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2011年2月13日日曜日

この道は母へとつづく('05)       アンドレイ・クラフチューク


<幼児の「英雄譚」を本質にする、非現実的な「状況突破のアクション譚」>



 1  燃料切れの車に蝟集する子供たち



 印象的なファーストシーン。

 凍てつくような酷寒の雪原を降り頻る雪が、幻想的な靄の風景を作り出して、そこに一台の車が走っているが、燃料切れのため、些か肥満気味の女が携帯で連絡を取って、サポートを要請した。

 それは、ロシア・フィンランド国境にある、北方ロシアの寂寞な情趣を印象づける孤児院に向かう貨物自動車。

 乗用しているのは、この孤児院に養子縁組を求めるイタリア人夫婦。

 そして、そのイタリア人夫婦への養子縁組ビジネスを成功裡に導こうと念じる、仲介業者の女。

 本作では、件の孤児院長との関連もあり、マダムと呼ばれている、名うての遣り手。

 車を運転するのは、マダムの愛人である、ドライバーのグリーシャ。

 マダムの目的は、この孤児院での生活を余儀なくされている、6歳のワーニャの養子縁組を成立させるため。

 まもなく、燃料切れで停車している貨物自動車の周りに、多くの子供たちが集まって来て、雪道の大型車両を押し始めるた。

 集まって来た子供たちは、言うまでもなく、施設内の孤児たちである。

 燃料切れの車に蝟集(いしゅう)する子供たちを映し出した、ロシア文学特有のくすんだ色彩感覚をイメージさせる、この序盤のシークエンスは、本作の映像構成の骨格を成すイメージを充分に提示するものだった。



 2  ギリギリに繋がった「ルーツ探しの旅」



 慈善事業という甘い把握を吹き飛ばすかの如き件の孤児院は、屈折しながらも、厳しいルールに基づく上下関係(権力関係)を形成する少年・少女と、ワーニャのような幼児を包括する集団を抱え込んでいた。


 寒さ凌ぐでボイラー室で寝起きするほどの貧しさ故に、窃盗・恐喝・売春が横行する日常を繋ぐ、「孤児」という名の遺棄児童・少年・少女にとって、外国人の本来の目的が臓器移植という噂が蔓延する中でも、裕福なイタリア人との養子縁組は羨望の的だった。

 だから、ワーニャには、“イタリア人”という仇名がついた。

 本作の原題の「ITALIANETZ」の意味は、そのワーニャの仇名である“イタリア人”。

 しかしワーニャは、この養子縁組に乗り気になれなかった。

 と言うのは、先に養子が決まって、孤児院を脱出できた親友のムーヒンの実母が息子を引取りにやって来るが、時既に遅し、悄然と帰って行った挙句、鉄道自殺を遂げてしまった事実を知ったからである。

 ワーニャは、この一件によって、自分の母親が迎えに来たときのことを考えてしまったのだ。

 ムーヒンも養子縁組を断っていれば、母親に会えたのだ。

 子供の浅知恵でそう考えて、養子縁組を拒否したワーニャは、実母を捜すことを決意して、売春で日銭を稼ぐイルカから文字を習った後、鍵を盗むや、院長室にに忍び込んで、金庫の中に秘匿されている、自分に関する書類を盗み見る。

 その書類名簿から、実母によって預けられた元の乳児院の住所を知り、そこへ行くことを決心する。


 イルカのサポートで最寄の駅まで行くが、トラブルに巻き込まれたイルカを傍目に見て、列車に乗り込んだワーニャは、果敢な「一人旅」の世界に自己投入していくのだ。

 その後のエピソードでは、初めて知る外部世界の中で交叉する、一種のロードムービーの世界が描かれる。

 同時に、ワーニャを追走するマダムとグリーシャとの絡みもあるが、何とかワーニャは元の乳児院に辿り着く。

 乳児院の親切な老人はワーニャの気持ちを察しながら、真相を語っていく。

 「冬にある母親が来て、息子を捜したいと泣いた。後悔が遅過ぎる。警官に連行されても繰り返し来て、その後、姿を消した。君も連行されてしまう。母親に捨てられたんだからね。こんな良い子を捨てるなんて」

 ワーニャの実母は、乳児院にワーニャを預けた後、繰り返し訪ねて来たのだ。

 彼女なりに後悔しているのだろう。

 しかし、単身、乳児院を訪ねて来た現在のワーニャも、マダムとグリーシャらに捕捉される危険性を指摘した後、その乳児院の老人は、ワーニャの実母の名前と住所を教えてくれたのである。

