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2008年11月18日火曜日

霧の中の風景('88)   テオ・アンゲロプロス


 <始めに混沌があった>



1  まだ見ぬ父への旅が開かれて



始めに混沌があった
それから光がきた
そして光と闇が分かれ
大地と海が分かれ
川と湖と山が表われた
その後で
花や木が出てきた
それに動物と鳥も・・・

闇が支配する部屋の小さなベッドに身を埋めて、11歳の姉が5歳の弟に、この夜も「創世記」をコンパクトになぞった物語を語っていた。

姉の名はヴーラ。弟の名はアレクサンドロス。就寝を確かめに来た母親の足音に、今夜もまた姉の語りが千切れてしまった。

「ママよ!」と姉。
「また、終りまで聞けない。いつもママが来て、邪魔をする」と弟。

闇の中に廊下の光が差し込んできた。

狸寝入りの姉弟の幼い顔を、存分なほどの人工光が舐めつくす。

明日こそは父に会いにドイツに行こう―― 再び闇となった空間の隅で、姉弟は、毎日試みて果たせなかったその思いを実現する決意を固めていた。

翌日、弟は姉を伴って、精神病棟の住人である「カモメのおじさん」に別れを告げに行った。

瓦礫の山のような高みの向うに、柵で囲われ異様な光景を見せる精神病棟。そこの住人である「カモメのおじさん」は今日も舞っていた。

「こんにちは」と弟。
「雨になる・・・私の翼が濡れてしまう」とカモメのおじさん。
「お別れだよ!」
「どこへ行く?」
「ドイツだよ」
「毎日、そう聞いている」
「アレクサンドロス、遅れるわ」と姉。
「さようなら」と弟。
「ドイツってどんな所だ?」とカモメのおじさん。

その問いに答えることなく、姉弟はカモメのおじさんと別れて走り去った。

会話のバックグランウンドになった風景。

そこには、かつて、歴史的文明を誇ったギリシャの現代の素顔なのだと言わんばかりの映像が晒されて、陽光を遮る灰色の都市イメージが観る者に刻印されていく。姉弟の困難な旅はいずれ渡るであろう混沌の世界への侵入から始まった。姉弟の無垢な自我だけが、まだそのことを理解できないでいる。


何も持つことなく、アテネ発ドイツ行き国際急行列車に乗り込んだのも束の間、喜びの抱擁を交わした姉弟がそこにいる。当然の如く、二人はバックパッカーの認識にすら届いていなかった。

「お父さん。探しに行くと決めたので、手紙を書きます。お父さんに一度は会いたいと、いつも二人で言ってました。ママは心配するでしょう。本当はママのことも好きですが、分ってくれないのです。お父さんの顔を知りません。アレクサンドロスは夢で、お父さんを見たと言います。とても会いたいです。ときどき、学校からの帰り道で、後ろからお父さんの足音がついてきます。でも、振り向くと誰もいない。そんなときは寂しいです。ご迷惑にならないように、お顔を見たらすぐに帰ります。答えて下さるなら、汽車の音に託して下さい。タタン・・・タタン・・・タタン・・・タタン。“私だよ。お前たちを待っているよ”タタン・・・」

少女ヴーラの、まだ見ぬ父への心の手紙。

それをドイツ行きの車両の隅で、11歳の少女が刻んでいる。その傍らには、5歳の弟、アレクサンドロスがいる。二人は寄り添うように座って、初めての未知なる世界への旅に、それぞれの思いを馳せいている。

しかし、まもなく二人は車掌に見つかって、途中の駅で降ろされることになった。姉は駅長の伯父との再会を言い訳にするが、その伯父が警官に語った真実、即ち、姉弟が私生児であり、彼らの父親がドイツにいないことを立ち聞きしてしまったのだ。

「嘘よ。嘘よ。お父さんはドイツにいる。嘘つき!お父さんはドイツにいる」

少女が受けたショックは甚大だった。

だから少女はその話を信じない。それを信じたら、自分たちの大いなる未知への旅が根底から崩れてしまうからだ。

伯父の話を否定した姉とその弟は、そのまま警察署に連行されるが、署員が初雪に気を取られている隙に警察署から逃げ出して行く。


雪の中を走る姉弟と、雪を見て時間が止まってしまう町の人々。

時間を自在に移動するアンゲロプロスの映像技法は、解き放たれた姉弟の躍動感を印象的に記録したのである。



2  横倒しの馬が置き去りにされたとき



二人は再び、列車に飛び乗った。

「お父さん。もっと早く発てば良かった。木の葉のように旅をしています。世界は不思議です。鞄や凍てついた駅や分らない言葉と身振り。恐ろしい夜。でも楽しい旅です。まだまだ続きます・・・」

