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    4 か月前

2010年10月25日月曜日

生きてゐる小平次 怪異談('82)      中川信夫


<「追い詰められた鼠」が選択した自己防衛反応の究極の様態 ―― 或いは、恐怖感の本質>



1  異界なるものへの恐怖感に駆られて、日常性を崩壊させた男の爛れ方



本作は恐らく、容易に封印できない人間の深い欲望や執着心、それによって惹起される狂気のさまと日常性の自壊を描いたものだと思われるが、私には人間の恐怖感の本質を芸術表現のうちに描き切った秀作であると把握している。

「恐怖」こそ、「喜び」、「怒り」、「悲しみ」、「嫌悪」と共に、大脳辺縁系の扁桃体に中枢を持つ人間の基本感情であると言われるものだ。

「恐怖」の本質は、脳が発する信号によって、身体を安全な状態に保持する自己防衛反応であるとと言っていい。

本作の中で、異界なるものへの恐怖感に駆られて、自我を崩され、日常性を崩壊させていった囃子方(太鼓叩き)の太九郎の「悲劇」は、まさに言語を絶する恐怖感を身体化した者の爛れ切った姿だった。



2  脱出行の渦中で肥大する恐怖感の生々しい感情氾濫の中で



ここに、3人の登場人物がいる。

一人は役者の小平次、もう一人は囃子方の太九郎である。

そして3人目は、かつて大店の女房に収まりながら、逃げて来たおちか。

そのおちかは、今は太九郎の女房に収まっているが、小平次からの熱い恋慕の対象になっている。

「芝居遊び」に興じる3人は、幼馴染なのである。

中でも、格式の低い小劇場である緞帳芝居(どんちょうしばい)で、何とか食い扶持を稼ぐ二人の男は、本作の中で、繰り返し「一朝志を得たら」という表現を使っていることで判然とするように、大きな志を抱く野心家だった。

右から太九郎、おちか、小平次
しかし、小平次のおちかに対する恋慕が肥大するに連れ、3人の関係に微妙な亀裂が入っていく。

「俺の女房になってくれ」

小平次は、もうこの言葉を、おちかに対してダイレクトに表現するほどに感情統制が困難になっていた。

おちかは小平次に、「あの人は私に執着しているから無理よ」というクールな反応をするばかり。

しかし、遂に小平次は、太九郎との旅芝居に託(かこつ)けて、夜の沼の釣り船の中で、自分の想いを告白したのである。

「おちかをくれ」

おちかに対する小平次の想いを、恐らく薄々感じ取っていた太九郎は、自分の気持ちを無視するかの如きダイレクトな告白に逆上し、その場で小平次を殺害してしまった。

ところが、小平次を殺したことを女房のおちかに告白し、悔悟の念が生じたとき、あろうことか、夫婦が睦み合う蚊帳の中に小平次が座っていたのである。

殺人未遂になって一安心した太九郎の心に、再び、小平次に対する憎悪の念が惹起した。

「おちかをくれ」

小平次が執拗に迫っていったからである。

小平次の中で肥大した恋慕の執着心は、いよいよ止められないものになっていったのだ。

その心理を感受した太九郎は、釣り船での心理状況を復元させていく。

再び、太九郎は小平次を殺害するに至った。

しかし、この「確信犯」的殺人を認知した太九郎は、おちかを伴って、お上の捕縛を恐れて江戸を脱出する。

江戸を離れて各地を転々とする太九郎の心に、小平次への殺人の記憶が繰り返し蘇生するようになったのは、この脱出行の渦中であった。

「おちかをくれ」と呻くように肉迫する小平次の異様な表情が、太九郎の脳裡に深くこびり付き、次第に怯え切っていく。

普段は冷静ながら、こと「恋女房」のことに関する限り、太九郎の中の過剰な独占感情が暴れ出してしまうのだ。

ジョーク含みで、「三下り半を書け!去り状を寄こせ!」という、小さな恫喝を加えるゲームを愉悦するかの如きおちかの言葉に対して、太九郎は大抵、「この女!」と激情し、DVを常態化させていたが、脱出行の渦中で肥大する恐怖感の生々しい感情氾濫の中で、おちかに「助けてくれ!」と叫び、救いを求める行為が目立つようになってきた。



