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2010年2月13日土曜日

母べえ('07)    山田洋次


<空砲の受難劇と化した無限抱擁の「聖母映画」>




1  無秩序な稜線を伸ばすだけの時間を晒すという脆弱性



良かれ悪しかれ、激しく沸騰する時代の息吹は、しばしばマグマのように噴き上げる、その時代に呼吸する表現作家の熱量の一次的供給源になっていくだろう。

高度成長時代下で、「家族」(1970年製作)という作品を映像化した作り手は、まさにそんな時代に呼吸する者が、誠実な表現者の感性によって手に入れたマキシマムな熱量を、その時代を的確に映し出すフィルムに結晶化していった。

ある意味で、沸騰する時代の息吹が、「良き表現作家」を胚胎していくのだ。

ところが、その時代に対峙するに足る、「絶対反戦」の劣化を感受させる深刻な機運が、澎湃(ほうはい)たる波浪の鋭角的な継続力の強靭さをもって、大衆運動の地平を焦がす如く、存分に盛り上がっていないのに関わらず、「憲法9条改悪反対」などという、正体の不分明な、「何となく平和な世の中」の中で広がりを持つという「閉塞感」を確信して、その「不幸な空気感」を、「時代の強力な後押し」なしに映像化に踏み入っていく作家が現出するのもまた、未知のゾーンを開いた時代の必然的な現象なのだろう。

件の連中は、必ずと言っていいほど、ネガティブな時代を理念系だけで突き抜けてしまうのだ。

そこで作られたものの多くは、沸騰する時代の息吹と切れた、「何となく平和な世の中」で呼吸する人々の圧倒的支持を受けられず、結局、「主題提起力」が余分に抱えた理念系の文脈が呆気なく蹴飛ばされた挙句、件の作品に張り付く情感系言語の滓のみが拾われる運命を免れないだろう。

本作もまた、「三つの死」に優しく寄り添ったレクイエムの、印象深いBGM効果(冨田勲の音楽による、佐藤しのぶのソプラノ)が作り出す情感世界の内に、観る者は予約された描写に感情移入することで手に入れる感傷だけを手土産にして、その描写からインスパイアされた奇麗事の言辞を束の間リザーブするだけで、既に、映像の記憶が自己完結する時間の中にあっては、リザーブしたはずのものは加速的に希薄化し、あっという間に雲散霧消していくだろう。

それ故、特段の問題意識を持たない多くの鑑賞者の自我の表層に、「何となく心に残った映画」という乱暴な情報の文脈を呑み込ませるだけで、全て事足りてしまうのだ。

このような類の作品の運命とは、所詮、それ以上のインパクトを持ち得ないのである。

この作品がそうであるとは言わないが、大抵、覚悟なしに作った者の作品は、覚悟なしに観る者の読解力のレベルに合わせてしまうのだ。

何某の俳優の演技が良かったとか、何処其処(どこそこ)のシーンが感動したとかいう次元で片付いてしまう運命を突き抜けられないのである。

恐らく、「何でもあり」の現代状況の決定的瑕疵は、表現作家の熱量の一次的供給源になっていった遥か昔のように、激しく沸騰する時代の息吹が噴き上げることもなく、まして、その息吹の継続力を根柢から劣化させた脚力の臨界が露わにされて、ダラダラと無秩序な稜線を伸ばすだけの時間を晒すという脆弱性にこそあるのだろう。



2  「大女優」の「無限抱擁の聖母映画」の決定版



本作もまた、いつものように、吉永小百合を聖母にするための映画であった。

従って、他のキャラ設定の役割分担制だけが突出した「家族映画」の中途半端な支配力によって、主題の含みにあったはずの昭和10年代の世相の怖さが全て希釈化されてしまったと言っていい。

そのことは、時代考証を完璧に遂行する技巧と峻別するような類の問題ではないことを意味するだろう。

要するに本作は、「戦争はダメ」というだけの安っぽいメッセージにしないための堅固な防波堤として、「理想的な家族映画」の内に、存分に流れていく枠組みを作り上げてしまったのである。

時代背景を丹念に描いているようで、観る者の映像感性に届くに足る描写の提示のリアリティを保証できなかったのは、「家族の苦悩」の描写が、「母べえ」の苦労の描写を表面的に追い駆けているだけで、あまりに薄っぺらであったからだ。

何のことはない。

本作は、「きな臭い時代を必死に耐え忍びつつ、家族を命がけで守る偉大なる聖母」を演じることに女優の誇りを賭けたであろう、「吉永小百合」というこの国の一部の男たちにとって、「永遠のアイドル」のナルシズムを担保してあげるかの如き極北の作品だったと言えようか。