今度は、5歳の弟の、まだ見ぬ父への心の中の呼びかけ。描写のリアリズムと明らかに切れた映像世界は、殆んどアンゲロプロス監督の独壇場である。

姉弟は、ある町に降り立っていた。

しかし、姉弟の躍動は続かない。

突然、建物の中から花嫁が泣きながら飛び出して来て、それを追う花婿がなだめて連れ帰った。大人の世界の不思議を、呆然と見つめる子弟がそこにいる。

そんな二人の前に、瀕死の馬をロープで引くトラックが通過する。突然ロープが切れて、横倒しの馬が置き去りにされた。姉弟は馬に近寄り、その絶え絶えの生命の鼓動に触れるや、弟は声をあげて泣き出した。残酷な生命の終焉に、5歳の幼い自我はただ震えるしかなかった。

「死ぬわ・・・死んだわ」

死の観念を理解する姉の言葉に触れて、弟の嗚咽は加速してしまうのだ。現実を受容する姉と、死の観念にすら届かない弟の落差は、その自我の形成過程の差でしかなかった。次第に、姉弟の旅は混沌の中に丸ごと呑みこまれていく。

一人の青年が騎士となって姉弟を救い出した。
「旅芸人の記録」の一座の若者、オレステスである。

「旅芸人の記録」
青年は姉弟を一座の待つ広場に連れて行った。その一座は、開演のための舞台を提供してくれる舞台を得られずに、町を転々としているのである。オレステスはその現実を、5才の幼児に語っていく。

「時代が変わった。全ては変わる。この一座は時代に迫害されながら、一つの芝居だけ演じて国中を巡っている」

青年が一座に戻り、姉がマイクロバスの中で眠っている間、空腹の弟は近くのレストランに入って行く。

「サンドウィッチをひとつ」
「金はあるのか?」と店主。
「ない。でもお腹がすいた」
「腹ペコか。だが食うには金が要る。俺も食うときは金を払う」
「お金はないけど、お腹が空いた」
「なるほど。なかったら稼ぐんだ。食卓の上のビンを片付けるんだ。働けば食わせる。分ったか?」

稼がないとパンは得られない、と店主に言われた弟は、指示通りに店内の空き瓶を片付けていく。そこでもらったパンを食べながら外に出ると、自分を心配して探していた姉と一座の青年が待っていた。

「どこにいたの?」と姉。
「ほら・・・食べて・・・稼いだの」

そう言って、自慢げにパンを差し出す弟。

ほんの少し社会に触れた弟を、11歳の姉は力強く抱きしめた。馬の死体を前に泣き続けた弟と、「死んだわ」と呟いて、その生命の終焉を見届けた姉との間の感性的距離は簡単に埋まるものではないのである。



3  霧の向こうの一本の木



オレステスは、夜の街を姉弟を連れて歩いている。

「君たちは変わった子だよ。時間を忘れながら、しかも急いでる。どこにも行かないのか、行ってしまうのか。行き先は知ってるの?」

年上の青年の言葉に、少女も反応する。

「あんたも変わってる」
「僕かい?僕はカタツムリ。這っているだけ。行き先を知らない。前は分ってると思ってたけど・・・もうすぐ徴兵だよ。それだけは確かだ」

青年はそこで、路傍に落ちていたフィルムの切れ端を拾った。それを街灯の照らす明るい壁面に映し出して、そのネガを覗き込んだ。姉弟も傍に近寄って、興味深くそれを覗き込む。

「見えない?霧の向こう。遠くに、木が一本」とオレステス。
「見えないわ」とヴーラ。
「そうさ。からかったのさ」

何も写っていないネガを、アレクサンドロスは青年からもらったのである。



4  現実のパワーに呆気なく蹴散らされて



まもなく一座と別れた姉弟は、雪の中の国道を寄り添うように歩いている。

姉が慣れない手つきで懸命に片手を挙げるが、そこを通る車は二人を置き去りにした。

少女の苦労が実ってようやく止まってくれた大型トラックに、二人は救われた。まさに救われたのである。もしトラックに拾われなかったら肺炎に罹患したかも知れない厳しさを、映像は無言のうちに伝えているのだ。

