<相対化思考をギリギリの所で支え切った、表現主体としての武装解除に流れない冷徹な視線の肝>
1 「革命」という甘美なロマンによって語られる、それ以外にない最強の「大義名分」を得て
「革命」という言葉が死語と化していなかった時代を、「幸運な時代」と呼んでいいかどうか分らないが、そんな時代状況下にあって、「世界の動乱」を鋭敏に感受し得た一群の若者たちは、「自分も何かしなければ、時代に取り残される」という気分を肥大させた挙句、同様の気分を保持する者たちと状況感覚を共有することで、何とか自我の拠って立つ安寧の心理的拠点を手に入れていく。
自我の拠って立つ安寧の拠点になったのが、「革命」という甘美なロマンによって語られる、それ以外にない最強の「大義名分」だった。
「世界の動乱」を鋭敏に感受し得た一群の若者たちが蝟集(いしゅう)した、「革命」という名の最強の「大義名分」のうちに、「同志」と呼称する者たちと共有する、えも言われぬ心地良き気分は、「自分も何かしなければ、時代に取り残される」という、世俗の気分を遊弋(ゆうよく)させながら、なお内側に張り付き、潜在化した負の意識の集合を無化し得るばかりか、却って内側を浄化させてくれるので、その甘美なロマンに身も心も預けていくことで手に入れる快楽はいよいよ肥大化し、エンドレスの危うい昂揚感覚を膨張させていく。
これが、「同志」と呼称する者たちと共有する、「革命」という甘美なロマンに縋ることで、自分が「特定的な何者か」になった幻想を間断なく分娩するから、益々、厄介なメンタリティを再生産していくのだ。
特段に何者でもない者が、「特定的な何者か」であろうとするために支払ったエネルギーコストよりも、そこで手に入れたベネフィットの方が上回っていると信じられ、且つ、それが継続性を持ち得るとき、その者は自分が辿り着いたであろう、「特定的な何者か」についての物語の鮮度が保持し得る限りにおいて、その幻想に存分に酩酊し、泡立ちの森で遊弋するだろう。
然るに、そこで仮構された自己についての新しい物語に、自らが馴染んでいく速度よりも、そこで立ち上げられた「特定的な何者か」に寄せる、他者からの情感的評価の速度が常に上回るとき、そこに微妙だが、しかしほぼ確実に、自己同一性に関わる不具合感を内側で合理的に処理できない、何かそこだけは、極めてセンシブルな時間を作り出すに違いない。
現在のネット時代と違って、1960年代から1970年代にかけて、「特定的な何者か」に化ける手っ取り早い戦略は、「同志」と呼称する者たちと共有する心地良き気分の中で、「革命」という甘美なロマンについて語り、軽快なステップでデモに参加し、まもなく、口角泡を飛ばしてアジり捲るハイキーな昂揚感覚の中でそれをリードし、騒ぎ、暴れることだった。
しかし、勘違いしてはいけない。

若松孝二監督の「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」(2007年製作/画像)を観ると、まるで、この国の当時の状況が「革命」前夜にあり、若者たちの多くがそんな沸騰し切った状況下にあって、「国家権力」と死闘を繰り広げていたと言わんばかりだったが、一切は、「革命」前夜にあると妄想した極左集団が、肝心の「国家権力」と死闘を繰り広げる以前に自壊していっただけで、それは彼らにとって、殆ど「予定不調和」の哀れなるトラジディでしかなかったのである。
何より、当時の若者たちの多くが、「特定的な何者か」に化ける戦略に身を投じた訳ではないのだ。
当時の若者たちを称して、「全共闘世代」と呼ぶ傾向がいまだに残っているが、当然ながら、いずれのセクト(「三派全学連」に象徴)にも属さないような学生を含めても、この世代の若者たちの多くは「ノンポリ」であり、学生運動に参加した者の比は、せいぜい10数パーセント程度と言われている。
高度経済成長の最盛期にあった60年代から70年代初頭までの間に、この国の変貌ぶりの大きさは、以下のイベントや生活文化、レジャー等の氾濫によって検証できるだろう。
東海道新幹線の開業による超高速時代の到来を嚆矢(こうし)として、自動車の普及によるモータリゼーションの本格化。
東京オリンピックの開催と、それに合わせた公共交通機関などのインフラ整備。(東京モノレールの開業、首都高速道路・名神高速道路の整備、東京国際空港のターミナルビル増築・滑走路拡張など)
更に、大阪万博、歩行者天国、札幌オリンピック、海外旅行の自由化、「新・三種の神器」(カラーテレビ・クーラー・カー)
そしてスポーツ・文化のフィールドでは、野球、プロレス、ボウリングブームとハイセイコー旋風、林家三平に象徴される演芸ブームの到来、グループサウンズの大流行、等々。
まさに、私たちの大衆消費社会は、このとき、高度成長の眩(まばゆ)いセカンドステージを抉(こ)じ開けていて、より豊かな生活を求める人々の「幸福競争」もまた、多くの場合、ピアプレッシャーに脆弱で、「横一線の原理」で動いてしまうような、「文化依存症候群」とも言うべき「民族的習性」(?)を有する国に呼吸を繋ぐ人々にとって、今や、引き返すことが困難な辺りにまで上り詰めていたのである。
人々はそろそろ、「趣味に合った生き方」を模索するという思いを随伴させつつあったのだ。
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明和牧場でのハイセイコー・ブログより
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ところが、いつの時代でも、「普通は嫌だ」と駄々をこねる自己顕示欲の旺盛な、「青春一直線」の「王道」を闊歩したがる若者が多くいるから、その類の連中だけが、「革命」という甘美なロマンに自己投入していくと言ったら言い過ぎか。
それは、未だ、「革命」という言葉が死語と化していなかった時代のレガシーコストであったことの証左でもあった。
2 「特定的な何者か」であろうとする似非革命家と、「後ろめたさ」を浄化しようと足掻く青臭い男の物語
本作の主人公の沢田は、「特定的な何者か」に化けられない〈私的状況〉に「後ろめたさ」(本作のキーワードとして捉えた、山下監督自身による表現)を覚えていた。
時代に乗り遅れて、自分だけが安全地帯に閉じこもっていることへの自己嫌悪が、時代を拓くジャーナリストを夢想する沢田の、焦慮し、苛立ちながら閉塞する〈私的状況〉の渦中で揺動する自我を突き動かしていく。
相手は多分、誰でも良かったのだ。
自分の「後ろめたさ」を浄化させてくれる相手ならば、似非革命家であっても良かったのかも知れぬ。
幸いにとでも言うべきか、その似非革命家が彼の前に立ち現われた。

