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2011年3月6日日曜日

ゆれる('06)           西川美和


<微塵の邪意も含まない確信的証言者の決定的な心の振れ具合>



  1  完全拒絶によって開かれた「事件」の闇



 本作は、ある「事件」を契機に、雁字搦めに縛りあげていた「圧力的な日常規範」から、自我を一気に解放していく心的過程を辿っていく者と、自在に解放された世界で自己運動を繋いでいた自我が、その解放への起動点になっていたはずの、ネガティブな「圧力的な日常規範」のうちに、柔和な情感文脈を感受していく心的過程の曲折を経て辿っていく物語である。

 そして、その両者が、非日常の〈状況〉の〈前線〉で情感的に絡み合い、憎悪を応酬し、複層的に捩(ねじ)れあって、振幅する心理の様態を精緻に描き切った一篇である。

 前者は兄で、その名は早川稔(以下、「稔」)。

 後者は弟で、その名は早川猛(たける)(以下、「猛」)。

 「ある事件」とは、渓谷の吊り橋での、「女性転落死事件」(以下、「事件」)。

 ここで、「事件」の顛末を書いておこう。

 父との折り合いの悪さの故に、早々と家を出た猛は、東京で売り出し中のプロカメラマンだが、母の一周忌に帰郷し、良好な関係を保時する稔と再会する。

口煩い父と共に、ガソリンスタンドを経営する稔は、温厚で誠実な真面目人間。

 その稔と猛の兄弟は、かつて猛と関係を持っていたと思われる智恵子を伴って、翌日、近くの山梨県の蓮見渓谷にピクニックに行く。

 ところが、川に架かる吊り橋で、智恵子が渓流へと落下してしまう転落死事故が起こったが、これがまもなく「事件」となり、智恵子を突き落とした容疑者として、稔が逮捕されるという事態に発展する。

 「事件」の一端を提示する映像が語るものは、吊り橋上で写真を撮る猛を智恵子が追っていく描写と、その智恵子を追っていく稔。

 実は前夜、自由奔放な生き方を愉悦する猛は、智恵子が仕掛けたと思われるハニートラップに嵌って、恐らくかつてそうであったように関係を結んでいた。

 智恵子の部屋で睦み合った直後の猛が、そこで視認したのは、何と猛の写真集。

 
智恵子
彼女の想いの深さを知ったプレイボーイにとって、智恵子は単に行きずりのセックスパートナーでしかないので、体良く退散した。

 夜半の帰宅でも、猛を待つ稔は、酒を飲めない智恵子の下戸ぶりを知悉した上で、鎌を掛けて言葉巧みに問いかけたら、案の定、猛はボロを出して、智恵子との「お遊び」が見透かされる。

 稔には、こういう狡猾な気性がある。

 それは、智恵子への片想いを抱く稔の、屈折した心理の表われだった。

 そんな稔が今、智恵子を追って吊り橋にまでやって来た。

 だが、高所恐怖症の稔が吊り橋に辿り着いたときには、既に猛は渓流に降りていて、問題の吊り橋には、智恵子の存在のみ。

 高所恐怖症の惨めさを露呈する稔は、惚れた女に縋るばかり。

 「チエちゃん、危ないよ」

 そんな稔の泣き言に、智恵子は止めを刺す一撃を放つ。

 「止めてよ、触らないでよ!」

 ガソリンスタンドを経営する稔に対する、従業員の智恵子の一撃は、猛のいる東京への脱出を覚悟した確信犯の振舞いだった。

 一切は、智恵子の、稔に対するこの完全拒絶によって開かれた。

映像は、吊橋から転落した智恵子を喪って、茫然自失する稔を映し出す。

 「事件」が惹起した瞬間だった。



 2  「圧力的な日常規範」 ―― 無機質な異臭を放つ風景への炸裂



 冒頭で前述した、「圧力的な日常規範」とは、被告となった稔が、拘置所の接見室で猛に吐露したような内実である。

 ここでは、「運命の兄弟」の間で交わされた重要な会話を拾ってみる。

 「圧力的な日常規範」 ―― それは、「世間」という狭い町で、「仕事は単調。女にはモテない」男が、バカな客に頭下げて帰宅すれば、「炊事洗濯、親父の講釈」が待つネガティブな世界である。

