このブログを検索

マイ ブログリスト

  •  「包丁侍」 ―― その真骨頂の凄み - [image: イメージ 1] 「硬直した階級社会」と決めつけられる江戸時代にあって、能力主義が導入され、身分の低い幕臣でも有能であれば、昇進することを可能にする画期的な制度が導入されていた。 江戸幕府・8代将軍吉宗が導入した足高(たしだか)制が、それである。 1723 年(享保8年)のことである。 ...
    13 時間前
  • アジサイはアートである 「我が町・清瀬」2017初夏 - アジサイを接写していると、色相のグラデーションの鮮やかに驚かされること頻りである。 だから、毎年、初夏になったら「我が町・清瀬」で写真を撮る。 この一期一会の思いでアジサイを観賞していると、アジサイが一つのアートであることを実感する。 アジサイはアートなのだ。 時々刻々に変色していくアジサイは...
    1 か月前

2008年12月18日木曜日

石中先生行状記(「千草ぐるまの巻」)('50)   成瀬巳喜男


<共同体を繋ぐ天使 ―-― 「ナチュラル・スマイラー」の底力> 



序  何とも言えない温和な空気感



原作は、石坂洋次郎の著名な作品。

本作は、その中から三つの物語を映像化したオムニバス作品になっている。三篇ともユーモアたっぷりなほのぼのとした作品に仕上がっているが、私を魅了したのは、何と言っても、三話目の「千草ぐるまの巻」。

ここで描かれたエピソードは他愛のない純情譚だが、このエピソードの何とも言えない温和な空気感が、いつまでも心に残る短編として、本作の魅力を能弁に検証するものになっている。

従って、本稿は、この「千草ぐるまの巻」についての感懐に留めることにする。

因みに、原作は、石坂洋次郎が疎開していた青森県で見聞した話を、一応のベースにした作品になっているが、映像は、本作のラストで「青い山脈」が歌われていることでも分るように、戦後まもないこの地方の庶民の生活を映し出している。



1  スマイルの世界に呑み込まれて



簡単に、この小さな物語を追っていこう。



岩木山神社の中門と拝殿(ウイキ)

青森県のとある田舎の長閑な一本道を、岩木山神社(注1)の村祭りの行列が練り歩いている。

その光景を満面の笑みで迎える少女、ヨシ子。

彼女はこの日、町の病院に姉のカツ子を見舞いに行くところである。

ヨシ子は、広々とした田舎道の一角にある茶屋の女将と笑顔で挨拶を交わすが、知り合いに会えば、どんなときでも笑顔を絶やさないヨシ子の明朗な性格を浮き彫りにしていて、観る方も自然に彼女のスマイルの世界に呑み込まれていくようである。


(注1)弘前市(旧岩木町。青森県西部にある都市)百沢にある格式高い神社。本殿など、重要文化財に指定されている。「お岩木さま」として、津軽地方の人々から崇拝されている。


病院に着いたヨシ子は、元気な姉の姿を見て安堵する。

その姉の誘いで、同じ入院患者の青年に手相の占いを見てもらうことになった。

勿論、彼は素人。

嫌がるヨシ子の手を取って、その素人占い師は真顔で言った。

「・・・うん、この手筋にはごく近(ちけ)え内に、一生連れ添う相手に巡り会うって運勢が出てるぞ」
「まあ、ごく近え内っていつ頃さ?」と姉のカツ子。
「まあ、今日、明日の内じゃ」