京成安保共闘を名乗る活動家の名は、梅山(片桐)。
相手の本性を鋭利に洞察できない、「純粋無垢」(人間音痴の別名)という青臭さの臭気を周囲に撒き散らすかの如き、感性オンリーの非武装性丸出しの決定的瑕疵を持つ沢田は、趣味が合うと信じる「初頭効果」の印象のみで、似非革命家の梅山に入れ込んでいくのだ。
そんな二人の会話がある。
「テレビで安田講堂をテレビで見て、これだと思ったんです」
活動家になった契機を尋ねる沢田に対して、梅山は安田講堂事件が自分を動かしたと答えたのである。
今度は、梅山が沢田に東大安田講堂事件(1969年1月)の感想を尋ねる。
「俺は苦しかったな。報道側から見てたけど、自分と同じ大学の奴らがさ、負けていくのを安全地帯から黙って見ているっていうのは・・・」
「沢田さんて優し過ぎますよ」

これだけの会話だが、「純粋無垢」という青臭さ全開の沢田の人となりが、観る者に簡潔に提示されたシーンであった。
元より本作は、世間を騒がす事件を起こして、「特定的な何者か」であろうとする似非革命家と、その似非革命家を「思想犯」と信じ、その「思想犯」の記事を発表し、スクープをものにすることで、「自分も何かしなければ、時代に取り残される」という気分=「後ろめたさ」を浄化しようと足掻く青臭い男の物語だが、物語の重心は、「社会的に支持された規範」としての「道徳」を身につけるという意味において、「普通の社会人」に成り切れない、この世間知らずの青臭い男が、生来の「社会正義に枯渇する青臭さ」を周囲に振り撒き、猪突猛進した挙句、世間を騒がす事件を起こした似非革命家の欺瞞性に気づくまでの心理の変容に据えられているが故に、「時代」を描くという戦略的偽装性が物の見事に嵌った映画になっていた。
「教えてくれよ。君らが目指したものって何なんだ?君は誰なんだ?」
これは、既に「自衛官殺害事件」を起こし、指名手配中の似非革命家を庇うことに限界を感じ、梅山に問いかける沢田の追い込まれた果ての言葉。
「沢田さんだって、スクープが欲しかったんでしょ。記事が出れば、僕たちは本物になれるんですよ!」

事件後の、二人の関係の破綻を告げる梅山の反論だが、「我々は今度の決起で、ようやく三島由紀夫に追いついたんです」などとも嘯(うそぶ)く、似非革命家としての梅山の本性が剥き出しになる短い会話でもあった。
「時代」の「熱気」を殆ど拾い上げることがなく、ひたすら、似非革命家の欺瞞性を反面教師にした冷徹な視線による物語構成の終焉は、「革命」の本来の主役になるべき、本物の「下層労働者」(ドヤ街での潜入取材中に親しくなった男)との再会によって、生来の「社会正義に枯渇する青臭さ」を、大手のメディアに寄食する「安全圏」から離れることで脱色していくことを象徴したかの如き「嗚咽のラストカット」であり、そこにこそ、特有のオフビート感を捨てても、そこだけは失うことがなかった、共感的だが冷徹な視線の投入が検証されていたと言えるだろう。
「新聞はそんなに偉いんですか?」
梅山を「思想犯」と信じる沢田の、上司への異議申し立てである。