二人は、トラックの運転手に食事をご馳走になっていた。

それにしても、唯一の会食シーンであるこの描写の寂しさはどうだ。

食堂のウェイトレスを口説こうとして呆気なく振られるトラック運転手は、その素顔を二人の前で充分過ぎるほど晒していた。彼らがこの旅で出会った大人の風景は、依然として好ましいものになっていないのだ。

好ましからざる運転手の粗雑な振舞いに、思春期の少女の普通の警戒心ぐらいは持ち得ていたであろう姉だが、頑健な男の暴力には全く為す術がなかった。11歳の少女はトラックの荷台に連れ込まれて、レイプされてしまうのである。

下着から滴り落ちる多量の血液を、少女は自らの手で触れてみせた。残酷な記憶だけが、少女の脳裏に刻印されるだろう。

そこにはいつまでも光が差さない、近未来の都市構図を思わせるような殺伐とした風景が広がっていて、姉弟の旅は深い混沌から抜け出せないでいる。

彼らの視線に入ってくるのは、近代ギリシャを次々に輪切りにしたような終末的風景ばかりだった。

「お父さん、遠い旅路です。夢の中では近いのにと弟は言います。手を伸ばせば届くくらいだと。旅を続けています。飛び去ってゆく、町も、人も・・・。すごく疲れた時には、西も東も分らなくなって、お父さんのことさえ忘れそう。そうしたら終りです。弟は大きくなりました。真面目で、服も一人で着ます。大人みたいなことを言います。私はずっと病気でした。すごい熱でした。だんだんよくなってます。でもドイツはすごく遠い・・・。夕べ、旅を中断しようかと考えました。到着する先のない旅は、とても虚しい。弟は大人みたいに怒りました。裏切るのと言われて、恥ずかしかった」

少女のモノローグ。

哀切すぎる。幻想は現実のパワーに呆気なく蹴散らされてしまうのだ。

現実のほんの一突きで、少女の描く物語など砕け散る。

社会のリアリズムに直接的に交叉しにくい弟の方が、まだ幻想と遊んでいられる。難しい年齢を突破しなければならない少女こそ、社会の現実の集中的な攻勢に晒されてしまうのだ。

アンゲロプロスのペシミズムは、子供に対しても容赦しない。従って、彼はなおも姉弟に旅を続けさせるしかないのである。



5  思春期の日々を刻む時間を漂流する少女



三度(みたび)飛び乗った列車の中で、常に車掌の視線を意識する少女。

その列車が、突然停車した。

姉弟はそこからまた脱出する。警官が乗って来たらしい。

姉弟の反応は、既に条件反射的に動くようになっている。

二人は駅の構内を走り抜けて行った。捕捉される不安の中で、二人は未知なるドイツを目指して走り抜けていくのだ。

まもなく幼児の視界に、見慣れたオートバイが捉えられた。

オレステスのオートバイである。姉弟はこの日もまた、一座の青年に救われたのである。オレステスは二人を、オートバイに乗せて海に連れて行った。

「変わった子だって言ったろ」

オレステスは、不思議な行動を継続する姉弟に関心を持っている。だから彼らを妹や弟のように扱って、救いの手を素直に差し出せるのだ。

海を見た三人は、ブルーの空の下、荒涼たる風景の中を疾駆する。

「怖いかい?」とオレステス。
「いいえ。ずっと続くといい!」とヴーラ。
「何が?」
「こうしているのが」

やがて三人は渺茫(びょうぼう)として際涯なく広がる砂浜に、その身を預け入れた。

「これからどうするの?」とアレクサンドロス。
「テサロニキ(注)に行く。前に言ったろ?芝居を止めて、軍隊に入るって。君たちは?」

その問いに反応しない少女に、青年は自ら弁明して見せた。

「聞かないよ。聞いちゃいけないんだろ?何が何でも汽車に乗るんだろ?」

そう言った後、オレステスは少女の手を取って、ダンスのパートナーを求めた。

素直に反応できない少女の視線には、既に年上の青年を意識する感情が形成されている。少女は青年の美しい瞳に魅入られていた。

その後、少女は青年の手を振り払って、砂浜を突然走り出した。

少女を追う青年と幼児。少女は砂浜の水が浸かる辺りで座り込み、何か思い詰めたようにうずくまっていた。

それを確認した青年は、手を繋ぐ幼児に言葉を添えた。

「放っておこう。何か大事なものを見つけたんだ。一人にしておこう」

少女は水辺にしゃがんで、砂を撫でていた。

青年の体臭に男という名の暴力の記憶を蘇生させたのか、或いは、そんな恐怖とは切れた、かつて経験したことがないときめきにも似た感情に翻弄されているのか、明らかに少女の自我は、それが流れていく未知の境のとば口で漂っていた。



