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    4 か月前

2010年1月23日土曜日

ラスト・ショー('71)         ピーター・ボグダノヴィッチ


<青春映画のコアを包括的に吸収した「風景の映画」>



  1  「ノスタルジア」に縋るしか術がない、「衰退」という名の削られ方



 この映画が秀逸なのは、「風景の映画」としての包括力を持って、「青春映画」のコアの部分を巧みに吸収する表現力を構築し得たからである。

 「風景の映画」―― それは「土地の風景」であり、「時代の風景」であり、その時空で呼吸を繋ぐ「若者たちの心の風景」である。

 「青春映画」のコアの部分とは、「葛藤」、「友情」、「別離」(旅立ち)ということになろうか。

 「ラスト・ショー」もまた、大枠ではこの文脈を逸脱しなかったが、それ以上に、この映画は「風景の映画」としての独特の映像世界を構築していたのだ。

 「土地の風景」については、殆ど枯渇した石油発掘になお縋るような、テキサスの裏寂れた小さな町に吹く砂漠からの強風を描いた、ファーストシーンとラストシーンの描写に象徴される風景である。

 この無言の描写が、本作の本質を語っていたと言っていい。それほどに重要な描写だった。

 誰が何処に住み、誰と誰が男女関係を持っているかについて、大っぴらには言わないが、町の誰もが了解済みである情報網の見えないバリアに呼吸する、件の町を乾き切った砂塵が寒々と吹き荒れていた。

 その町の一画にある古い映画館に焦点を当てた映像からは、殆ど人影が見えなかった。

 このファーストシーンが、知的障害を持つビリーという若者の死を加えたラストシーンに繋がっても、益々、時代の繁栄から遠ざかっていくような、寂れたこの町の変わりにくさを象徴していたのである。

 
テキサス州の油井(イメージ画像・ウィキ)
また、「時代の風景」とは、1930年代に開かれた油田開発の大ブームによってテキサス州の経済を一変させたものの、主人公の若者の一人(デュエーン)が出征していくエピソードに現れているように、この町もまた、第二次大戦後に拡大された軍需経済に依存する以外に、町の経済を支える基盤が乏しい朝鮮戦争期の50年代初頭の風景である。

 そして、その時空で呼吸を繋ぐ「若者たちの心の風景」が淡々と記録されていくが、彼らの自我を押し込めた「その時代の、その町」の風景は、映像に丹念に記録されることもない、「ライオンのサム」と称されたかつてのカウボーイ(古い寂れた映画館主)の呆気ない死を境に、そこだけは予約されたかのような「衰退」のイメージを加速させていったのである。

 「風景の映画」としての包括力が、「若者たちの心の風景」をコアとする「青春映画」のエッセンスを吸収した映像、それが、「The Last Picture Show」という原題を持つ本作の内実だった。

 元より、このような小さな町の共同体社会の中では、大人の力は相対的に強大なので、多くの場合、その力に異議申し立てしたり、反抗したりする若者たちのエネルギーは希釈化されてしまうのだ。

 そこでは本来、青春特有の「仮想敵」の構築が成し得ず、従って、「仮想敵」に対峙する「味方」=「友情共同体」、或いは、「ホモソーシャル」を強力に立ち上げられず、彼らのその有り余ったエネルギーは、〈性〉への蕩尽に向かわざるを得なくなる。

 彼らは〈性〉への蕩尽の対象人格を漁るように求めて、内なるマグマを突き上げていくしかないのである。


 だから、「青春映画」としての「友情」の形成力がしばしば屈折し、〈性〉を巡っての内部炸裂を露呈することも多くなるだろう。

 ここに、三角関係を巡っての親友同士の激しい言い争いの事例を、映像の中から拾ってみた。

 「俺の女と寝たくせに・・・寝たさ」とデュエーン。
 「今も君の女か」とサニー。
 「俺の女だとも。別れたって、いずれ取り返す!そして結婚するんだ」とデュエーン。
 「じきに大学さ、恐らく二度と戻らんだろう。いいだろ、どうせ君とは結婚しない」

 自信を誇示するかのような、このサニーの挑発的言辞に、デュエーンはきっぱりと言い切った。

 「するさ、絶対だ」


 これは、恋人を寝取られたデュエーンが、親友と信じたサニーとのダイレクトに交した会話の一部。

 いずれも、本作の主人公の台詞である。

 この後のシーンは、二人が激昂して殴り合いの喧嘩となって、デュエーンが手に持っていたビール瓶でサムの顔を傷つけるという描写で、二人の友情の破綻を告げる苦いエピソードを挿入した。