それ故に、「なぜ今、山田洋次が作らなくちゃいけなかったのか、よく判らない」というレビューが映画サイトで多く散見されるほどに、「究極の家族映画」という幻想に張り付く、「究極のアナクロ映画」になってしまったのだ。

「山田洋次」という、「偉大なる巨匠」の固有名詞の幻想のみが放つ、「この国の良心」のイメージによって固められた、「誠実な映画」の求心力も、ここまで映像構築力を劣化させてしまうと評価の対象外である。

映像構築力、即ち、「主題提起力」と「構成力」があまりに脆弱であるが故に、結局、「時代」も「人間」も充分に描き出せずに、一人の女優の聖母性のみを拾い上げてしまった過誤は看過し得ないだろう。

CGが駆使されている時代で、「スパイ・ゾルゲ」(2003年製作)や「ALWAYS 三丁目の夕日」(2005年製作)などの映像が、殆どリアリティを再現できずに惨敗した現実を回避するために、「不気味な時代」に呼吸を繋ぐ「究極の家族映画」を作り出そうとした思惑は、やはりここでも、時代の強力な後押しがないために惨敗するに至ったのである。

「不気味な時代」をリアルに再現したいのなら、カラー映像ではなく、その時代の色彩感に適ったモノクロ映像で勝負できなかったのか。

母べえ、父べえ、娘たち
「大女優」の「無限抱擁の聖母映画」の決定版を、CGを駆使した豊饒な色彩感によって強調したかったのか。

全く不分明である。

また、「国に殉じる日本国民を送り出す儀式」としての、駅での出征兵士の壮行式と、「絶対個人主義」、「絶対世俗主義」を標榜するかの如き、「母べえ」のおじである藤岡仙吉(笑福亭鶴瓶)の帰郷を一つの絵柄に収める構図は、左翼プロパガンダを姑息に張り付ける演出であるとは断じないが、あまりにベタな描写であったと言わざるを得ない。

この構図もまた、「山田洋次」という名の、抑性系の「巨匠」にとってあまりに不釣り合いのカットであった。

「『家族』という主題を描き続けてきた名匠の新たな到達点を見た思いだ」(2008年1月25日 読売新聞・恩田泰子)

こんな愚昧な把握しかできない「評論家」の馬鹿話は蹴飛ばすとして、老け役もできない吉永小百合の身体表現力の驚くべき現実を目の当たりにして、正直、愕然とした。

「あの世でなんか会いたくない。生きている『父べえ』に会いたい。死んでから会うなんて嫌だ」

死の床にある「母べえ」は、今まで聞いたことも見たこともない信じ難き台詞を結んだ挙句、死の床にある者のリアリズムを削り切った「老女」を表現して見せたのだ。

およそウイズエイジング(年相応に生きること)という概念と無縁に、女優人生を送ってきたと思われる「母べえ」役の「大女優」が、白髪頭の「老女」を演じても、老け役を演じる若手女優の「アンチ・リアリズム」のカテゴリーの内に収まってしまう「大女優」とは、一体何なのか。

この役柄限定の「大女優」は、年相応のキャラすら演じられないのだ。

それを演出する「巨匠」の顕著な能力劣化を晒す、件の「泣き所」のシーンによって充分に自壊のシグナルを送波していたことが、情感系のデトネーションと化した、「父べえ」のナレーションによる、もっと驚くべきラストシーンの壊れ方の内に流れ込んでいったのである。



3  空砲の受難劇と化した無限抱擁の聖母映画



問題のラストシーン。

戦前に獄死した、「父べえ」によるナレーション。


「薄給の小学校の代用教員・・・一体、一日何時間の勤務だというのだろう。皆、不平を持ちながら、皆、首を恐れている。一旦失ったら、二度とありつけない職なのだ。君は、僕のこと、子供たちのことがあるから、歯を喰いしばって頑張る。君の12貫足らずの痛々しい体。それは皹(ひび)の入った瀬戸物みたいだ。一体、誰だ!君の体をそれほどまでに痛めつけるのは。何ものだ!僕たちにこのような苦しみを強いるのは・・・」

ただ単に、この愚劣なナレーションを挿入するための映画であると思われるほどに、全てを壊してしまったラストシーンだった。

それは、ほぼ抑制が効いた「誠実なる映画」が、左翼プロパガンダ性の濃度の深さを決定づけた、殆ど支離滅裂で情感系のデトネーションと化した、何とも過剰なるシークエンスだった。

それにしても、「巨匠」の域に達したとされるこの作り手は、80歳に手が届く年輪を重ねながら、こんなズブズブの感傷的映画を作ってしまったこと。

ここまで書きたくないが、そのこと自身が、本作を観るこちらの方が、気恥ずかしくなるほど。とてもこんな大甘な国からは、ハネケやベルイマンは生まれないと思った。


ともあれ、特高が暴れ狂った治安維持法の厳罰化の「不気味な時代」を、一気に現代にワープさせたかのような「ナレーションの決定力」という幻想だけが、「モラリストの空砲」を排泄し続ける「時代への弾劾者」の幼い自我に張り付いて止まないようであった。

まるでそれは、「求刑の8掛け」の維持という現実が示している関わらず、裁判員制度の実施を「赤紙」の予行演習とでも弾劾せんかのような、思春期自我のまま成人化した連中の青臭さを象徴する「モラリストの空砲」の、呆れるほどの裸形の連射を見せつけられる不快感そのものなのだ。

山田洋次監督と出演者たち
「まあだだよ」(1993年製作)などという、気恥ずかしい限りの愚作を残して逝った黒澤や、「小早川家の秋」(1961製作)の小津がそうであったように、年輪を加えることで円熟味からいよいよ遠ざかっていく感のある、「山田洋次」という「巨匠」の、ギリギリに保持した抑制の内に溜めておいた、「金融資本」の「暴力的な資本主義」(注)への弾劾をイメージさせる情念をラストで噴き上げることで、完全に「映像の均衡」を自壊させてしまったのである。


(注)「金融工学」の発明品の一つである、「モーゲージ債」(不動産担保証券)に代表されるような「暴力的な資本主義」の暴れ方への弾劾が定番化。


大体、「僕たちにこのような苦しみを強いるのは」と言いながら、「母べえ」の生活の苦労が観る者に全く伝わってこないのは、明らかに、「繊細さ」を意識した演出の不必要な「抑制」の故であり、「映像構成力」それ自身の過誤である。

何より、「思想犯」の家族でありながら、「母べえ」には小学校の代用教員の仕事があり、翼賛系の頑固な父(警察署長)のバックアップがあり、隣居の親父の過分な親切や、何より、その生活風景が不分明な「山ちゃん」の熱いサポートがあったではないか。

要するに、このナレーションが、「底なしの格差社会」と化したと信じる、ゼロ年代の「閉塞状況」に向けての、作り手の怒りのメッセージであることは自明である。

しかし、このナレーションに集約された作品を作りたいのなら、相当の覚悟を括って、論理的検証困難なゼロ年代の「金融資本」の、その「暴力的な資本主義」への弾劾を、「現代映画」のフィールドで真っ向勝負すべきだろう。

心から弾劾したい当のリバイアサンを相手に、「主題提起力」を堂々と抱えて、堂々とした「映像」の「構築力」によて、堂々と表現すべきではないか。

奇麗事の言辞で逃げるな。

本稿もまた、それだけを言うための批評だった。

収穫はただ一つ。

相変わらず浅野はいいが、前半の造形性には「作り物」的な演出が目立ったが、後半になって、シナリオの浅薄さを消化し切った俳優の底力が噴き上げていた。

但し、浅野の水死のシーンは余分だ。

観る者の想像力を簡単に壊す描写の過剰さが、この作品では目立つのだ。


なぜ、屋上屋を架すかのような描写を挿入してしまうのか。


決して説明過剰にならない「巨匠」の、その映像構築力の劣化を認知せざるを得ないのだ。

「家族」より
結局、この「巨匠」は、シリアスな作品群のフィールドに、凛として立った映像作家の心意気を抱懐しつつ、激しく沸騰する時代の息吹の後押しを受けた熱量によって、高度経済成長期の日本の社会状況を見事に描き切った、「家族」(1970年製作)という名の最良の傑作を、今なお超えていないのではないか。

そう思えて仕方がないのだ。

何のことはない。

10年に一度、南ドイツの小村のオーバーアマガウで、世界最大のキリスト受難劇が実施される一大セレモニーをなぞる訳ではないが、本作は、「大女優」のナルシズムと「巨匠」のナルシズムが、マキシマムの親和力の内に睦み合って作られた、「空砲の受難劇と化した無限抱擁の聖母映画」という把握が最も相応しいと思えるのだ。

(2010年2月)

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