 
「運命の兄弟」が非日常の〈状況〉の〈前線〉で情感的に絡み合い、憎悪を応酬するシーンは、拘置所の接見室で炸裂する。

 以下、その最初のシーン。

 「俺が有罪になったら、どうなるんだろう?」と稔。
 「バカ、ならねえよ。何言ってんだよ。ネガティブに考えるなって」

 この猛の楽天的な反応に、稔は反駁する。

 まだ、彼の内側では、封印されていたディストレスの感情が抑制されていた。

 「ネガティブ?そんなんじゃないよ。俺、自白して良かったと思ってんの。あの狭い町の中でね、幼馴染の女、死なせたレッテル背負って生きていくって、どういうことか分る?」
 「何言ってんのよ、皆、兄ちゃんのこと知ってんだから。すぐに元通りたよ。皆、ちゃんと暖かく迎えてくれるって」

 別条のない猛の反応には、稔が住んでいる町の実態を知らない者の、アウトサイダー然としたオプティミズムが張り付いている。

 「お前があの町のこと、暖かいなんて変なの。まあ、あのスタンドで生きていくのも、この檻の中で生きていくのも大差ないなあ。バカな客に頭下げなくて済むだけ、こっちの方が気楽だ」
 「そういうこと言っちゃダメだ」
 「何で?お前がいつも言ってることじゃないか・・・所詮、つまらない人生だよ」
 「そんなことねえよ。兄ちゃん、立派だよ。俺は逃げてばっかりの人生だよ」
 「“つまらない人生”からだろ?」

 沈黙する弟。

この辺りから、「運命の兄弟」を囲繞する空気が変容していく。

 「お前の人生は素晴らしいよ。自分にしかできない仕事をして、色んな人に会って、いい金稼いで。俺、見ろよ。仕事は単調。女にはモテない。ウチに帰れば、炊事洗濯、親父の講釈。で、その上、人殺しちゃったって、何だそれ?何にも言い事ないじゃない。何で?何で俺とお前はこんなに違うの?」