テッサロニキ港とテッサロニキ市街(ウィキ)
(注)「テサロニキはアレキサンダー大王の古代マケドニア王国の中心地。ヨーロッパで最も早くからキリスト教が伝えられた地域で、原始キリスト教以来の宗教遺跡や宗教建築に貴重なものが数多くある。現在のテサロニキはモダンな商工業都市で、国際会議や国際見本市が度々開かれている。一方旧市街も残り、魚市場などは活況を見せていて生活の匂いや哀愁も漂う。港湾都市としてエーゲ海に面する。ギリシア第二の都市」(鈴木喜一HP・大地の家:2006.1.24「THESSALONIKI」より)


まもなく三人は、最寄の駅にやって来た。

「ドイツ行き国際急行が到着します」

そのアナウンスが構内に流される中で、オレステスは別れを告げる。

「三人の旅はここで終わりだね」

この言葉を耳にした少女は、そこで立ち止まった。

「まだ終わらないわ」
「乗らないの?」
「まだ」
「汽車は?」
「夜の汽車にする」
「じゃあ、一緒にいられるね。夜まで・・・僕も変だ。ウキウキしている。行こう」

この言葉に、少女は笑みで返した。そのあと少女の表情は、笑みで受ける青年の反応に戸惑って、うつむいた。

姉弟の心を束の間癒した一座の青年との再会は、少女にとって思春期の日々を刻む忘れ難い時間に変色しつつあった。



6  「最初のときは、誰でもそうなんだ」



その夜泊ったホテルの部屋から抜け出して、髪留めを外した少女の身体が青年の部屋の扉を開かせた。

しかし、そこに青年はいなかった。少女が弟を連れて外へ出ると、青年が立ち竦んでいた。

その青年の前に展開される異様な風景。

巨大な右手の造形物が海から浮かび上がり、ゆっくりとヘリコプターによって、珍しく晴れ上がったギリシャの空の向こうに運ばれていく。

人差し指の欠けたその手が、指標を示せない神の手の無残を象徴しているのかどうか、私には分らない。「まだ希望がある」というメッセージを暗示するのか、それともその逆なのか、それも分らない。

姉弟はただ呆然と、その不思議な光景をいつものように見つめているだけだった。

一つの演目しか上演しない一座の破綻で、兵役に就くことを決めていた青年はオートバイを売りに出すことになった。

姉弟との別れを惜しんで、青年は彼らを若者が集うクラブに連れて行く。しかしクラブに馴染むには、姉弟はあまりに年少過ぎた。

クラブの暗い階段の下で、弟は眠り込んでいて、姉は大人の空気に溶け込めない苛立ちを隠し切れないでいた。

「寝ちゃったのか?どうした?」とオレステス。
「別に・・・」とヴーラ。
「休んでな。すぐ戻る」とオレステス。

姉弟の存在を完全に無化するこの空間で、青年はオートバイの買い手と談笑して何処かに消えて行ったのである。

弟の手を引っ張って、姉は照明灯で裸にされた夜の国道を這っていた。

無限に続くような無機質の塊の上を、唯一縋った大人の裏切りで裂かれた想いが、血の雨となって降り注いでいた。

まもなく青年のオートバイが姉弟を捉えて、その前方に停車した。

「汽車に遅れるよ。こんな風に別れたくなかった。君たちを大事にしたかったのに。こんな風に別れたくなかった。駅まで送ると決めただろ。こんな風に別れたくなかった」

駅まで送ることを約束していた青年は、心から謝罪した。その心に反応した少女は、たまらずに青年の胸に飛び込んでいく。思いを抱いた異性の胸の中に顔を埋めて、少女は嗚咽するばかりだった。

「最初のときは、誰でもそうなんだ。心臓は破れそうになるし、最初のときは、誰でもそうなんだ。足が震えて、死にそうな気がする・・・」

青年は同じ言葉を何度も繰り返す。

少女の旅は、様々な男との交わりの旅でもあった。

ここでも、弟はまだ眺めるだけの存在である。そして姉弟を後方から見送る青年の姿を、アンゲロプロス監督独特のワンシーン・ワンカットの長回しのカメラが少しずつ俯瞰していって、この印象的な描写を客観的に結んでいった。



