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2011年12月29日木曜日

市民ケーン('41)         オーソン・ウェルズ


<幻想を膨張させていった果ての、虚構の物語の最終到達点>



 1  負の感情として根深く横臥する受難の歴史の実相への弾劾



 「私は市民の人権を守るため、容赦なく不正と戦う」

 これは、本作の主人公ケーンが最初に発行した新聞、「インクワイアラー」社の編集方針声明の一文。

 この編集方針声明の際に、心にない笑みを零したケーンの表情が印象的だった。


 なぜなら、ケーンの心中には編集方針への節操など全くなく、ただ儲ける手段として「大義」を掲げただけなのである。

 「本気で笑ってはいない。笑いというものは、そこだけを取り出されると、大いに混乱を招くことがある。あの瞬間については、一つ見極めるべき点がある。ヒントは出してないが、わたしの真意を察してほしい。というのは、ケーンが言ってること、すべて心にもない虚言なのだ。彼が味方につけたいのは、とりあえずここにいる二人だ。味方につけて二人を自分の奴隷にするためだ。だが、当人は自分のいってることを信じていない。この男は人非人だ。わたしが好んで演じ、好んで映画にする人非人どもの一人だ」


 これは、当時、モデルとなった実在の人物の妨害行為等々で、様々に曰くつきの本作の作り手である、オーソン・ウェルズ(画像)の回顧録的なロングインタビューでの言葉。

 因みに、この回顧録的な著書のインタビュアーは、青春映画の傑作・「ラスト・ショー」(1971年製作)のピーター・ボグダノヴィッチ監督。

 ピーター・ボグダノヴィッチ監督は、このときのケーンの笑顔が、無理に作った笑顔であると思わなかったらしく、オーソン・ウェルズは「あの笑顔を信じられては困る」と言って、「非人どもの一人」であるケーンの、その後の破滅的人生の惨状との因果関係で、忌まわしきバックステージの内的風景を語っているのである。

 ともあれ、ウェルズが種明かしするケーンの心にない笑みを生んだのは、彼の親友で、主義・主張に強い拘泥を見せるリーランドが、声明を証拠書類として残しておこうと言ったことに、不安を感じたケーンが咄嗟に反応したものだった。

 従って、「味方につけて二人を自分の奴隷にするため」と語る「二人」とは、このリーランドと、「自分の奴隷にする」ことをケーンによって信じられたに違いない、「インクワイラー」の参謀のバーンステインだったが、遠からず、本性を露わにしていくケーンの野心と権力的横暴さに対して、主義・主張に強い拘泥を見せるリーランドが、埋めようがない関係の距離を作っていったのは必然的だったと言えるだろう。

 「これはハーストそのままだ。奇妙千万な ―― 一生かかって金を払い続けて手に入れた物を、見ようともしない男。こんな人物は世界の歴史にも類例がない。何でも溜め込む鳥みたいな性格の奴。彼は一切金を稼ぎ出していない。彼の大いなる新聞系列も結局は金をなくすしか能がない。どう見ても敗残者なのだ。ただもう物を集めまくり、その集めた物は梱包のまま、開けてみることがない。これは彼の実像なのだ」

オーソン・ウェルズ監督
これは、ケーンの強烈な支配欲のモデルが誰であったかという、ピーター・ボグダノヴィッチ監督の質問に対するウェルズの答え。

 「こんな人物は世界の歴史にも類例がない」とまでウェルズに言わしめた、モデルとなった実在の人物が、今や、新聞王ウィリアム・ハーストであるという事実はよく知られているが、それにしても、ここまで軽侮する男への弾劾の根柢には、自らが招来した事態とは言え、製作段階から様々に曰くつきの本作の、殆ど冒険極まる映画の製作・公開という離れ業を、本場ハリウッドで遂行し切った過程と、その後の受難の歴史の実相が、ウェルズの内側に負の感情として根深く横臥(おうが)していたであろう。



 2  主人公のダイイング・メッセージによって引っ張り切った物語の究極の硬着点



 「人非人」の象徴的人物である「市民ケーン」を、ハーマン・マンキーウィッツの秀逸な脚本を得て、25歳のウェルズが演じ、全権を委任されたウェルズが監督する。

 しかし、この「人非人」の人生の惨状の様態を、クロニクル風に、時系列に則してフォローしていっただけでは、映像表現性において訴求力が不足すると考えたウェルズは、本作の時系列をバラバラにし、主人公の死によって開かれるサスペンスの筆致で物語を構成していった。

 それ自体画期的な手法であったが、撮影技術等に関わる技術的革新性への評価への言及は語り尽くされているのでスル―して、ここでは、本作の物語の内実のみに注目していきたい。

 ウェルズは、主人公のダイイング・メッセージとも言えるキーワードに、「バラの蕾」という意味不明な言葉を据えているが、この隠語もどきの言葉自体(実際、主人公のモデルとなった新聞王が隠語として使用し、彼の逆鱗に触れたと言われる)が独り歩きするが如く、喧(かまびす)しい程に語り尽くされているが、こればかりはスル―できないであろう。

 この言葉の真相を探ること。

 それこそが、ケーンの人格像の核心に迫ると考えたニュース映画の製作者サイドが、その言葉の謎を追って、ケーンと関わった5人の主要人物たちへの取材を進めていく構成によって、本作が成立しているからだ。

 「主人公の人間像が、それを語る人物ごとにまるっきり違ってしまう、というふうにしたかった」

 ウェルズのこの言葉通り、5人の主要人物たちが語る主人公の人間像は微妙に食い違い、そのことによって浮き彫りにされるケーンの人格像の複雑さや、近しき者との関係濃度の相違が露わにされていく。

 その5人の中に、先述したリーランドやバーンステインが含まれているのは言うまでもない。


 ニューヨークを席巻する程の、新聞王国を築いていくケーンの活力溢れる草創期を語る、バーンステインの回想と比較すると、リーランドの回想には、大統領の姪と結婚し、政界進出を目指したものの、後妻となるスーザンとの不倫によって、離婚に至るスキャンダル騒動の経緯が語られていて、そこには権力の亡者と化した男の醜悪さが印象づけられるのである。

 そして極め付けは、後妻となったスーザンの回想。

 映像は、親子ほどに年の離れたスーザンの取材の中で、彼女との破滅的な夫婦生活のエピソードを拾い上げていく。

 専門家の指導の元にレッスンを重ねても、素人同然のスーザンのオペラ歌手の能力の限界は、誰の目から見ても瞭然としていたが、それでも、執拗に後援し続けるケーンの振舞いの行き着く先は、「オペラの女王」への道を完結させるための巨大な劇場建設へと至る。

 観客の冷ややかな反応を感受したスーザンは、自分の能力の限界を早々と察知し、それがディストレス状態となって、自暴自棄になり、遂には自殺未遂を起こしてしまう。

 体力が回復しても、スーザンを待っていたのは、動物園付きの「ザナドゥ宮殿」への幽閉生活だった。

 そのスーザンの否定的感情によって語られるケーン像には、まさしく、数年にも及んで、「ザナドゥ宮殿」に閉じ込められた挙句、奴隷化され、私有物と化された惨めさを負い続けた者の怨念が噴き上がっていた。

 遂に、ケーンとの「権力関係」の虚しさに耐え切れず、ケーンを見限って、スーザンは「ザナドゥ宮殿」を後にした。

 以下、そのときの会話。

 「お金で私を買収しようとしてるだけじゃない!」

 ケーンを睨むスーザン。

 「愛してるさ」とケーン。
 「嘘よ。愛させていたいだけだわ!俺はチャールズ・ケーンだ。欲しいものは何でもやるから俺を愛せ」

 貯留した感情を吐き下した瞬間、ケーンから頬を打たれるが、ディストレス状態のピークアウトで噴き上がったスーザンの否定的感情は、もう止めようがなかった。

 「ザナドゥ宮殿」を後にしようとするスーザンに、ケーンの態度が豹変し、今や、哀願するばかりなのだ。

 「行かないでくれ。僕が困る」

 ここでも、ケーンのエゴイズムが露わにされる。

 「やっぱり自分のことしか考えてないじゃないの。それが嫌なのよ」

 これが、スーザンの捨て台詞となって、確信的に「ザナドゥ宮殿」を捨て切った女の、凛とした振舞いが身体表現されたのである。

 スーザンを失った男の振舞いは、女のそれと完全に切れていた。


 大勢の執事が見ている前で、失った女の広い部屋の中を暴れ捲り、最後にはスノーグローブを手に取って、「バラの蕾」と小さく吐き出し、転倒する男の振舞いが、権力欲を極めた果ての臨終となったのである。

 この惨状を回想した最後の一人は、「ザナドゥ宮殿」の執事だったが、取材者がそこで得たのが、「バラの蕾」という意味不明な言葉であったという訳だ。

 それは、その執事にも、「バラの蕾」の意味が不分明であったことの検証でしかなかったのだ。

 物語のフラッシュバックが終焉し、ファーストシーンに戻った映像がラストカットで映し出したのは、ケーンの保有する大量の私物を焼却するときに、「ROSE BUD」と書かれた、雪面を滑るための一人乗りの橇。

 「バラの蕾」とは、遥か昔、ケーンが児童期に愛用していた橇だったのだ。

 無論、本作を観る者にしか分り得ない物語構成は、最後まで、サスペンスの筆致で描き切って閉じていったのである。

 以下、稿を変えて言及する。



 3  「母のぬくもり」を喪失する恐怖がトラウマとなった児童期の陰翳感



 このような男の人生を取材してもなお判然としない、「バラの蕾」の言葉の不明さを解明できないまま、映像は閉じていく。

 しかし、映像のラストカットで映した焼却シーンの中で、観る者だけに「バラの蕾」の言葉の意味を伝えて閉じていく物語構成はインパクトがあり、恐らく、このインパクトが本作を根柢で支えていた。

 「バラの蕾」の言葉の意味を探る取材の中で、結果的に重要な役割を果たしたのは、銀行家のサッチャーの回想である。

 思わぬことから莫大な財産を手に入れたケーンの両親は、夫の暴力的振舞いの故に、極端に不仲な状態が続いていたことから離縁するに至るが、その際、未だ児童期にあるケーンの将来を案じた母は、息子の教育と財産管理のため、銀行家のサッチャーに息子の後見人になってもらうに至った。

それは、サッチャーにケーンの里親(注)を引き受けてもらう行為であったが、ケーン少年にとっては、何より愛する母との別離を意味していた。

 事情を敏感に感じ取ったケーン少年が、実母との別離に激しく抵抗したのは、未だ児童期にある幼い少年にとって必然的だった。

 自我のルーツである実母との別離は、幼い自我の拠って立つ絶対的な安寧の基盤を崩されるに等しい行為であるからだ。

 「自分は愛されるに足る子供ではない」

 そう思ったかも知れない。

 しかし、ケーン少年には、実母の苦渋の選択の意味が理性的に認知し得なくとも、「母のぬくもり」だけは決して消し難い記憶であったに違いない。

 この「母のぬくもり」を喪失する恐怖を、この日、ケーン少年は全人格的に経験してしまったのである。

 それは、児童期にある幼い少年に与える離婚のストレッサーという、極めて心理学的なテーマでであると言える。

 因みに、児童発達論を専攻する米のカレン・デボード博士によると、「離婚によって子供にストレスを引き起こす原因」は、「変化への恐れ」、「愛着感の喪 失」、「見捨てられ不安」、「親達の間の敵意」の4点を指摘している。(「子どもに注目:離婚が子どもに与える影響」堀尾英範訳)

 何よりここで重要なのは、「見捨てられ不安」である。

 それはケーン少年にとっては、しばしば、「母のぬくもり」の記憶を相殺する感情であっただろう。

 そんなケーン少年が切望するのは、ただ一点。

 一般的に最も妥当性を持つ、「両親の和解」による「家族の再生」というよりも、「母のぬくもり」の記憶を再確認するための、「愛する母との恒久的な共存」である。

 当然そこには、暴力的な父との共存は排除されているだろう。

 なぜなら、サッチャーの回想の中で映し出されるワンシークエンスから、「トラウマ」、「愛情」、「尊厳」という「幼児虐待の克服課題」の深刻さが垣間見られないものの、それでも、父からの折檻の常態化が読み取れるからである。