 恐らく稔は、かつて吐露したことがないような心情を、自由奔放な都会暮らしを延長させている弟に吐き出した。

 「兄ちゃんは悪くないよ」

 それでも、稔の気持ちを正確に推し量れない猛の態度は変わらない。

 彼には、「血族」の深い紐帯とか、共同体の閉塞感という観念が形成されていないのだ。

 稔が、その自我の内側に封印していた感情を噴き上げたのは、そのときだった。

 「そんなこと、分ってるよ!俺ばっかしだよ!俺ばっかしだよ!」

 稔は右の拳を叩いて、大声を上げたあと、嗚咽したのである。

 「兄ちゃん、こんなとこ出よう。俺が出してやるから」

 炸裂する兄がいて、その炸裂を収拾できない弟がそこにいた。

 「言語交通」が絶え絶えになり、そこに滞留する澱んだ空気が小さな特定スポットを支配していた。

 弟に唾を吐きかけて、係官に連れて行かれる兄。

 拘置所の接見室での炸裂は、稔にとってそれ以外にない感情の騒ぎ方だった。

 この炸裂の背景を、「事件」直後の早川家の食卓風景の無機質な異臭を放つ空気のうちに、映像は切り取っていた。

 親子三人で囲む食卓の中で、突然、酒癖の悪い兄弟の父親が暴れ出し、稔に掴みかかった。

 この風景こそが、稔が根柢的に否定したい「圧力的な日常規範」だったと言える。

 それでも、「世間体」のみを気にして、大暴れするだけの父親に抵抗できない長男が、この日もまた置き去りにされたのである。

 それは、母親亡き後の、情感交流に乏しい、この親子の無機質な異臭を放つ風景を象徴するものだった。



 3  「ゆれる」女の変容に「ゆれる」男



最初の法廷場面で、智恵子の殺人を否定する稔の、蚊の鳴くような声での供述には、真実味が溢れていた。

 
稔は検事の詰問に対して、自分が猛に嫉妬感情を持っていたことを認め、しかし、失恋することの怖さで告白できなかった心情も吐露したのである。

 そして稔は、吊橋で智恵子の激しい拒絶にあった混乱から、彼女を突き飛ばし、手を差し伸べようとしたら、智恵子が後ずさりした直後に、突然、転落したと供述する。

 次の法廷場面で、精液鑑定の結果が判明した。

 
それによると、智恵子の膣の中に残っていた精液が、稔のDNAと不一致だったことが明らかにされたのである。

 それは、事件の前日に、智恵子が稔以外の男と性交渉があったとことを意味していた。

 「知りませんでした」

 その事実を法廷検事から突き付けられた稔は、そう答えるや、傍聴席に向かって深々と謝罪したのである。

 しかし、この振舞いだけは明らかに演技であることが、観る者に読解できるものだった。

 なぜなら彼は、猛と智恵子との関係を確信していたからだ。

 映像は、ここから大きく変容する。

 事態は、思わぬ方向に進展していく。

 「部外者」の立場を防衛的に保持していた猛の心が、この辺りから大きく揺れていくのだ。

 このとき、猛は、兄の稔が智恵子を吊橋から突き落としたことをイメージしていたが、自分が証言する立場に立たされることで追い詰められていくのである。

 この時点で、兄は弟を庇っている。

―― ここで、映像の構造について考えてみる。

「ゆれる」というタイトルの本作は、何を意味するものなのか。たとえ、そこに吊橋や渓流に象徴されるイメージが包摂されていたとしても、私たちは、この「ゆれる」というタイトルの意味を不必要に拡大解釈すべきではないだろう。

 テーマを拡散させてしまうからだ。

 それは、非日常の〈状況〉に搦(から)め捕られた自我が、周囲の人間関係や環境の変化に捕捉され、時には目立たないほど小さく、時には、決定的に露呈させてしまうような心の振れ具合を示すものと言えるだろう。

 本作の中で、この心の振れ具合に関与する者は、稔、猛の兄弟と智恵子の3人に限定していい。

 心の振れ具合を顕在化させた最初の起動点は、智恵子の非日常の振舞いであった。

 彼女は、まずハニ―トラップによって、猛と関係を持つに至る。

既に彼女の中で、これまで辛うじて支えてきたであろう物語が変容したこと。

それが、全ての発火点だった。

田舎の町の従業員として勤めていたガソリンスタンドを辞め、東京に行くことを望んでいた彼女が、その願望を行動に変換させる契機は、久し振りの猛の帰郷だった。

 恐らく、幼馴染の猛との間で、男女関係が存在する過去を持っていた彼女にとって、猛の帰郷は、不満を託(かこ)つ自分の〈現在性〉に対するバックラッシュの推進力になったはずだ。

 そんな彼女は、敢えて猛の前で、稔と親しくする関係を見せつけることで、プレイボーイの猛の性衝動に火を点けた違いない。

そして、その夜の二人の睦み。

その延長上に待機した、翌日のピクニック。


智恵子は、渓谷で猛と二人だけになったとき、彼に「秘密の共有」についての問いかけを発した。

 既に彼女の中では、「恋人としての猛」との、東京での生活への勝手な物語が作られていたように思われる。

 
 しかし、「行きずりの女」としての相手としか見なかった猛にとって、「秘密の共有」を迫られる智恵子の存在は鬱陶しいものでしかなかった。

 だから、彼は女から離れた。

 その女は、男を追った。


 そして、吊橋に辿り着いた。ところが、女の前に男が消え、女の後ろに別の男が付いて来た。

 
既に覚悟を決めていた女は、その男を拒絶した。

 女は、もう「ゆれる」ことはない。

 物語の決定的な変容を決意することで、女は、自分の上司である男を完全拒絶したのである。

 「ゆれる」ことを不要とする女の態度の予想外の変容に、今度は、男の心が決定的に揺れていく。

 拒絶にあった男の心が吊橋で揺れ続け、思わず、惚れた女を突き飛ばすが、その手を拒絶した女が転落するに至ったのだ。

 それは、「ゆれる」女の変容を目の当たりにした男の、決定的に揺れる変容の心理構造をなぞったものであった。



 4  微塵の邪意も含まない確信的証言者の決定的な心の振れ具合



決定的に揺れる変容を目の当たりにした兄を前にして、最後に、弟の心の振れ具合が顕在化されていく。

 ここで、非日常の〈状況〉の〈前線〉で情感的に絡み合い、憎悪を応酬するもう一つのシーンを再現してみよう。

 この場所もまた、拘置所の接見室。

 猛には、稔にとって有利に展開されていた公判での稔の供述内容に、少なからぬ疑問を感じていた。

 それは、猛が視認した吊橋での「事件」の想像と誤差が生じていた。

 猛こそ、「事件」の唯一の目撃者だったのだ。

 「事実を言えよ」と猛。
 「ずっと言ってるのに。事実って、もういいじゃない。だってさ、お前は俺の無実を事実と思ってる?違うでしょう?」
 「どういうこと?何言ってんの?」

