このブログを検索

マイ ブログリスト

  •  「包丁侍」 ―― その真骨頂の凄み - [image: イメージ 1] 「硬直した階級社会」と決めつけられる江戸時代にあって、能力主義が導入され、身分の低い幕臣でも有能であれば、昇進することを可能にする画期的な制度が導入されていた。 江戸幕府・8代将軍吉宗が導入した足高(たしだか)制が、それである。 1723 年(享保8年)のことである。 ...
    2 日前
  • アジサイはアートである 「我が町・清瀬」2017初夏 - アジサイを接写していると、色相のグラデーションの鮮やかに驚かされること頻りである。 だから、毎年、初夏になったら「我が町・清瀬」で写真を撮る。 この一期一会の思いでアジサイを観賞していると、アジサイが一つのアートであることを実感する。 アジサイはアートなのだ。 時々刻々に変色していくアジサイは...
    1 か月前

2008年10月25日土曜日

男はつらいよ 寅次郎恋歌('71)      山田洋次


 <リンドウの花――遠きにありて眺め入る心地良さ>



 序  「寅さん映画」の真髄



 「寅さん」シリーズ全48作の中で、そのコメディのパワーと映像的完成度のレベルから「最高傑作」を選ぶとしたら、私は躊躇なく一作目の「男はつらいよ」か、5作目の「男はつらいよ 望郷篇」を選ぶであろう。

 この二作は、全シリーズの中で群を抜く秀逸さを示していて、作り手の強い思いと、その思いを受けた役者たちの熱気がストレートに伝わるほどの会心作と言って良かった。

 それは、観客の心を鷲掴みにして止まない滑稽感と哀感に充ちていて、その圧倒的な表現力は、他のコメディの追随を許さない力量を存分に感じさせた作品だった。

 しかし、「私の中の最高傑作」を選べと言われたら、私は以上の二作への愛着を捨てて、シリーズ8作目に当る「男はつらいよ 寅次郎恋歌」という作品に、自分の思いが振れてしまうのを止められないのである。それだけ本作は、私にとって印象的な作品であったし、そこにこそ「寅さん映画」の真髄があると考えたのである。


その理由は後述するとして、とりあえず本作のストーリーラインを追っていく。

 

 1  定番的な「別れの儀式」が捨てられて



 旅芸人の一座と交わって、歓談している内に、寅さんは故郷柴又が恋しくなって、帰郷する。しかし例によって、変なところでシャイで、遠慮深い寅さんは中々団子屋の暖簾を潜れないでいた。

 そして例によって、団子屋の連中もそれに気づき、いつものように歓迎の儀式を演出しようと図るのだ。今回の場合、この歓迎の儀式には伏線があった。近所で寅さんの悪口を言われていることに対して、身内の者が憤慨していたのである。
 
 「お兄ちゃんは何も悪いことしていないのに・・・」

このさくらの思いが、団子屋の結束力を高めたのである。


 葛飾柴又 帝釈天参道沿いの商店街(ウィキ)
ところが団子屋の連中ときたら、からっきし演技力がない真面目な連中なので、そのオーバーな儀式が寅さんにバレてしまうのである。

そういうシャープな嗅覚だけは、この男に抜きん出て備わっているから厄介なのだ。この日の帰郷もまた、そうだった。
 
 「何の真似だい?」と寅。
 「何の真似って、おめぇを歓迎してるんじゃねぇか」とおいちゃん。
 「どうして俺を歓迎してるんだ」
 「あれ?歓迎しちゃいけねぇのかい?」
 「あんまり、良かねぇな」
 「どうしてよ、歓迎された方がいいじゃないか」とおばちゃん。
 「歓迎されてぇ気持ちはあるよ。だけどおいちゃん、俺はそんなに歓迎される人物かよ」
 「お兄ちゃん、何もそんな言い方しなくたって・・・」と妹のさくら。
 「さくら、おめぇ企んだな。あんちゃん久し振りに帰って来たら、からかおうと思ったろ?」
 「誰もからかってなんかいないわよ!何ひねくれてんのよ」
 
 さくらが珍しく語気を荒げても、この日の寅さんは、最愛の妹の感情のラインに合わせることをしなかった。それだけこの男には、眼の前で演じられた芝居が余りに見え透いたものに映ったのだろう。

 その挙句、いつものように身内の事情を知らない厄介なる男は、これもまたしばしばそうであるように不貞腐れて、外に出てしまった。

 「あぁ、嫌だ、嫌だ。俺はもう横になるよ・・・」

 このおいちゃんの決め台詞が出たところで、一応その場の収拾が図られたのである。

 ところが、この日は違っていた。

 その夜、すっかり酩酊した寅さんが見知らぬ連中を団子屋に連れて来て、そこで二次会を始めようとした。

 しかし店の奥の茶の間には、寅さんのご乱行に腹を立てている身内がいる。空気が既に澱んでしまっていたのだ。その空気を鋭利に察知しつつも、寅さんは暴走を止められない。意地でも強行突破を図るようにも見えた。

 結局、おいちゃんと立ち回り寸前の兄を、さくらが必死に止めて、妹なりの配慮を繋ごうとした。

 さくらは兄の客人にビールを注いで、酌婦まがいの行動を辞さなかったのである。更に、妹に対して歌まで歌わせようとする傍若無人の兄の前で、本当にさくらは「かあさんの歌」を歌い出したのだ。


    母さんは 夜なべをして
   
       手袋 編んでくれた

    木枯らし吹いちゃ 冷たかろうて

    せっせと編んだだよ

    故郷の便りは届く

    囲炉裏の匂いがした  

    母さんのあかぎれ痛い 生味噌・・・・
 

 さくらは嗚咽を堪えながら歌っている。

 兄の寅は、もう何も言えなくなった。もう何も求められない。妹の涙は、兄の暴走を食い止める唯一の抵抗力なのである。しかも妹が歌った歌は、異母兄妹である二人の、微妙な血縁の因果を想起させるに充分な内容を持つ何かだった。

