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    4 日前

2011年1月20日木曜日

忍ぶ川('72)      熊井啓


<「死・過去・遠心力」から「生・未来・求心力」への情感的跳躍>



1  「新しく生きさせるための死」を目の当たりにして



「翌日、志乃の父は死んだ。私は、初めて一人の人間が尋常に死んでいく様をつぶさに見ることができた。肉親の異常な死に方に慣れた私は、この父の死の意味を思わずにはいられなかった。それは、志乃に私を選ばせた、新しく生きさせるための死だった」

この言葉が、本作の生命線であると言っていい。

本作の主人公である「私」(以下、「哲郎」)が、恋人である志乃の家に結婚の報告に行った際に、死の床にある彼女の父が逝去する現実を前にして、心中で語った言葉である。

そこに至るまでの梗概を、簡単に説明しておこう。

「忍ぶ川」という料亭で働く志乃と出会って以来、血族の「亡びの血」(姉二人の自殺、長兄の失踪と次兄の逐電)を恥じる哲郎の心は浄化されていく。

「僕は兄貴たちの死を思うと、いつ自分にもあのような精神的遺伝形質が現れるのか、不安で夜も眠れないときがある」(ナレーション)

これが、志乃と親しくなる前の哲郎の内面風景だった。

「志乃は、もはや帰って来はしない私の兄を、私が最後に見た場所へ行ってみたいと言うのであった」(ナレーション)

二人は、志乃の生まれた土地である洲崎に近く、且つ、哲郎の次兄が働く深川の街を訪ねた。

既に逐電した次兄について、「兄は死んだ」と説明する哲郎の告白が開かれた。

志乃もまた、自分が深川の洲崎遊廓(戦後「洲崎パラダイス」と呼称)の育ちで、射的屋(弓術の練習場の経営)をする父の娘であることを告白するに至る。

深川で
この一件以来、哲郎と志乃の心は最近接し、お互いを意識する存在になっていった。

「私のことは、全部あなたに見ていただきました。これでスッカリです」

自分の出生の告白をした、志乃の言葉である。

更に、哲郎は自分の血族が背負う、「亡びの血」についても志乃に告白したのである。

「僕たち兄弟の血は、『亡びの血』ではなかろうかと思った」

この哲郎の告白は、忌まわしき過去から逃亡することを意識的に行動してきた彼にとって、相当勇気ある行為であった。

それだけ、彼は志乃を深く愛するようになっていたのである。

「もし私もそんなだったら、死ななければならないんですね。でも私、死にたくないの。あなたも死なないで下さい」

この志乃の言葉は、哲郎の屈折した自我を浄化する力を持っていた。

〈生〉に向かう彼女の能動的姿勢は、哲郎にとって、自らの屈折した感情を埋めるに足る優しさに満ちていたのだ。

しかし、志乃に婚約者がいる事実を友人から知らされた哲郎の心は、殆ど抑制系の発動が阻害されるほどのインパクトを持っていた。

「忍ぶ川」での志乃との出会い
「私は何としてでも、志乃を奪い取らなければならないと思った」(ナレーション)

居ても立っても居られない哲郎は、直接、志乃に問いただす。

彼女が言うには、金銭目的の婚約に全く乗り気がなく、栃木に住む父も反対しているとのこと。

意を決した哲郎は志乃に、婚約者との破談を迫り、志乃もまた、喜んで受け入れるに至ったのである。

「銭が人間を幸せにするんじゃねえぞ。結婚なんてものはなあ、死ぬほど惚れた相手ができたら、さっさとするのが一番いいんだ」

これが、志乃の父の答えだった。

そんな男気のある志乃の父が、年来の疾病のため重篤になった。

原作者・三浦哲郎
志乃は、父の息があるうちに哲郎に会って欲しいと望み、哲郎もまた、先に帰郷している志乃の後を追って、一家が住むという栃木に向かった。

栃木の志乃の実家が、寺のお堂であることを知って、哲郎は改めて家族の貧困のさまを確認するに至るが、そんな貧困の中でも、健気に生きる志乃と、彼女の弟妹の明るさに救われる思いだった。