 猛のこの反応に対して、稔は口に出してはならない言葉を放ったのである。

 「自分が人殺しの弟になるのが嫌なだけだよ」

 そこまで言われた猛の反応には、存分な感情が乗せられていた。

 「何だ、それ?信じられないよ!」
 「いいよ、どう考えようと自由だもん」

 突然、激昂する弟。

 「冗談じゃねえよ!やってられるかよ」
 「すいません。もう・・・」
 「何で、そうだなって、言ってくれないんだよ!何で、お前は俺を疑っていないって言ってくれないんだよ!」

 ここで、一瞬の「間」ができる。

 言葉柔らかに、シビアに言い切る兄。

 「初めから人のことを疑って、最後まで一度も信じたりしない。そういうのが俺の知っているお前だよ、猛」

 そこまで言われた猛は、「ふざけんな!」と叫び、椅子を叩きつけて出て行ってしまったのである。

 この情感ラインが、猛の証言の中に、そのまま持ち込まれたのだ。

 弟の裏切りの証言の中で、最後に弟の心が大きく揺れていく。

 吊橋での出来事を正確に視認していない弟の中で、常に二つのイメージが起こっていた。

  彼は法廷で、最も悪いイメージの方を証言してしまったのである。

 「僕は兄とだけは繋がっていたんです。それがすっかり変わってしまった。あんな巧妙な嘘をつく人間じゃなかったんです」
 「嘘とは何です?」と弁護士。
 「法廷での兄の発言です」
 「何を根拠に?」と弁護士。

 狐につままれれたような事態の出来に、兄弟の伯父に当たる弁護士の態度は、猛の証言への拒絶を身体化するが、これが却って弁護の説得力を希釈化させるに至った。

 以下、猛の証言である。

 「今まで、僕は何も知らない振りをしていました。兄のことを庇いたいと思って、そして、自分のことも庇って来たんだと思います。でも、もう嫌になりました。これを話すことで、僕と兄は引き裂かれて、二人とも惨めな人生を歩むことになっても、僕は元の兄を取り戻すために、自分の人生を賭けて、本当のことを話そうと思います」

 「僕は元の兄を取り戻すために、自分の人生を賭けて」とまで言い切ったのである。

 弁護士が、猛の証言を止めさせようとするが、裁判長が証言の継続を求めた。

 判決を決定づける猛の証言が開かれた。

「僕は吊橋の上で、千恵子さんに兄が詰め寄るのを見たんです。グラグラ揺れる橋の上で二人は揉み合って、彼女は兄に突き落とされました。悲鳴を上げて落ちていきました」

 弟を見て、笑みを浮かべる兄。

 激昂する弁護士。

 映像は、もうそれ以上、公判シーンを映し出すことがなかった。

 猛の証言は、明らかに接見室での稔との口論が影響を与えている。

 それは、人間が如何に、その時々の感情傾向で行動を結んでしまうかということを端的に示すものと言っていい。

 この映像は、本作の中で最も揺れ動いた者が、3人の当事者にあって、「事件」と最も最近接していなかった者であったことを露わにさせたのである。

 「自分が人殺しの弟になるのが嫌なだけだよ」

 この言葉が、決定的な状況で決定的な証言を結ばせたとき、その者は、自分の証言の決定力に対して、微塵の邪意も含むことのない態度を貫徹させていた。

 それは、「裏切り」を相対化させる防衛戦略の発現ではない。

 
その者は、自分の証言の決定力を利用して、決定的な状況を支配したのでもない。

その者は、自分の証言の決定力を理解した上で、確信的な証言者を立ち上げたのである。

吊橋での出来事を正確に視認していない、弟の中に隠し込んだ二つのイメージ ―― そのイメージの中から、その者は、その者を囲繞する〈状況〉の〈前線〉で、情感的に最的適応したイメージの「確かさ」に流れ込んでいっただけなのだ。

