたいという率直な思いをぶつけたのである。

「良雄君、そろそろいいんじゃないの。呼ぶの止めようよ」と良多。
「何で?」と母。
「可哀そうじゃない。辛そうだしさ、俺たちに会うの」
「だから呼んでんじゃないの。10年やそこらで忘れてもらっちゃ困るのよ。あの子のせいで、純平は死んだんだから…」
「別に良雄君が…」
「一緒よ。親にしてみれば一緒。憎む相手がいないだけ、余計こっちは辛いんだから…あの子にだって、年に一度ぐらい辛い思いをしてもらったって、罰は当たんないでしょ。だから、来年も再来年も来てもらう…」
「そんなこと考えながら、毎年、呼んでたんだ。ひどいな」
「ひどくなんかない。普通ですよ、それくらい」
「何でよ、皆して、普通、普通って」
「あんただって、親になれば分るわよ」
「親ですよ、俺だって」
「本当のよ」
「何だよ、それ?」

父が散歩から帰宅して来て、それで親子の会話は終わった。

そのくぐもった声を通して、この描写が伝える母の裸形のメッセージは、言霊(ことだま)の呪力を転用したかの如き異形(いぎょう)性に満ちていて、観る者が思わず引いてしまう名状し難さだけを置き去りにしていく。

それは紛れもなく、三面六臂(さんめんろっぴ)の戦闘神、「阿修羅」の姿であった。

母が初めて見せる「阿修羅」への変容によって、それまで次男の内側に結ばれていた、そこだけはいつも以上に特段の反応を見せるかのような、命日に拾う母のネガティブなイメージラインの意味が繋がってしまったのである。

そしてもう一つは、部屋に舞い込んだ蝶を、母のとし子が必死の形相で追い駆ける描写。

そのとき母は、「純平かも分らないから」と言って、蝶を追い駆けるのだ。その蝶が純平の遺影の上に乗って、その蝶を傷つけまいとして、二男は羽を優しく掴んで外に放ったのである。

あまりに安直なこの情感係の描写を見せられて、正直、私の映像感度は萎えてしまったが、この監督はこのような描写をなお必要とする類の映像作家であると我慢する以外になかった。

ともあれ、それだけのエピソードだが、明らかにこの一連の描写によって、観る者は、母とし子ののグリーフワークが自己完結しない現実を確認するに至るのである。

一般にグリーフワークの平均期間は5年と言われているが、15年経ってもなお癒えない対象喪失の辛さが、相当の重量感を持って継続される現実を考えるとき、もはや、とし子のケースは「普通」の範疇を越えているという外にないだろう。病理ではないが、病理に近い何かであるように思えるのだ

果たして、その辺の微妙な感覚に対する正確な把握が、この作り手に内在していたか否かについて、些か疑問を持つシーンであったが、少なくとも、作り手が映像化した世界の心理的文脈は了解可能なラインであった。一切の理屈を受容しない、このような非合理な振舞いをしてしまうのが私たち人間の性(さが)であるからだ。

この夫婦の問題を要約すると ―― 「非在の存在性」の支配力の質の差異が明瞭であるということ、そして亡き長男との関係において、夫婦の「共存性濃度」もまた微妙だが、しかしグリーフワークの未完結性という由々しきテーマに限定すれば、両者は決定的な落差を示していたということである。

言わずもがなのことだが、我が子を喪った夫婦の中にあって、その重量感において均しく懊悩し、そのグリーフワークの軟着点が共通の場所に落ち着くことなどあり得ないのである。人は皆、「私のの苦悩」しか苦しめないのだ。苦悩こそ、人間の絶対的孤独を象徴する言葉であると言っていい。



