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2008年12月18日木曜日

妻よ薔薇のやうに('35)      成瀬巳喜男


<「人は皆、心ごころ」の世界を泳ぎ抜く>
 


 1  母と娘



 山本君子。

 東京丸の内のオフィス街に勤める女性である。ネクタイを締め、斜めに帽子を被るその装いは、典型的なモダンガールのスタイルを髣髴させる。

 時は昭和ひと桁代。

 満州事変を経ても、未だ中国への本格的な侵略戦争を開始していないこの国の当時の世相は、この映像で見る限り、信じられないくらいの落ち着きを見せている。現代にも地続きなその近代的な雰囲気は、とても世界恐慌のダメージを受けた国の暗鬱な空気感を感じさせない程である。それは、本作の主人公である君子という未婚の女性のイメージが作り出した明るさに因っているのかも知れない。
 
 彼女には女流歌人である母、悦子がいて、今は同居していない父、俊作がいる。だから現在二人暮しの女所帯は寂しさをイメージさせるが、娘の明るさと、母の自立心の強さが相俟って、そこには暗鬱な雰囲気がまるで感じられないのである。
 
 そんな母娘が、時として沈んだ気分に陥ることがある。

 同居していない父から毎月、郵便為替が送られて来るときだ。
 
  そこには、母娘が毎月何とか暮らせる程度の現金が封入されている。しかし、父からの手紙らしきものが全く同封されていないのだ。いつも最初に封を開ける母の悄然とした表情が映し出されて、そんな母の顔を見る娘の思いも複雑である。
 
 「お父さん、一言くらい何とか書いてよこしてもいいと思うわ」
 
 その夜、母の兄に当る叔父の新吾の家を、君子が訪ねた。

 「・・・叔父さんとよく相談してね、お父さんを早く呼び戻すようにしなきゃだめよ」

 そう言って、叔母は出かけて行った。

 「ねぇ叔父さん、別にあたし、母さんを非難するわけじゃないけど、お父さんが家にいる間はどうしたって、お母さんがそんなに思っているようじゃなかったわ。外から帰って来たって、別に着物の面倒をみてあげる訳じゃない。ろくに口だってきかない。まあ、いい奥さんじゃなかったと思うわ」
 「じゃあ、俊さんはどうなんだね。妾に子供までこしらえて、十年も十五年も女房や子供をうっちゃらかしているじゃないか」
 「だからあたし、お父さんだっていい夫だとは思わないわ」
 「そうだよ、そこで相談なんだよ。それに第一、お前と精二君の話だって早くまとめなきゃ、困るだろ?」
 「あたしのことはどうでもいいんだけど・・・」
 「上手く言ってらぁ。腹にないこと、言うもんじゃないよ。お前もお母さんみたいに、歌でも詠むか」

 会話の流れには沈鬱な空気感がないが、その内容は結構切実である。君子の父は明らかに家を出奔し、信州の田舎町で妾を作って生活しているらしい。しかも、子供まで儲けているというのだ。

 一方、君子には精二という恋人がいて、その縁談がまとまりつつあったが、ネックは父の存在だった。だから、父を東京の本宅に呼び戻そうという相談だったが、なかなか埒が明かないのである。

 そんな叔父夫婦は相当の趣味人で、叔母の外出理由は麻雀のため。そして残された叔父は義太夫に凝って、相談後も君子を相手に熱唱している。趣味といえば、君子の母の短歌は新聞に掲載されるくらいの評価を受けているが、精二の話だとその歌の内容は、夫に対する恋歌であるらしい。君子もそれを理解しているが、母の普段の言動との落差を感じてしまうのである。そんな戦前の空気を感じさせない展開が、映像を深刻な内容に流していかないのだ。

精二と君子
恋人の精二が君子の家にやって来て、一頻り彼女の母と芸術談義を交わしたが、二人はそのあと東京の街を円タク(注1)を使って外出した。東京の閑静な佇まいがこの国の戦前の風景を映し出すが、さすがに街路は車の洪水にはなっていない。