3  「追い詰められた鼠」が選択した自己防衛反応の究極の様態 ―― 或いは、恐怖感の本質



弱きな夫、太九郎の男らしくない態度に、おちかは愛想を尽かし始めていく。

「弱虫!ビクビクするな!」とおちか。
「心中しよう。死んでくれ。死のう」と太九郎。
「意気地無しの、太鼓叩きの人殺し。ハハハハ」

こんな悪罵を捨てられても、小平次の亡霊に怯え切った太九郎の自我は、肥大する恐怖感をコントロールできないのだ。

「小平次、許してくれ」

殆ど、嗚咽の中で呻くだけの太九郎。

「俺はもう駄目だ。足が痛くて歩けない。俺に構わず、先に行ってくれ」

更に、己が自我の拠って立つ安寧の基盤である「恋女房」のおちかに、ギブアップ宣言する始末。

「悔しいけど腐れ縁だよ。今は別れない。人の弱みに付け込んで、非人情になれるもんか」

肝の座ったおちかこそ、「男」そのものだった。

然るに、恐怖感の生々しい感情氾濫の中で、人は幾つのもの感情的なプロセスを経ると言われている。

著名な例を挙げれば、猫などの捕食者によって追い詰められた鼠が、逃走ルートが断たれたとき、突然、攻撃的な態度に転じるというケースがそれである。

人間は恐怖感の生々しい感情氾濫の中で、信じ難いほど従属的な反応をしながらも、その反応に効果を見い出せないとき、強大な敵に対して攻撃的になり、命を懸けて闘うこともあるのだ。

これは、興奮すると副腎髄質から分泌される、アドレナリンの作用による生理的な反応である。

まさに、太九郎のケースが、この「追い詰められた鼠」のパターンを踏襲していったのだ。

太九郎は追い詰められて、追い詰めらた挙句、それまでにも増して、攻撃的な反応に転じていったのである。

それもまた、「追い詰められた鼠」が選択した自己防衛反応の究極の様態であった。

太九郎は女房のおちかに「死ね!」と叫び、自分を侮辱するおちかに、本気で殺そうとしたのである。

その行為の直接の原因は、おちかと小平次の関係を疑ったことにあった。

すっかり嫌気が差したおちかは、今度は本気で三下り半をを突き付けていく。

「三下り半を書け!去り状を寄こせ。バカにするんじゃないよ!見損なったよ、お前さんって人は!人を疑うのは恥ずかしいことだって、いつもそう言ってたろう!人を疑わない、心の奇麗なお人だって、そう思い詰めて、今日が日まで生きてきた、ついてきた。なあんだ、疑ってたのか。女の心の分らないお人だよ。流産したのはお前の子だよ。さあ、殺すなり、死ぬるなり、別れるなり、思う存分やってくれ!」

太九郎の歪んだ心は、小平次殺害の直接の原因となった対象人格への攻撃に転嫁していったのだ。

「売女!死ね!」

おちかを殺害しそうな尖った状況下で、横槍が入った。

小平次の亡霊が、太九郎の攻撃的身体を止めたのだ。

ここで、小平次の亡霊に怯え切っていた太九郎の自己防衛反応を、「追い詰められた鼠」の攻撃性を噴き上げていったのである。

「ブチ殺してやる」

そう叫んで、捕食者に向かう男の自己防衛的攻撃性を身体化していったのだ。

アドレナリンのシャワーによって惹起された生理的反応である。

「賽(さい)の河原」での死闘の中で、太九郎は絶命するに至ったのである。

撮影の樋口伊喜夫
「賽の河原」の一角に、一つの死体だけを映し出して閉じる映像の怖さには、もうそこに付け加えるべき何ものもなかった。



4  「幽闇(ゆうあん)の美学」の構築に成功した邦画ホラーの傑作



本作は、多くの非商業主義的な映像を世に送ったATGムービーの、「一千万円映画」と称された低予算枠という制約が、却って功を奏した作品となったと言える。

何より、登場人物を3人に絞り切ったことで、暗鬱な映像のどこの場面を切り取っても、出口の見えない深い閉鎖系の逼塞感を巧妙に醸し出していて、如何にも邦画ホラーの「幽闇(ゆうあん)の美学」の構築に成功したと評価できるだろう。

少なくとも、死後の世界と現世の世界のボーダーを曖昧にする、「幽明境」をローキーの画像で表現することで、画面一杯を劈(つんざ)く「驚かしの仕掛け」によって、騒ぎ立てるだけのハリウッドムービーの凡作ホラーの類とは切れていた。

本作はとりわけ、「小平次殺し」以降の太九郎の心理を丹念にフォローしていくことで、「恐怖感の暴走」への加速的なステップを丁寧に描き切っていた辺りが最もいい。

ラストシーンにおいて、小平次との「賽の河原」での「死闘」の挙句、映像で映し出された死体が一つであったという点に、「生きてゐる小平次」の亡霊が最後に検証されるという怖さこそ、邦画ホラーの面目躍如たるところだった。


高い志を持ちながら、制御できない深い執着心と「恐怖感の暴走」によって、自壊していく男たちの脆弱さと、その男たちの業の原因となりながらも、どこかで客観的な姿勢を保ち、最後まで人格を破綻させない女の強靭さが際立っていたのも印象的だった。

それは、見栄だけで生きる男と、男の見栄を崩さない程度に彼らのプライドラインを尊重しつつ、その実、「生活合理主義」をしっかりとキープするが故に(本 作のおちかとは異なる面も多いが)、簡単に自壊しない女の強(したた)かさを「伝統化」しているこの国の、根強い「精神文化」の一端を感受させるものだっ た。



紛れもなく本作は、「幽闇(ゆうあん)の美学」の構築に成功した邦画ホラーの傑作と言っていい。
(トップ画像は、中川信夫監督)

(2010年10月)

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