4  「感謝と報恩の非日常のセレモ二―」を自己完結できない青年(良雄)の精神的拷問



家族の中に微妙な落差を持って、それぞれに「非在の存在性」の支配の様相を身体化されていたが、その原因子を作った青年(良雄)の心の辛さについても触れておこう。

彼こそ、本作の最大の受難者であると言えるからである。

観終わった後、この青年の横山家での振舞いを何度か想起して、惻隠(そくいん)の情を催さなかった人が果たしていただろうか。

彼が必死に演じ切った末に、とうとう足が痺れて自力で立ち上がることさえできなかった、「感謝と報恩の非日常のセレモ二―」のシーンを再現してみる。

「じゃあ、今年で卒業だ。大学も」と長女のちなみ。
「ハイ、お蔭さまで」と良雄。
「就職は?」とちなみ。
「ハイ、マスコミに行きたかったんですけど…どこもダメで」
「あれ、学校は?お芝居の?」と母のとし子。
「すいません、それはおととしで止めちゃって…」
「そうだったの。もったいない」ととし子。
「母さん、去年も同じこと言ってたわよ」とちなみ。
「そうだった?」ととし子。
「今、小さな広告の会社でバイトしてるんで…それでもいいかなって…」
「いいじゃない、ねぇ」と良多。

家族に相槌を打とうとするが、誰も反応しない。

「広告って言っても、スーパーのチラシとか、そういうやつですよ…」と良雄。
「試験受けたの?」とちなみ。
「いえ、そういうあれじゃなくて…とりあえず、このままバイトしてみようかなあって…」
「まあ、何にせよ、人間、元気なのが一番だから」とちなみ。
「元気くらいしか取り得がなくて。ハハハハハ」と良雄。

最後に青年は、自嘲するような薄笑いを捨てていった。

そこに、気まずいが「間」ができる。青年は、この「間」の意味が理解できていた。

だから、セレモ二―の本質に心を投げ入れていくしかなかった。

「あの、本当にあのとき、純平さんに助けてもらわれなかったら、今の僕はここにいないので、本当に申し訳ない気持ちと感謝の気持ちで一杯です。ありがとうございます。純平さんの分までしっかり生きますから」

深々と頭を下げる青年。

セレモ二―を閉じる必要があった。線香を上げるのだ。

「それじゃ、失礼します」

そう言って、青年は立ち上がろうとしたとき、足が痺れて転倒してしまった。良多が青年に肩を貸して、玄関まで送っていった。

「まだ25じゃない。頑張れば、何だってなれるから」と良多。
「人生、先が見えちゃって」と良雄。
「来年もまた、顔を見せて下さいね。約束よ。必ず、顔を見せて下さいね。待ってますから」

恐らく去年もそうだったように、今年も又、母は「約束」という名の勅令を下達したのである。

「…ハイ、それじゃ、失礼します」

少し間をおいて、青年は答えるが、必死に笑顔を崩さないでいた。「今年のセレモ二―」が終焉しないからだ。

或いは、青年は大学を卒業する今年を区切りに、「感謝と報恩の非日常のセレモ二―」を自己完結しようと思ったのかも知れない。

もしそうであるなら、それを見透かしたかのようなとし子の「約束」の強要は、他に選択肢を持ち得ない青年にとって、ひたすら「受難」を受け入れるだけの非日常の時間が継続されてしまったことを意味する。

青年の非日常の時間は、なお「自己未完結」の見えないゾーンに拉致されたままであるということだ。

「あんな下らん奴のために、何でよりによってウチのが。他に代りは幾らでもいたろうに…あんなに図体ばっかりでかくなりやがって。あんな奴は生きていたって、何の役にも立ちやしないよ」

これは青年が帰った直後の、父恭平の反応の全てである。

「精一杯頑張っているのに」と良多。

良多と恭平
彼だけが、一人で青年を庇って見せる。

失業中の自分と重なる辛さが、そこに垣間見えていた。

それ故にか、相当に踏み込んだ感情を乗せて、決定力のある言葉を捨てていく。

「医者がそんなに偉いんですか。広告だって立派な仕事じゃないですか。兄さんだって生きていたって、今頃どうなっていたか、分ったもんじゃないですからね。人間なんてさ…」

横山家の家族と、その連れ合いは、揃って沈黙するしかなかった。

考えてみればいい。

今でこそ25歳の肥満を持て余す成人になっているが、彼はこのセレモ二―を15年間も続けているのである。事故当時の年齢は、高々10歳の少年だ。まだ小学生である。恐らく成人するまで、彼は親に随伴して横山家を訪ねていたに違いない。