 「折檻してやる」

 激しく抵抗するケーンに投げつけた、父の一言だ。

 「ぶつの?だから手放すのよ」

 ケーンを後ろから抱えながら放った、母の一言だ。

 いつまでも父を睨みつけるケーン少年のアップの表情が、サッチャーの回想による、このワンシークエンスの終焉を告げたのである。

 「僕を一人にしないで!」

 ケーン少年は、心中で、そう叫んでいるのだ。

 この心中の叫びが届くことなく、自壊してしまったこと。

 これがトラウマとなって、「喪失した愛情」によって生まれた否定的自己像、即ち、「見捨てられた子供」という否定的自己像を内深くに封印することで保持してきた自我の歪みが、莫大な資産を背景とする「権力関係」によってしか他者との関係を結べない、言わば、自己愛性人格障害の如き男を作り上げてしまったのではないか。

 サッチャーの回想の中で再現された、ケーン少年の遊戯の道具である一人乗りの橇。

 そこに刻まれた「ROSE BUD」という文字こそが、本作で人物造形された男の心象風景を解くキーワードであった。

 片田舎から離されたケーンが、映像に再び登場したときには、既に、新聞王の先駆けとなっていく、馬力溢れる青年期にシフトしていたので、児童期にべったりと張り付いた、件のエピソードを起因とするトラウマの陰翳感はすっかり希釈化されていた。


(注)ケーンの養育環境の変容は、日本で言えば、「要保護児童」の対象人格と看做(みな)したという意味において、児童福祉法上の制度の中の「専門里親」(虐待からの保護)のケースに最も近いだろう。



 4  幻想を膨張させていった果ての、虚構の物語の最終到達点



「ザナドゥ宮殿」にスーザンを閉じ込めて
「彼は、ちょっとの間、他人に忠誠を求め、あとは知らん顔で居られる、人当たりの良い、ときに好ましくさえある怪物だ。愛によってでなく、銀行によって育てられた男だということを忘れないでくれ。その種の連中の常套手段で、彼は魅力を使いこなす。だから、第一面の見出しを変えるときも、信念を示すより魅力でたぶらかす・・・チャーリー・ケーンは人食いなのだ」

 これも、ウェルズの言葉。

 前述したように、映像は、「市民ケーン」の歪んだ人格構造の本質に肉薄すべく、この児童期経験のワンシークエンスの重要性を拾い上げていた。

 「人非人」と罵倒した男の、破滅的な人生への容赦ない糾弾を、ただ羅列的にフォローしていくだけでは、その人格構造に肉薄出来ないと考えたウェルズにとって、「バラの蕾」という言葉が象徴する情感系の挿入によって、良くも悪くも、横暴な男の歪んだ人生の総体を炙り出そうとしたのである。

 その試みは、半ば成功したようにも見える。

 しかし、主人公のケーンの内面的葛藤を露わにする描写の不足が、最後まで私の中で不満として残ったのは事実。

 サスペンス仕立ての物語構成の制約が却って徒(あだ)となって、ケーンの内的風景の核心にまで迫り切れていない印象を覚えたのである。

 幼児虐待とは言わないまでも、父親の横暴さが起因となった両親の離婚と養子縁組という流れ方は、ケーンの内的風景を考える上で、決して粗略にできない由々しき現実である。

 然るに、「見捨てられた子供」という否定的自己像を内深くに封印することで保持してきた自我の歪みを認知することは、実母の愛を求める心情との矛盾する共存を必ずしも排除しないのだ。

 「母は、本当は僕と別れたくなかったんだ」

 この思いが、ケーンの人格構造を相当程度において複雑化させている。

 それが、時として、「魅力を使いこなす人食い」の側面を露呈する半面、「あとは知らん顔で居られる怪物」性をも垣間見(かいまみ)せてしまうのである。

 即ち、自らが求めた対象人格を愛し切れない人格構造の根柢には、「見捨てられた子供」という否定的自己像を騒がせる恐怖が常に潜んでいて、その恐怖が具現するとき、この男は我を失う程の惨状を晒すのだ。

 それが、スーザンとの関係の決定的な縺(もつ)れの中で顕在化したのである。

 「ザナドゥ宮殿」にスーザンを閉じ込めた心理もまた、この文脈で読めば了解しうるだろう。

 ケーンの人格構造の内深くに封印し切れない情動が、そこにある。

 「ザナドゥ宮殿」
「ザナドゥ宮殿」に閉じ込めた当のものは、スーザンという歴(れっき)とした固有の人格ではなく、「喪失した愛情」を強力に補完し得る観念的・情感的文脈なのだ。

 はっきり言えば、誰でも良かったのだ。

 ケーンはただ、「母」のみを求めて止まなかったのである。

 スーザンへの異常なまでの後援の心理を読み解けば、恐らく、ケーンが実母から存分に受けたかった愛情教育の代償であると言っていい。

 ケーンは一貫して母の愛を求め続けて、遂に報われることなく果てていった、悲哀なる男の象徴であるとも言えるのだ。

 無論、本作の基幹テーマはそこにない。

 どこまでも、本作で追求したいテーマは、ケーンという怪物の横暴なる権力的人格構造への糾弾であり、それ以外ではないだろう。

 
オーソン・ウェルズ(ウィキ)
然るに、そんな歪んだ自我を持つ男の人格構造の、奥深くに抱え込んだ情感世界を描くことによって、人間の脆弱性の本質を抉(えぐ)り出したかったのであろう。

 「バラの蕾」という言葉に収斂される情感的世界。

 それは、「見捨てられた子供」という否定的自己像と共存したであろう、「母は、本当は僕と別れたくなかったんだ」という心情との矛盾の中で、潜在下にあって揺動して止まない自我が内包する人格構造の、「ゲシュタルト崩壊」の如き人格の不統一感が、行き着く先まで流れ切っていく世界の怖さであったのかも知れない。

 一切は、分不相応な権力を有する悲劇的運命が分娩したものだったのか。

 ウェルズの言うように、ケーンが「銀行によって育てられた男」であったが故に、「喪失した愛情」によって生まれた「見捨てられた子供」という否定的自己像を補填するに足る、理性的な人格教育を施されなかったことで、金銭感覚の突出しただけのエコノミカルな合理主義が勝ち取った、イエロー・ジャーナリズムという「特化された権力」という最強の武器で、嵩(かさ)に懸かって縦横無尽に振る舞う人格構造を生み出してしまったのだろうか。

 「失敗は失敗のもと」

 この言葉こそ、本作の主人公の行動パターンのイメージに相応しい。

 「見捨てられた子供」という否定的自己像を封印して作り上げた虚構の物語 ―― それは、仮構した自尊心の防衛機制に深く関わるものだったので、本作の主人公は、「全てを手に入れたという錯覚」が生んだ欲望の稜線を伸ばし切って、「全てを失うに至る絶望の流砂」に呑み込まれ、その極点で自爆してしまったのだろう。

映画のモデル・ウィリアム・ハースト
虚構の物語を作り、そこで歯止めの効かない蕩尽の限りを尽くす。

 その幻想を膨張させていけば、失敗を繰り返す人生に終わりが来ないのだ。

 「ザナドゥ宮殿」とは、幻想を膨張させていった果ての、虚構の物語の最終到達点だったのだ。
 
 恐らく、そこだけは作り手であるウェルズの思惑から大きく脱輪して、最後の最後まで、ケーンの人格構造の根っ子にある、「見捨てられ不安」というトラウマの重量感が本作を支え切っていたのである。

 群盲評象(ぐんもうひょうぞう)の類の批評でしかないかもしれないが、私にはそう思われてならないのだ。。


【なお、本稿でのウェルズの言葉を含めて、「オーソン・ウェルズ -その半生を語る オーソン・ウェルズ/著 ピーター・ボクダノビッチ/著 キネマ旬報社刊」を参照】

(2012年1月)

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