 寅は黙って旅に出ようとする。それは殆ど、常套的なパターンの範疇に収まるものだ。

 「お兄ちゃん、どこへ行くの?」
 「さくら、済まなかったな。おいちゃんたちに謝ってくれや」

 定番的な「別れの儀式」が、そこに捨てられた。今回は存分に余情を残しながら。
 


 2  リンドウの花、明々と灯りのついた茶の間、賑やかに食事をする家族たち



 寅さんが旅立って、暫くたったある日、さくらは博の母の危篤を知らせる電報を受け取った。


 博とさくらの夫婦は、息子の満男をおいちゃん夫婦に預けて、備中高梁(古い町並みを残す岡山県の城下町)にある実家に帰郷することになった。(画像は、あたごループ橋付近から眺めた備中高梁市中心部)

 博は若い頃、性格の合わない父親に反抗して家出していたのである。だから彼にとって、この帰郷は特別な意味を持っていたとも言えた。

 さくらという恋女房を伴って浩が実家に戻ったとき、時既に遅く、博の母は息を引き取っていた。あろうことか、まさにその葬儀の日、そこに突然寅が現われたのである。寅は柴又の実家に電話して、博の母の一件を知って、線香を上げに来たのだった。

 驚いたのは、さくらと博。


 一張羅の香具師(やし=露天商)姿で現われた兄を叱った妹は、実家の配慮で黒のモーニングに着替えて、縁者の一員として出席することになった。しかし実家に失礼な振舞いをする兄に、さくらは迷惑するばかり。お馴染みのパターンである。

 葬儀を終えた夜、父に反発する博は母を庇うあまり、兄たちと言い争いをした。博は咽びながら、母への愛を言葉に結んだ。幸いにもと言うべきか、事態を感傷に流した身内の者とひと悶着起すことなく、さくらと博は柴又に戻って行った。

 兄と岡山で別れたと信じたさくらは、博の実家に電話して、驚嘆した。寅が電話に出たのである。寅はやもめ暮らしを余儀なくされた博の父に同情して、いつの間にか居座っていたのである。

 「哀切なる柴又別離」という、落語の小噺的な「枕」の部分が映像の冒頭の描写で終って、いよいよ寅さん物語の第1章の幕が開かれていく。
 
 寅さんは、博の父との共同生活をそれなりに楽しんでいた。そんな男に、博の父は語りかけた。

 「寅次郎君、旅の暮らしは楽しいかね?」
 「ええ、そりゃぁ楽しゅうございますよ。何て言ったって、こりゃぁ止められませんね」

 明日辺り、旅に出ようと語る寅に、博の父は問いかけた。

 「で、君はこれからどこへ行くつもりかね?」
 「・・・これから寒くなるから、南の方に行くってことになるんじゃないですか。気楽なもんだよね。それに、女房子供がいねぇから、身軽でいいですよ・・・」
 

 博の父は、酒に任せて歌う寅の態度を戒めて、自分の旅の思い出について、ゆっくりと噛み締めるように語っていく。

 「そう、あれはもう10年も昔のことだがね。私は信州の安曇野というところに旅をしたんだ。バスに乗り遅れて、田舎道を一人で歩いている内に、日が暮れちまってね。暗い夜道を心細く歩いていると、ぽつんと、一軒家の農家が立っているんだ。リンドウの花が庭一杯に咲いていてね。

 開けっ放した縁側から灯りのついた茶の間で、家族が食事をしているのが見える。まだ食事に来ない子供がいるんだろう。母親が大きな声で、その子供の名前を呼ぶのが聞こえる。私はね、今でもその情景をありありと思い出すことができる。庭一面に咲いたリンドウの花。明々と灯りのついた茶の間。賑やかに食事をする家族たち。

 私はそのとき、それが、それが本当の、人間の生活ってもんじゃないかと、ふと思ったら、急に涙が出てきちゃってね。

 人間は絶対に一人じゃ生きていけない。逆らっちゃいかん。人間は人間の運命に逆らっちゃいかん。そこに早く気がつかないと、不幸な一生を送ることになる。分るね、寅次郎君」

 「へい、分ります。ようく、分ります」
 
 寅さんは、博の父の話を真剣に聞き入っていた。

 この男には、そんな素直な性分がある。だからこそ、学者である博の父はこんな男と同居し、かつ意義深い話をしたに違いない。明らかにそれは、自分の人生訓の押し売りというよりも、定着を好まない中年男への丁寧なアドバイスであった。



 3  哀感と滑稽に充ちた物語の序章が開かれて



 寅さんは翌日、帰郷を果たした。

 戻る場所は一つ。葛飾柴又である。博の父の言葉が、この男を一時的に動かしたのだ。それにしても早い帰郷であった。

 「良くお休みなので、起さないでこのまま帰ります。昨夜のご意見、身に沁みて感じ入りました。先生の有り難いお言葉を固く胸に抱いて、故郷柴又に帰り、運命に逆らわずに生きていきます。先生もどうか、御身大切に幸せになって下さいまし。車寅次郎拝」

 この置手紙は、殆ど汚い平仮名のオンパレードだったが、寅さんの気持ちの篭った別れの挨拶だったことは間違いない。

 晩秋の東京下町、葛飾柴又。


 柴又帝釈天(ウィキ)
題経(だいきょう)寺(帝釈天・日蓮宗の寺)の門前町の一角に、喫茶店を開業した美人がいる。彼女の名は六波羅貴子(ろくはらたかこ)。子持ちの未亡人である。この未亡人が団子屋に挨拶にやって来た。その美しさに見惚れるおいちゃん。
 
 「良かったな、さくら」
 「どうして?」
 「寅がいなくてよぉ。いつもならこういうとき、必ず帰って来るんだよ」

 おばちゃんもほっと胸を撫で下ろして表に出たら、そこに噂の張本人が四角い顔を現した。驚嘆する叔父夫婦のリアクションは、いつもながら滑稽である。しかしこのときばかりは、寅の態度は神妙だった。
 
