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2010年7月2日金曜日

フィールド・オブ・ドリームス('89)       フィル・アルデン・ロビンソン


<反論の余地のない狡猾さを、美辞麗句で糊塗してしまう始末の悪さ>



序  奇麗事で塗りたくられた気恥ずかしさ



少なくとも私にとって、ここまで奇麗事で塗りたくられた映画を見せつけられたら、あまりの気恥ずかしさで、「勝手にやってくれ」と言いたくなる種類の典型的な映画。

しかし、本作で扱われた歴史的事実についての誤ったメッセージを読み取ってしまうと、「好みの問題」の範疇を超えてしまうので、詳細なプロットラインを検証しつつ、敢えて批判的に言及せざるを得ない問題作でもあった。



1  「神の声」に導かれたボールパーク



「僕の父はジョン・キンセラ。アイルランド名だ。1896年、ノースダコタ州で生まれ、大都会を見たのは、欧州から帰還した1918年。シカゴに住みつき、ホワイトソックス・ファンになった。1919年のワールドシリーズ敗戦で泣き、翌年、8人の選手の八百長事件では号泣した。

父自身、12年マイナーでプレーを。35年、ブルックリンに越してママと結婚。僕が52年に生まれた時は、もう年だった。

僕の名は、レイ・キンセラ。

3歳でママが死に、父が母親代わり。お伽話の代わりに、ベーブ・ルースや“シューレス”ジョー・ジャクソンの話を聞いた。父はヤンキース。僕はドジャース・ファン。ドジャースが越して、口論の種はベースボールを離れ、大学に進む時は、家から一番遠い大学へ。

父は僕の狙い通りに苦い顔をした。英語を専攻したが、時代は60年代。反戦デモとマリワナ。アニーを知った。彼女はアイオワ出身。卒業後、僕らは彼女の家に転がり込んだ。半日が限界だった。

僕らは74年に結婚し、その年、父が死んだ。やがてカリンが生まれた。農場を買おうと言い出したのは、アニーだ。僕は36歳。家族持ちで野球好き。その僕が農夫になる。あの“声”を聞くまで。僕は型破りなことを何もしたことがない」(筆者段落構成)

このナレーションによって、「奇跡の物語」が開かれた。

主人公のレイ・キンセラが、農場のトウモロコシ畑で「神の声」を聞いたのは、その直後だった。

“それを作れば、彼はやって来る”

これが「神の声」。

その「神の声」についての、夫婦の会話。

「親父にも夢はあったろう。だが、何もしなかった。“声”を聞いたかも知れないのに、耳を貸さなかった。何一つ冒険をしなかった。僕は、そうなるのが怖い。そういう冒険ができるのも、今が最後だ。野球場を作りたい」

それが、ローンを抱えている男が決めた、初めての型破りな冒険だった。

「でも、あなたが本気でそうしたいと思うなら、すべきよ」

アニーのこの一言で、全て決まった。


まもなく、町民の冷やかな視線が注がれる中、トウモロコシ畑の一角に、ボールパーク(アメリカの野球場)が作られた。

「今に何かが起きる」

レイは妻に、そう確言した。

「トウモロコシ畑の面積が減ったから、差し引きゼロよ。貯金は野球場で消えたわ」

妻の反応は、現実的な指摘に終始するが、夫を信じる気持には変わりない。

「野球場は維持できないってことか?」
「ここを手放すなら・・・」

“シューレス”ジョーが、ボールパークに出現したのはそのときだった。

レイ・キンセラのノックを受け、堪能する“シューレス”ジョー。

「追放された時は、体の一部を失ったようだった。夜中眼を覚まし、球場の匂いを鼻に感じた」

これは、“シューレス”ジョーの言葉。

今度はレイが投手になって、ボールを打つジョー。


まもなく、ジョーを含む「エイトメンアウト」の8人がボールパークに勢揃いし、ベースボールプレーを堪能するのだ。

それを見て楽しむレイと、娘のカリン。

彼らにしか見えない世界だった。



2  時代を超える長旅を繋いで



レイ・キンセラは、“彼の苦痛を癒せ”という「神の声」に導かれ、60年代に「愛と平和」を説いた、テレンス・マンというカリスマ作家の所在地であるシカゴヘ向かった。

テレンス・マンを強引に連れ出したレイは、マサチューセッツ州ボストンにあるフェンウェイ・パーク(ボストン・レッドソックスの本拠地球場)に行き、ベースボールを観戦する。

“やり遂げるのだ”


フェンウェイ・パークで、レイが再び聞く「神の声」。

二人はフェンウェイ・パークの電光掲示板に映ったメッセージを読み取って、「神の声」に誘(いざな)われ、ムーンライト・グラハムという名の無名の野球選手を探すことになった。