7  遥かに遠いドイツへの行程



駅の待合所で一夜を明かした姉弟が、寒々と寄り添っている。

「国境までいくらです?・・・また降ろされちゃう」と姉。

改札で乗車料金を尋ねた後、元気なくベンチでうな垂れている。

「国境って何?」と弟。
「お金が足りない・・・」と姉。

少女には、弟の問いに答える気力すら残っていないようだった。

ドイツを目指す彼らに相変わらず金がない。彼らの旅の目的を最後まで聞かなかった青年からのカンパなど、当てにしようがなかった。

無賃乗車でいつも降車を余儀なくされてきた姉は、遂に禁断のラインを超えていく。ベンチに座る一人の兵士の前に立ち、金をせびったのだ。

兵士は迷った末に、少女を操車場の裏陰まで連れて行く。兵士の視線を確かめながらついて行く少女。

貨車の裏側で、兵士はまだ迷っていた。

「名前は?」と兵士。

そんな問いに、少女は答えるはずもない。

「俺って、バカだな・・・」と兵士。

彼は自分が犯そうとする過ちを悟り、少女の傍に金を置いて兵士は立ち去った。
少女はその金を掴んだ後、初めて切符を買って、弟と共にドイツ行きの列車に乗ったのだ。

しかし、ドイツはまだ遥かに遠かった。

旅券が足りないのだ。姉弟の旅は最後まで残酷である。

この社会での当然のルールが、姉弟の前に常に厳しく立ち塞がっていく。現実のルールを満たすには、姉弟の旅はあまりに無謀すぎたのである。



8  姉弟の歩行の向うに屹立する、眩しいまでの一本の木



国境を分ける夜の河川の闇の中に、姉弟は潜んでいた。

「川を渡った所がドイツよ」

姉は弟を励まして走り出した。

ドイツ国境を抜けようとする一隻のボート。その中に姉弟がいた。

「怖くない」

姉は弟を励ましている。

「止まれ!」

その声と同時に、一発の銃弾が彼らに向って放たれた。

深い闇が彼らを救った。

そしてその闇の後に映し出されたのは、深い霧の灰色の風景だった。立ち込める霧の中から弟が目を覚まし、姉を起した。

「起きて、朝だよ。ドイツに着いたよ」

しかし覚醒した姉弟には何も見えない。何も聞こえない。

「怖くないよ」

恐怖を訴える姉に、弟はそう反応した。

「“始めに混沌があった それから光がきた”」

毎晩聞かされてきた姉の語りを、今、弟が力強く歌って見せたのだ。

それは旅をした分だけ、幼い弟の自我は膨らんでいたことを象徴的に表現したかのような、極めて形而上学的な描写だった。

やがて姉弟の歩行に合わせるかのように、二人の生命を柔和に包んでいた濃霧が晴れていく。その濃霧はまるで一つの意思を表すかの如く、二つの新鮮な生命に全く新しい未来の時間を約束するイメージの内に、原始の光を与えていくのだ。

その歩行の向うに屹立する、眩しいまでの一本の木。

それは、一座の青年オレステスが拾ったフィルムに焼き付いていた風景だった。


彼はそのとき、霧の中に一本の木が見えるとうそぶいたのだ。

その一本の木に向かって、姉弟は走っていく。一直線に走っていく。


*       *       *       *



9  残酷な旅の柔和な軟着点



遂に彼らが到達した一本の木。

それは姉弟が目指したドイツであり、夢の中の父、または「父なる存在」であり、未来に繋がる希望への起点であるだろう。

或いは、それは彼らの残酷な旅の柔和な軟着点であって欲しい。そんなメッセージであるとも取れるが、差し込んできた光の後からまだ物語が続き、その物語を力強く繋いでいかねばならぬと暗示するのか



9  「意志を持ち続けること」と「関係を繋くこと」



子供たちの悲しい幻想に、誰一人寄り添えなかった大人たち。

そして、殺伐とした文明の遺骸を見せる近代の袋小路。それらと決して無縁に疾走できない、青々とした自我のその跳躍の可能性と困難さ。それをテーマとした映像であったとも思えるのだ。