 それは、「人殺しの弟」になる現実への恐怖を制圧することで、「良心」の保持にも繋がったのである。

 だから、その者は、自分の「良心」の名において確信的な証言を結んだのだ。

 その者の不幸は、その者自身の心の振れ具合が、最大値を示した現実への認知に届かなかった様態にこそあるだろう。

 その者の決定的な証言によって、塀の中の非日常の生活に流れ込んだ者の自我の揺れ方は、既に公判シーンの渦中で、それ以外にない流れ方を固めていて、もう不必要な心の振れ具合を顕在化させていったが故に、決定的な証言を受容し、笑みまで浮かべて見せたのだろう。

 しかし、決定的な証言を結んだ者の心の揺れは、決定的な証言のうちに収斂されなかった。

 本人だけが、それを認知できていない。

 だからその者は、7年間もの時間を必要とせざるを得なかったのだ。

結局、この映画は、決定的な証言を結んだ者が、決定的に揺れていくまでの変容を描き切る物語であったことが判然とするだろう。

 その決定的な心の振れ具合については、5で言及する。

 蛇足だが、女の膣の中に残された精液のDNA鑑定の対象が、どうやら被告本人に限定されていたこと、等々、本作のミステリーラインの杜撰さについて、幾つか気になる点があったことを指摘しておく。

 それは、本作がどこまでも、限定された登場人物の心の振れ具合を描いた作品であることで了解する以外にないのか。



 5  「在り来たりの定番映画」を拒絶しただけの予定調和の括り方



 
法廷で決定的な証言を結んだ者の自我が、更に決定的に変容していく様態が、物語のラストに用意されていた。

 それは、塀の中で呼吸を繋いだ者が、7年間の服役を終えて出所する情報を、その前日に、猛がガソリンスタンドの従業員から知らされたことから開かれた。

 そのとき、猛は特段の反応を示さなかった。

 「俺や親父さんに、あの人を返して下さいよ」

 しかし、この従業員の一言によって、猛の内側が大きく揺さぶられる。

 実は、この布石こそが、ラストシーンの意味を決定付けているのだが、ここではスル―しよう。

 ともあれ、その一言は、猛の心を突き刺す鋭利な棘となり、その夜、猛が偶然手に取った8ミリ撮影機を映写するに至った。

 それは、昔、父が撮影したホーム・ムービーだった。

 テープに記録されていたのは、「事件」が惹起した問題の蓮見渓谷だったのである。

 そこで映されていたのは、児童期の兄弟愛と家族愛。

 ザ・ドリフターズの志村けんの物真似をして、戯(おど)けて見せる父。

 慈愛に満ちた母。

 そして、兄が弟の手を握り、岩登りを助ける場面がクローズアップされていく。

 そのときだった。

 男の脳裡に、吊橋の情景が唐突に想起されたのだ。

 兄の稔は、転落寸前の智恵子の手を握り、女の指は男の腕に必死に絡みついていた。

 兄は、女を必死に救おうとしていたのだ。

 そのイメージが鮮明に結ばれたとき、猛は自分の証言の重さを始めて知ったのだ。

咽び泣く男。

 このとき、男の心は最大値に揺れ動き、今、自分が為すべき行為が、出所する兄を迎える選択肢以外にないことを知るに至る。

 ―― ところで、映像が提示したこの回想シーンが、単に男の主観的なイメージの想起でしかないと判断することも可能である。

 しかし、そのような不文律違反を反故にする事実を認知しない限り、この映像は、最後まで欺瞞的な物語構成に終始したことを許容することになるのだ。

 だから、この回想シーンの真贋性について、観る者は疑義を呈するものでないことを認知すべきであろう。

 閑話休題。

 以下、猛のモノローグ。

 「誰の眼にも明らかだ。最後まで僕が奪い、兄が奪われた。けれど、全てが頼りなく、儚(はかな)く流れる中でただ一つ、危うくも確かにかかっていた、か細い架け橋の板を踏み外してしまったのは、僕だったんだ。今、僕の眼には明らかな風景だ。腐った板が蘇り、朽ちた欄干が持ち堪えることがあるだろうか」