 「おいちゃん、ただいま。皆、あのときは本当に済まなかった・・・」
 「ううん、いいえ・・・」とおいちゃん。言葉が出てこない。
 「さくら、元気かい?」
 「うん・・・お兄ちゃん、岡山のお父さんのところから?」
 「うん。あれから、色々反省してな。俺も考えてみりゃ、随分と運命に逆らって生きてきたものよ」
 「運命?」
 「はい。人間の運命にね・・・」
 
 神妙に人生観もどきを語り始める寅の背後に、例の美人の未亡人が立っていた。団子を買いに来たのである。それを知らない寅は、受け売りの語りを続けようとするが、おいちゃんに早く上に上るようにと勧められる。傍らに美人がいて、それに気づかない寅に、それを気づかせまいとする身内の振る舞いは、殆どシリーズ定番の風景である。

「あの、お団子・・・」と未亡人。

 この声に自然に反応して後ろを振り返ろうとする寅を、おいちゃんたちは柔和な態度を装って、二階に上げることに成功する。この日は、どうやら何も起こらないで済んだのである。ホッとする身内たちの思いの先には、当然、明日以降の不安が過(よ)ぎって止まないのだ。

 それを知ってか知らずか、寅はその晩、博の父から聞いた「リンドウの家」の他愛ないエピソードを、恰も自分の経験の如く薀蓄(うんちく)を垂れるのである。この話を振られたさくらは、兄にズバリその本質を射抜いた。
 
 「つまり、結婚したいっていうこと?」

 即答できずに、一人で照れている寅の態度が全てを語っていた。しかし、いつまでも黙っていられないのがこの男である。
 
 「いや、そんなはっきり言われちゃうとね、俺も困っちゃうんだけどさ。勿論、俺もいい年だし、大して稼ぎがある訳じゃなし。堅気のお嬢さんを嫁にもらいてぇなんて、大それたバカなこと考えちゃいねぇよ。いっそのことね、コブつきでもいいと、俺はこう思ってるんだよ。それに、うるせぇガキよりも、そうだ、小学校3年生くれぇの利口そうな男の子だったら都合いいなぁ。ともかくさ、親と子があって、人間の生活ってのは成り立つんだからな。どうだろ、おいちゃん。何かそんな適当な人、いねぇかねぇ?」

 「いない、いないな、絶対にいないなぁ・・・」
 「そうね、難しい注文ね・・・」

 寅のいつもの夢物語に、おいちゃんとさくらは相次いで、否定的な反応をした。今回は、寅の言うことがあまりにリアリティを持ってしまったからである。それを知らない寅は、執拗に迫っていく。

 「え?難しい?何で難しいんだよ、お前」
 

 そこに隣のタコ社長が入って来るなり、「あの人に会ったかい?」と、いきなり身内が必死に隠そうとする情報を暴露したのである。しかし、その場の空気を瞬時に察知したタコ社長は、話を上手くはぐらかした。一人上機嫌で、二階に消えていく寅を見送る身内の嘆息が聞こえたのは言うまでもない。

 「明日から、どうなるんだろうねぇ・・・」とおばちゃん。
 「結局、いつか会うんでしょうね。こんな狭い町内で、顔を合わせるなったって無理だもんな・・・」と博。

 この団子屋の連中の不安が現実になっていくのは、殆ど火を見るより明らかだった。そうでなければ、この絶大なる人気ドラマの、哀感と滑稽に充ちた物語の第2章が開かれないのだ。

 周知のように、コメディの壷を心得たこのシリーズは、物語の起承転結が完璧なまでに嵌っていて、それと付き合う観客も、このほろ苦くも余情の残る「予定不調和」のコメディを、何もかも了解づくで受容しているのである。筆者もまた、そんな観客の一人であるのは言うまでもない。言わずもがなのことだった。



 4  未だ至福の時間に包まれて



 翌日、寅さんは帝釈天で寂しそうにしている子供に声を掛けた。

 「おい、坊や。どうしたい?ランドセル持ったまま。どうしたんだよ。早いとこお家(うち)に帰んないと、お母ちゃん心配するぞ。おい、元気ないな」

少年に近づいて、その頭を撫でる寅。しかし、少年は何も反応しない。そこに後ろから、自分の子を呼ぶ母の声がした。寅さんが後ろを振り返ると、例の喫茶店の未亡人が立っていたが、そのことを彼はまだ知らない。しかしその美しさに息を呑んだ男は、もう動けない。

 その顔は引き攣(つ)っていて、「お子さんですか?」とオクターブの高い裏返った声でしか反応できなかった。いつもの寅さんがそこにいたのである。
 
 「ええ、転校したばっかりなものですから、学校へ行くのを億劫がりましてね・・・」
 「その内、慣れますよ」と寅。声が少し戻っている。
 「そうでしょうか?」
 「最近、来られました?」と寅。声がまた上ずってしまった。
 「ええ。静かないい街ですわね」
 「ええ。これでも近頃、大分うるさくなりましてね」

 男は終始、よそ行きの言葉で答えているのだ。
 
 「そうですか。でもこういう所ももう、だんだん少なくなりますわ」
 「このままいったら、どういうことになるんでしょうか・・・では私、これで失礼します。坊や、お母さんに 心配掛けちゃいけないよ・・・それじゃあ、御免下さい」

 最後までよそ行きの会話で乗り切った寅さんの後方から、「優しそうな、いいおじちゃんね」との声が零れたが、それを耳に捉えたかのような男の心は、もう歯止めが効かなくなっていた。

 這う這う(ほうほう)の体で団子屋に戻った男は、「誰なんだろうな・・・」と極端に上ずった声で、おいちゃんに未亡人の特定を迫ったのである。その態度によって、団子屋の連中は全てを察知したのだ。

 まもなく寅さんは、未亡人と再会してしまった。喫茶店を開業していることを知った寅さんは、貴子が未亡人であることをまだ知らない。だから悩んでいる。

 さくらとの対話。
 
 「俺だって、人の奥さんに懸想するほどバカじゃねぇよ。今だってよ、もう一人の俺に、よぅく言い聞かせていたんだ」
 「で、もう一人のお兄ちゃん、ちゃんと納得したの?」
 「やっとな」
 「良かったね」