やがて物心ついて、遊びたい盛りに、「命の恩人の命日」に限って、「助けられたお蔭で、立派に成長した姿」を、横山家が一堂に会する場所の中枢に引き立てられるかのようにして、丸ごと見定めてもらいに行くのだ。

しかし、人間は残酷だ。

「身過ぎ世過ぎ」に関わる抜きん出た才能に恵まれなかったに違いない青年は、正坐しても立ち上がることができなくなるまで、その肥満体を、「恩人の家族」の前で晒し続ける以外の選択肢を持ち得ないのである。

しかも、この苛酷なセレモニーを、恐らく横山家の老婆が逝くまで継続する義務を負っているのだ。「神との約束」を果たさねばならないからである。

青年がいつの日か所帯を持ったら、その奥さんの人間評価が下される「前線」にあって、青年は、その「幸福ぶり」を過剰にアナウンスすることすら許されないであろう。

「自分一人の幸福の占有」を語り過ぎる自由が与えられず、ひたすら、「純平さんに助けてもらわれなかったら、今の僕はここにいないので、本当に申し訳ない気持ちと感謝の気持ちで一杯です」などと表白し続ける以外にないのだ。

これは、形を変えた精神的拷問である。その精神的拷問を時間限定で受容する、「命日」という名の重い一日は、こうしてこの日も過ぎていった。

青年に限りなく同情し、母に向かって彼の解放を説得しようとした次男の心理の内に、作り手の存分な感情が乗せられていることは充分に想像できる。だからこの映画には、「残酷」を稀釈化しようとする描写が随所に垣間見られたのである。

その辺りが、成瀬映画と決定的に分れている所でもあった。



5  「非在の存在性」の二重構造の中で ――  良多の心の風景



―― 最後に、本作の主人公である、次男の良多の内面に踏み入れてみる。

彼の場合、「非在の存在性」の問題は二重の構造になっている。

一つは文字通り、横山家の長男、純平の「非在の存在性」。そしてもう一つは、連れ子の再婚者ゆかりと、その一人息子であるあつしの心の中に生きる、ピアノ調律師であった亡夫、亡父の「非在の存在性」の問題である。

前者に関しては、作文のシーンが印象深い。

長女のちなみが、弟の良多の小学校時代の作文を偶然発見して、それを読んでいた。

「『僕は大きくなったら、お父さんと同じお医者さんになります。お兄ちゃんが外科で、僕は内科です』だって、こうこと考えたなんて、知ってた?」とちなみ。
「いいえ、初めて」とゆかり。
「えー、昔っから画家になりたかったのだとばっかし思ってた。『お父さんはいつも白衣を着ています。患者さんから電話があると夜でも鞄を持って…』」

そこにスイカを持って入って来た良多が、奪うように作文を取り上げた。あつしは、義父の入室を視認していた。

「勝手に読むなよ」
「いいじゃない、何恥ずかしがってんの」
「いつまでも取っておかなくていいんだよ、こんなもの」

その作文をくしゃくしゃに丸めて、良多はドアをバタンと閉めて出ていった。

「ああいうとこ、ほんと、お父さんにそっくり」とちなみ。
「生真面目なんですよね」とゆかり。
「融通が利かないのよ、お兄さんと違って」
「せめてね、どっちかがここを継いでいてくれれば、いろいろ違ったんだろうけど」と言ったのは、母のとし子。

蛇足的に書けば、こんな描写もあった。

近所のお婆さんが、救急車に乗って病院へ運ばれていくシーンだが、パジャマ姿で表に出て来た良多は、それを微動だにせず凝視していた。

恐らく幼少時より、優秀で勇敢であったに違いない兄と比較され続けてきた感情が、医師志望の兄の感情ラインに添うように児童期を駆け抜けてきた思い出と、逸脱・矛盾することがない程度において、これもまた「普通」の範疇の内に幾分屈折していた次男にとって、その兄の「非在の存在性」という固有だが、しばしばネガティブなテーマに、命日の度に向き合わさせられる心地悪い気分の中で小さく噴き上がったに違いない。