 早暁、車を疾駆させる猛は、ガソリンスタンドの従業員を随伴し、兄を迎えに行くが、既に出所した後だった。

 諦めかけた猛は、歩道を歩く稔の姿を視認し、車を降りて、唯一の目的に向かって疾走する。


向かい側の歩道を、足早に歩く兄に向かって、叫ぶ弟。

 甲府行きのバスに乗るために、兄も走っていく。

 弟の叫びを捕捉できないのだ。

 ラストシーン。

 「兄ちゃん、ウチに帰ろうよ!」

 弟の声が届いたかどうか不分明だが、明らかに、弟を視認した兄は軽く笑みを返したが、映像は、ここでフェードアウト。

 物語の流れで言えば、兄はそのままバスに乗ったと考えられる。

 仮に、そこでバスを遣り過ごして、弟と何某かの会話を交叉したとしても、冤罪に対する責任意識に因る贖罪を済まし、自己解放を果たした兄の思いは、もう、弟の情感的な反応に容易に乗らないイメージを作り出していた。

 しかし、本作の作り手の含意を読み取るならば、限りなく予定調和のラインで、物語を括るという映像構成を視野に入れていたに違いないと思われる。

 それは前述したように、「俺や親父さんに、あの人を返して下さいよ」というガソリンスタンドの従業員の一言が、ラストシーンの意味を決定付ける布石になっていることが確認できるからである。

そして、弟のモノローグもまた、ラストシーンの文脈を補完する意味を持たせていたに違いない。

 詰まる所、本作の作り手は、予定調和のラインで物語を括るような、「在り来たりの定番映画」にしたくなかっただけなのだ。

 そんな含意を前提にすれば、物語の括りを観る者に委ねるという方法論は狡猾であると言わざるを得ない。

 少なくとも、私はそう思う。



 6  一気に自我を解放した兄がいて、大きく揺れ動き、ソフトランディングを果たした弟がいた



 結局、この物語は、本稿の冒頭で言及したように、以下の文脈によって要約されるものであると考えられる。

 もう一度、確認したい。

本作は、ある「事件」を契機に、雁字搦めに縛りあげていた「圧力的な日常規範」から、自我を一気に解放していく心的過程を辿っていく者と、自在に解放された世界で自己運動を繋いでいた自我が、その解放への起動点になっていたはずの、ネガティブな「圧力的な日常規範」のうちに、柔和な情感文脈を感受していく心的過程の曲折を経て辿っていく物語である。

 大きく揺れて、一気に自我を解放した兄がいて、更に、もっと大きく揺れ動いて、自らが捨てた過去に柔和なソフトランディングを果たした弟がいた。

 私にとって、本作はそういう映画だったのだ。

(2011年3月)

1 件のコメント:

マルチェロヤンニ さんのコメント...

時々、なんでこんな映画が生まれたのだろうと驚いてしまう作品に偶然に出会う事がある。偶然というのがミソで期待していなかったから、そういう衝撃を受けるのかもしれないが、「トト・ザ・ヒーロー」や「マグノリア」「バッファロー66」などは全く予備知識がないまま鑑賞して、座席のシートと背中が一体化してしまった。
「ゆれる」もそんな映画でした。
実は後にも先にも、結婚後に妻以外の女性と映画に行ったのもこの映画だけです(いけない。話が脱線しそうですが)。当然不純な動機を抱えた私は出来るだけオシャレな映画を選ぶつもりで、ミニシアターで公開されていた、名前のオシャレな俳優の映画を選択した訳ですが、結果は当然別のベクトルに頭が冴えてきてしまって、間違った道に進まずに助かった?のかもしれません。

実は私は非常にオダギリジョー演じる猛と似ています(顔ではないですが・・)。親のすねをかじり国内外を自由に旅し、落ち着いたところがカメラマンという所も同じです。
また、私には兄がいます。正確には中学生まで兄と思っていましたが、その後実の兄弟ではないと知らされた関係です。
私は何の屈託もなく接し、自分自身自由に成長してきたつもりでしたが、大人になってわかった事があります。兄はそうではなかったという事です。
説明のつかないような数々の出来事を通して結局私は家を出ました。
それ以来10年以上、親にも実姉にも、兄にも会っていません。
当時は香川照之の絶妙な力のない目つきが、まるで兄のようだなと思って鑑賞していた私が、気づけば時々あのような目をしている自分に気づく事があります。
映画の中の兄弟が最後まで容易には和解できなかった事、弟は自己中心的でもあり、且つ優しい心の持ち主でもあったところに、私としては胸を掴まれた思いで、本当になんでこんな映画を、それも女性監督が兄弟の心の深淵に迫ろうとする映画を作るのだろうと本当に不思議になってしまった作品でした。
今回の批評を読ませていただき、もう見る事もないなと記憶の奥の方にしまっておいた映画ですが、また見たくなりました。