そこで、どっと爆笑が起る。爆笑の対象となったヨシ子だけが照れていた。

その日、ヨシ子は妙に異性を意識するようになった。

そのヨシ子は姉から小遣いをもらって、一人で映画を見に行った。

「青い山脈」より
その映画のタイトルは、「青い山脈」。

そこには、ヨシ子役の女優である若山セツ子が生徒役で出演しているという「楽屋落ち」(注2)があったが、これは愛嬌である。


(注2)仲間同士(楽屋内部)にだけ、意味が通じ合えるということ。                


姉にからかわれて、ヨシ子は元の道を戻って、帰路に就いた。

ヨシ子は途中で馬車を引く知人に出会って、その荷台の藁(わら)の上に乗せてもらうが、馬車の主の都合があって、途中の茶屋で待たされることになった。

ヨシ子は茶屋で待っている間に微睡(まどろ)みそうになり、道の傍らに止めてあった、馬車の荷台の藁の中で休むことにしたのである。

まもなく馬車の主が現われて、再び動き始めたとき、ヨシ子は藁の中で熟睡してしまっていた。

その馬車が着いた先は、一軒の農家。

ヒゲ面の馬車の主が、荷台の藁を運び出そうとしたとき、その物音で覚醒したヨシ子は、驚きの声を上げた。

「おらぁ、どうして?ここは、どこだや?」

ヨシ子は、馬車を乗り間違えてしまったのである。

「ここは、おらたちの家(うち)だ」

そう答えたのは、馬車の主ではなく、そのヒゲ面の主の弟に当る少年。

まもなく状況が呑み込めたヨシ子は、慌てるばかり。

「おらぁ間違えて。おらぁ帰(けえ)る。おらぁ、岩木村のもんだ。おらぁ帰る」

ヨシ子の言葉に、相変わらずヒゲの青年は反応しない。聾唖者のようにも見える。反応したのは、その農家の母らしい農婦。

「無理すんな。若(わけ)え娘がこれから一人で、岩木村に帰(けえ)れるもんけ。おらの家さ、泊れ。間違いがあったらどうする。明日になれば、おらぁ、おめえの家さ送っていって、おめぇの親たちにちゃんと引き渡して来るだから。さあさ、入れ」

ヨシ子の表情から思わず、笑みが漏れた。

「おらぁ、泊る。ここさ泊る」

彼女の決断は素早かった。

人好きのする顔立ちのヨシ子の適応能力も相当のもので、まもなく囲炉裏端で、彼女の甲高い笑い声が響いてきた。

「でもおらぁ、これで運が良かった」
「どうしてだや?」
「他の車さ乗ったら、こんな居心地のいい家さ、来たられなかったかも知れねぇのす。アハハハ・・・」
「どんなふうに居心地がええのだや?」
「さぁ、そう上手く口では言えねぇども、おらぁ初めて、ここさ来た気がしねぇのす。おらの家とよく似てるなぁ。これだば、なんぼ暗くても、手探りしないで歩けるす。アハハハ」

農家の主人も、ヨシ子の笑い声に呑まれて、爆笑の渦に加わった。

農家の母は、次男に命じて、いつまでも風呂から上ってこない貞作を呼びに行った。

貞作とは、ヨシ子を馬車に乗せてきたヒゲ面の男の名前。彼は風呂場で、その濃いヒゲを念入りに剃っていたのである。

風呂場にまで聞こえる、ヨシ子の笑い声。

「兄(あん)ちゃん、あの女子(おなご)、どうしてああ、笑うんだや?」

そんな弟の疑問にも、兄の貞作は何も反応しない。

囲炉裏端では、貞作の母が自分の息子の話を、ヨシ子に聞かせている。

その話によると、口数は少ないが、親は大事にするし、弟の面倒見もよく、心持ちの温かい性格の息子であるらしい。そんな息子に、近々嫁をもらうことを考えているとのこと。

貞作の母は、長男とは違って、至って饒舌である。

「・・・そしたら、さっき、貞作が車の上さ、おめえを乗っけて来たので、てっきり親の断りなしに勝手な嫁を引っ張って来たかと、くっと思うたよ」

その笑い声の中に、貞作が髪を整え、ヒゲをすっかり剃った姿で現われた。一瞬、ヨシ子の表情から笑みが消えた。しかし、夕御飯を勧められたヨシ子は、それを食べ始めると、再び元の笑顔に戻っていったのである。

「あれ、このご飯ふっくらして美味(うめ)えこと。おれが炊くの、どうしてこう、上手くいかねえんだべ」
「釜で炊いてるけ?」
「はぁ、釜で」
「蓋(ふた)の上に、重石(おもし)のっけてるけ?」
「重石?」
「漬物石でも、水を張ったバケツでもいい、重てえ物を蓋の上に乗っけて、噴き零れねぇようにすんのさ。噴き零したら、飯の味は落ちるもんだ」
「はぁ」

この後も、飯の火の炊き方について当家の母は、まるで自分の娘に語るように、ヨシ子に伝授したのである。

囲炉裏端には五人がいたが、話の中心は、常にこの二人であった。

当家では、どうやら男たちは寡黙な性格らしい。

二人の話に反応するかのように、貞作はしばしば表情を変えるところを見ると、彼は聾唖者でも何でもなく、単に寡黙なだけの善良な青年らしい。

ヨシ子も僅かな滞在の中で、そのことを感じとっていた。

盆踊り(イメージ画像)
次男の誘いで、貞作はその晩、盆踊りに出かけた。

ヨシ子も一緒に同行するが、全く口を聞かずに、一人で先に腕組みをして歩く貞作との距離はまだ埋まらない。

自ら距離を埋めようと、ヨシ子は盆踊りを無愛想に見つめるだけの貞作の横に近づいた。

「貞作、お前の彼女か?」

貞作の周りに、彼の仲間がやって来て、寡黙な男をからかった。

「ぶ、ぶ、ぶん投げるぞ!」

初めて放った貞作の一言は、仲間の爆笑を誘って、結局、彼らを蹴散らせることになった。

不穏な空気を感じ取ったヨシ子は、貞作との距離を更に縮めて、完全にピタリと寄り添っていた。

二人はその距離を保持して、祭りの賑わいの中を歩いていく。貞作の表情には、いつしか自然な笑みが零れていた。

「どうしてモノを喋らねぇんだべな。耳は良く聞こえるくせに。でも笑うようになっただけ、さっきよりましだども」
「唖だと思いたかったら、かっ、勝手に思え」
「喋れる口持ってて、もったいねぇ。何で喋らねぇ?」
「面倒くせい」