「偉いんだよ。跳ね上がりが。うちは大学新聞、作ってるんじゃねえんだぞ」
この一言で黙らされてしまった、「社会正義に枯渇する青臭さ」の行き場なき残骸が露わにされていた。
その残骸が、「嗚咽のラストカット」の中で共感的に拾い上げられたのである。
それは同時に、似非革命家を情感的に止揚し、相対化するために、焼き鳥屋を営み、家族を養ってひた向きに生きる、本物の「下層労働者」の「生活風景」の有りようを必要とせざるを得なかったラストカットでもあった。

そして、雑誌の表紙を飾っていたモデルの女の子(倉田眞子)と沢田との絡みの重要性を、山下監督(画像)はインタビューで吐露している。
「倉田というキャラクターは、当時の雑誌の表紙を飾っていたモデルの女の子なのですが、忽那さんには時代背景などを意識してほしくなかったんです。ある種、倉田は僕らの目線の代弁者なので、彼女の『嫌な感じがする』というセリフは、僕らの意見でもあるわけです」(@nifty映画 2011年5月30日)
稿を変えて、ラストカットの伏線になる、その重要なシーンを再現してみよう。
3 相対化思考をギリギリの所で支え切った、表現主体としての武装解除に流れない冷徹な視線の肝

沢田が所属していた編集部に、「週刊東都」のグラビアの仕事が終了し、別れの挨拶をしに来た倉田眞子が、自分の机を片付けていた沢田と二人だけになって、形式的な会話を交した後、自ら事件について触れてきた。
彼女には、テレビで報道される自衛官殺害事件の内実と同時に、事件に関与した沢田の振舞いが気になっていたのである。
映画の終盤のシーンである。
「やっぱり、本当なんですか?」
「やっぱりって?・・・・あ、そうか・・・」
最も触れられたくないものに、単刀直入に触れてきた少女への反応に戸惑った様子を隠し込んで、何とかその一言で、沢田は次の言葉を探すのに時間稼ぎをしているように見えた。
反応の鈍い大人の心に、少女の方から聞き糺(ただ)していくのだ。
「あれは沢田さんのこと?」
「そうみたい・・・でも、うん・・・何で俺、あいつのこと信じちゃったんだろうな・・・信じたかったのかなぁ」
静かな緊張を分娩した関係の距離感が、そこに長い「間」を作り出した。
少女は俯き(うつむ)きながらも、ゆっくりと、自らの思いを噛み締めるように、最も肝心の言葉をきっぱりと繋いでいくのだ。
「あたしはよく分らないけど、人が死んでしまったんですよね・・・何の罪もない。死ぬはずのなかった人が殺されてしまったんですよね。運動ってよく分らないけど、あたし・・・でも、賛成か反対かって言われると、賛成につきたくなるような・・・いつもそんな気がしてた・・・でも、この事件は何だか嫌な感じがする。とても嫌な感じ」(注)
そう言って、沢田の表情を確かめるように二度仰ぎ見るが、全く反応できない男がそこにいた。
少女と視線を合わせられず、反応する言葉を繋げずに、最後には後ろを向いて、沈黙に耐える男の心情を精緻に描き出したこの描写は出色だった。
充分な「間」を確保した静寂な空間の中で放たれた少女の言葉が、本作を情緒的に流す愚に歯止めをかけるという意味において、物語で描かれた時代を伝聞の類でしか知りようがない山下敦弘監督の、本来的な相対化思考をギリギリの所で支え切っている。
それは、安直に、表現主体としての武装解除に流れない冷徹な視線の肝であると言っていい。
この言葉の重量感は、結局、本人の理想のイメージのうちに睦むような、「特定的な何者か」に成り損なった二人の若者の、その「敗北の青春」の様態を決定的に際立たせているという一点に尽きるだろう。
然るに、「敗北の青春」のその先に待つ、険しい人生のイメージをも予約させながらも、殺人教唆犯というラベリングを負わざるを得ない似非革命家とそこだけは切れて、大衆消費文化の時流に合わせて巧妙に方向転換した大手メディアを解雇され、初めて己が人生をサポートする何ものもない苛酷な状況に容赦なく呑み込まれることで、言葉の真の意味で、そこから開かれる未知のゾーンを切り拓き、「特定的な何者か」として自らを立ち上げていく批評精神の、その厳しくも、しかし固有なる実存的自由の価値を手に入れたと言えなくもないのだ。
それ故にこそと言うべきか、事件が容易に癒されぬトラウマとして、若者のナイーブな自我に張り付くであろうことを暗示させながらも、ラストカットの深い余情によって括られる物語は、世代を越えた普遍性を持ち得たと評価し得るだろう。
人間の本来的な脆弱さへの洞察力に富んだ佳作であった。
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川本三郎 |
「兄は最後に『あの事件は、なんだかとてもいやな事件だ。信条の違いはあっても、安田講堂事件やベトナム反戦運動、三里塚の農民たちの空港建設反対は、いやな感じはしない。しかしあの事件はなんだかいやな気分がする』といった。私はその『いやな気分』という言葉が忘れられなかった。それは私自身もまたかすかに感じていたことだったからだ」(「マイ・バック・ページ」平凡社刊)
(2012年1月)
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