 そんな納得の仕方を果たした寅の耳に、階下から突然「マドンナ」の色気漂う声が入ってきた。

 納得したはずの男は、階下に降りて、貴子に気障(きざ)な挨拶をする。その何気ない会話の中で、貴子が未亡人であることを始めて聞き知って、男の態度は一変した。いつものパターンである。


 当然の如く、男は翌日から貴子の店に入り浸りとなっていく。このパターンも変わらない。

 更に、寅さんは貴子の息子学の遊び相手になり、少年の内気な性格を少しずつ溶かしていく。少年の変化は劇的だった。それを誰よりも感じ取ったのは、母貴子である。貴子は息子の明るい笑顔を見て、思わず目頭を熱くした。全ては、寅さんのお陰であると信じていたのである。
 
 「ね、寅さん。どうか、これからもあの子と一緒に遊んでやって下さいませんでしょうか・・・考えてみると、この何年もの間、学とあんな風に、一緒に遊んでくれる人は、誰もおりませんでしたのよ」
 「そんなことでしたら、お安い御用ですよ。なあに、こっちは一年中遊んでるようなものですからねぇ」

 こんな至福の時間の後で、寅はおいちゃんと些細なことで喧嘩して、家を飛び出してしまう。いつもなら妹のさくらが止めるところだが、生憎その妹がこの夜に限って団子屋にいなかった。しかし、このとき寅さんは、未だ至福の時間に包まれていたから、家を去りたくても去れないのである。
 
 寅さんと貴子の心理的スタンスが近づけば近づくほど、男は未亡人の立場の辛さが理解できるようになってきた。


 彼女は開店資金のローンの返済に困っていて、女手一人で喫茶店を経営していく辛さが身に沁みているのだ。傍らでその事実を聞き知った寅さんは、金の問題だけは自分の力でサポートできない惨めさを味わっていた。それでも必死にテキヤ稼業で稼いだ金で、何とかサポートでいないかと努めたのである。空しい努力だが、男にはそれ以外の手立てがなかったのだ。
 


 5  「リンドウの花咲く農家の団欒」―― そこに仮託する思いの決定的落差を感受したとき



 ある晩のこと。

 寅さんは、貴子の家にそっと訪ねて、リンドウの花を贈った。喜ぶ貴子。神妙になっている寅。男は未亡人に語りかけた。
 
 「あのぅ、何か困っていることはございませんか?どうぞ、私に言って下さい。どうせ私のことです。大したことはできませんが、指の一本や二本、いえ、片腕、片足ぐれぇでしたら何てことありません。どうぞ、言って下さい。どっかに、気に入らない奴がいるんじゃないんですか?」
 「ありがとう・・・本当にありがとう、寅さん・・・嬉しいわ・・・私、とっても嬉しいです・・・いいの。そりゃぁ、困ることありますけどね、私一人の力で、何とか解決できると思うの・・・だから、それはいいの。でも、寅さんの気持ち、本当に嬉しいわ。そんな風に言われたの・・・今の寅さんみたいに言われたこと、私、生まれて初めてなのよ」
 
 神妙な二人の会話がそこにあった。透き通るような夜空に相応しい月が顔を出していて、男の心の篭った優しさに、女の心は揺れ動く。

リンドウの花(ウィキ)
男はここでも、「リンドウの花咲く農家の団欒」の話を繋いでいく。

この夜に限って、男の話には実感が篭っていた。

リアリティがあった。

それを感じ取った貴子は、思わず呟いた。
 
 「いいわねぇ。ああ、羨ましいわ。私もそんな旅がしてみたいなぁ・・・」
 「そうですか・・・」と寅。その表情が、一瞬険しくなった。

 「女学生の頃からの憧れだったのよ。好きな人がいてね。例えばその人が旅役者かなんかで、私も一緒にね、ねんねこ半纏(ばんてん)かなんかで赤ちゃん背負って、旅から旅への暮らしをするの。お金がなくてね、お腹がぺこぺこだったり、雨が降っても傘がなくて、肩を寄せ合って濡れながら歩いたり・・・でもね、時には心から楽しいことに出会って、大声で笑い合ったり・・・ああ、いいなぁ旅って・・・私も今すぐにでも行っちゃいたいわ。こんなお店も、何もかも皆捨てちゃって・・・ね、寅さん」

 「ええ、そうですね・・・」
 「寅さん、またいつか旅に行くの?」
 「ええ、そりゃぁそうですね・・・」
 「そう、いつ頃?」
 「いつ頃でしょうか・・・風に誘われる、とでも申しましょうか。ある日、ふらっと出て行くんです」
 「羨ましいわ。あたしも一緒についていきたいな・・・」
 「そうですかねぇ。そんな羨ましがられる程のもんじゃないですかね」
 
 そこに電話が鳴った。


 貴子は電話を切って、お茶の支度をしようとして縁側を見たら、そこに寅さんがいなかった。彼は静かにその場から消えてしまったのである。



 6  涙の筋を光らせた別離



 夜の団子屋。

 そこには寅さんをからかうタコ社長やおいちゃん夫妻が、いつもの団欒を結んでいる。奥の部屋には残業の博を待つさくらが、満男を寝かしつけている。

 「あいつもそろそろ二枚目が現われて、振られる時分じゃないか?」とタコ社長。
 「いつもそういう筋書きだからな」とおいちゃん。
 
 その瞬間、当の本人の声が侵入して来た。

 「そうだよ。いつもの筋書き通りよ」
 「そうかい。やっぱり」とおいちゃん。その声は驚きのあまり上ずっていた。
 「また、振られちゃったよ・・・」

 寅はこの一言を残して、二階に上がり、旅支度を始めた。階下からさくらが上って来て、心配そうに兄に語りかける。
 
 「また、行っちゃうの?」
 「う、うん・・・」
 「どうして?」
 「俺みてぇなバカでもよ、潮時ぐれぇは考えているさ。このまま柴又にいても、俺は益々辛くなる一方だし、お前たちに迷惑をかけることは眼に見えてるし、いずれそのうち筋書き通りになるのは落ちだよ・・・」
 「お兄ちゃん・・・そんなこと考えてたの?」 
 「うん、まあな・・・さくら、兄ちゃんのこんな暮らしが羨ましいか?そんな風に思ったことがあるかい?」
 「あるわ。一度はお兄ちゃんと交代して、あたしのこと心配させてやりたいわ・・・寒い冬の夜、炬燵に入りながら、ああ、今頃さくらはどうしているかなって、そう心配させてやりたいわよ」
 「そうかい・・・さくら、済まない・・・」