二人の会話は、少しずつテンポが合ってきた。それは貞作の心までも溶かすような、ヨシ子という娘の天真爛漫さが作り出した空気だった。彼女は、「ナチュラル・スマイラー」(筆者の造語・後述)なのである。

「おめぇ、面白い男だな。怖そうに見えて」
「そうけ」

二人の後方から、彼らをからかう連中の笑い声。

それに過剰に反応する貞作。

その貞作に、自分の身を一瞬預けるヨシ子。

二人の距離は、僅かな語らいの時間の中で、急速に埋まっていったのである。

お喋りな娘と寡黙な男。まさに、お似合いのカップルだったのかも知れない。



2  最後まで陽光が消えない映像の括り



翌朝、ヨシ子は帰宅することになった。

貞作の母は、自分が家まで送り届けることができなくなったので、貞作に頼むことになった。

その際、ヨシ子の家の者を安心させるために、昨晩、間違いがなかったことを証明する書き付けを、村の駐在さんに頼んだのである。

その証人になったのが、東京から来た作家である石中先生だった。

石中先生のモデル・石坂洋次郎
駐在所の警官は、ヨシ子についての、「貞操に異常なしを証明する」という趣旨の書き付けを、石中先生に頼んだのである。

ついでに警官は、貞作にも事情を確認した。昨晩の盆踊りの場で、貞作がヨシ子に対して不埒な振舞いをしたかどうかの確認である。

正直な貞作が、ヨシ子の手を握ったことを認めたことで、警官は根掘り葉掘り聞き出すが、ヨシ子の方から恐怖のあまり貞作にしがみ付いたことを白状してしまった。

しかし詳細な事情を知った警官は、問題ないという結論に達したのである。

「娘は壊れもんだから、これぐらい、気を遣ってやらんとな。ハハハ」

この警官の一言が、共同体の治安を守る男の、ある種の誠実さを端的に表していた。彼は最初から、ヨシ子の外泊の一件を問題にするつもりはなかったのである。

まもなく貞作は、ヨシ子を馬車の荷台に乗せて送って行った。

「おめぇの家の人たちは、皆ええ人ばかりだなぁ・・・おめぇ、何とか喋れや」

それに貞作は微笑し、「歌うか」という言葉で反応した。

「ああ、歌えや」とヨシ子。

貞作は、陽光に燦然(さんぜん)と輝くみちのくの長閑な田園地帯の道の中枢で、「青い山脈」という、今でもポピュラーな、最も日本人好みの歌を、空高らかに歌い上げていく。途中から、ヨシ子がその歌声に合わせていく。二人の優しく、力強いハーモニーが天高く響き渡っていた。

そして、二人の別れの挨拶。

「お世話になったな。おら、帰る。おら、帰る・・・」
「また、来いや」
「ああ、おめえも、家さ遊びに来いや」
「ああ」
「きっとだがや」
「きっとだ」
「指切り」と言って、ヨシ子が貞作の手を取ろうとした。
「よせやい」

貞作は照れている。最後まで無骨な男なのだ。

二人は笑いながら、別れることになった。ヨシ子をいつまでも見送る貞作の下に、石中先生がやって来た。

「先生。先生にこんなこと聞くのは変だが・・・」
「何だね?」
「一目見ただけで、好きになるってことは、いいことですか?」
「いいことだとも。あの子を家まで送って行くべきだと、僕は思うね」

その言葉に勇気をもらった無骨な男は、遠くに見えるヨシ子に向って、必死に馬を牽いて行った。それが、最後まで陽光が消えない映像の括りだった。


*       *       *       *



3  共同体を繋ぐ天使



春のりんご畑と岩木山(ウィキ)
この「千草ぐるまの巻」という短篇に限って言えば、共同体が持つ負性のイメージである「排他性」についての一方的偏見と誤解を、柔和な筆致で批判的に映像化した作品である、と私は勝手に把握している。