始めに混沌があった。それから光がきた。
一切は混沌の中からしか始まらないのだ。
光と闇が分かれ、大地と海が分かれた後、川と湖と山が表われる。
そして花や木が出てきて、動物と鳥が表われることで生命が生まれゆく。

映像の姉弟は、食物連鎖の頂点に立つ生命体が作り出した、爆発的なうねりを充分に制御できない文明を身体化した、世俗という未知の世界へ自らを投げ入れて、極めて足場の悪いその世界に、恐々と固有なる時間の軌跡を繋いでいかねばならなかった。

それがどこまで可能か。それは誰にも分らない。

ただこのような艱難(かんなん)なる旅を選択した姉弟の小さいが、幾分でも目的的な自我の運動がそこに身体化されている限り、二人の時間には一筋の希望の蕾(つぼみ)だけは生き残されているであろう。


思えば、父を求める姉弟の旅は、二人がいつの日かその全人格を投げ入れていくであろう未知の時間への果敢なる移動でもあった。

果敢なる移動であるはずの旅が、図らずも負った最初の裂傷は、僅か11歳の姉が不運にも捕捉された駅の事務所で、駅長を勤める伯父から盗み聞きした信じ難き話の内実である。

姉弟自身が私生児であり、従って彼らの実父がドイツにいないという現実味のある話だが、当然の如く、少女はその話を拒絶するしかなかった。

「嘘よ。嘘よ。お父さんはドイツにいる。嘘つき!お父さんはドイツにいる」

11歳の姉が、あってはならない不快な情報を激しく感情的に否定したその一点に於いて、5歳の弟を随伴する彼女の旅の本質は、「父」という名の幻想に代行されるイメージへの、困難な時間の移動に転嫁してしまったのである。

「お父さん。探しに行くと決めたので、手紙を書きます」

少女は心の中の「父なる存在」に向って繰り返し語りかけ、“私だよ。お前たちを待っているよ”という言葉を信じ切ることで、未知なる旅を繋いでいくのだ。

少女は今や、旅の継続の中で確認できるであろう実りある時間を身体化するために、全き未知のゾーンに思春期の自我を踏み入れたのである。

覚悟を括った少女は、まもなく弟を伴って、その身柄を移送されていた警察署からの雪中逃走を試みて、見事に成就する。彼らのその躍動感を表現する映像の構図は、彼らの果敢な移動以外の時間の全てを止めるという効果的な描写であった。

伯父による実父の存在否認からの出発であった姉弟の旅の様相は、二人が近未来に立ち会うことになるであろう成人社会の様々な素顔とのクロスであり、そのリアルなる疑似体験でもあった。「父なる存在」への空間移動の実相は、当然ながらシビアな現実とのクロス以外ではなかったのだ。

「食べること」、「寝泊りすること」、「雪中徒歩」、そして「性的暴力」があり、「淡い恋」もあった。

更に、旅の継続の故に、少女は「身を売ること」も辞さなかったのである。

6歳も年の離れた実弟の旅もまた、「動物の死」の圧倒的なリアリズムと、ままごとのような「擬似労働」が同居する仮構体験性を印象付けるものだった。

そんな姉弟の果敢な旅が、そこでクロスする社会の現実の濃度が深まっていった果てに、遂に辿着したドイツ国境の、その圧倒的なバリアを前に認知した現実は、「国境を越えるためには命を賭ける」ことの恐怖であった。

その恐怖を束の間中和化するような深い霧が立ち込めて、そこから昇ってきたのは一時(いっとき)幼児性を突き抜けた5歳の弟の声。

「“始めに混沌があった それから光がきた”」

毎夜、姉によって読誦され続けた言葉がハウリングされたかの如く、今、一つの意思表明となって怯える姉の心を溶かしていく。

それは、「何も写っていないネガ」の内に刻まれた幻想の風景の再現だった。5歳のアレクサンドロスは今、姉と共に立つ「霧の中の風景」の世界こそが、オレステスから受け取ったネガの「無風景」の風景性であることを感じ取ったのだ。

姉弟は霧が少しづつ晴れていく変化の中で、そこに差し込む光に向かって歩いていく。

やがて姉弟の視界に捕捉された風景こそ、オレステスがジョークで語った「霧の中の一本の木」の風景だった。「霧の中の一本の木」がここに屹立していて、それが姉弟を誘(いざな)っているのだ。

