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    1 日前

2010年8月27日金曜日

カメレオンマン('84)      ウッディ・アレン


<「過剰適応」の極点としての「同化」という「適応戦略」の自家撞着>




1  「狂騒の20年代」の特段の「ヒーロー」としての「人間カメレオン」



未曾有の大衆消費社会を具現した「狂騒の20年代」は、次々に「ヒーロー」が現れては消えていく時代だった。

「ヒーロー」を作り出し、それを消費する速度においても未曾有の時代だったのだ。

そんな時代が生んだ格好の「ヒーロー」こそ、周囲の環境に完璧に順応してしまう「人間カメレオン」。

本名はレナード・ゼリグ。

「人間カメレオン」の名は、精神を順応させてしまうばかりか、身体まで変容させてしまうことに由来する。

「人間カメレオン」が、「狂騒の20年代」の特段の「ヒーロー」になったのは必然的だった。


中央がレナード・ゼリグ
彼をモデルにした「チェンジグマン」という映画まで製作され、彼に関わる様々なグッズが商品化され、CMソングまでできる始末。

その「人間カメレオン」の命名者は、女医のユードラ・フレッチャー博士(トップ画像)。

以下、彼女のレナード・ゼリグへのカウンセリング。

「一緒にいる人と同じになろうとするのは、なぜ?」とフレッチャー博士。
「安全だから」とゼリグ。
「安全、というと?」
「皆と同じなら安全だ」
「では、安全のために?」
「好かれるためもある」

このカウンセリングを通じて、フレッチャー博士はレナード・ゼリグの奇怪な現象を、器質説を唱える反対論に対し心理的な因子にあると考え、彼のその症状を「人間カメレオン」と命名した。

更に、レナード・ゼリグの原点を探るカウンセリング。

「いつから周囲の人と同化するようになったの?」とフレッチャー医師。
「小学校のとき、できる生徒たちに『白鯨』を読んだのかと聞かれた。まだだと言えなかった」とゼリグ。
「読んだふりを?体が自然に変化したのは?」
「数年前だ。聖パトリックの日。緑色の衣類を着ずにバーに入った。睨まれて、アイルランド人になった」

セントパトリックスデイ(ウィキ)
因みに、「聖パトリックの日」とは、アメリカのバーで出されるグリーンビールに象徴される、「緑」一色に染まるカトリックにおける祭日であると同時に、アイルランドの祝祭日で、「セントパトリックスデイ」とも呼ばれる。

閑話休題。

ゼリグを本来の自我に戻すための「白い部屋の実験」が、フレッチャー博士によって実施され、成功するに至るが、ゼリグのフレッチャーへの愛が確認された。

「お陰で僕は、爬虫類から抜け出しました」

このゼリグの至福は長くは続かなかった。

その後、ゼリグに既婚歴があることが繰り返し発覚し、「このトカゲ野郎!」という新聞の見出しが躍った。

それから次々に、「同化」していた時期のゼリグの不始末がメディアを賑わし、遂に彼は姿を消した。

ゼリグが「変身」していたときの不始末の告訴は10件前後にも上り、メディアは彼に対するこれまでの報道を一変させ、まるで「アメリカの敵」扱いの如き攻撃を加えたのである。

その挙句、ゼリグは当時、ヨーロッパで台頭しつつあったナチス党に潜り込むに至った。

「分りますね。ゼリグは人々に好かれたいと思う反面、皆と同じことになりたいと願っていたのです。つまり、例の『同化』なんですね。人々と同化するとしたら、ファシズムは打ってつけの舞台だったと言えるでしょう。個人は目立ちません。大勢の中の名もない一人になれるのです」

ソール・ベロー
「その日をつかめ」等で著名なアメリカの文学者である、このソール・ベローの鋭利な分析が、ゼリグの「同化」の本質を説明しているだろう。

ゼリグへの想いを深めるフレッチャーはヨーロッパに行き、ゼリグと共にファシズムのドイツを脱出した。

その手段は、パイロットに「同化」したゼリグの操縦による、飛行機での大西洋横断の快挙を達成して、帰国するという離れ業。

再びメディアにヒーロー視され、国民から熱狂的歓迎を受けるに至った。

ゼリグとユードラの結婚によって、「変身」の必要のない幸福な生活を送ったのである。

「死ぬ間際の、彼の最後の言葉は、『最近“白鯨”を読み出したのに、結末を知らずに死ぬのが残念だな』」

これが、ラストキャプションだった。



2  「過剰適応」の極点としての「同化」という「適応戦略」の自家撞着



ここでは、本作の基本構造を心理学的に考えてみたい。

黒人に変容するレナード・ゼリグ
まず「同化」とは、自分の身の安全を守り、相手の好感を手に入れるための「過剰適応」の極点であると把握したい。

レナード・ゼリグは、冒頭部分のナレーションで説明されていたように、その不幸な家族構成の中で(注)、暗鬱な思春期を過ごして来た。

これが、「過剰適応」を内的に要請する最大の心理的因子になったに違いない。


(注)「父親のユダヤ人は妻との不仲で、46時中喧嘩をする日々を送る。ゼリグ自身、反ユダヤ人の子に苛められ、両親から庇われることもなく、暗い戸棚に閉じ込められ、殴られることもあった。兄のジャックは極度のノイローゼ、姉のルースは万引きの常習犯だった。ゼリグだけは、何とかこのまま乗り切れそうに見えた。しかし、次第に強く奇行が目立つようになった」(ナレーションの要約)


