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2010年10月6日水曜日

イヴォンヌの香り('94)      パトリス・ルコント


<〈生〉と〈性〉が放つ芳香に張り付く固有のエロティシズムの自己完結感>



1  「理性的契約関係」という観念を排除する感情が一気に沸騰して



名画と呼ぶには相当の躊躇(ためら)いがあるが、説明しない映像のイマジネーションのみで勝負した、如何にもパトリス・ルコントらしい印象深い映画を要約して見る。

―― 女の全身から放射されるフェロモンに誘(いざな)われて、男たちが群がって来た。

群がって来た男たちの中で、女によって特定された男が、女のフェロモンの中枢の砦である龍宮に侵入することができた。

男と女は、そこで極上の快感を味わい、至福の時間を作り出した。

〈向かう性〉を本質とする男は、〈受ける性〉を本質とする女の龍宮の世界で、しばしば演技含みの女の歓喜の絶叫を拾い上げたとき、男は決定的な錯誤に捕捉される。

女の〈性〉を支配し切ったという錯誤である。

男は明らかに、「需要」(男)と「供給」(女)の不均衡な関係を履き違えているのだ。

男の〈性〉の商品価値は、女のそれと等価であると看做してしまうのだ。

このとき既に、男は〈性〉の前線での勝負に負けている。

錯誤を延長させた男が、その後、他の男にフェロモンを放射する女のエロティシズムを視認したことで、嫉妬に駆られた男は、この辺りから非日常の〈性〉を日常性の秩序のうちにリンクさせようとした。

女は単に特定された男とのエロス的関係の稜線で、快感純度を高めるために睦み合ったに過ぎないのに関わらず、男は女のエロティシズムを丸ごと支配する者であるかの如く錯誤してしまったのだ。

男の中で何かが変容していく。

日常性の秩序のうちに退行させる「理性的契約関係」の契りを、女の人格総体との間で交わしたと錯覚することで、女の未来の時間をも規定し、把握することすら幻想していくのだ。

「向こうで暮らせば、幸せになるんだ」

男は女を一人前の女優にするため、アメリカ行きを一方的に決め、そこで足を地に着ける生活を求めたのである。

「良いわ。行きましょう。少し休んで」

一瞬の逡巡の後、女はそう答えた。

しかしそれは、二人を包む柔和な関係の空気が言わせた言葉に過ぎなかった。

このとき、女の内側で深く根を張る、「理性的契約関係」という観念を排除する感情が一気に沸騰していった。

女はもう、自己基準から顕著に乖離した、その不均衡な関係の世俗的な時間の延長に耐えられなくなって、突然、男の前から姿を消す。

置き去りにされた男がそこにいて、なお女を求めていた。



2  女と最近接した男たちの空洞感が晒されて



1958年夏、レマン湖畔での運命的出会いから12年経った。

女と出会った、天にも届かんばかりの眩い夏のひと時と完全に遮断された、ダークブルーに彩られた冬の映像が、壮年となった男の空洞感を映し出す。

激しく葛藤し、憎み合って別れた訳ではない女との関係幻想を、既に自我の奥深くに鏤刻(るこく)させてしまったために、男は12年経っても、女を求めてあてどもない彷徨を止められなくなったのである。

ここに二人の男がいる。

一人は、あの夏、女と深々と睦み合い、ロシアの公爵と名乗っていた男。

もう一人は、当時、ドクターを名乗っていたゲイの老人。

女と最近接したこの二人が、12年後に再会し、女の思い出を語り合う。

「恋人たちは、犯罪者同様現場に戻る。やっぱり冬か。一番辛い時期だ。愛し過ぎるのか。愛が足りないのが人間だよ。お互い、泥沼の中だな」

これは、ロシアの公爵に語った、かつてのドクターを名乗っていたゲイの老人の言葉。

「愛し過ぎるのか」という言葉の意味は言わずもがなのことだが、「愛が足りない」という言葉の含意は何だろうか。

私が思うに、「理性的契約関係」という観念を排除する感情を持ち、「その日暮らし」の快楽を求める女の人生に対する本質的な理解不足という文脈を読み取ることが可能である。

要するに、「愛が足りない」とは「愛の不足」ではなく、女が拘泥する「愛の形態」の未達成を意味するということだ。

加えて、ゲイの老人がロシアの公爵に語った直截な言葉がある。

「眼を放すなと忠告しただろう」
「放さなかった」
「じゃ、見つめ過ぎか。イヴォンヌはその日暮らししかできない女なんだ。それを見抜けていればな」

その日暮らししかできない女の本質を射た言葉である。

それは、その本質を理解していた老人と、それを見抜けなかった「青年公爵」との観察眼の落差を露呈する会話だった。

女の本質を理解していた老人は、激しい差別の中、ゲイで生きる者の自らの懊悩を自己完結させるためだったのか、「青年公爵」の目前で自殺したが、印象深い映像は、置き去りにされてしまった男の小さな笑みを残して閉じていった。

それは、もう女との思い出のみによってしか繋がり得ない、自分の〈生〉の現在を確認しているかのようだった。

同時にそれは、麻薬の如き「魔性の女」の快楽を被浴した者の、その喪失感の甚大さを容易に相対化し得ぬ辛さへの諦念でもあったのか。



3  〈生〉と〈性〉が放つ芳香に張り付く固有のエロティシズムの自己完結感



映像を簡潔にまとめてみる。

女の伯父の話によって露呈された、その不幸なる育ちの悪さから、固有の快感純度を高める消費を選択する生き方しかできず、特定化された男との「理性的契約関係」という観念を一切持ち得ず、従って、過去と未来を繋ぐ時間を生産的に構築していく生き方を予約する観念が、全く形成されることのない自我が、エロティシズムをその都度自己完結する生き方に流れ着いていった。

「需要」(男)と「供給」(女)の不均衡な関係の中で、女によって特定化された男は、女の〈性〉に深々と侵入し、その感情の濃度を高めていくに連れ、それが内包するエロティシズムの自己完結性との乖離を実感させられた挙句、置き去りにされていった。

女によって終止符が打たれた関係の中に、「生産的な時間の継続性」を保証する、「理性的契約関係」が忍び込む余地が全くなかったのである。

何より、その関係の変容が露わにしたもの。

それは全て、女の〈生〉と〈性〉が放つ芳香に張り付く、固有のエロティシズムの自己完結感を表現する何かだった。

感覚器官を騒がせる官能性の濃度の深い、「快感純度の極点に向かって振れていく〈性〉の一回的消費」、「継続的且つ、『理性的契約関係』の否定」、「生産的な時間の継続性の解体」という要素こそ、女の〈生〉と〈性〉の全てだったのだ。

それはまさに、イメージ喚起力によって情動を揺さぶる、人間のみに与えられた、本質的に心理的基盤を起動点にして、常に危うさを同居するエロティシズムの自己完結性の様態ではないか。

そう思わせる映像だった。

(2010年10月)

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