しかし彼の中の「非在の存在性」という問題は、グリーフワークをとうの昔に自己完結した文脈で把握される類の何かであって、当然ながら、そこに病理性の欠片は微塵もない。作文の反応が些か過剰であったのは、彼本来の照れ屋で、内面的な性格と無縁なものでないだろう。

それを検証するシーンが、ラストシーン近くに用意されていた。彼が自らの手で破ってしまった作文を、人知れず、修復するシーンがそれである。彼が「絵画修復士」であったことが想起される印象的な描写であった。

要するに、彼が兄の命日の日に、「非在の存在性」という問題を突きつけられてしまうのは、父母、とりわけ、グリーフワークを完全に自己完結できていない母の振舞いに接することによって、兄との関係において、母との「共存性の濃度」の落差を否応なく感受してしまうからであると思われる。

その突出したケースこそ、恐らく、青年(良雄)の訪問の際における空気感覚の落差であったと言えるだろう。

必死に「感謝と報恩の非日常のセレモ二―」を乗り越えようと努める青年が、長時間の正坐によって立ち上がれなくなった醜態を晒したとき、彼を一人でサポートしたのが良多であった。

自分の妻も含めて笑いのネタにする横山家の空気感に、良多のみは不謹慎で、不浄な臭気を感じ取ってしまったのだ。彼はそこで「笑うな!」と怒鳴り上げるが、その直後の言葉によって、完全に部屋の空気感を一掃してしまったのである。

その言葉を、もう一度書く。

「兄さんだって生きていたって、今頃どうなっていたか、分ったもんじゃないですからね。人間なんてさ…」

この言葉の持つ重量感は、空気を制覇するほどに決定的だった。人間の真実を語っているからである。

青少年期にどれほど優秀であったとしても、大人になったらうだつの上がらない、せいぜい人並みで、ごく「普通」の平凡な人生を送るケースの方が寧ろ多い位であり、或いは、とんでもない魔境に搦(から)め捕られて、後半生を台無しにする危険性もないとは言えないからである。

真実を語る者は、少なくとも、それを語らせるに充分な経験的学習を経てきているだろう。

「絵画修復士」としての仕事を得るのに、良多がいかに苦労しているかについて、映像はきちんと拾い上げていた。恐らく彼は、自らの人生の操作スキルの不器用さを認知し、それでも変えられない自分のサイズに見合った生き方を迷走しつつも、これまで彼なりの手立てで、必死に人生を転がしてきたに違いない。

そんな彼が感受する横山家の空気感の中枢に、「非在の存在性」の大きさを最も体現する母がいるのだ。

この母と、年に一回必ず顔を合わせる兄の命日の日に、たっぷりと「非在の存在性」が支配する空気を嗅ぐことになる澱みを感じ取るとき、彼の率直な思いは「年に一回来れば沢山だよ」という、帰りのバスの中の言葉で表現された本音に結ばれるのだろう。

それでも彼の母は、次男である自分との共生を望んでいた。それを端的に表現した描写があった。

墓参りの帰りの坂での会話である。

「母さんはどうしたいの?」
「信夫さん(注・長女の夫)も悪い人じゃないけど、今更、他人と住むのはねえ。子供たちぎゃあぎゃあうるさいし」
「嫌なんじゃないか、やっぱり」
「だって、そうなったら、あんた来にくいでしょう?」
「俺?俺は無理だってば」
「お父さん死んだらでいいからさ」
「死んだらってね、俺にお兄さんの代わりはできないからね」
「分ってるわよ、そんなこと」
「だったらさ」
「あんたんとこ、どうすんの、子供」
「なんだよ、急に」
「よく考えなさいよ。作っちゃったら別れにくくなるんだから」
「何言ってんだよ、もうそんな…普通はさ、早く孫の顔見たいとか、そう言うもんじゃないの」
「だってお宅、普通じゃないんだもん」
「今どき珍しくないの、こういうのは」