重要なことは、「過剰適応」の極点としての「同化」は、彼の内側に蓄えられた個性を抑圧する「適応戦略」であるということだ。

恐らく、少年期を暗鬱にさせたであろう、彼の家族構成の不幸な様態への恐怖を潜在化したゼリグにとって、個性を抑圧することで〈状況適応〉を具現する戦略は、「同化」の中で自我を希釈化させる催眠効果を伴うので、「心地良き逃避」を延長できるのだ。

個性を抑圧し、〈状況適応〉が内的に要請される只中で対象人格に「同化」していくには、それを遂行するための戦術が必要だった。

これを「自己催眠現象」と呼んでおこう。

この「自己催眠現象」は自我の縛りを緩くする。

左がレナード・ゼリグ
自我の縛りを緩くすることは、自我によって封印されていた潜在的な感情を引き摺り出してくる危うさを持つ。

そして、対象人格への「同化」は基本的に疑似キャラクターを仮構することなので、そこには対象人格と同質の知的密度を確保する必要もないし、対象人格が持つその人格的責任感覚をも希釈されるだろう。

これが「自己催眠現象」という戦術によって遂行されるから、「同化」した当の疑似キャラクターは、自らが関わる状況下で、却って多くのトラブルを惹起させることになるに違いない。

要するに、「過剰適応」の極点としての「同化」を強化し、延長させていく行為は、極めてハイリスキーな行為であるということなのだ。

以上の文脈が、本作で描かれた「カメレオンマン」に関する基本的な人格構造である。

このような人格構造が、私たちの世界で学術的に検証され、確認された文脈を持たないことは自明である。

だから本作は、一級のコメディとしての眩さを放つのだ。

中央がレナード・ゼリグ
作り手のウッディ・アレンは、様々に複雑な人間関係に囲繞される状況のうちに「最適適応」するために、現代社会で自分の個性を相対的に削り取って呼吸を繋ぐ者たちの、その「過剰適応」の有りようを風刺し、皮肉るために、このようなマキシマムな物語を構築したのだろうか。

本作の主人公であるレナード・ゼリグは、自分の中で封印した深層心理を解析し、その自然な情動ラインを解放してくれたフレッチャー博士に、強い異性感情を抱き、彼女との関係を通して本来的な自我を復元させていった。

愛情が導いていった向こうに本来の幸福が待っていた、という予定調和の物語が成立するに至った。

彼は「白鯨」を読まなかったことを恥と考えない人格に戻り得たのである。

「過剰適応」することによって失うものの大切さを説くと同時に、それによって蒙るリスクの大きさを、いつもながらの毒気含みの擬似ドキュメンタリーによってまとめ上げたウッディ・アレンの手腕は、一級ののコメディを構築したと言えるだろう。

然るに、こんな風にも考えられないか。

大西洋横断の快挙によって、レナード・ゼリグが「同化」という弱点を救いに変えたというソール・ベローのコメントを聞く限り、必ずしも、「過剰適応」の極点としての「同化」という「適応戦略」をネガティブに把握していないようにも思えるのだ。

従って本作は、自らの作品に精神分析の手法を反映させるウッディ・アレンに色濃いペシミズムの自己像を、コメディの自在性を利用してマキシマムにデフォルメさせつつ、その人格総体を肯定的に皮肉る一篇でもあったと読むことも可能である。

更に、「ヒーロー」を作り出し、それを消費する速度や下品さの質においても、未曾有の時代を延長させている「現代」の「過剰消費」の構造と、それを煽り続けるメディア批判にリアリティを持たせるために、毒気含みの擬似ドキュメンタリーの手法を駆使したと捉えることもできるだろう。

ウッディ・アレン監督
いずれにせよ、観る者に、そのような「構え」を作らせるコメディを連射させる映像を構築する作家性の深さこそ、ウッディ・アレンの映像世界の魅力であるということ。

それに尽きる。

ともあれ、本作には賞味期限が存在しないという大方の本作贔屓(びいき)の人たちの意見は、早晩、映画史の中で検証されるだろう。

それほどの傑作だったと思う。

―― 以上の言及を踏まえて、最後に一言。

近年、問題視されることの多い「過剰適応」には、由々しきトラップがあるというのが、私個人の意見。

要するに、デフォルメされた本作の「同化」と同義にはなり得ない、仲間からの「視線の圧力」である「ピアプレッシャー」に必要以上に怯える、現代社会の「病理」とも言える「過剰適応」には、他の動物と比較して、適応能力において圧倒的な強みを持つ私たちホモ・サピエンスのうちに本来的に備わっていたであろう、地上を網羅する他の生活圏、異文化圏への適応可能性を劣化させるという自家撞着をも内包しているということだ。

(2010年9月)

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