全ては、「神の声」の導きなのだ。

「君の情熱が羨ましい」

「神の声」の導きに真剣に動くレイに、テレンス・マンは洩らす。

そんな熱情を推進力にしたレイは、テレンス・マンを伴って、ミネソタ州にまで足を伸ばした。

しかし、グラハムを訪ねたものの、既に彼は他界していた。

レイが、老いたグラハムと出会ったのは、その夜だった。

後に、ウォーターゲート事件で失脚するリチャード・ニクソンの選挙ポスターが貼られ、「“ゴッドファーザー”公開」という看板が町に出ていた。

レイは、1972年にワープしていたのである。

1972年という年こそ、人道的なドクターとして地道な人生を歩んだグラハムが逝去した年。

「人生の節目となる瞬間は、自分では分らない。“また機会があるさ”と思ったが、実際は、それが最初で最後だった」

これは、最後までマイナープレーヤーだった若き日のグラハムが、レイにベースボールへの熱き思いを語ったもの。

本作で、最も言いたいテーマの一つがが、グラハムによって語られていた。

まもなく、二人はアイオワのボールパークに戻る車内にあった。

レイは14歳のとき、テレンス・マンの本を読んだことで、野球選手を望む父を裏切り、17歳で家出し、葬式に戻っただけと言う。

17歳のとき、「父さんは、犯罪者を英雄視している」というのが家出の理由。

"シューレス" ジョー・ジャクソン(ウィキ)
犯罪者とは“シューレス”ジョーのこと。

それを謝罪する機会を持てなかったレイは、自分の過去の苦衷を、アイオワのボールパークに戻る車内でテレンス・マンに語っていった。

時代を超える長旅を繋ぐレイの心象風景が、ここで映像提示されたのである。



3  「心の声」に導かれた、時代を超える長旅の終焉



そして、アイオワのボールパークに戻る途中、二人は一人のヒッチハイクの若者を同乗させた。

その若者こそ、若き日のグラハムだった。

その若者と共に、「エイトメンアウト」の連中は実戦形式のプレーをして、まるで子供のようにベースボールを愉悦していた。

一方、経営の危機にある農場では、ボールパークの売却が義兄に求められていた。

そんな中、娘のカリンは両親に奇妙なことを話した。

「皆がやって来る。方々からよ。誰だってお休みを取るでしょ?アイオワ・シティに行ってもつまらない。だからお金を払って、ここを観に来るわ」

その言葉を真に受ける母。そのお伽話を全く信じない義兄。

「野球が観れるわ。小さな子供に戻った気分になれる」

これも、カリンの言葉。

「皆、やって来るよ。何かに惹かれてアイオワに来る。何故か分からず、君の家を目指し、無心な子供に立ち返って、過去を懐かしむ。一人20ドル。皆、金を払うよ。金はあるが、心の平和がないのだ。子供の頃、そこから彼らの英雄を応援した。魔法の水に身を浸している気分でね。手で払いのけるほど、濃い思い出が蘇る」

これは、テレンス・マンの言葉。

更に、彼は続ける。

「長い年月、変わらなかったものは野球だけだ。アメリカは驀進するスチーム・ローラー。全てが崩れ、再建され、また崩れる。だが、野球はその中で踏み堪えた。野球のグラウンドとゲームは、この歴史の一部だ。失われた善が再び蘇る可能性を示してくれている。皆、やって来るよ」

この言葉に集約されている児戯的なメッセージも、作り手の主題の内に含まれているものだろう。

この言葉に触発されたレイは、土地を売却することを拒絶するが、その口論の最中に、カリンが怪我をしてしまった。

このとき、カリンを助けたのが、 “ムーンライト"グラハムであった。


ベースボールに興じていた若きグラハムは、そのラインを渡ったら戻れないフィールドを一歩踏み出して、70年代初頭のドクターに戻ったのである。

そして、その光景を見ていたレイの義兄は、レイがボールパークを作った意味が初めて理解できたのである。

当然、土地の売却の話は反故になった。

“シューレス”ジョーに誘われて、「エイトメンアウト」の「出入り口」であるトウモロコシ畑の「異界」の中に、テレンス・マンが消えていく。

彼もまた、「異界」の人間だったのか。


最後までボールパークに残っていた“シューレス”ジョーは、微笑みながら、レイに言葉を結んだ。

“それを作れば、彼はやって来る”

そのとき、ジョーが一瞬視線を向けた先に、ユニフォームを着た一人の若者が捕捉された。

「親父だ・・・」

思わず、レイは呟いた。

「君の声だ」

これは、“シューレス”ジョーの最後の言葉。

「神の声」は、レイの「心の声」だったのだ。

「夢が叶った気分だ」

後にレイの父親となる、若き日のジョン・キンセラがそこにいて、自分の果たせなかった思いを告げた。

映像が、その直後映し出したのは、父と子のキャッチボール。

最も言いたいテーマが、ここで明瞭になってくる。

ラストシーン。

どこまでも続くフリーウエーが、渋滞する車のラインを成していた。

「夢が叶う場所」に向かう車のラインである。

最後まで、奇麗事で押し切る映画のナルシズムが、それを求める者たちの格好の需要に見合って、執拗に騒いでいた。



4  本作の基本構造 ―― 「世代間の対立」を収斂させるスポーツ文化の決定力



「古き良きアメリカ」を象徴する、伝統的なスポーツ文化であるベースボールを介在にして、「父と子の物語」の復権を、もはやファンタジーという、ハリウッド映画の「最強の切り札」によってしか表現できなくなった悲哀を痛感させる一篇。

そこにはもう、「展開のリアリズム」という真っ向勝負によって、このような周回遅れ気味の基幹テーマを堂々と映像化できない、ハリウッド映画の疼きであり、限界でもあるだろう。

フィル・アルデン・ロビンソン監督(右)
それは、「何でもあり」のファンタジーなら、このような感動篇をなお供給し得る余地を残す限界性と言ってもいい。

本作で描かれた「父と子の物語」の復権を、内的に要請せざるを得なくなった背景には、いつの時代でもそうであるように、ここでもまた「世代間の対立」の問題であった。

但し、本作におけるベースボールの存在が、この世代間の対立を象徴するモチーフ以上の何かであるのは否定し難いだろう。

「ブラックソックス事件」と言われた、「エイトメンアウト」によって汚されたアメリカの精神を、なお価値あるものとして受け継いだ父と、その精神を相対化してしまった息子との距離は隔たるばかりだった。

ノースダコタ州で生まれ、シカゴに住みつき、ホワイトソックス・ファンになったばかりか、自らもマイナーでプレーをした経験を持つ父は、息子にベースボール・プレーヤーになることを望むが、叶わなかったのだ。

息子は父の期待を裏切り、17歳で家出し、父の葬式に戻っただけだった。

“シューレス”ジョーは、金はもらったけれど、八百長はしてなかった。

これが、父の信念だった。

「父さんは、犯罪者を英雄視している」

、“シューレス”ジョー
これが、息子の反発だった。

当然である。

金を受け取った限り、八百長なのだ。

ともあれ、以上の対立に表れているように、17歳の息子は、“シューレス”ジョーを拒絶することで、父子は永遠に顔を合わせることはなかったのである。

然るに、このエピソードは、単に父子の対立の象徴であるに過ぎない。

息子の反発の背景にあるのは、「古き良きアメリカ」を拒絶する、60年代文化のメンタリティである。

それは、反戦デモとマリワナに明け暮れ、アイオワ出身のアニーを知るや、卒業後、彼女の家に転がり込むという60年代特有のカウンターカルチャー的な流れ方である。

そのアニーもまた、居並ぶ町民の前で、サリンジャーと思しき者が上梓する著作の、そのカウンターカルチャーの価値を擁護するかの如き、過激なアジ演説をぶつて見せるのだ。


そのメンタリティを象徴する作家の一人として、テレンス・マンが登場することで、物語の中枢に時代精神の濃度の深い臭気を放っていく。

狷介(けんかい)とも思えるキャラで武装したテレンス・マンと旅をして、最終的に到達したのは、「ボールパーク」を開いた我が地である、アメリカ農業の代名詞たる大草原プレーリー。

それは、アメリカの「フロンティアスピリット」の物理的遺産とも言うべき原風景であり、まさに、この原風景をイメージさせる「尽きることなき夢へのチャレンジ」のフィールドそのものである。

「尽きることなき夢へのチャレンジ」を駆り立てたのは、この映画で繰り返し聞こえてきた、「神の声」。

それは、いみじくも“シューレス”ジョーに指摘されたように、息子であるレイの内なる叫びだったのだ。

要するに、こういうことだ。

厳しい農業経営が続く中で、妻子を抱える男は、ふっと過去を回想する時間を持った。

その回想を通して、自分の夢を果たせず、挫折した父の冒険心の欠如に気付く。

冒険心を持つには、父の年齢の制約が大きかったと考えたのだ。

しかし、そんな父も家族を養い、父なりに誠実に生きてきたことを実感できる年齢に、自分も近付いたのである。息子は36歳で、家族持ちで、野球好きだった。

しかし、遂に父は息子と折り合うことなく、他界してしまった。

男がそのことに思いを寄せたとき、心中で何かが変っていく。

自分が今置かれている農業経営の厳しさは、足が地に着く人間の生活の現実と向き合うことで、なお拠って立つ自我アイデンティティの基盤であるにしても、些か空理空論を主唱していた嫌いのある、60年代のラジカルなメンタリティを相対化させていくことができたに違いない。

そのとき、恐らく男は、初めて父の思いの内深くにまで這い入ることができたのだろう。

そんな内面的営為が、「あの“声”を聞くまで。僕は型破りなことを何もしたことがない」と自嘲する男に、内なる叫びを発進させ、動かしていったのだ。

その内なる声に誘われて、男は広々と続くトウモロコシ畑の一角をボールパークに変えたのである。


そして、そのボールパークで最初に出会った人物こそが“シューレス”ジョー。

まさに男は、このとき、家出した17歳の日々の苦い思い出を想起していたのである。

父子の深刻な対立の日々の果てに、息子は「父の支配域」を脱却し、帰郷することさえしない、自己基準に充ちた人生の軌道を突っ走っていったのである。

以上が、本作の基本構造である。



5  反論の余地のない狡猾さを、美辞麗句で糊塗してしまう始末の悪さ



以下、そんな本作を批判的に言及する。

「父子の和解」を中枢的主題に据え、そこに「夫婦愛」を包括する「家族の絆」、更に、「フロンティアスピリット」に通じる「夢と冒険心」、その「夢と冒険心」に届かなかった者や、或いは、そのプロセスで頓挫した者へのヒーリング、そして「純粋無垢」への「原点回帰」。

それらのテーマが大袈裟に語られる本作の厚顔さこそ、この映画の最も喰えないところである。

正直言って、奇麗事の連射を見せつけられた気恥ずかしさに赤面するばかりであった。

何より、感動を意識させて作った映画は厭味なのだ。

限りなくあざとく、狡猾であると言い換えてもいい。

子供騙しのファンタジーによって、「描写の自在性」を手に入れた特権をフル活用し、時代を縦横にワープする幽霊を次々に繰り出して、2時間弱のフィルムに如何なるエピソードをも貼り付けることができるのだ。

あとは、観る者の情感を巧みに印象誘導する映像構成の技巧さえあれば、このような「感動篇」は幾らでも量産できるのである。

普遍的に支持された「美徳」や「善」を声高に語り、それをインスパイアーしていく技巧者を、多分、ハリウッドでは「優れた映像作家」と呼ぶのだろう。

「現代の閉塞の闇」を突き抜けて、まさに「今」こそ復元すべきと信じる、「美徳」や「善」の声高な主唱を、単にストーリーテリング的な技巧のみで補完してしまう、この無恥・欺瞞・自家撞着。

それは、こんな愚昧で、そこに深い含意を読み取るべき何ものもない、直接的な表現による外連味(けれんみ)たっぷりの大芝居と出会っただけで、感涙に咽んでしまう大袈裟な時代の欺瞞性そのものなのだ。


観る者の多くを感涙に咽ばせたと言われる、“ムーンライト"グラハムについてのエピソードに至っては、その幽霊に逢着するまでサスペンスの筆致で誘導していった果てに、主人公の娘のドクターになることで、若きプレイヤーに戻れないという殆ど先読み可能な、馬鹿らしいオチまでつけた割には、テレンス・マンと主人公の大袈裟なロングドライブの、その内実の希薄さだけが露呈されてしまうのである。

そして、60年代に、「愛と平和」を説き、「純粋無垢」の10代を描いて隠遁したテレンス・マンは、“シューレス”ジョーのイメージに重なることで、「エイトメンアウト」の犯罪性を徹底的に削ぎ落していくのだ。

感動を意識させた映画の狡猾さの極致が、そこにある。

前述したように、“シューレス”ジョーが八百長とは無縁という把握自体が根柢的に誤っているのだ。

金を受け取ることを一貫して拒否したサードのバックが、「エイトメンアウト」に含まれる矛盾を突くなら理解できるが、金を受け取った“シューレス”ジョーが「八百長とは無縁」と言っても、それを証明する手立てがある訳がないのだ。


ジョン・セイルズ監督による「エイトメンアウト」(1988製作)という社会派映画では、その辺をきちんと描いていて秀逸だった。(画像)

“シューレス”ジョーの「純粋無垢」は、成人した自我に成り切れていない幼稚さ以外の何ものでもない。

「エイトメンアウト」では、「野球小僧」としての“シューレス”ジョーの思いをきっちり表現していて、観る者に訴える力を持っていたが、あろうことか、この愚かな映画では、“シューレス”ジョーを神の領域まで持ち上げてしまう始末なのだ。

“シューレス”ジョーはそれほど気高く、崇高だったのか。

呆れ返って、強制終了させる寸前までいったほど。

このような反論の余地のない狡猾さを、「純粋無垢」と、「大好きな野球を頓挫させられた犠牲者」というような美辞麗句で糊塗してしまうから、最も始末の悪い映画となった。

それらが、ファンタジーという表現技法によって何もかも希釈化され、単にこの類の映画を好む者の情感に訴えるだけの、究極の駄作のうちに収斂されていくという具合だった。

(2010年6月)

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