 乳児院の老人に教えられた住所を当てにして動く、ワーニャの苛酷なロードムービーの世界はギリギリに繋がったのだ。

新聞に掲載されていた実話をベースにした、まだ見ぬ母親への「ルーツ探しの旅」が、再び開かれていく。



 3  「用心棒」の度肝を抜く、「ルーツ探しの旅」への「思いと覚悟」



 
   孤児の人身売買という重いテーマを内包しながら、一貫して淡々と、社会派的なリアリズムで展開させてきた、「ルーツ探しの旅」という物語の中で、一か所だけ、リアリズムを壊す危うさを挿入したシーンがあった。

 恐らく、そこに映像の勝負を賭けたに違いない作り手の、ドキュメンタリー出身とは思えない「作家性」の描写が垣間見られるが、そのシーンの安直な設定だけは、私にはどうしても看過し難い何かであった。

 
そのシーンとは、「ルーツ探しの旅」を続けるワーニャにとって、その旅の目的を遂行する上で最大の障壁となった人物との、「直接対決」のシーンである。

グリーシャ
「最大の障壁となった人物」とは、グリーシャのこと。

 国際養子縁組をビジネスとするマダムの愛人であるが、本来は運転手の強面(こわもて)の男だ。

 降り頻る雨の中で、逃げ場を失ったワーニャに迫って行くグリーシャ。

 そのグリーシャに対して、ワーニャが選択した行動は、6歳の児童の行動の範疇を遥かに越えていて、「映画の嘘」を過剰に露わにさせたもの。

 以下、その場面を再現する。

 「こっちに来るな!ママを見つけたんだ。邪魔するな!」
 「さあ、こっちへ来い!」

 ここでワーニャは、拾った空き瓶を割って、それを左手に切りつけたのだ。

 「お前なんか怖くない!」
 「やめろ!捨てるんだ!」
 「ママの所へ行く!」

 ここでグリーシャは、少年の手から空き瓶を奪い、それを放り投げた。

 当然ながら、「用心棒」も兼ねる大人の腕力に、6歳の幼児が叶う訳がない。

 しかし、6歳の幼児の信じ難き行動に、グリーシャは度肝を抜く。

 「何と、バカな真似を!」

 男はこの信じ難き行動を視認して、すっかり意気阻喪してしまった。

  咽び泣いているワーニャの「思いと覚悟」を汲み取って、グリーシャは6歳の幼児の「ルーツ探しの旅」を受容するのだ。

 一瞬、言葉を失って、眼の前の「覚悟を括った幼児」を抱擁する男。

 その男が、穏やかな口調で尋ねた。

 「どこで覚えた?」
 「何を?」
 「手首切り」
 「前に見た」
 「二度とするな。誤って動脈を切ったら、死んじまう」
 「マダムの所へ連れていく?」

 男は、首を横に振った。

 「道が分るなら行けよ」
 「ありがとう」
 「早く行け」

 観る者を驚かすシーンは、こうして閉じていった。

 以下、稿を変えて批評したい。



 4  幼児の「英雄譚」を本質にする、非現実的な「状況突破のアクション譚」



作り手は、なぜこのシーンを必要としたのか。

 それについて考えてみたい。

 何よりも、ワーニャの「ルーツ探しの旅」という物語が、ロシア社会の外部環境の温かい善意にサポートされた末の、予定調和の軟着点として物語を構成してしまえば、単なるお涙頂戴の三流ドラマに墜ちていくだろう。


 ワーニャの旅は、「この困難な局面があったから成就し得たのだ」というドラマにする必要があった。


 そのためには、「ルーツ探しの旅」の最大の障壁との「直接対決」を必要としたのだろう。


 もしこの障壁が、初めから、ワーニャの「同情を求める涙」によって円満に収斂されていくなら、観る者のインパクトが脆弱になる。

 だからこそ、そこに「状況突破のアクション譚」を挿入する必要があった、とも思われるのだ。

 
従って、このシーンの後に待機する、ワーニャの「ルーツ探しの旅」の完遂の瞬間の感動を、ワンショットで決めるに相応しい嘘話として、この「状況突破のアクション譚」が設定されたと把握し得るので、些か強引で、安直なエピソード挿入でありながらも、このシーンなしには、ワーニャの笑顔で括ったラストカットの放つ決定力を保証できなかったに違いない。