これは、別々の共同体が繋がるときのキーワードを、分りやすく示した話であるということだ。

では、その共同体を繋ぐキーワードは何か。

それは、未知なる者が放つ不安や当惑の思いを、とりあえず、「スマイル」によって受け止めることで、相手にとっても未知なる存在である自分自身を、誠意をもって開示していくことである。

ここで開示された「スマイル」は、未知なるゾーンへの唐突な侵入によっても、充分に相手の好意を導き出す原動力になっていて、結局その根柢において、同質の構造性を持つ共同体が内包する圧倒的な包容力の内に、相互の心が自然裡に溶け合っていくことで、「スマイル」の商品価値性の凄みが印象的に映し出されたのである。

そして映像は、その展開を極めて素朴に再現することに成就した。

観る者の感動が生まれたのは、その展開の自然で、素朴な流れ方の内にあったと言えるだろう。

この話の中では、特段の事件や不幸が描かれている訳ではない。

ただ単に普通の会話があって、普通の笑いがあって、共同体に呼吸を繋ぐ人々の普通の生活が存在していただけだ。

敢えて事件というなら、一人の粗忽(そこつ)で天真爛漫な娘が、自分が知らない別の共同体に、その身を侵入させてしまったという話のみである。

それだけの話の中に、ごく普通の人情のクロスが媒介されていただけなのだ。

しかし、そんな他愛のない人情のクロスの描写が、本作では際立って印象に残ってしまうのである。

まるでそれは、映画というものが、こんな日常的な題材を扱っただけでも、かくも内容のある人情譚を作り出してしまうということを、本篇において、殆んど決定的に検証して見せたかのようである。

映画の題材を日常性の内にこそ拾っていけ。成瀬は、そう言っているようでもあった。

そして、この何の変哲もない小さな物語の中枢にあるのが、「ナチュラル・スマイラー」である。

かつて心理学の本で読んだ知識だが、「アトラクティブ・スマイラー」という言葉があるらしい。

その意味は、「微笑で魅了できる人」ということ。この言葉には、「異性を惹きつけるスマイル」という含みもあるので、私は敢えて、「ナチュラル・スマイラー」という言葉を造った次第である。

なぜなら、本作のヨシ子は、「アトラクティブ・スマイラー」の代名詞とも言えるマリリン・モンローの魔性性とは異なって、「そこにいるだけで、自然に場を明るくし、楽しくさせる空気を放つ個性」という意味の人格性を、丸ごと体現しているからである。

まさにヨシ子こそ、「ナチュラル・スマイラー」であったのだ。

この話を通して、「ナチュラル・スマイラー」であるヨシ子の底力は存分に発揮されているが、観る者が最も感動したのは、一つの共同体が、「娘に間違いがなかった」という文面の証人入りの書き付けを作成することで、皆で天真爛漫な一人の娘を守ろうとするコミュニティの精神である。

娘は共同体を繋ぐ一人の天使であったが、共同体もまた、そのような娘を優しく見守る態度において、ここでは実に清々(すがすが)しい印象を与える特別な何かだった。

無論、それは共同体の美化に繋がる解釈にも流れかねないが、しかし共同体が内包する、「相互扶助」のメンタリティに関しては疑う余地がないところである。

本篇は、共同体の「光」の部分のみが強調されて、下町共同体の「影」の部分を身体記憶している私としては些か面映いが、それでもそれが厭味に感じられないのは、成瀬の抑制的な演出の手腕に因るところが多いだろう。

だから私は、ここまで突き抜けて描かれた「ナチュラル・スマイラー」の底力を、率直に受容したいと考えている。それほど清々しい映像だったということだ。

最後に、私の中での本作の好感度の高さを保証しているのは、「ナチュラル・スマイラー」を演じた若山セツ子の可憐さの魅力ばかりでなく、相手役の貞作を演じた三船敏郎の、何とも言えない、ぶっきらぼうな味わいにあるという点を指摘したい。

本作での三船は、黒澤が執拗に描き続けた「スーパーヒーロー」ではないのだ。

「スーパー・ヒーロー」を絶対描かない成瀬が演出すれば、これだけの魅力的なキャラクターを造型できるということである。

「青い山脈」を高らかに歌う本作での三船のキャラクターは、私が最も愛するキャラクターの一つであると言っていい。

そして、三船の母を演じた飯田蝶子。

いつもながら素晴らしいが、ここでは、家族の統一的なメンタリティを束ねる中枢的な役割を演じていて、何とも魅力的だった。

全ての役者が生き生きと、己のキャラを演じ切った感のある、「千草ぐるまの巻」の感動の余情は、決して消えるものではないのである。

ついでに言えば、現代では「不穏当」とされる表現が台詞の一部で使われたことで、テレビでの放送が困難になっているであろう現実が、極めて寂しい限りである。

(2006年8月)

0 件のコメント: