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    1 日前

2010年12月10日金曜日

ドクトル・ジバゴ('65)      デヴィッド・リーン


<「休眠打破の律動感」が閉塞していくとき>



1  詩人的感性が炸裂する、原作の放つ魔境の世界の毒気を感受して



本作は、「物語展開の偶然性への依拠」、「甘美なBGMの繰り返し」、「登場人物の交叉と別離の連鎖」など如何にも通俗的で、クラシックなメロドラマの典型の一篇であると言っていい。

然るに、「扇情的だがドラマの中身が薄い」というウィキペディアの、「メロドラマ」の挑発的な定義づけを仮に認知するならば、本作は「メロドラマ」の定義に収斂されないだろう。

「扇情的」でも、「ドラマの中身が薄」くはないからだ。

しかし、優に3時間を超える長尺の物語でありながら、観る者(少なくとも、私の場合)を最後まで飽きさせないで引っ張り切る力の源泉は、人間ドラマとしての骨格が固められているからである。

デヴィッド・リーン監督は、彼の他の作品同様に、本作においても、「時代の変転する大きな流れの中で翻弄される人間の非力さ」を、映像表現の問題意識の根柢に据えて丁寧に描き切っていた。

時代がどれほど目まぐるしく移ろうが、その時代に呼吸を繋ぐ人々の生活は、〈状況〉によって惹起された悲哀の束が剥き出しにされようとも、等身大の幸福を願う感情ラインにおいて、それを求める人々の思いの誤差は僅かでしかないだろう。

一貫して、ヒロイズムやナルシズムに情感系を丸投げすることをしない、デヴィッド・リーン監督の冷静で、客観的な筆致には揺るぎがない。

人間を見る眼の確かさが、余りある程に、この監督の内側に貯留されているからに違いない。

本作でも、物語の背景となった社会を映し出す筆致もまた、過剰なイデオロギーの入り込む余地を頑として拒んでいる。

デヴィッド・リーン監督
この基本的姿勢こそが、デヴィッド・リーン監督の映像構築の基盤となっているが故に、物語の中で必死に生きる人々の活写には抜きん出るものがあった。

そして何より、彼らが生きるロシアの自然情景(と言っても、原作に対する実質的パージのため、ロシア国内での撮影は許可されなかった)の素晴らしさは、物語の中を生きる人々の厳しさに相当のリアリティを与えていた。

ドストエフスキー文学で馴染み深い、個性的な人物造形の挿入も散見されて、「ロシアを去ることは死にも等しい」とまで言わせた、ボリス・パステルナークの詩人的感性が炸裂する、原作の放つ魔境の世界の毒気を、青臭さの抜け切れなかった日々を突き抜けた今、改めて高い鮮度をもって感受した次第である。



2  「休眠打破の律動感」が活写されて



私は本作を、「休眠打破の律動感が閉塞していくとき」という風に把握している。

右からトーニャ、ユーリー・ジバゴ、義父
「休眠打破」とは、厳しい低温が続く冬季から一気に解放され、それを「打破」するが如く長い休眠から覚めること。

冬季の長い低温期、即ち、「時代状況の厳しい変化の波」という低温期を必死に堪え、そこで奪われ、壊されなかった「体力」によって熱量を自給し、それを育て、そして気温の上昇と共に花芽を膨らませ、春季に一気に開花するのである。

映像の前半は、「時代状況の厳しい変化の波」に揉まれながらも、低温期を堪えていく人々が描かれていた。

狡猾な弁護士であるコマロフスキーの支配から脱して、革命の理想に燃えるパーシャ(後の革命政権下の独裁者であるストレリニコフ)と熱愛したとき、本作のヒロインのラ―ラは、コマロフスキーに銃丸の一撃を放った。

母の自殺未遂と、コマロフスキーによる凌辱行為という冬季の低温期を脱したのである。

また、革命政権から眼をつけられていた詩人のユーリー・ジバゴは、党の幹部に昇進していた異母弟の忠告に従い、妻のトーニャや義父らと共に、雪原を走る貨物列車による長い鉄道の旅を強いられた。

航空機より見たウラル山脈(イメージ画像・ウィキ)
それは、収容所送りになる男たちとの、ウラル山脈を抜けていく艱難(かんなん)な旅であった。

まさに、いつまでも続くような冬季の低温期を堪える、貨物列車による旅程の厳しさは言語を絶していた。

ユーリー・ジバゴは途中で白軍と誤認され、冷血無比なストレリニコフに尋問を受けるが、危ういところで救われた挙句、遂に白銀のウラルの世界に足を踏み入れたのである。

無念にも、ウラルのベルキノにある義父の別荘は既に革命政権に押さえられ、一家は小さな小屋を改造して、貧しくも充実した日々を過ごすことになった。

映像は、ここで初めて、ラッパ水仙の花が辺り一面に咲き誇る春季の風景を映し出した。

冬季の低温期を堪えた一家にとって、「時代状況の厳しい変化の波」の中で初めて手に入れた至福の日々であった。

しかし、至福の日々は長く続かない。

近くの町に引っ越して来たラ―ラと再会したユーリー・ジバゴは、初めて会って以来、彼女を忘れることができくなっていた。

ジバゴは妻のトーニャに秘匿して、ラ―ラとの逢瀬を重ねるが、妻との間に二人目の子供が身籠ったことを知ったとき、彼はラ―ラとの別離を決意し、それを本人に伝えるに至った。

ラ―ラとユーリー・ジバゴ
嗚咽に咽ぶ女との別離を振り切って、ジバゴは帰途に就く。

ユーリー・ジバゴがパルチザンに捕捉されたのは、その帰り道だった。

軍医を必要とするパルチザンにとって、ジバゴの捕捉は不可避だったのである。

ユーリー・ジバゴの人生は、一転して、厳しい低温期が続く冬季の世界に拉致されたのだ。

映像の中で、「休眠打破の律動感」が活写されていたのは、このシークエンスまでだった。



3  「休眠打破の律動感」が閉塞していくとき



映像はもう、ラッパ水仙の花が辺り一面に咲き誇る、春季の風景を映し出すことをしなかった。

殆ど最後まで、凍傷の恐怖と地続きの、苛酷なる冬季の世界が延長されていくのだ。

それは、「休眠打破の律動感」が狂い始めた風景が開く、時代状況の鋭角的な変容を物語っていた。

その後、パルチザンを脱走したユーリー・ジバゴはラ―ラと再会し、濃密な睦みの時間を共有するが、コマロフスキーの唐突の訪問によって蜜月の日々が終焉する。

「明日、銃殺隊が来るから、君たちを逃がしてやる」

今や、革命政権下の司法幹部になったと称するコマロフスキーの言葉だ。

ジバゴはコマロフスキーに世話になることを拒む思いからか、それとも既に失脚した挙句、自殺したとするストレリニコフの妻であるラ―ラの立場の不具合ゆえに、彼女と一緒に逃げることが彼女のリスクを高めると判断したためなのか、結局、彼はラ―ラとの別離を選択したのである。

ジバゴ自身が、紛う方ない反動詩人の烙印を押されているのだ。

従って、ジバゴの一家もまた、反動詩人の家族としてモスクワに移送され、本人の思いとは無縁に、よりディストピアへと流されゆく物語の陰画的な展開は加速する一方だった。

ユーリー・ジバゴは、家族との再会の可能性をも断たれてしまうのである。

それは、「時代状況の厳しい変化の波」という由々しき低温期が、歴史的に固まっていく社会を投影するものだった。

「休眠打破」の熱量の自給の余地すらなくなったとき、人々はもう時代の荒波にインボルブされて、その流れの方向に持っていかれる以外に生きる術を手に入れられなかったのである。

休眠を打破できなくなったとき、世俗を包括する森羅万象が、厳しい冬季の低温期を延長させていくしかなかったのだ。

結局、「休眠打破の律動感」が閉塞してしまう時代の流れと、その流れに翻弄される人々の悲哀が重なっていく物語が閉じていくのである。

「早く決めてくれ。どっちの暴徒が支配者になるんだ」

これは、ユーリー・ジバゴの伯父が娘のトーニャに吐露した言葉。

白軍と赤軍の内乱の渦中で、まさにこの言葉が、政治と無縁に生きている者の思いを象徴していたと言えるだろう。

「休眠打破の律動感」が閉塞していくとき、もうそこには、自らが渇望する春季の風景の堅固な扉を抉(こ)じ開けられず、苛酷だが、それ以外に馴染めなくなっているだろう、その風土に呼吸を繋ぐ者たちの、ちっぽけな存在を鷲掴みにする流れ方に身を任せる以外になくなっていくのか。


ラッパ水仙の花・(イメージ画像・ブログより)
ラッパ水仙の花が辺り一面に咲き誇る春季の風景を、観る者を圧倒させて止まない映像の「点景」にして、殆ど身体全身が凍てつく冬季の風景によって埋め尽される、本作の隠れた主役は、まさしく、「ロシアの厳しい自然情景の風景」であったということだ。



4  ドストエフスキー的人格像、或いは、「アトラクティブ・スマイラー」



そんな中で、時代の流れに翻弄されず、寧ろ、それを利用して生きていた二人の人物造形が興味深く拾われていた。

言うまでもなく、コマロフスキーとストレリニコフである。

まさに、ドストエフスキー的な文学に登場する人物である。

コマロフスキーは言い切った。

「男には二種類しかない。高潔で純粋。世間からは表面は称賛され、その実、軽蔑される人種。そして不孝の繁殖源だ。特に女を不幸にする。もう一つは、確かに不純だ。しかし“生きている”」

これは、コマロフスキーが、ラーラへの結婚を申し込みに来たパーシャについて、ラーラに言った言葉である。

彼は、「革命」かぶれのパーシャのことを、「高潔で純粋。世間からは表面は称賛され、その実、軽蔑される人種」と決め付け、その対極にいる自分の存在価値を、「不純」だが“生きている”人間と称したのである。

コマロフスキーとラーラ
だから、「俺だけがお前を幸福にする男だ」と言いたいのだろう。

しかし、観察眼の鋭利なコマロフスキーの、この把握は半分は的を射ていたが、肝心の半分、即ち、自分の存在価値については誤っていた。

冷血無比なストレリニコフ像は、「高潔で純粋」である「特攻精神」の自我に往々に張り付く「イデオロギー」の過剰さが、「世俗の知恵」を身につけるプロセスの中で、一見すると、真逆にも見える人格像を立ち上げていくお馴染みのパターンであると言っていい。

私の定義によると、「イデオロギー」とは、特定の価値観に情感系を丸投げすることである。

それ故、自らが依拠する特定的価値観に背馳(はいち)する、他の一切の価値観を否定する域にまで支配領域を広げた、「イデオロギー」という名の虚構の観念系に固執する者の基本的態度は、いつしか自制困難なまでに過剰な暴れ方を垂れ流した挙句、いつしか、真逆の人格像を立ち上げていくパターンをも作り出してしまうのだ。

なぜなら、特定の価値観に情感系を丸投げすることによって手に入れた権力の主体のうちに、当然、過分な情感系が生き残されるので、自分の拠って立つ「イデオロギー」に背馳する者に対するイメージが、「不純」という人格像に結ばれるとき、そこに「異端者」を排除し、「粛清」する恐怖政治が遂行されるだろう。

まさに、ストレリニコフの場合が、その典型であったと言える。

その意味で、ストレリニコフに対するコマロフスキーの観察眼は間違っていなかったのである。

ところが、「俺だけがお前を幸福にする男だ」という傲慢な発想については、明らかに外れていた。

それは、ラーラという女性の本質を理解できなかったと言うよりも、彼女に対する感情の強さが彼の観察眼を曇らせてしまったのである。

本作の中で、ラ―ラと最近接した男たちが、一様に彼女に惹かれていくエピソードを見る限り、ラ―ラという女性は、「アトラクティブ・スマイラー」であったと言えるだろう。

「アトラクティブ・スマイラー」とは、「微笑で魅了できる人」ということ。

この言葉には、「異性を惹きつけるスマイル」という含みもある。

本作で、「スマイル」の描写が殆ど見られないラ―ラだったが、特段の「営業」をすることなく、彼女が「異性を惹きつける魅力」を有する女性であったことは確かだろう。

それらの印象が、彼女の人間としての価値を全く貶めるものになっていないのに関わらず、自分に最近接して来る男の「不幸」を惹起しさせるに足る、一種、「魔性なる何か」が、彼女の人格像に張り付いていたこと。

ある意味で、それこそが、彼女の「不幸」であったと言えるかも知れない。

そう思った。

(2010年12月)

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