「父なる存在」を求める姉弟の旅は、「霧の中の一本の木」の風景の世界に逢着することで、彼らの艱難な移動の時間を繋ぐ旅を継続させた想念の結晶が、そこに固有の輝きを放っていく。

それは、「意志を持ち続けること」と「関係を繋くこと」の大切さを感じ取った時間の、その遥かな彷徨の結実だったのかも知れない。そう思わせる、映像の柔和な括りでもあった。

「神の手」がもげて、それが何処かに運ばれていくかのようなシーンに象徴されていたのは、まさに、「この世界と、そこに呼吸する人生も全て混沌の中にある」ことの形而上学的な映像表現だったのか。

その混沌の中から新しい生命が芽吹いていって、その芽吹きを自らの意志的な選択による固有な時間の航跡を、物理的な含み以上の意味を持つはずの身体という、希少なる生命体を転がしていくことで果敢に繋いでいけ。    

テオ・アンゲロプロス監督はそう語ることによって、「困難な時代の困難な状況」下での全き時間を繋ぐ宿命を強いられた、この高度に進化した文明社会に呼吸する幼くも、未だ無垢なる生命に、恐怖突破への存分の思いをメッセージ化したようにも思われる。

ペシミズムの濃厚なる映像作家の視線は、ここでは思いのほか柔和であったが、それでも、その視界を捕捉する社会的現実はなお冷厳であり、どこまでも黒々としたイメージであるように見えるのだ。



10  「状況や心象風景の混沌」という非日常へのペシミスティックな視線     



―― 稿の最後に、私の思いを一言。


「霧の中の風景」―― 随所にアンゲロプロス特有の象徴的描写やメタファーが盛り込まれていて、その絵解きに難渋するが、この映画はそれらを度外視しても深々と心に染み入り、素直にその哀切な描写に感応できる作品に仕上がっていた。

エレニ・カラインドロウ
全篇に流れるエレニ・カラインドロウの静かな短調の音楽が、ここでも作品にすっかり溶け込んでいて、それが観る者をラストシーンの感動に違和感なく誘(いざな)ってくれるのだ。

一幅の絵画を鑑賞させるようにして完結させる映像の力技。

この最も印象的な映像美が、私の中に充分なほどの余剰を置土産にしていったのである。

会食のシーンが僅か一回しかないことでも分るように、日常性の描写を意図的に回避するアンゲロプロス監督のメッセージの中には、「状況や心象風景の混沌」という非日常へのペシミスティックな視線が常に包摂されているからであろう。

ともあれ、テオ・アンゲロプロス監督の世界観に必ずしも共鳴できない私だが、「霧の中の風景」という映像は言うに及ばず、それ以外の多くの作品もまた、観る者の心を深々と射抜くラインナップが揃っていて、そこで展開される圧倒的な表現世界の力技は見事と言う外ない。

とりわけ、厳しく重く、且つ寡黙な作品をとりわけ愛好する者として、殆ど全ての描写が鮮烈に印象付けられるこの映像は、存分過ぎるほどに魅力的だった。



【余稿】  〈譲れないものを持つ生き方の貫徹〉



テオ・アンゲロプロスは、私の知る限り、譲れないものをもつ数少ない映像作家の一人である。

「霧の中の風景」での撮影の苛酷さに嫌気がさした主役の少年が、壁の前で仁王立ちになり、「やめたい!」と言い放ったとき、テオは初めは静かに、「お前は皆を待たせているんだ。からかうつもりか」と諭そうとしたが叶わず、大声で少年の名を連呼し、遂に翻意させたと言う。

少年に「責任」を追及する監督のあまりの意志の強さに、果たして少年が何を学んだか知る由もないが、命がけで仕事をする大人がこの世にいること、譲れないものを持つ者の困難な生き方というものが存在することだけは、少年の幼い自我に記憶されたに違いない。

子供と大人のこのような厳しいクロスを不幸と見るほどの能天気な言説が聞こえてきそうだが、譲れないものを持つ生き方の貫徹は、関係の表面的柔和化が進む豊かな社会の中で、相当に困難になっていることだけは事実である。

しかし、このような大人の存在こそが待望される時代に、今、私たちが住むこの国の現在が丸ごと無限抱擁されている事態を考えるとき、私はテオ・アンゲロプロスのような男の存在があまりに眩しく映ってしまうのである。

必ずしも、彼の問題意識やその把握に同意しない私が、この映像作家を好むのは、以上のような心理的文脈とも大いに関係しているだろう。

(2006年6月)

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