 ここに、本作の作り手である、アンドレイ・クラフチュク監督は、自ら本作に寄せた「プロダクション・ノート」があるので、以下、引用する。

 「本作の映画化を思い立ったのは、2000年のことです。ロシアでは、街中で新聞を売ったり、車を洗ったり、どんな卑しい仕事だろうと、それで食いつないでいる子供たちが少なくありません。私はこの問題を映画にしたいと思い、その企画を脚本家のアンドレイ・ロマノフに持ちかけました。そうしたところアンドレイから、ある孤児院の子供に関する新聞記事の話を聞かされました。その子は、自分の本当の母親を捜し出すため、独学で読み書きを学び、孤児院を逃げ出したというのです。この話が、映画の基盤になりました。

 子供たちとの仕事は大変でしたが、非常に面白くもありました。特に、ほとんどの子が実際に孤児院にいる子供たちなので、コミュニケーションの取り方には気を遣いました。この映画製作は真剣な取り組みであることを子供たちにきちんと説明し、大人の俳優と同じように扱いました。彼らは私の要望に十分に応え、最高の演技を見せてくれました。

 本作は愛・自尊心・気高さの物語です。どんな状況であれ、自分の心と人の道に従って行動する限り、その人間は間違いなく勝者です。

 また、混迷する国の物語でもあります。主人公のワーニャのように、あれだけの偉業をやり遂げられる小さな英雄がいるなら、ロシアの前途有望な未来を望み、語ることができるでしょう。

 本作に潜む普遍的なテーマの数々が、ロシアのみならず、他国の観客の皆様にも理解されることを心から望んでやみません」(「東京美術通信 この道は母へとつづく」より転載)



 要するに、本作は、ロシアの孤児院の厳しい現実の中で、「自分の心と人の道に従って行動する」ワーニャのように、「愛・自尊心・気高さ」を失わない、「小さな英雄」を描くことで、「ロシアの前途有望な未来」を望み、語ることが目的だったというのである。

 即ち、初めから、「状況突破のアクション譚」の挿入を前提にした物語の構築を必然化していたということだ。

 そういう映画として観たとき、この映画の主題に関わる均衡感は、必ずしも大崩れしなかったと考えられなくもない。

 それでもなお、私には、どうしても看過し難いシーンであったのは事実。
 
 
6歳の幼児の腕切りシーンの過剰さは、「状況突破のアクション譚」に加えて、あまりに現実離れがする「英雄譚」に流れ込んでしまうからである。


 「映画の嘘」の許容範囲を超えてしまう描写には、当局への妥協の産物とは思わないが、「ロシアの前途有望な未来」を視野に入れ過ぎるシーンの挿入を見せられると、かつての「社会主義プロパガンダ」を思い起こしてしまうのだ。


 6歳の幼児の「ルーツ探しの旅」の物語を通して描かれる、なお移行期にあるロシア社会の闇の部分をも照射させた映像のリアリズムは、一篇のファンタジーに流れ込む際(きわ)のところで留まっていた、と見るべきか否か、なお議論の余地を残す映像だった、というのが私の率直な感懐である。



 5  観る者に余情を残すラストカットの決定力



 映像のラストシーン。

 艱難辛苦を乗り越えて、ようやく辿り着いた母の住む家。

 「ヴェーラ、ヴェーラ」

 家から出て来た女性が、ワーニャの母と思しき女性の名を呼ぶ。

 「坊や。私を捜しているの?」

 ヴェーラと呼ばれた女性が、ワーニャの前に近づいた。

 しかし、映像は女性の姿形を映さない。

 その代わり、光に照らされたワーニャの笑顔が映し出されて、その後日談が、仲良しのアントン宛てのワーニャの手紙の中で説明されていく。

 「やあ、アントン。手紙ありがとう。そっちではオレンジが実るんだね。こっちはまだ寒いけど、家の中は暖かい。ママが君によろしくって・・・遊びに来てね。  ワーニャ・ソンツェフ」

 映像は、アントンがイタリア人夫婦の養子になっていったことを伝えて、静かにフェイドアウトしていく。

 淡々と繋いできた映像に相応しく、観る者に余情を残す、決定力を放つラストカットだった。

 それだけに惜しまれる、高々、6歳の幼児の「英雄譚」を本質にする、非現実的な「状況突破のアクション譚」だった。

(2011年2月)

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