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2010年11月21日日曜日

キッズ・リターン('96)        北野武


<反転的なアファーメーション、或いは、若者たちへの直截なメッセージ>



1  視界の見えない未知のゾーンから生還したアファーメーション



殆どそこにしか辿り着かないと思えるような、アッパーで、脱規範的な流れ方があって、その流れを自覚的な防衛機制によって囲い込む機能を麻痺させた結果、そこにしか辿り着かない地平に最近接してしまったとき、その視界の見えない未知のゾーンにインボルブされる感覚の中で、その感覚が捕捉する地平からの解放の出口を、ある種の「痛み」を随伴させながら、緩やかに抜け切っていったという記憶によって紡ぎ出した新鮮な世界。

その世界が「表現」への希求の思いと睦み合って、分娩された「映像」 ―― それが「キッズ・リターン」だった。

そこにしか辿り着かないと思えるような流れ方とは、一切を「ゼロ」にすると語る〈死〉への行程である。

語った主は、北野武。

本作の作り手である。

作り手自身は、「余生」(北野武著 ロッキング・オン刊 2001年)の中で、例のフライデー事件やバイク事故を起こしたことで、世間やメディアから非難され、彼自身も精神的に辛かったことを吐露している。

しかし逆に言えば、前者は、自分を誹謗したことに対する暴力であり、後者は、本人も自ら語っているように自殺的行為と言えるものだ。

結果的に言えば、彼は自らの起こした、この二つの事件・事故によって、痛みを随伴する「暴力の恐怖」を実践的に検証してしまったのである。

ともあれ、アッパーで、脱規範的な流れ方を、北野武は「みんな〜やってるか!」(注)の演出の中で感じ取っていた。

以下、本人の弁。

「どうしようもなくバカな子供を生んだみたいで。愛情はいちばんあるんだけど、たしかに駄目っていうかさ。天才の映画を作ろうとして本当のバカの映画だったっていう(笑)。それは撮っているうちにはっきりわかったんだけど、今更謝れないかなあと思って一直線に『もういいや、どうでも』って。だからあの調子と同じように、あの~、事故とか全部同じ方向行ってんだよね。だから自分でガーンと行ったとき『ああ、そうだよなあ、あの映画撮りだしたんだもんな、これイッてるわ』と思ったもん」(「武がたけしを殺す理由・全映画インタビュー集」北野武著 ロッキング・オン刊 2003年)

第53回カンヌ国際映画祭にて

同様に北野武は、本書の中で、「仕事的にはもう全部煮詰まっていたんだよね」と吐露していた。

一切を「ゼロ」にする〈死〉への行程に最近接した北野武が、その視界の見えない未知のゾーンから生還したとき、今度は、相対的に〈生〉に振れていく物語を映像化したのである。

「これはちゃんと撮った」

「これ」とは、言うまでもなく、「キッズ・リターン」。

後述するが、世間の評価が高い、その「キッズ・リターン」を有名にさせたのは、「挫折」した二人の若者の会話の中の、ラストシーンにおけるアファーメーション(自己肯定宣言)。

「これは下手すると、まだ始まっちゃいないっていうのは自分自身のこともあるんだよね。俺怪我でこんなんになっちゃって。完全に終わったって言われてるんだけど、『バカヤロー、まだ終わっちゃいねえぞ』っつって『もう一回行ってやるぞ、こいつら』っていう、そういう意識で」

この台詞こそ、視界の見えない未知のゾーンから生還した北野武自身の思いだったのだ。


(注)「カー・セックスがしたい!と妄想をつのらせた冴えない男が、紆余曲折を経て、バッタ男となって死ぬまでを描いた奇想天外なナンセンス・コメディ」(gooの解説より)