 円タクの中での、二人の会話。

 「母さんも気の毒ね。決して悪い人じゃないわ。悪いどころか、とてもいい人間なのよ」
 「ただ、損な性質(たち)なんだね」
 「そうよ。だから余計気の毒にも思うの。男なんて奥さんに甘えてもらったり、妬いてもらったりしてもらいたいものなのね。時には母親に甘える子供みたいにもなりたいのよ。そんなときに、奥さんも母親みたいに旦那様の面倒を見て上げなきゃいけないんだわ。でも、母さんにはそれができないのね。知らないんじゃないの。知ってて、できないのね」
 「なかなか、研究したんだね」
 「ふふふふ、私はいい奥さんになる自信があるのよ。あんたになんか、ちょっともったいないような。ふふふ・・・あっ!お父さん!」

 君子は恋人に自慢げに話した後、一瞬窓外に父の姿を確認し、円タクを降りた。しかし父は見つからなかった。

 それでも、君子は父が今日こそ帰宅すると信じて、父をもてなす食材を買うことを決めていた。ところで、君子が目撃したと信じる父は、その日、確かに上京していたのである。君子の眼に狂いはなかったのだ。君子の父の俊作は、そのとき偶然、君子の叔母と遭遇して困惑していたのである。
 

円タクのイメージ画像・ブログ昭和からの贈りものより
(注1)市内の特定地区を一円均一で走ったタクシーのことで、大正末期に大阪で登場したのを機に、まもなく東京でも営業を開始するに至った。


 その夜、君子は一生懸命に夕餉の支度をしていた。そんな娘の甲斐甲斐しい振舞いをよそに、事情を知らない母の頭の中は歌のことばかり。そんな母に、君子は「今日はとっても素敵なことがあるのよ」と謎をかけるようない言い方をした。しかし七時を回っても、父の帰宅は実現しなかった。
 
 「どうしたの?素敵なことっていうのは、何なの?」と母。

 君子は、その母の問いにまだ答えられない。不安があるからだ。九時を回っても、父は来なかった。

 君子は更に問い質す母に対して、思い切って父のことを話そうとした。丁度そのとき、玄関の開く音が聞こえた。君子の顔に笑みが覗いたが、その喜びは束の間だった。訪ねて来たのは、叔父の新吾だった。

 ご馳走を見た叔父は、思わず口に出した。

 「ああ、俊さんが帰って来たんで、ご馳走なんだね。どうしたね、俊さんは?」
 「叔父さん、どうして?」と驚く君子。

 母の悦子はもっと驚いている。叔父は、自分の妻が俊作と会った事実を実妹に話したのである。

 「何だ、帰ってないのか」と叔父。
 「お父さん、あんまりだわ」と君子。
 「でも、お忙しい御用で東京に出ておいでになったんだろ。遅くにでもお寄りになるかも知れないよ」

 母の悦子はそう反応するが、悄然とした感情を捨て切れないその表情は隠しようがなかった。

 「そんなって、そんなってありませんわ。東京にいらしたら、すぐにでも家に寄って下さるのが本当ですわ」

 君子もまた、悄然としている。

 そんな母娘に聞こえるように、叔父は一人で語りかけていく。

 その内容は、俊作が体一つで帰宅すれば、万事上手くいくということ。相手の妾が芸者上がりの女で、その関係がいつまでも続く訳がないと考えているのだ。その証拠に、毎月送金してくることが俊作の誠意の表れであると見ているのである。
 
 

 2  父と娘



 まもなく君子は、父の住む信州を訪ねることになった。


信州伊那(イメージ画像・伊那観光協会より)
信州の山奥の、人里離れた部落の一角に父の住む家があった。そこには北アルプスに抱かれた山里の長閑な風景が広がっていて、東京から来たモダンガールの出で立ちが違和感を生み出していた。