 「一番バカなのは、何もしないで老いぼれることさ」

 これは、主人公らが尊敬する「ライオンのサム」が、サニーに語ったもの。

 サニーとデュエーンが、小型トラックでメキシコまでドライブに行っている間に、呆気なく逝去する「ライオンのサム」は、20年前に浮気した女に、自分がのぼせた行為を全く後悔しないという話をした後に放った、唯一の決め台詞らしきものがこの言葉だった。

 「青春映画」を、その時空の断面で切り取ったら、大して代り映えしない風景しか映し出されることはないだろう。

 従って、多くの「青春映画」が、〈性〉のみに関心を持つシークエンスを必要としてしまうのは当然なのである。

 さすがに本作は、ニューシネマの「青春映画」に相応しく、「再生」という名の予定調和に流れ込んでいくことなく、その町に住む者たちの関係もじわじわと削り取られていく「衰退」のイメージを描き切っていた。

 自虐的なまでに、一切の奇麗事の描写を削り切った本作の魅力は、そこにこそあった

 「衰退」する町に呼吸する者には、もう「ノスタルジア」という幻想に縋るしか術がないのだ。


ピーター・ボグダノヴィッチ監督(ウキ)
そういう映画だった。




 2  「風景の映画」としての「衰退」を象徴する、サニーの「喪失」と「沈鬱」 ①



 以下、「風景の映画」としての「衰退」を象徴する、ラスト10分の映像を再現してみる。

 「衰退」という名の圧倒的な削られ方を象徴する、サニーの「喪失」と「沈鬱」を完璧に映像化した、ラスト10分のシークエンスは、同時に、「風景の映画」としての本作を集約するあまりに痛々しい描写だった。

 既に、「ライオンのサム」を喪い、そのサムが経営していた映画館を喪い、恋人のジェイシーを喪った(注)サニーは、長く距離を置いていたデュエーンと再会するものの、朝鮮戦争に出征する彼をバスで送ったことで、唯一の親友まで失ってしまったのである。


 (注)デュエーンとの関係を壊す原因になったジェイシーと結婚の約束までして、駆落ちしようとハイウェイを疾駆したが、運悪くパトカーに捕捉されたことで、ジェイシーは家族の元に戻された。彼女のサニーへの思いも一時(いっとき)の気紛れであり、殆どゲーム感覚の乗りの、一端の大人を気取った遊戯だったのである。


 その日もまた、砂漠の乾いた風が小さな町を吹き荒れていた。

 
イメージ画像・ブログより
今や無機質のスポットでしかない、閉館した映画館に立ち寄ったサニーは、風が吹きすさぶ街路で大きな物音を聞いて、恐々と表に出て行った。ビリーの不在が気になったのである。

 
街路に出たサニーは、決してあってはならない信じ難い風景を視認した。

 彼がそこで見たのは、牛を運ぶトラックによる一つの交通事故と、路上に横たわるビリーの動かぬ身体。

 「砂嵐で見えなかった。こんな所で、箒で何をしてたんだ」

 トラックの運転手が、そう吐き捨てた。
 
 「何もしてない。この子は駄目なんだ。君の責任じゃない」
 「それは、そうだ」
 「薄鈍(うすのろ)だ、昔から。だから道に出てた」

 ビリーを知る町の住人たちは、悪意含みの言辞を捨てるのみ。

 「だが、箒で何をしてたんだ」

 自分の過失を認めないトラックの運転手が、自分の行為の重大さを希釈化させるべく、大いに怒る者のような傲慢な姿勢を崩さず、そう聞き返した瞬間だった。

 「道を掃いていたんだ!このバカ野郎!」

 サニーはそう言い放って、遺体となったビリーを、必死の形相で映画館の入口に運んでいった後、彼の顔に自分のジャンバーをかけ、ビリーが愛用していた野球帽をジャンパーの下にそっと差し込んだのである。

 「呆れたガキどもだぜ」

 そこにいた大人たちの中から、サニーを非難する声が追い駆けてきた。

 誰もいないビリヤード場にやって来たサニーの耳に、風で打ち付けるドアの乾いた無機音だけが侵入してきた。

 思えば、サニーのこの行動のみが、映像で描かれた、唯一の青春特有の反抗のエネルギーの表出だった。

 しかしそれは、青春を雄々しく立ち上げていくときの、その障壁としての「仮想敵」への確信的な攻撃性とは無縁だった。


 サニーは涙を滲ませた表情で、そのあまりに無機質な風景を見届けていたが、意を決したかのように、デュエーンとの友情の証であるオンボロ車に乗り込んだ後、振り切るようにして寂れた町を後にした。

 彼の行動は、自分の新しい未来が存在するかも知れない世界への旅立ちというイメージとも、全く無縁な迷走だった。

 彼はただ、自分の中で煩く騒いでいる、理不尽な状況に搦(から)め捕られている意識から一時(いっとき)解放されたかっただけなのだ。

 だから彼は、町を出なかった。出られなかったのだ。町を出るだけのエネルギーすらも、彼には枯渇していたのである。

 突き抜けたくとも、突き抜けられない閉塞感が分娩した自縄自縛のジレンマに、若者はもがき苦しんでいるようなのだ。

 
テキサス州のルート66(イメージ画像
沈痛な思いを映像に刻んだサニーは、Uターンして、自分が生まれたテキサスの小さな町の懐の内に戻って行った。



 3  「風景の映画」としての「衰退」を象徴する、サニーの「喪失」と「沈鬱」 ②



 彼が戻ったその先は、20歳以上の年もの離れた中年の愛人、ルースの家だった。
 
 元々ルースは、サニーのフットボールのコーチの妻で、そのコーチに頼まれて、サニーが彼女を病院に送り迎えする些細な出来事を契機に、二人はその形式的な関係を、愛情補填の性格を持つ男女関係にまで深めていったという経緯があった。

 恐らく、夫との関係でストレスフルになっていた自らの不満を吸収する対象人格として、高校生のサニーが彼女によって偶発的に選択されたのである。

 
ジェイシー
サニーもまたそのとき、およそ相性がフィットしそうに見えないガールフレンドと別れたばかりであった。

 性欲の捌け口を見い出せない青春期特有のストレスを抱え込んでいたサニーには、親子ほども年齢が離れたルースとの関係を開くに足る、相応の心の隙が存在していたと言えるだろう。

 そんな彼にとって、自分にとって最も身近な関係を崩されていく理不尽な喪失感が、遂に、ビリーの事故死によって沸点に達してしまったのである。

 全てを喪った彼にはもう、自分が捨てた中年女が住み続ける小さなスポットしかなかった。

 捨てたものを拾いにいくという感覚ではなく、この若者は、ただ単に、現在の理不尽な喪失感を少しでも埋めたかったのだ。

 そのとき、バスローブ姿で玄関に現れたルースは、サニーを見て、困惑するような複雑な表情を浮かべた。

 「コーヒーを下さい」

 サニーは、その一言を口にしただけ。

 「いいわ」

 そう言って、ルースはサニーの訪問を受け入れた。

 「こんな姿で悪いわね」とルース。

 自分が捨てた中年女を慰撫するような気の利いた言葉を持たないサニーは、テーブルの前の椅子に凭(もた)れ掛かるように座った。

 ルースはコーヒーをカップに注ぎながら、次第にワナワナと手が震えてきて、遂には、それをキッチンの戸に投げつけて叩き割った。

 「今更、何よ!なぜ私が、謝らなきゃならないの!3ヶ月も謝り続けよ。来もしないあなたにね!バカだわ!あなたこそ、あのとき来てくれたら、着替えて待っていたのに。こんなにしたのは、あなたよ。ビリーの死で、全てを水に流せと言うの?あなたは、私と同様にビリーも捨てたのよ。彼を犬のように捨てたまま、ジェイシーの所へ。年をとった醜い私なんか、ほっとけばいいと思ったのね。私は邪魔ね。愛してくれないし。見て!目も上げられないの?」

 サニーは、その言葉に緩やかに反応した。

 彼女の方へゆっくりと顔を向け、黙って見詰めたのである。しかしその顔には、沈鬱な表情がなお延長されていた。

 「分る?来ても無駄よ。私の心も離れたわ。あなたが、全てを壊したのよ。今更、求めてもね」

 サニーは、深々と思いのこもったルースの言葉に少しばかり反応を増幅させて、彼女の小さな両手の上に、無言のまま静かに手を添えた。

 ルースは、縋りつくように絡み付くサニーの手を握り返し、その手を自分の頬に涙ながらに引き寄せて、一瞬、嗚咽した後、かつてそうであったような静かな表情を復元させた。

 そして、サニーの服の襟を直しながら、簡潔だが、しかし包み込むような母性言語を結んだのだ。

 「もういいのよ、何もかも」


 それでもなお、全く晴れることのないサニーの表情を映し出したまま、この抜きん出て印象深い映像は、情感系のBGMを挿入することなく、静かにフェードアウトしていった。

 フェードアウトした映像に重なるように、明日の呼吸を繋ぐしかない町の乾いた風景が浮き上がってきて、砂塵吹き荒ぶファーストシーンの、その殺伐とした風景の内に円環的に流れ込んでいった。

 オーソドックスな映像を記録するカメラは、物語の中枢となった寂れた映画館にシフトしていき、そこで閉じていったのだ。



 4  「喪失」と「沈鬱」の重量感を支え切った「ビリーの事件」



 本作の中で、印象深いエピソードがあった。

 「ビリーの事件」がそれである。。

 それは、知的障害を持つビリーに関する、「ラスト10分間のシークエンス」以外で唯一のエピソードだが、この描写の重要性を無視できないので、以下、詳細に言及したい。

 「ビリーに女を教えようぜ」

 全ては、この悪乗りの計画から開かれていった。

 言語障害のある本人を前にそう言って、女に飢える高校生たちが、本気とも冗談ともつかない計画が遂行されるシーンが、本作の前半部分に挿入されていた。

 結局、1ドル50セントで「請け負った」スーという名の商売女を、彼らはビリーに充てることを決め、「童貞よ、さらば」という掛け声のもとに、無理やり、ビリーを狭い車内に閉じ込めたのである。

 ビリーを閉じ込めた車内には、肥満の女が待っているだけ。

 その際、高校生たちによってズボンを脱がされたビリーに対する、夜の闇のスポットの、そこだけは不埒な欲情が渦巻いている下品な世界で、ビリーを餌食にしたかのような悪ふざけが遂行されたのだ。

 「バカだね、やり方も知らないよ!」

 車内から、女の甲高い声が聞こえてきた。

 その声を耳にする悪ガキの高校生たちの中には、デュエーンもサニーもいた。

 車外にいて様子見の彼らは、「がんばれ!」と囃し立てるのみ。

 結局、多くの初体験の男がそうであるように、肝心の女の膣にペニスを挿入できず、早々と射精してしまったビリーの不手際に怒った女が、ビリーの顔に一撃のパンチを加えて、哀れな少年を車外に放り出してしまったのだ。

 それを視認するサニーの沈鬱な表情が画面に映し出されて、意に沿わぬ行為に加担した者の悔いの思いが晒されていた。

 そのサニーは、車外に放り出されたビリーの傍に真っ先に走っり寄って、彼を保護した。

 
ビリー
そして、この「ビリーの事件」には、極めつけの後日談があった。

 「の事件」を知るや、ビリーを弟分のように庇護する「ライオンのサム」の怒りが、静かに爆発したのである。

 サムはビリーの顔に傷があるのを見て、その事情を高校生たちに詰問した。

 「誰が殴ったんだ。ビリーには、喧嘩はできない。サニー、お前か」
 「僕らじゃない」とサニー。
 「スーだ」と他の高校生。
 「ビリーが、なぜあんな女に」とサム。
 「初体験にと、皆でスーを充てがったんだ。けど、殴られた」
 「行け、お前らの顔は見たくない。哀れなビリーを、笑い者にするとはな。お前らは昔から癖が悪い。もう、許さんぞ。この店に来るな。食堂にも、映画館にもな。二度と来るなよ」
 「苛める気じゃなかったんだ、サム」とサニー。
 「顔も洗ってやらんのか」とサム。

 サムの言葉の矛先には、自分を慕うサニーへの特別な視線があった。

 そのサムの、人間性の有りようを鋭利に突く決定的な言辞に対して、全く反応できないサニーが、そこに茫然と立ち竦んでいた。

 繰り返すが、若者たち、とりわけサニーにとって、「ライオンのサム」の存在それ自身が、自分たちが憧憬する、「あるべき大人」の規範を体現する代えがたい絶好のモデルだったのである。

 高校生たちを殴ることも、声を荒げることもなく、彼らの犯した行為の誤りを指摘する男には、人間が犯してはならない規範の大切さを、その人格総体の切っ先鋭い押し出しによって身体表現するのだ。


「ライオンのサム」
「ライオンのサム」の存在は、「古き良きテキサス男」の、劣化しつつある一つの小さな精神的伝承を、次世代に繋ぐ格好の幻想であったということだ。

 その「ライオンのサム」が庇護する知的障害の少年の、その人生の困難な未来の運命を左右する者もまた、「ライオンのサム」の精神的伝承を繋ぐ次世代の若者、とりわけ、サニーのようなピュアな心を持つ若者でなければならなかった。

 「ライオンのサム」の急逝によって、少なくともビリーにとって、いよいよサニーの存在の大きさが増幅していったのだが、肝心のサニーの内側では、「失ってはならないもの」の「喪失」が続くことで、彼自身の自我の拠って立つ基盤が揺れてしまっていたのである。

 ともあれ、ビリーに関する、この唯一のエピソード。

 このエピソードこそが、ラスト10分間における、サニーの「喪失」と「沈鬱」の重量感を支え切っていたのである。
 
 何よりその事例の内に、本作の映像構築力の秀逸さが窺えるだろう。

 ラスト10分間の、あの決定的な描写のコアに、ビリーを喪ったサニーの哀しみが凝縮されていて、観る者はサニーへの感情移入を容易に果たすのである。

 「ビリーの事件」の悲哀な顛末が、サニーの「喪失」と「沈鬱」を決定付けていたからだ。

 ついでに言えば、軽快なテンポで流れない映像前半の冗長さについて言えば、ジェイシーの余計なエピソードが多過ぎたことにも原因の一端があるだろう。

 だからと言って、それが映像に漂う一種独特の、「風景の映画」としての空気感を壊すものにはならなかったのは、本作の映像構築力の秀逸さが抜きん出ていたからである。



 5  「青春映画」のコアを包括的に吸収した「風景の映画」  まとめとして



 本作は、サニーの「喪失」と「沈鬱」を残酷なまでに抉り出した、ラスト10分間に持っていくための映像だった。

 そこで抉り出された若者の「心の風景」は、「青春映画」のコアを包括的に吸収した「風景の映画」の象徴として切り取られていったのである。

 未来に希望を持ちにくい小さな町に呼吸する人々の閉塞感情は、主人公として選択された若者の、その「喪失」と「沈鬱」の「心の風景」を抉り出すことで、その「衰退」の様を描き切っていたのだ。


 かくまでに、主人公の「喪失」と「沈鬱」を描いた「青春映画」は、類例がないほどに突き抜けていた。

 前述したように、「衰退」していく町に呼吸する人々が、なおそこで寂れゆく共同体に縋りついていくには、「ノスタルジア」への存分な思い入れ以外ではないだろう。
 
 「ノスタルジア」という適応戦略の方法論が、人々にとって過剰なまでに必要とされたのである。

 だから映画は、過剰なまでにノスタルジックになり、その象徴として仮構された人格像である、「ライオンのサム」についての他愛無いエピソードは、実は、殆ど生命の律動感を持たない、乾燥した歴史博物館の一つのデータに過ぎず、且つ、それを継承する次世代の新しい息吹の内に、必ずしもタフな継続力を保証し得ないのだ。

 若者たちは一様に、〈性〉以外のものに関心を持たず、時代を開いていくほどのアメリカンドリームとは全く無縁な世界の中で、無秩序に動き回っているだけだった。

 「ライオンのサム」のスピリットが継承されない現実を検証したのは、彼の死のあまりに呆気ない、その簡潔な映像処理の手法の中で読み取れるだろう。

 葬儀に集まる町の人々は、彼の死に涙を寄せるだけで、それ以外の活力を開く描写が削られてしまっているのである。

 「テキサスは昔と違う。サムの死で何もかも変わった」

 この言葉が、この映画の本質の一端を語っていると言えるだろう。

 因みに、サムの昔の恋人であった女(ジェイシーの母)が洩らした、この言葉の背景には、ジェイシーとサニーによる婚前旅行のような駆け落ちの頓挫(彼女が置手紙を書いたため、親から委託された保安官にあえなく捕捉)という惨めな顛末があった。

 「全き過去の人」としての臭気が消えない、「ライオンのサム」が逝去したとき、もう人々には、「ノスタルジア」に縋りついていく生命力すらも、すっかり枯渇してしまっていることを示唆しているのだ。

 それが最終的に、サニーの「喪失」と「沈鬱」を描き切った、ラスト10分間に繋がっていったのである。

 そういう映画だった、と私は思っている。

(2010年1月)

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