2  反転的なアファーメーション、或いは、若者たちへの直截なメッセージ



「キタノ・ブルー」は健在だし、物語の律動感もいい。


若者たちの〈生〉を真摯に見詰めつつ、適当に「遊び」の絵柄を挿入した映像構成の骨格も全く破綻していない。

加えて、「男の観念」、「力の論理」という情感体系で生きる極道の世界があり、〈死〉を射程にする暴力描写も相変わらず包括している。

主人公の若者のシンジはボクシングという、「北野武流映像世界」の「男」のフィールドで汗を流すのだ。

本作もまた、「男」の世界が物語のバックグラウンドになっているのである。

そんな「男」の世界の物語でありながら、物語の基調は、基本的に「青春挫折譚」であると言っていい。

注目したいのは、この「青春挫折譚」の挫折の背景を、これまでの数多の「青春挫折譚」がそうであったように、「荒廃した社会」、「アダルト・チルドレン」(機能不全家庭)や「管理教育の弊害」などという、検証困難な問題に還元していないことである。

確かに、卒業しても校庭に来て、自転車の曲乗りに興じる二人に対して露骨な不快感を示し、迷惑がる教師たちが存在するが、それは、勝手気ままな「自由」を謳歌した二人の、規範無視の高校生活への感情的反応の域を超えないのだ。

二人の挫折は、彼らの勝手気ままな青春ゲームへの、一つの解答と言えなくもないのである。

一切が「能力」の問題であり、「夢」に向かって歩む「努力」もまた、「能力」のカテゴリーに包含されるものである。

「強い奴は、どっちみち強いから」


これは、ボクシングの世界で頭角を現しつつあったシンジに、禁断のアルコールを飲ませながら吐露した、ハヤシという名のロートルボクサーの決め台詞。(画像)

この言葉に象徴されるように、結局、若者たちの挫折の原因は、「能力」の問題に尽きるということだ。

性悪(しょうわる)なロートルボクサーのトラップもあり、シンジもまた減量に失敗し、ボクシングチャンピオンの栄光に届くことなく挫折していった。

その意味で、「キッズ・リターン」は極めて残酷な映画なのだ。

然るにそこだけは、いつの時代でも大して変りようがない人間の実相なのである。

大体、理念系において、「能力」以外の差別を克服する社会として作られた、かの近代社会の一つの到達点こそ、巧みにダブルスタンダードの衣装を被せつつ、この国の多くの人々が厭悪(えんお)して止まない「学歴社会」であると言っていい。

言うまでもなく、「学歴社会」が「社会悪」とする見方は、あまりに一面的過ぎるのである。

「能力」の落差によって生じる「差別」の存在を厭悪しつつも、それを認知せざるを得ない社会に呼吸を繋ぎ、そこで自分の「能力」に見合った職業を見い出すことで、「自分サイズ」の幸福を紡いでいく生き方を否定する何ものもないはずだ。

だから、奇麗事を言うべきではないのだ。

北野武は、そのことが分っている映像作家である。

それ故、偽善と欺瞞に満ちた一切の映像を拒否するのだろう。

ここに、北野武が前掲書(「武がたけしを殺す理由」)で語っていた、興味深いエピソードがある。

それを要約すれば、ヨーロッパの批評家たちから見れば、「この二人は、もう終わり」であるということだ。

それは、ケン・ローチやダルデンヌ兄弟の映画を観れば判然とするだろう。

「だけど、日本だと結構また行くぞって感じがある」と、北野武は語るのである。

前述したように、本作には、「まだ始まっちゃいないっていうのは自分自身のこともあるんだよね」と語る、北野武の思いが集約されていたのである。

この点について、私が最も印象付けられたレビューの反応がある。


それは、あまりに有名なラストシーンにおける、マサルとシンジの短い会話のこと。

「マーちゃん、俺たち、もう終わっちゃったのかなあ」とシンジ。  
「バカ野郎、まだ始まっちゃあいねえよ」とマサル。

この台詞に勇気づけられた、と書く若者(?)が多かったということだ。

要するに、若者が新卒で就職できないという状況が続き、「穏やかな衰退」が進行しているとも言われるこの国においてもなお、「まだ始まっちゃあいねえよ」というマサルの言葉に触発されて、前向きに人生に立ち向かっていく若者たちが未だ健在であるということなのであろう。


本作は、「これはちゃんと撮った」と吐露する北野武自身への、反転的なアファーメーションであると同時に、それに触発されることに真摯な思いを寄せつつ、「諦めが早い」と言われる、この国の若者たちへの直截なメッセージであるということだ。

(2010年11月)

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