 妹さくらの、思いのこもった話を受け止める兄の眼から、涙の筋が光っていた。男は静かに階下に降りて、おいちゃん夫妻に別れを告げた。
 
 「おいちゃん、おばちゃん、達者で暮らしてくれよ」
 「寅さん、外は風が吹いてるよ。今夜、出て行くことないだろう?」
 「ありがとうよ。おいちゃんたちにはいつも迷惑ばっかりかけて済まねぇな・・・」

 この一言を残して、男は団子屋を静かに去って行く。それを追うさくら。

 「お兄ちゃん!おいちゃんたちが戻っておいでって!」

 さくらは涙ぐんでいた。今回ばかりは、兄の気持ちが痛いほど伝わってきたのである。
 


 7  いつもと少し違う別れの儀式があっても変わらない男の、旅の繋がり



 ラストシーン。


 団子屋を訪ねて来た貴子が、寅さんから受け取った葉書を皆で読んで、団欒を囲っている。今回のマドンナの貴子もまた、自分の抱える負債の重さがまるで存在しなかったように、和やかな微笑に包まれていた。

 葉書を書いた当の寅さんは、旅芸人と再会して、束の間の交誼を暖めていた。

 いつもの明るい寅さんがそこにいる。いつもの展開があって、いつもの「恋模様」があって、いつもと少し違う別れの儀式があって、そしていつもの明朗な男のマイペースの旅の繋がりが、そこにあった。

            
                  *         *                 *


 8  「寅さん映画」のエッセンスが濃密に表現された映像



 なぜ私にとって「寅さん映画」のベストムービーが、本作であると考えているのか。結論から言えば、本作の中に、「寅さん映画」のエッセンスが濃密に表現されているからである。では、そのエッセンスとは何か。

 以下の稿は、それについての言及である。

 それは第一に、寅さんの生きざまであり、第二にその人生観、生活観である。

 寅さんの生きざま ―― それは彼の「片思いの美学」を本質とする「恋模様」以外ではない。

 第二の人生観、生活観について言えば、香具師である寅さんの「定着への揺らぎと憧憬」というテーマに集約されるだろうか。

 それらについて、一つ一つ言及していこう。



 9  「片思いの美学」を本質とする「失恋道」



 第一のテーマ。それは彼の「恋模様」、即ち「恋愛道」、もっと明確に言えば、彼の「失恋道」ということになる。

 これについて書く前に、まず私は「失恋」をきちんと定義しなければならないだろう。私の「失恋」についての把握は、以下の通りである。

 即ち、「異性に対する恋愛感情ないし、それに近い感情を相互で意識し合っていて、それが様々な事情の故に破綻すること」である。私は「失恋」を、そういう狭義な把握によって解釈している。そのことを前提にした場合、寅さんの多くの「失恋」は、実は、「失恋」という名に相応しくないのである。

 寅さんはシリーズ第一作から、次々に「マドンナ」を特定し、他人から見れば呆れるほど図々しく、厚顔に、そしてしばしば滑稽なほどナイーブな身体表現によって、その「マドンナ」にアタックする。

 彼に特定された「マドンナ」は、御前様(題経寺の住職)の令嬢であり、かつての恩師の娘であり、裕福な未亡人であり、団子屋に間借りする絶世の美女等である。

 そして我らの寅さんは、彼女たちに面白可笑しく持て囃されるものの、悉く「失恋」の憂き目に遭ってしまうのである。その「失恋」たるや見事な散り桜となって、寅さんをして、香具師稼業の旅に向わせるという定番的ストーリーに流れ込んでいくのだ。完璧なほどに見事な「失恋譚」が、そこには待っていたのである。
 

 とりわけ、昔の香具師仲間の孤独な死に立ち会って、「地道な生き方」を悟ったつもりの寅さんが、あろうことか、浦安辺りの豆腐屋の娘に惚れ抜いた挙句、その豆腐屋稼業まで継ごうと一念発起する件(くだり)を描いた「望郷篇」が、そのラストに用意した「失恋譚」は、その残酷さに於いて際立っていた。(画像は、「男はつらいよ望郷篇」)

 それはあまりに典型的な「失恋譚」だったのである。

 だからそんな「失恋」の憂き目に遭って、例によって妹さくらに別れを告げ、故郷を去る寅さんの哀感は、観る者の涙を誘うに足る一篇だったという次第である。

 しかし以上の「失恋譚」は、よくよく考えてみると、全て寅さんの存分に主観的な勘違いの結果、殆ど必然的に出来した事態であり、それは正確に言えば、一方的な感情肥大による片思いでしかないのである。それが片思いであるからには、相手の「マドンナ」のつれない態度を責める訳にはいかないのだ。なぜなら彼女たちは、端(はな)から寅さんに異性的な感情を抱いていないからである。
 
 その意味で、片思いは純粋な恋の範疇に入らないと言える。そこに、「恋」が成立しないからだ。

 「失恋」の定義とは、私が先述した文脈で解釈できるものである。そのことを前提にすれば、即ち、寅さんの「失恋譚」は、全て一方通行の感情ゲームでしかなかったということである。しかしその感情のゲームは、多分に  「片思いの美学」によって貫流されていた。その片思いはしばしば手痛い袈裟斬りに遭うが、多くの場合、「潮時の美学によって潔く、自らが作り上げた「恋の舞台」からの退場を演じて見せるのである。
 
 ところが、シリーズと熱心に付き合ってきた観客たちには、寅さんの「恋」の全てが、それを「失恋」と呼ぶには、あまりに微妙すぎるケースが幾つか含まれていたという事実を無視できないであろう。それも、一つや二つのケースではないのだ。

 そのケースに値する「マドンナ」役を演じた女優の名をここで挙げれば、思い起こすだけで、例えば、八千草薫、いしだあゆみ、吉田日出子、竹下景子、そして殆どレギュラー扱いの浅丘ルリ子などの名が列記されるであろう。

 彼女たちとの関係の深まりは、ある意味で、男と女の微妙な関係の畔で睦み合うナイーブさを内包するものであった。しかし結果的に、この「恋」は実ることがなかった。「恋」の修羅場を迎えようとするその手前辺りで、どういう訳かシリーズの主人公は尻込みしてしまって、「敵前逃亡」を果たしてしまうのである。

 そして、これもまたどういう訳か、その主人公は、その後で常に無念の涙を流してしまうのだ。明らかに、それは、「失恋」のカテゴリーに含まれる感情展開を、束の間、垣間見せたのである。
 

 「あの人、お兄ちゃんのこと好きだったんじゃないの?」

 この妹のさくらの台詞が、シリーズの中でしばしば印象的に刻まれたシーンがあったことは、まさしく、寅さんの「恋」が展開した幾つかのケースを、リアルな説得力をもって検証して見せたと言えるのだ。

 そうなのである。

 寅さんは常に、片思いの振られ役を演じていた訳ではないのである。彼は自ら特定した  「マドンナ」に真剣な思いを寄せた結果、あろうことか、その思いが相手に通じたか、或いは通じる前に相手から懸想されたかのようなケースもまた、明らかに存在したのである。
 
 その典型例は、「あじさいの恋」のかがり(いしだあゆみ)のケースだが、このときばかりは、寅さんは  「マドンナ」から肌を合わせることさえ求められたのだ。

 しかしこういうとき、この男はからっきし意気地のない「色男」に変身する。狸寝入りをすることで、この稀代の「色男」は、普通の男なら垂涎の的と言っていい対象が向うから擦り寄って来て、稀有なる至福に誘(いざな)うはずのセックスの絶好機を、自ら手放してしまったのである。まさに、「据え膳食わぬは男の恥」と言ったところか。

 我らが寅さんは、実に不思議なる恋の彷徨者なのである(この辺りの言及については、拙稿「新・心の風景」所収の「定着への揺らぎと憧憬――『寅さん』とは何だったのか」を参照されたい)。

 私が思うに、彼のこのような「恋の舞台」からの退場劇は「失恋」というよりも、「捨恋」(しゃれん)と呼ぶ方が相応しいのである。即ち、彼の「恋」の様態は、「片思いの美学」(「潮時の美学」)か、それとも「捨恋」しか存在しないのである。

 そして、この「寅次郎恋歌」のこと。

 ここでも寅さんは、未亡人(池内淳子)の子供に優しく声をかけたことから、その母親の存在を知り、瞬く間に、彼女を「マドンナ」に特定したことで、周囲の者から彼のお決まりの片思いの哀感が、そこに捨てられるかに思われて、そして殆ど「予定不調和的」に、そのラインをなぞっていったのである。

 しかし本作での「片思いの美学」は、「潮時の美学」の極北とも言える見事なストーリーラインを描いて、映像を括って見せたのだ。その括り方は蓋(けだ)し圧巻だった。とてもコメディの括り方とは思えないほどの哀感と感動が漂っていて、その余情はいつまでも私の心を捉えて放さなかった。私が本作をシリーズの最高傑作と看做(みな)す一つの理由が、そこにあると言っていい。
 

 男は女に一目惚れして、「恋の舞台」を宇宙遊泳していく。男にとってその宇宙遊泳の時間の中にこそ、至福の境地が存在する。男は「達成の快楽」よりも、「プロセスの快楽」の内に存分なほど酔えるのだ。「プロセスの快楽」とは、「想像の快楽」である。男は「想像の快楽」によって、その人生を愉悦し得る達人なのである。

未亡人、貴子への片思いも、男の内面的時間を充分すぎるほど満たしてくれる何かであった。男の「プロセスの快楽」は、その柔和な語らいの中で極点に達しつつあった。

 しかし未亡人の現実の生活苦を見せつけられて、否が応でもリアリズムの世界に引っ張られていく。それは男の力量を超えていた。金銭の世界だからである。それでも男は、何とか未亡人の助けになろうとする。相手は、男のそんな優しさに深く感銘する。シリーズでもお馴染みのパターンである。女はその優しさに甘えてくる場合もあるが、本作の未亡人は、男の思いだけを受容したのだ。

 その後、女が語ったのは、旅への憧憬の念であった。

 女は男の旅を、ロマンチシズムでしか理解できないのだ。男はそこで、全てが終ったと感じたのである。

 男が「定着」にしばしば振られていくのは、香具師稼業の只中に襲いかかる、「恒常的安定感」の欠如を感じたときでもある。男は単なる「旅人」ではないのだ。「旅」=「移動」の時間の中にしか、男の日常性が構築できないからである。

 だから定着する者からしばしば羨望視される「旅」のイメージの落差に、男は戸惑うばかりなのだ。男は、「旅」を感傷によって語って止まない女との心理的落差を感じ取ったとき、自分の宇宙遊泳の物語の終焉を覚悟したのである。
 
 「羨ましいわ。あたしも一緒についていきたいな・・・」

 女のこの一言で、男はもう駄目になってしまった。

 最後まで「感傷の旅」を夢見る女の心にもない添え言葉に、男は嘘を悟って、「そうですかねぇ。そんな羨ましがられる程のもんじゃないですかね」という、すっかり甘美な感情を削られた言葉でしか反応できなくなってしまったのである。
 
 男はこの夜、覚悟の訪問を固めていたのだ。

 だから男は、「定着」への思いを恐らくそこに委ねて、女にリンドウの花を贈ったのである。男は未亡人の辛さの中にその身を預けることで、自分ができるサポートを果たそうとしたのだ。そのために、売れない本を街頭で売りまくって、何とか金策の一助に加わりたかったのである。

 しかし、それも警邏(けいら)中の警察官の取締りで断念することになり、そこで僅かに稼いだ金をリンドウの花に換えたのである。
 

 そんな男の覚悟の訪問は、女の「感傷の旅」の添え言葉によって全て崩されてしまった。

 男にとって残された行動は一つ。「潮時の美学」を発動する瞬間のタイミングであった。

 それは、電話が鳴って女が縁側を離れた瞬間に訪れた。

 女がそこに戻って来たとき、男はもう姿を消していた。かくして「片思いの美学」を、男の固有なる「潮時の美学」によって、本篇のの主人公は、恐らくそのとき以外にない、あまりに見事なタイミングで括り切ったのである。

 括り切った男は、あとは団子屋を離れ、妹さくらとの別離を果たす儀式しか残っていない。

 定番となった別離の儀式は、本作でも当然の如く果たされた。

 しかし本作に於ける別れの儀式は、シリーズ全48作の中でも最も印象深い哀切極まる表現を刻むことになった。

 その儀式の哀感は、観る者の涙を誘(いざな)って止まない静謐(せいひつ)な映像によって決定付けられたのである。それは全作を通じて、別れの儀式の白眉であった。男は本作に於いて、「潮時の美学」を究めたのである。



 10  定着への揺らぎと憧憬  



 
第二の重要なテーマは、「定着への揺らぎと憧憬」である。

 これは第一のテーマと密接に脈絡するものだが、本作ではこのテーマが滑稽含みで語られているものの、その内実は極めて真摯であり、奥行きも備わっていた。それを象徴するのが「リンドウの花咲く農家の団欒」のエピソードであることは間違いない。
 
 以下、それに絡んで言及してみる。

 博の父から含みを持って語り聞いた寅さんが、直ちに帰郷し、その晩、早速、自分の体験談の如く身内に語り聞かせるエピソードは、決して浮薄なる男の人となりを「予定不調和」的に受容して、観る者の爆笑を誘う次元で処理できるものではなかったのである。

 「リンドウの花咲く農家の団欒」の話の中にこそ、寅さんの心のどこかで願って止まない「定着への憧憬」が集中的に表現されていた。寅さんはその話に心を打たれ、一念発起しようとさえ考えたのである。
 
 ところが団子屋の人々は、そんな平凡なエピソードに全く心を動かされない。当然なのだ。

 彼らは、「定着した者の平凡さ」の価値を実感することさえ不必要なほど、地元の生活共同体の内に溶融してしまっているのである。彼らには、「移動」という観念がその人生の選択肢の中に含まれることがないのだ。彼らにとって「移動」とは、一過的な観光旅行以外の何ものでもないのである。
 
 だから彼らには、「リンドウの花咲く農家の団欒」の話は、自分たちの日常性の範疇に嵌り込む、他愛のない普通の生活情景でしかないのだ。

 そこで語られた安曇野の自然は、団子屋の連中にとっては、帝釈天の門前町のコミュニティと、その背後に流れる江戸川の大いなる流れと等価値のものになっているから、そこに彼らが知らない北アルプスの山麓の情景への憧憬の念が生まれるとしても、それは単に、「一度見てみたい」という類のものでしかなく、決して特別な感傷にはならないのである。(勿論寅さんは、団子屋の連中に北アルプスの山麓の話を盛り込む知恵を働かせなかったが、少なくとも、そのような推論が可能であるということを言及した次第である)
 

 ところが寅さんは、「リンドウの花咲く農家の団欒」の話に大きく振れてしまった。彼のような「移動」を日常とする者の特異な香具師にとっては、「定着」をイメージさせる文脈は全て、甘美な観念を内包する何かなのである。では彼は、本気で「定着」を志向していたのだろうか。

 それに触れる前に、なぜ博の父が寅さんに、「リンドウの花咲く農家の団欒」の話をしたのかについて、私なりの答えを出したい。
 
 これは香具師である男への説教なのではなく、まさに、博の父自身の人生の悔悟の念を示すものだったと考えられる。なぜなら、博の父は「定着」を志向する人生を望み、それを実現したかのように見えたが、実際は違っていた。彼は大学教授だが、妻子と結んだ家庭の秩序はおよそ団欒とは縁遠いものであったのだ。

 因みに、母思いで、最も感受性の強い博は、そんな横柄で身勝手な父に反発し、父への抵抗の故に大学に行くこともなく、流浪の青春彷徨の日々を送ってきたのである。

 その鬱屈した思いを溜め込んだ博が、偶然、勤めていたタコ社長の印刷工場で出会ったのがさくらだった。そのさくらとの結婚までを描いた、第一作で紹介された博の父は、息子との深い情緒的紐帯の欠如を曝していたのである。
 
 博の父は、自らが原因で招いた家庭の団欒の欠乏感を強く感じていたからこそ、寅さんの前で自戒を込めて、「温もりのある平凡な家庭」の有り難さを語ったということなのである。

 そして、自分の父から語り聞かされたことを知らない寅さんの話を、一人、博だけが実感的に受け止めていた。

 このことは博もまた、「移動」と「定着」の間を往還する青春を過ごしてきたことを如実に示すものである。彼だけが恐らく、寅さんの気持ちを汲み取れていたのだ。思えば第一作で、博はさくらと結ばれなかったら、柴又への「定着」を捨てる覚悟であったことが想起されるのである。

 以上で見る限り、どうやら「定着」に軟着陸できた者(博)、「定着」という形式を整えたものの、それを成功裡に導けなかった者(博の父)、そして「定着への憧憬」を持続しつつも、そこへのステップに絶えず揺らいでしまうように見える者(寅次郎)、という三つの人生パターンがここで読み取れるのである。

 では、寅さんの場合はどうであったか。

 彼の場合は、今ここで記したように、明らかに「定着への憧憬」を持ちながらも、どうしてもそこに我が身を全人格的に預け入れられないようである。なぜなのか。その問いへの答えは、本作に於ける一人の香具師の人生の本質を語ることにもなるだろう。