 父の家を訪ねた君子は、そこで知った現実に当惑することになった。まず道を尋ねた少年が、父の息子であることを知って驚くが、加えてその少年には姉がいて、裁縫仕事をしていると言うのだ。そして「父の愛人」という先入観は、やがてその「愛人」が、髪結いの仕事に従事して家計を支える働き者の女性である事実を知ることで、漸次、瓦解していく契機になっていくのである。
 
 しかし、このときまだ、君子はその事実を知らない。だからこの枢要なる出会いの印象は、なお「初頭効果」(注2)の範疇を逸脱するほどのインパクトを持ち得なかった。

 「私、山本の娘の君子です」
 「まあ、東京のお嬢さまで?」
 「お雪さんとおっしゃるのは?」
 「私でございます。初めまして・・・まあ、遠いところをようこそ。汚いところですが、どうぞ」
 
 これが、君子と父の妾であるお雪との初対面の挨拶。君子は、お雪と称する女性の物腰の柔らかさに驚かされることになった。

 「一度お眼にかかって、お詫びも致したいと存じておりました」

 深々と、年下の娘に向って頭を下げるお雪。君子はそこでもまた、幾分その攻撃性を萎えさせることになったようだ。

 相手の攻撃性の弱さは、どうやら君子の両親にも共通するものだった。どこかで、似たもの同士の繋がりを感じたのだろうか。しかし母にないものが相手の女性の中に見られない限り、父との繋がり方が理解できないかも知れないだろう。君子は今、その謎を解くべく旅に出たのかも知れないのだ。


(注2)心理学の概念で、最初に受けた印象が良いことを意味し、「新近効果」(直近に受けた印象効果が大きいこと)の反対。


 君子はお雪の娘、静枝にも会うことになった。
 その礼儀正しさは、お雪の態度のそれと全く変わらなかった。それが、我が父の血を分けた娘であれば、自分と異母姉妹になるのである。彼女の旅はいよいよ、艱難(かんなん)を極めることになったのである。

 それでも君子の表情からは、険阻な尖りは消えていなかった。

 「皆さん、私を恨んでいらっしゃるだろうと思います」とお雪。
 「あたしの母の身にもなっていただきたいと思うんです」と君子。
 「立派な奥様がおありなのを承知でお世話になっているんでございますの。本当に済まないと思っております」
 「お父さんも、あんまりだと思いますわ。そりゃ、お父さんの気持ち分らないでもないんですけど、母のことを考えると、このままにしておけないと思うんです」

 決して感情を荒げないが、しかし深甚なるテーマに及ぶ二人の短い会話が、そこにあった。

 君子はその後、お雪の息子に案内されて、父を迎えに行った。

信州の蕎麦畑の風景(イメージ画像・ブログ信州自然村より)
父は相変わらず、金鉱探しに熱心である。その父が、東京からわざわざ訪ねて来た自分の娘の成長した姿を見て、素朴に喜びの感情を表した。しかし、会話の内容はシビアなものだった。

 「お父さんは一体、あたしたちのことをどう思ってらっしゃるの?」
 「どう思うって、そりゃ、気にならないじゃないさ。仕事の方さえ上手くいきゃあ、きっと金を送ってやるよ」
 「お金のことを言ってるんじゃありませんわ。この間、東京にいらしたでしょ?」
 「ああ、ちょっと仕事のことで」
 「東京までいらして、どうして家に寄って下さらないんです?なぜ、母さんに顔を見せてあげて下さらなかったんです?お父さんが成功なさろうと、なさるまいと、そんなことをとやかく言うようなお母さんじゃありませんわ」
 「分ってるよ。そりゃ、分ってるよ。20年も連れ添った女だ。おまえよりも私の方が母さんのことはよく知っているよ。知っているから、それだからいけないんだ」
 「なぜですか?母さんは立派な女ですわ」
 「いや、立派過ぎるんだよ。その立派過ぎるのが俺にはやりきれないんだ」
 「分んないわ」
 「つまり、苦手なんだよ」
 「そんなことは後回しにして、今日はお父さんを東京に連れて帰るために来たんですからね」
 「俺を連れて帰る?」
 「ええ。そうですわ。ねえお父さん、お願いです。あたしと一緒に東京に帰って下さい」
 「ダメだ、ダメだよ。お父さんにはまだやりかけてる仕事があるんだ」
 「お父さんは昔から、山を当てることばかり考えて失敗してきてるんじゃありませんか。東京に帰って地道に商売でもすれば、親子三人くらい何とか食べていけます。お父さんがお雪さんと別れたら、渋谷の叔父さんも後押しをするって言って下さってるんです」
 「いやあ、御免だよ。その内に俺もひと山当てて、何とかする。お前たちのことは、きっと何とかする」
 「お金のことを言ってるんじゃありませんったら。私だって稼いでます。まして、お父さんから毎月送って下さるので、家の暮らしはそんなに困っていやしません」
 「誰が金を送っている?」
 「お父さんが、二十円、三十円と送って下さるじゃありませんか」
 「いや、俺は送らないよ」
 「いえ、送って下さいます。ついこの間も・・・」
 「いや、俺が送っていたのは、大分前だ・・・」
 「変ねぇ、為替だけいつも入れて」
 「そりゃ、お雪のやってることだな」
 「お雪さんが?」
 「俺が失敗してから、静枝と二人で髪結いをしたり、仕立物をしたりして、暮らしを助けていたんだ。いつもお前たちのことを心配していたから、俺に内緒で送っていたんだろう。そういう女だよ、お雪は。自分の娘を女学校に入れないで、お前の学費をこさえていたんだ」

 父と娘との、久し振りの長い会話。

 しかし、その会話の内容は、君子にとって衝撃的なものだった。

 東京の本宅に金を送っていたのは父ではなく、お雪だった。しかもそのことを、肝心の父は知らない。お雪が自分の一存で娘と共に、自分たちの生活を犠牲にしてまで送金していたのである。お雪を見る君子の視線が変わったのは、この瞬間だった。
 
 帰宅後、君子はお雪に自分の非を詫びた。
 
 「お雪さん・・・さっき、父から聞きました。あなたがお金を送って下さっていたことを」
 「まあ、そんなこと・・・」 
 「すいません。ちっとも知らないで・・・」
 「とんでもない。そんなこと、お家(うち)の方に知っていただきたくはなかったんです」
 「あたし、ちっとも知らないで。本当のことを言えば、お父さんがあなたに隠してお金を送って下さるものだとばかり思っていました。ここへ着くまで、あなたがこんなに働いて、父を助けていて下さろうとは思っていませんでした。あたしたちが困っているのに、きっと贅沢な真似をしていると思って・・・」
 「ご無理じゃありません。商売をしていた私です。それにお父さまにしたところで、私じゃなかったらまた、東京のご親類でも何とかして下さるだろうと思います。お父さまをこんなにしたのは、私だと身を責めない日はございません。でもお嬢さま、二人の子がありますれば、済まない、済まないと心ので泣きながらも、いつも一日子供を中に、たとえ貧乏していても、四人で顔を合わせていられる楽しみが・・・どうしても、どうしても、壊せないんでございます・・・何度もお別れして、東京にお返ししようと、その話を切り出したこともございましたが、でもこんな失敗している最中で、今まで色々とお世話になった方を捨てるなんて、私にはどうしてもできません。一生、こんな暮らしをしていてもいい。こうやって四人でいられたら、そう思うんです。それは、お父さまの身を思う方から見れば、馬鹿なことだとお叱りでしょうけど、私としてはこれ以上の望みごとはないんでございます」
 「分りますわ、よく」
 「でも、早晩お返ししなくちゃならない方です。でも、子供が一人前になるまでと思っていましたが、お嬢さまにお眼にかかって、私、もうどうしていいのか分らなくなりました」
 「本当言うとあたし、今日連れて帰るつもりでまいりましたの」
 「そうだと思っておりました」
 「でも、考えますわ。あたしが間違っているような気がしてきたんです」


信州の風景(イメージ画像・サイト信州一番街より)
君子のその言葉を、隣の部屋で聞いていた娘の静枝は、思わず落涙してしまった。



 3  父と母



 翌朝、俊作は君子と共に東京に帰ることになった。

 全く気が乗らない帰宅だが、悦子が引き受けた縁談の仲人のための4、5日の上京予定ということで、その重い腰を上げることになったのだ。君子も無理に父を連れて行くつもりはなかったが、やはり東京の母のことを考えると、一応のケジメだけは付けさせたいと思ったのだろう。

 「東京を出るときは、お父さんの首に縄をつけてでも帰るつもりだったんだけど、ここへ来て、なぜお父さんが帰れないか、よく分ったんですの。お父さんはお雪さんがいなくちゃ駄目なのね」

 君子はもう、父に対してこんなことを言う心境になっていたのである。


 東京の本宅への、父の久しぶりの帰宅。

 俊作と悦子は、君子を伴って外出した。しかし二人は、夫婦の愛着感をまるで表現しない街歩きを、恰も単なる時間つぶしであるかの如く繋いでいる。少し離れて君子がついていくが、母はその小さな「非日常性」の物理的な継続に痺れを切らしたのか、タクシーで帰ろうと言い出したのだ。

 「すぐそこだろ、歩こうよ」

 俊作は車を乗ることを好まない。そんな父を、君子は「ねえお父さん、円タク安いのよ。あたし、値切るの上手いんだから、ちょっと待ってて」と誘ってみせる。

 「君子、あんまりケチなことはおよしなさい」

 これが悦子の反応。

 結局、円タクに乗ることになった三人の表情が、後部座席の様子に映し出されたとき、笑みを浮かべる父と娘の感情に合わせない母の無愛想さを際立たせていて、非常に印象的だった。
 

 「おはようございます」
 「おはようございます。今日も良いお天気で、結構で」

 この会話は、隣人のそれではない。俊作と悦子との、自宅に於ける朝の挨拶なのである。因みに声をかけたのが父で、それを受けたのは母である。
 
君子と俊作、悦子
二人はそんな調子だから、結婚式の仲人の務めを終えて帰宅しても、その会話の内容は味気ない。父は、もうその晩の最終列車で帰ると言う始末。それを知ってか知らずか、母は歌のことしか考えていない。歌道教室を開いている母は、生徒の歌の添削に集中するばかりなのだ。父母の間に入っても要領を得ない娘だけが、いつでも取り残されている。

 「お帰りになるんですか?」と母。

 娘から父の信州行きを知らされて、少し肩を落としている。

 「済まないが、許してくれ・・・」と父。
 「そうですか・・・ではどうぞ、お達者で・・・」

 罰が悪そうに答える男に、その妻の反応も素っ気ないが、悄然とする思いがそこに張りついていた。

 「お世話になりました」と父。

 父と母は畳に正座して、他人行儀な挨拶を交し合うのだ。

 「私ちょっと、やりかけの仕事がございますから、これで失礼します」

 そう言って母は、隣の部屋に引っ込んだ。母は仕事どころか、そこで嗚咽を結んでいたのである。

 そこに、叔父の新吾が現われた。俊作の信州行きを知った彼は、俊作の不徳を散々責め立てていく。その父を庇ったのは君子だった。

 「お父さんはやっぱり、帰るのが本当だと思うんです」
 「馬鹿馬鹿しい」と叔父。
 「お父さん、お帰りになって下さい」と君子。

 娘は父に向って繰り返した。

 「ありがとう。そうさせてくれ」と父。

 叔父だけが慌てている。彼は妹にあたる悦子の部屋に赴いて、その心を確かめた。

 「人は皆、心ごころですもの。帰るというものを、無理に止められはしません」

 母はその一言を残すのみ。

 「心ごころ」とは、人それぞれの思いが違うということ。まさに、この映像の本質を言い当てる言葉だった。

 まもなく、父は信州に帰って行った。

 「お母さんの負けだわ・・・」

この君子の呟きが、映像の括りとなったのである。

      
                       *       *       *       *

 

 4  二人の女 ―― 「人は皆、心ごころ」の世界を泳ぎ抜く



 この映画の主人公は山本君子という、当時にあっては際立つようなモダンガールであるが、しかし本作で描かれている内容の主題性のレベルにおいては、彼女の存在性はナビゲーターの役割か、それとも、コーディネイターとしての役割を果たすための媒介的キャラクター以外ではない。

 つまり、信州と東京を繋ぐ役割性を与えられたキャラクターとして、君子は本作の重要なシーンの立会人となっていて、そこに、このストーリーラインの基本構図が作り上げられているのである。
 
 従って、本作の原題が「二人妻」となっていることでも自明だが、本作の中で描かれた内容の本質は、砂金取りの夢を断念できない、些か自分勝手な男が抱える関係矛盾の中で揺れ動く、二人の女の生きざまにこそあると言えるだろう。
 

 ―― 以下、論点を限定して、その二人の女の生きざまについて言及していく。


 ここでまず、俊作を巡る二人の女の感情傾向の差異について論じてみたい。

 悦子とお雪である。

 この二人の俊作に対する思いの微妙な差異と、この二人の人柄や価値観の明瞭な違いこそが本作の主題であると思われるので、俊作というキャラクターとの絡みで言及してみよう。
 
 ここに、私が作った簡便な表がある。

 二人の女の、俊作に対するスタンスの相違を示したものである。「愛情の有無」や「愛情表現」、「距離感覚」などを基軸ワードにして、彼女たちのスタンスの相違を明らかにする狙いを持って、一応の仮説を立ててみた。


    愛情の有無   愛情表現   距離感覚     態度・振る舞い

 悦子    有     非献身的   個我の並存   趣味が第一義的な自己中心主義
 
 お雪    有     献身的    共依存      夫が第一義的な世話女房型

 
 
 以上の相違点は決定的な落差を示していて、この落差感の実感の中で、俊作はお雪に対して第一義的な存在価値を認めた上で、彼女を特定的に選択したのである。

 人間は自分の中になくて、自分が望むものの補完を常に求めて止まない存在である。俊作は自分の山師的なむらっ気や野心、即ち、趣味=生活の糧とする砂金取りの夢を持ち、同時に、本妻もまた、歌詠みの趣味に没頭する熱中派である。しかし、その世界にのめり込む意識を継続させることは、双方の自我の相互扶助的な秩序を作り出さないのだ。そんな自我が生活次元で物理的に共存するのは可能だが、趣味を優先順位の筆頭にする限り、意識や感情の共存性を作り出しにくいのである。

 何しろ悦子は、常に「インスピレーション」を大切にし、観念的な人間観察の手法で芸術に没頭する、近代的自我を際立たせる女性なのだ。そんな自我が生活的共存を強いられれば、必ずそこに、埋め難い距離感を覚えてしまう時間を多く作り出してしまうだろう。そしてこの距離感覚は、二つの自我がどこまでも個我並存的状況を突破できない空洞感を作り出してしまうのである。

 では、このような内的状況が継続するとどうなるか。

 「心の共同体」でもある家族の中の、最も大切な要素が削り取られてしまうのである。即ち、「安らぎ感」の脱色である。

 俊作は悦子との関係を介して安らぎを手に入れられず、悦子もまた、自分の生活スタイルに理解が及ばない夫との物理的共存の困難さを感じ取っていたであろう。夫婦自身がまさに、そのことを認知しているのである。娘もまた気づいていた。だから父に、「カムバックホーム」と叫べなかったのだ。

 俊作のようなタイプの男には、お雪のような我を殺す世話女房型の女の方が似合っていたということである。

 男と女は、関係の当初こそは「ときめき感覚」で引っ張ることができるが、その感覚は物理的共存の世界に踏み込むことで相当程度中和化していくので、なお関係を継続させていく力は、「価値観」の相似性に因るところが多いと言えるだろう。

 夫婦の性格の不一致性が、相互の自我を傷つけない限り、その関係の破綻は最小限度のレベルに留まるであろうが、しかし、「価値観」の衝突や確執は、間違いなく関係を破壊する重要な因子になってしまうのである。経済活動を重視する俊作と、芸術表現を第一義的に考える悦子の関係の中から異性感情が消失したら、その関係の継続力は脆弱なものになっていく以外になかったのだ。

 俊作と悦子は、ある意味で性格が酷似しているのだ。

 自己本位で、我の強い性格は、自分が好きなものを決して手放したりしない頑固さに於いて際立っているであろう。二人の場合、共に攻撃性が弱い分だけ目立った衝突の少なさが、余計にその関係を形式的なものにしてしまったのである。

 このような性格上の相似性が、二人の関係の中では、その価値観の相違性によって補完的に溶融できない尖りを見せてしまったということだ。

 誰が悪いという問題ではない。人間の相性の問題であると言っていい。

 しかしそうであるなら、もう少し夫婦間の話し合いで何某かのケジメを付けるべきだった。問題は、関係修復に対するそのような能動的な感情が不足するところまで似てしまったということなのである。

 
 悦子とお雪。

 この二人の生きざまの相違は、本作で描かれている振舞いや言動において明瞭であるが、その分岐点は彼女たちの価値観の内にあると見ていい。
 
 本妻の悦子は、その自我の拠って立つ安定した基盤を、明らかに歌道の世界に置いていて、それを第一義的に優先するあまり、その生活感から世俗性の匂いが相当程度脱色しているのである。

 生活は決して楽ではないのに、その振舞いには、貧乏臭さを決して見せないような見栄によって覆い尽くされている。家事の支度もオフィスガールをしている娘に任せることも多く、彼女はどこにいても、歌道の世界から離れられないようなのだ。彼女は本質的に観察者であり、自らを状況の渦の中に身を投げ入れていく主体的生活者ではないのだ。彼女は、「インスピレーション」という観念の世界にその身を預けることで、自我の絶対的な安寧の気分を手に入れているのである。
 
 一方、お雪の自我の拠って立つ安定の基盤は明瞭である。

 東京から父の帰宅を促しに来た君子に、本人がしみじみ語った言葉がある。

 「いつも一日子供を中に、たとえ貧乏していても、四人で顔を合わせていられる楽しみが・・・どうしても、どうしても、壊せないんでございます・・・」
 
 この後、お雪は東京の家族に俊作を帰そうと思いながらも、今までお世話になった方を捨てるに忍びず、更に「四人でいられたら、一生こんな暮らしをしてもいい」とさえ語ったのである。

 彼女には俊作抜きの人生は存在しない。また、俊作との間に生まれた二人の子供との共生なしには、その自我の拠って立つ安寧は手に入れられないのだ。
 
 二人の女は共に俊作を愛しているが、どうやらその愛し方が違うのである。

成瀬巳喜男監督(ウィキ)
悦子にとって俊作の存在は、「家族」という一つの物語の一画を占める何者かであるが、しかし、自分の価値観を崩すことのない相対的価値を有する存在性の大きさを超えないのである。悦子は「家族」の中でも観察者であって、しかも、そのスタンスの中で形成された愛情関係を大切にしたいと思っているようなのである。
 
 他方、お雪にとって俊作の存在は、「家族」という絶対的物語の中枢にあって、それを仕切り、支配する何者かであるに違いない。女は男にそれを望み、また金にもならない男の仕事の価値を、男の自我の安定の基盤に据えられた決定的な何かであることを理解し、それを陰ながらフォローしていくのが自分の役割であるとすら考えているのである。
 
 そして二人の女に愛された男が、最終的に誰を伴侶に選んだかという答えはもはや明瞭である。

 男は観察する女よりも、遠慮気に身を投げ入れてくる女を選んだのである。一緒にいると苦手であると感じさせる女よりも、安らぎを得られる女の方が共存の対象としては、最も相応しい。男は当然、後者をこそ選ぶであろう。

 このようにして、「人は皆、心ごころ」の世界を泳ぎ抜くのである。それだけのことなのだ。  

(2006年7月)

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