死の床の中で、哲郎を視認する父は、安堵したかのように他界したのである。

この死を目の当たりにした哲郎が心中で吐露した言葉が、冒頭で紹介した言葉である。

それは、哲郎に、「志乃に私を選ばせた、新しく生きさせるための死」だったのだ。



2  「亡びの血」を払拭する濃密な睦みの時間の中で



哲郎は、志乃を伴って、「亡びの血」の血族が残る、忌まわしき故郷の青森に帰省した。

志乃との結婚式を挙げるためである。

既に老いた父母と、目の不自由な姉のみになった家族が、二人の結婚を歓待してくれた。

家族のみで挙げた結婚式は、心の籠った一夜となった。

「哲郎ちゃん。私、生きていてもいいの?」

目の不自由な姉の、この言葉の中に、この家族が負った重い歴史の傷跡が震えていた。


悲哀な姉を受容する哲郎。

そして映像は、初夜を迎える哲郎と志乃の、深い睦みの時間を開いていく。

そこにこそ、〈死〉の呪いを払拭する意味を持たせたかのような、二人の〈性愛〉を濃密に描き出していくのだ。

「雪国ではね、寝る時なんにも着ないんだよ。生れた時のまんまで寝るんだ。その方が寝巻きなんか着るより、ずっと暖かいんだ」
「あたしも、寝巻きを着ちゃいけませんの?」
「ああ、いけないさ。あんたも、もう雪国の人なんだから」

まるで子供に還ったときの裸身を、緩やかに、しかし存分の情感を込めて合わせていって、いつまでも相手の全人格から漲(みなぎ)る熱量を同化吸収していくのだ。

馬橇(ばそり)の鈴の音に聞き入る二人。

一枚の丹前に包まれた二人は裸身のまま、馬橇の通り過ぎるひと時を共有し、いつまでも見入っていた。

その構図は、一心同体と化した若い男女の、〈未来〉に向かう〈生〉への〈求心力〉を象徴するかのようだった。



3  「死・過去・遠心力」から「生・未来・求心力」への情感的跳躍



美男美女による典型的な恋愛映画でありながら、その心理的風景が抱え込む、重く暗鬱な澱みを浄化するために、ナレーションを多用する文学への擦り寄りによって、必要以上に叙情性を深めてしまった映像への受容の是非 ―― これが本作の評価を分けるだろう。

私の場合、原作の純文学を無前提に吸収したかのような、この過剰な叙情性に馴染めなかった。

なぜ、寡黙な映像のうちに、ミニマムに削り取って純化したテーマ性に関わる描写を、より乾いた視点でまとめ切ることができなかったのか。

ここで言う、「重くて暗鬱な澱み」とは、本作の主人公の哲郎が純愛の対象となる志乃に吐露した、「亡びの血」という言葉に集約できるもの。

この「亡びの血」は、哲郎が「血族の恥」とする情感的把握である。

私はその情感的把握を、「死・過去・遠心力」というキーワードによって要約してみた。

哲郎は血族に流れる〈死〉の呪いの〈過去〉によって血族が裂かれ、バラバラにされていく〈遠心力〉という名状し難い力学が、〈現在〉を呼吸する自我を食(は)むほどに捕捉していて、この冥闇(めいあん)の闇からの脱出を渇望し、その延長上に出会った「至高」の「純愛」(純愛=恋愛幻想の初発の様態、と私は考えている)の中で、限りなく浄化していく時間を作り出していく。

この「至高」の「純愛」が、「告白の応酬」によって深々と絡み合って、加速的に成長していく中で辿り着いた心象世界を要約すれば、「生・未来・求心力」というキーワードによってまとめられるだろう。

二人の「至高」の「純愛」の逢着点は、「大人の恋愛」への成熟を内包するに足る、〈未来〉に向かう〈生〉への〈求心力〉であると言えるだろう。

熊井啓監督
結局、本作は〈死〉への恐怖と、そこに纏(まつ)わる血族の繋がりの解体=〈遠心力〉という、名状し難い力学を恥とする情感を浄化するプロセスのみを、特定的に純化して切り取っていった映像だった。

そこだけは充分過ぎるほど描かれていた、ラストシーンにおける深い睦みの描写は、雪国の生家で心身が完全に融合していく清冽な括りを表現することで、「死・過去・遠心力」の浄化を完遂する絵柄によって閉じていった。

「小さな死」(ジョルジュ・バタイユの言葉)というイメージを持つ〈性〉による融合は、限りなく、観念としての〈死〉の破壊性とは切れていたのである。

「小さな死」というイメージを含意する、〈性〉に張り付く破壊性を払拭し切った映像の括りこそが、本作の最終的到達点だったという訳だ。

従って、私は本作の基幹ラインを、「死・過去・遠心力」から「生・未来・求心力」への、情感的跳躍というイメージで把握している次第である。

(2001年1月)

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