悪意に満ちていない率直さを認めつつも、相当に明け透けで、母の人間的な冷たさの一面を伝える会話だが、そこに道徳的評価を加えなければ、遠慮なしの親子の会話とは、大抵こんな感じで流れていくのだろう。

父との折り合いが悪い良多にとって、母とだけは、単刀直入の非武装な関係ラインの形成が健在だった。しかしその関係性が直接的であるが故に、繊細な次男にとって、触れられたくない話題がダイレクトに侵入してくる事態は決して本意ではないのである。

従って、自分との共生を求める母の感情に合わせることができないのは、グリーフワークを完全に自己完結できていない母から、兄の思い出や父への不満を含む、様々な後悔や愚痴の数々を聞かされることが予想されるからであった。

詰まる所、「俺にお兄さんの代わりはできないからね」という言葉こそ、母の愚痴の攻勢に対する次男の、唯一の武装のラインであったということだ。彼はこのラインだけは守りたいのである。

「非在の存在性」の落差感が強く印象づけられる描写を繋いだ本作の、母子の関係性の裸形の様態がそこにもあった。



6  「共存濃度」の微妙な温度差を見せる関係性



次のテーマ。

自らが所帯を持った対象人格との、その「共存濃度」の微妙な温度差を見せる関係性の問題である。それは良多の中の、「非在の存在性」の二重の構造性という把握に収斂される問題でもあった。しかしそれは、あまりにシンプルな問題だった。

子連れ再婚のゆかりと、その一粒種であるあつしとの関係性の中にも、「非在の存在性」という問題が深々と潜入していたという現実は先述した通りである。

しかしこの関係性については、内的時間の溶融度の問題以外ではなかった。

要するに、それは未だ妻子のグリーフワークが自己完結していないレベルの問題であって、この次元の問題なら時間が解決してくれるという、ポジティブなイメージを充分に示唆するであろうことを印象づける何かであった。

具体的には、「良ちゃんはね、これから入って来んのよ。ジワジワーっと」というゆかりの言葉に収斂されるように、前述した母子の会話によって想像し得るであろう。それだけの問題でしかないということだ。

ラストシーンの意味は、その一点によってのみ許容し得ると言える。

妻ゆかりとの間に女の子を儲けた良多が、家族4人で、ワンボックスカーに乗って、父母と兄が眠る霊園に墓参にやって来た。

右が長女ちなみ
その描写によって、本作の中枢のストーリーラインが終焉した後に、良多が運転免許を取ったであろう事実を窺わせていたが、このラストシーンが意味を持つのは、母子のグリーフワークが既に自己完結している事実を物語るもの以外ではないであろう。

だから良多一家の問題は、以上で簡便に説明できる何かでしかなかったということだ。



7  屋上屋を架すナレーションの付加



―― 本稿の最後に、映像表現の評価に関わる問題について、私が気になる点を簡単に触れておきたい。

「あ、思い出した。昨日言ってた相撲取り。黒姫山だ。いつもこうなんだよな。ちょっと間に合わないんだ」

因みに、この良多の言葉は、兄の命日の宿泊訪問を終えた帰りのバスの中での、本作の中枢的テーマを象徴する決め台詞。

この言葉の意味は、冒頭にも若干言及したように、「両親の老いを感受しつつも、その老いの速度と、独立した幸福家族を持つ自分の人生の速度を、そこにいつも見えない隔壁の存在が支障になるかの如く、自然理に寄り添えない心情」を分りやすく集約したものだろうが、しかしそこに包含するテーマ性の価値づけを敢えて強調する必要があったのだろうか。

作り手は、最後に、丁寧にもナレーションを挿入してしまうのだ。

以下の通り。

「黒姫山の話はそれっきりになった。それから3年経って、父が亡くなった。父とは、結局、サッカーには行かなかった。死ぬまで喧嘩ばかりしていた母も、父の後を追うように亡くなった。結局、車には一度も乗せてやれなかった」

両親の墓参りを終えた家族は、父が運転するワンボックスカーに乗って帰っていくシーンを加えて、映像を閉じていった。

然るに、この情感感度の濃いナレーションは不要であったと思われる。

なぜなら、「日常性下に嵌め込まれた非日常の情感濃度」と、「『共生』によって修復し得る余地を残しながらも、常に思いだけが先行する類の、老親との間に潜む小さな情感の断層」等について、観る者に了解可能な程度でフィルムに刻んだと思われる本作にとって、ナレーションの付加は屋上屋(おくじょうおく)を架すものでしかないからだ。父母の遺影を、小さなカットで挿入するだけで足りたのではないか。

更に言えば、冒頭にも触れたように、公式HPのキャッチコピーにもなって多くのブロガーたちに多用される、「いつもこうなんだよな。ちょっと間に合わないんだ」などという気障(きざ)な台詞は全く不要である。

「あ、思い出した。昨日言ってた相撲取り。黒姫山だ」という言葉を添えて、父母が見送りする後方を振り返る心理描写だけで充分ではなかったか。

もっとも私が敬愛して止まない成瀬巳喜男なら、ラストシーンの映像も削り取っていたに違いないだろうが、3人家族に横臥(おうが)していた「非在の存在性」の落差感を、そこに新たな家族を加えることで決定的に縮め、「共同幻想」の疑似性を稀釈化した証明として、家族の真正のパワーを印象づけるカットの内に、「共存性濃度」の程好い均衡感を表現し得るという小さくも、決定力のあるラストシーンの挿入は不可避であったと思えるからである。

加えて、そのシーンの挿入によって、「世代の継承」というメッセージを結べる意味は、主人公の情感世界に自らの思いを仮託したように見える作り手にとって、決して末梢的な事柄ではなかったはずである。そう思えてならないのだ。



【余稿】  〈自分のサイズを弁えた映像作りの大切さ〉



極めて挑発的で、独断的な私見を敢えて書く。

是枝裕和監督
これだけの映像を創作できる技量を持ちながら、なぜこの作り手は、それまであまりに観るに堪えない凡作、駄作を作り続けてきてしまったのか。

ワンダフルライフ」、「誰も知らない」、「花よりもなほ」という著名な作品に限って言えば、その映像的完成度において、とうてい秀逸なデビュー作に及ぶべき何ものもなかった。

死後の世界で戯れる愚昧さを晒すことで、完全に情感系映像の時流に合わせる駄作を放ったらと思ったら、社会派の作品を作る覚悟(逃避拒絶)も胆力(恐怖支配力)も感じられず、時代を鋭利に切り取る状況感覚も大甘な凡作を繋いでいって、海外での過剰な評価とは無縁に、一陣の突風によってあっさりと非武装の被膜が剥がされてしまうような、中途半端な理念系の映像作品を世に放ってきたというのが、正直な私の実感。

この作り手は、もうデビュー作(「幻の光」)を乗り越えられないのではないかと殆ど突き放していた私の視界に、偶然、本作が捉えられ、それを強制終了覚悟で観ることにした。

残り時間をカウントして呼吸を繋ぐ私には、内側を撃ち抜く映像との遭遇は、「千三つ商品」との幸運な出会いに賭ける、ある種の賭博性の感覚にも似ている。

炊事と食卓のシーンの多用によって、かつてはごく普通であった日常性を象徴する物語ラインの中枢に、「非在の存在性」という最も人間的なテーマを据えて、人の心の問題の変わりようのなさを見事に描出したと、殆ど主観的に把握する本篇と出会って、同様に、「グリーフワークの困難さ」という「最も現代的な問題」(注2)をテーマにした処女作にも通じる秀逸さを感じ取ったとき、結局、「分」を逸脱しない、自分のサイズを弁(わきま)えた映像作りの大切さを客観的に再認識させられる思いであった。


(注2)近代社会を進化させていくほど、「死」が隠される流れが形成され、「人間の命」が加速的に高価になっていくという意味で、「グリーフワークの困難さ」もまた切実になっていくだろう。


【本稿では、本作の公式HPでは不分明な登場人物の正確な名称を、原作(「歩いても 歩いても」是枝裕和作 幻冬舎刊)から確認した】

(2009年7月)

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