 寅さんは、なぜ「定着」を望みながら、その中にその身を真剣に預け切ろうとしないのか。

 確かに彼はしばしば、シリーズを通して「定着」への意志を表出するが、しかしそれがどこまで本気であるか疑わしい面があまりに多い。それは彼の「定着」の意思表示が、自らの「恋愛模様」との絡みの中で吐き出される場合が多いからである。

 従って、自らの「恋」の宇宙遊泳が終焉を遂げると、この男は殆ど例外なく、香具師の旅に出ることになる。「片思いの美学」か、「捨恋」を刻んだこの男の物語のラストシーンは、決まって大都市とは無縁な土地での元気な振る舞いが映し出されるという定番行事。ラストに映し出されるこの男の天真爛漫ぶりは、間違いなく、「移動」の旅にしか生きられない者の覚悟をも映し出しているのである。
 
 その「移動」の旅を繋ぐ人生には、人には言えない苦労が、当然抱え込まれているはずだ。そんな思いが何かの拍子で極まったとき、この男は葛飾柴又に舞い戻る。しかしそこでの生活は一過的であり、「恋」の宇宙遊泳さえなければ退屈極まる何かでしかないであろう。

 だから私たちは、この男の帰郷による生活の内実を、宇宙遊泳するお目出たい中年男の振る舞いか、或いは、昼過ぎまで二階の自室で寝入っていて、起きてもせいぜい、アルコールか馬鹿話に花を咲かせる生態しか見ないことになる。それは本当に、この男が「定着」を志向する思いを持つかについて、最も疑われる生活様態なのである。

 では実際のところ、一体、どうなのだろうか。

 私はこう思う。
 

 この男が「定着への憧憬」を持ちつつも、その生活にその身を預け入れるには、もうあまりに放浪癖が身に付いてしまっていて、そこでは、本人も正確に認識できない自縄自縛の矛盾に捉われる意識世界を、儚くも露呈してしまうだけなのだと考えられるのだ。
 
 この男は高校を中退して以降、相当の年月、香具師稼業の旅生活を繋いできた。

 もうその人格の中枢の意識の内に「定着」の本質とも言える、「平凡なる恒常的な安定感」という感情ラインに馴染めない何かが張り付いてしまっている。「定着」よりも、「移動」が作り出す時間の観念に嵌り込んでしまっているのだ。明日の保障がない「移動」のリスクよりも、それが醸し出す心地良さの感覚に馴染み過ぎてしまっているのだろう。 「移動」のリスクが抑えきれないほど高まったとき、男は葛飾柴又への帰郷という切り札をチョイスすればいいのだ。

 だから男にとって故郷で形成される定着者たちのコミュニティは、一種の心の担保なのである。「困ったときの団子屋」は、単に男と絡む多くの「マドンナ」たちの癒しの空間ではなく、まさに男自身の最後の心の到達点なのである。 

 葛飾柴又に帰れば心優しいおいちゃん夫婦がいて、人がいい仲間がいる。柴又の精神的シンボルである帝釈天があり、そこには人情厚き御前様がいる。そして、男の甘え心の拠り所とも言うべき観音菩薩がいる。妹さくらである。常に自分の身を案ずるさくらの存在は、男の柴又帰りの決定的な求心力となっている。

 更に、そのさくらが生んだ甥の成長とのクロスもまた、男の愉悦の一つでもあるが、これはシリーズ後半の中枢なテーマとなって、男の物語をいつまでも絶えさせることのない、溢れんばかりのエピソードで飾っていくことになる。いずれにせよ、さくらの存在を媒介項にして、男の物語が哀感をもって綴られる展開は形式的には不変だった。

 そして本作の白眉は、「潮時の美学」で見事に括った「片思いの美学」と、リンドウの花に象徴される「定着への揺らぎと憧憬」について、最も印象的に映し出されることに尽きるであろう。

 「定着」と「マドンナ」のイメージは、どこまでも遠きにありて眺め入る、心地良さのカテゴリーに内包されるのが最も相応しいのである。まさに、「リンドウの花 ―― 遠きにありて眺め入る心地良さ」ではなかったか。



 【余稿】  〈「森川信」という凄腕の喜劇役者の逝去による、コメディ性の委縮 〉




 「寅さん」シリーズの爆発的滑稽感は、一人寅さんを演じた渥美清という俳優の表現力に因っていない事を実感したのは、おいちゃん役を演じた「森川信」という稀代の喜劇役者の逝去によってであった。

 1作目から本作の8作目に渡って、常に「森川信」の存在感は圧巻だった。

 渥美清の寅さんの笑いを、「森川信」のおいちゃんが阿吽(あうん)の呼吸の如く、見事に受け止めていたからこそ、寅さんの笑いがおいちゃんの絶妙のリアクションによって繋がれて、思わずその匠なる身体表現者の世界に引き摺り込まれてしまったのである。

 これはあくまでも私見だが、「森川信」という凄腕の喜劇役者に代わる俳優が存在しなかったことが、9作目以降のシリーズの笑いの質を低下させてしまった最大の要因である。

 とりわけ、シリーズの大半のおいちゃん役を演じた下条正巳の存在感かあまりに地味過ぎて、そこにリアリティを保証してしまった分だけ、笑いの爆発力を削ってしまったのである。下條正巳が下手なのではない。「森川信」が余りに上手過ぎたのである。
 
 「まくら、さくら取ってくれ」

 このようなアドリブを平気で連発する喜劇役者を超える俳優が、当時、果たして存在したであろうか。渥美清とのあれだけの絶妙なコンビネーションを組めたのは、時代は違うが、共に下町浅草のステージで鍛え上げた年輪の技以外ではないのだ。

 だから私は9作目以降、コミュニティとしての団子屋の空気の変色を感じ取ってしまうので、9作目以降から新しいシリーズが始まったと勝手に思う所以である。

 シリーズのマンネリ化の最大の原因は、シリーズの笑いを、「渥美清」という一人の稀代の俳優のみに委ねた点にあると思われるのだ。「森川信」の逝去によって、残念ながら何かが終焉してしまったのである。


【拙稿・定着への揺らぎと憧憬―『寅さん』とは何だったのか参照】


(2006年7月)

0 件のコメント: