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  • アジサイはアートである 「我が町・清瀬」2017初夏 - アジサイを接写していると、色相のグラデーションの鮮やかに驚かされること頻りである。 だから、毎年、初夏になったら「我が町・清瀬」で写真を撮る。 この一期一会の思いでアジサイを観賞していると、アジサイが一つのアートであることを実感する。 アジサイはアートなのだ。 時々刻々に変色していくアジサイは...
    4 か月前

2008年12月19日金曜日

雁('53)    豊田四郎


<約束されない物語の、約束された着地点> 



1  特定的に選択された女性



「これは、東京の空にまだ雁が渡っていたときの物語です」

これが本作の冒頭の説明。言わずと知れた、森鴎外の著名な原作の映画化である。


―― ともあれ、そのストーリーラインをなぞっていく。


ここに一人の男がいる。その名は末造。

その稼業は高利貸。そしてこの種の職業を商う負のイメージに違うことなく、この男もまた悪辣である。というより容赦しないのだ。

こんな男が妾を持とうと発想するのは、不思議ではないだろう。

男には夫より遥かに心が冷淡でないお常という妻がいた。

そんな妻に飽きたとき、男は自分に妾を紹介する中年女の話に傾いたのである。

その女の名は、おさん。

彼女は高利貸からの取立ての形に、何とか妾の紹介で相殺しようとしていたのだ。

このおさんの口入によって、特定的に選択された女性の名は、お玉。

現在の入谷鬼子母神(ウィキ)

彼女は下町入谷で、子供相手に飴を作って売っている。

だからその生活は常に厳しい。彼女の父である善吉は、そんな娘に同情的だが、自分の甲斐性のなさに娘を頼る以外にない男。

心根は優しいが、生活力がないのだ。

そんな彼女に、おさんからの妾の口入の話がもたらされた。

相手は呉服商を営む大店(おおだな)の旦那で、独り身であると言う。

お玉はその夜、父にその一件を説明した。

「それなら会うだけ会ってみるか。で、何かい?先様には奥さんはないんだね」
「ええ」
「そう贅沢ばかりも言ってられないが・・・ひびの入った体か・・・全くあのことじゃ、本当にお前に済まないと思ってるよ。嫌な男があったもんだ。本当のお婿さんだとばかり思っていたのに、奥さんが子供まで連れて、怒鳴り込んで来たときには、お父つぁんもう、びっくりするやら、悔しいやら・・・お前が井戸に飛び込もうとしたときは、お父つぁんもいっそ、死んじゃおうかと思ったよ」
「もういいわ、その話・・・いくら考えてみても、なるようにしか、ならないんですもの」

この会話で分るように、この父娘には複雑で、辛い過去があったことが了解されるのである。


お玉と末造の最初の出会いは、おさんの仲介により、旧制大学近くの旅館の一室で実現した。

その席には、お玉の父善吉も同席していたが、映像は、そこでの会話を映し出さない。

無縁坂・湯島側からの風景(ウィキ)
作り手がその直後に映し出した映像は、既に大学近くの無縁坂に一軒家を借りた末造が、お玉に優しく振舞う描写だった。



2  一匹の蛇と籠の鳥



その妾宅には、お玉を世話する娘がいるが、当然の如く、父の善吉は同居していない。彼は女中付きで小さな家を、末造に充てがわれていたのである。

そんな父がしばしば娘に会いに行くが、末造が立ち寄っていることが多く、なかなか父娘の再会はままならなかった。

一方、妾宅に通い詰めの夫に不信を持った末造の妻のお常は、夜遅く帰って来た夫を問い詰めた。

「今まで、どこにいたんです?もう何もかも分ってます」
「どうしたんだい?何が分ったんだよ」
「よくそんな、しらばっくれて、いられろことね・・・少しばかりお金ができたからって、昔のこと忘れやしないでしょうね」
「忘れようったって、忘れられやしないやな。自分のことだもの」
「大学の小使いだって、学生さんの使い走りして、一銭二銭貯めていたときのことを・・・」
「えー?一体それがどうしたんだよ」
「そんなに苦労して貯めたお金を、狐に騙されて使うなんて・・・あなた、商用があるとか何とか言って、囲い者なんかこしらえて!」

妻の嫉妬心が、一気に爆発した瞬間だった。

だが妻の爆発は未だ、一過的なものだった。

末造はそんな妻の悋気(りんき)を上手に吸収して、その場は何とか取り成したのである。

夫に宥(なだ)められ、安堵した妻はまもなく蚊帳(かや)の中で、だらしない寝姿を晒していた。

それが、夫の浮気の原因の一つであると思わせる描写だった。

末造と妻のお常
いつの時代でも、こんな夫婦の様態は殆ど普遍的な流れ方をするものである。


一方、妾宅では、末造の人となりが、お梅という女中によって語られている。

「旦那さんは、いい人ですね」
「そうぉ?どうして?」
「だって、おかみさんの言うことなら、何でも、フンフンと聞いて下さるじゃありませんか」

こんな何気ない会話の中に、お玉に熱を上げる末造という中年男の感情が端的に説明されている。

その末造がお玉の元に、この日もやって来た。お玉はお梅に命じて、魚を買いに行かせた。ところが、未だ少女の面影が強いお梅は、魚屋で思いもかけないことを言われたのである。

「ウチには高利貸の妾に売る魚はないんだから」
「旦那は高利貸なんかじゃないですよ」とお梅。
「もう一度顔洗って、出直しておいで」

お梅は帰宅して、お玉にそのことを告げた。お玉は初めて聞く末造の素性に、殆んど確信的な疑念を抱くが、そのことを男の前で問いただすことをしなかった。


まもなくお玉は父と会って、その一件を正直に告げた。

父は末造が高利貸と知って驚くが、甲斐性のない自分には何もすることもできない。だから娘に、本音でない甘え切った思いを洩らしたりする。

「・・・お父つぁん、元の飴屋に戻ろうか」
「いいのよ・・・その代わり私、これからは決して人に騙されないつもりよ。これでも私、あの人が思うほど、赤ん坊じゃないつもりよ」


相手が何者であろうと、自分が手に入れた立場を守ろうとするお玉の気持ちの中には、生活力のない父に頼れない思いが横臥(おうが)している。

今さら飴細工売りの厳しい生活に戻りたくないという気持ちが強かったのである。

その帰路、彼女は偶然、末造の妻のお常と出会った。

お玉はお常の素性を知らないが、同じ日傘を差すその姿に予感を察知したのだろう。

お常もまた、それに気づいていた。彼女はお玉が質流れの反物で作った着物を身につけているのを見て、お玉と同様の疑念を深めたのである。

お常は偶然、その道を通ったかどうか、映像で定かではないが、悋気の強いその性格から夫の妾宅を探していたのかも知れないのである。

その妾宅にお玉が戻ったとき、隣家の裁縫のお師匠さんであるお貞の下に、高利貸の末造に苦しめられているおしげが待っていた。

「ご無理なことと、重々承知して参ったのでございますが・・・」
「あのう、何かお役に立ったら、あたし・・・」とお玉。

おしげに近づいて、優しい言葉をかけた。おしげはそんなお玉を睨みつけ、迫っていった。

「お玉さんとか言いましたね。この着物には恨みがこもっているんですよ。あんたは贅沢三昧でいいだろうけど、泣いてますよ、他の人は・・・こんなあどけない顔をして、高利貸の妾になるなんて。毎日のご飯、どんな気持ちで食べてるんです?」

胸倉を掴まれたお玉は、予想もしない女の攻撃にただ後ずさりするばかりだった。彼女は隣家の木戸を開けて、自宅にこもって、泣き伏してしまった。


そのとき、妾宅の前の無縁坂を、寮歌を高らかに歌う学生たちが通りかかった。

その学生たちの反対側から歩いて来る一人の学生がいた。お玉はやがてこの学生と知り合いになるが、今はまだすれ違いのままであった。

その学生の名は岡田。東京帝国大学の学生である。(画像は現在の東京大学)


一方、この日も遅く帰宅した末造は、妻のお常にいよいよ証拠を突き付けられて、窮地に追い込まれた。

「あたし、どうすればいいの?帰ろうにも帰る家はない・・・」

お常は泣き伏すばかり。そんな妻に対して、男は妾の存在を認めた上で、宥(なだ)めすかそうとした。

「お常、よぅく考えてみねぃ。なるほど無縁坂ってものはできたさ。だがお前の身の上はずっと楽になったはずだぜ。そのために俺が冷たくなったとか、厳しくなったとかいうことがあるかい。世間の男みたいに。それどころかもっと親切にして、大切に取り扱ってるつもりだぜ」
「あんたって人は、何てこと言うの!悔しい!」

今度ばかりは、お常は夫の狡猾な宥めすかしにその身を預けなかった。

開き直った夫を許せない気持ちが遂に爆発して、妻は夫の胸倉を掴み、その思いを叩きつけたのである。

大立ち回りを嫌った夫は、その足でお玉の妾宅に向った。

しかし、お玉は留守だった。

お貞
彼女は隣家のお貞のところに行って、お師匠に仕立てを習っていたのである。自活の道を考えていたのだ。

そのことを末造に指摘されて、その答えをはぐらかした。その思いを見透かした男は、女にきっぱりと言い添えた。

「お前近頃、何か俺に隠していることあるんじゃないか?隠し事は許しませんよ」
「ハハハハ、そんな改まったお顔して」

お玉はその場を笑って誤魔化した。男を焦(じ)らし、振り払い、その場は男の感情にその身を委ねたのである。


銭湯から帰ったお玉の妾宅の前に、一人の学生が立っていた。

彼は窓の外に吊る下げてあった籠の鳥を眺めていた。

お玉はそれを一瞥し、家屋の中に入って行った。

お玉が部屋の中から外を見ると、学生も家の中を覗いていた。お玉は学生に軽く会釈をしたら、学生も会釈を返してきた。

このロマンチシズムの漂う描写の直後に、ドロドロしたリアリズムの世界が待っていた。お常の悪夢にうなされて突然覚醒した末造に対して、お玉は不快感を露わに、男の嘘を初めて責め立てたのである。

思いもかけないお玉の指摘に対して、末造は必死の弁明を開いていく。

「俺の一生は、金、金、金で一杯だった・・・俺は今までこんな愉しい思いをしたことがない。お前と暮らして初めて生きがいを知った」

お玉はそれに答えず、その場を静かに離れて、窓の外をぼんやりと眺めることだった。


それから何日か経った、長閑な昼下がり。

お玉は障子の張替えをしていて、それを窓枠に取り付けようとしたとき、思わず叫び声を上げた。屋根から軒下にかけて、一匹の蛇が籠の鳥を狙って、そこにぶら下っていたのである。

「蛇だよ!蛇がいるんだよ!」

お玉の叫びにお梅が反応して、彼女は表に出て助けを求めた。

「あのう!誰か、誰か来て下さい!」

このお梅の叫び声に、一人の通行人が駆け寄って来た。彼こそ、先日の学生だった。お玉の表情から、自然に笑みが零れ出た。彼も笑みで返した。

彼の名は、岡田。先述した帝大生である。

岡田とお玉
その岡田とお玉が、初めて言葉を交わす瞬間がやってきた。

彼は梯子と文化包丁を借りて、屋根に絡み付いた蛇を切り裂いて、退治したのである。

お玉は岡田に盥(たらい)の水を用意して、彼の汚れた手を洗浄してもらった。

学生が帰りかけたとき、俄かに雨が降ってきて、お玉は慌てて学生を追った。傘を貸すためである。

「どうぞ・・・」とお玉。

傘を渡して戻ろうとするお玉を、学生は「あのう・・・」と言って呼び止めた。
振り向いたお玉に、学生が語ったのは一言だけだった。

「・・・いずれ、返しにお伺いします」

余情の残る学生の言葉に、お玉は黙って頷いた。

その後、彼女は学生を静かに追っていった。

彼が向った先は、一軒の金融業者の店。

お玉は外から中を覗くと、そこには学生の相手をする末造が、店の主人として座っていたのだ。

驚愕したお玉は、外から二人の会話を聞いている。

「ヨーロッパへ行けるかどうか瀬戸際なんだ・・・東洋の風土病を研究に来たドイツの偉い博士が助手を探しているんだ。その試験にパスすれば、往復の旅費4千マルクと月給2百マルクとが支給されて、ドイツに行けるんだ・・・」
「パスしたらでしょ、それは。だが外れたら?」

この意地悪な高利貸の言葉に、学生は何も答えられない。そんな学生の弱みに付け込んで、末造は妥協のラインを提示した。

「まあ、お望み通りって訳にはいかないが、半分くらいで我慢してもらうんですな」

末造が差し出す金に満足しない学生は、もっと貸し金を上げてもらうように粘って交渉する。結局、彼は最初の額で妥協することになった。

彼は隣の本屋に立ち寄って、大切にしている本を金に換える以外なかったのである。

それを一部始終見ていたお玉は、その本屋から学生が売った本を買い戻したのである。



3  夜空に高々と飛び立って



学生寮に戻った岡田は、お玉のことを親友の木村に打ち明けた。

木村と岡田
木村は岡田の感傷を皮肉って、明け透けに言い放った。

「君は理科の秀才で、相手は無学な囲い者に過ぎん。今の日本じゃ、まともな恋愛は成立しないさ。その女ばかりじゃない。君だって、僕だって、明治という時代の制約を受けて生きているんだからね。しかしだよ、その制約に従うか、それともそれを打ち破るかだ・・・」


それから何日か経って、お玉は父に岡田の話をした。

父は彼を家に呼んで、持て成したらどうかという提案をして、お玉も好意的に反応する。しかし妾の身分であることを認知するとき、その話がリアリティを持たない事実を確認するしかなかった。話の内容は、そこから一気にリアリズムの世界に流れ込んでいく。娘は父に、末造に妻がいることを父に告白するが、父はそれを知っていた。それを知っていて、何も話さなかった父に不満を持った娘に対する父の反応は、相変わらず生活の問題に尽きてしまうのだ。

「お前だってそうじゃないか。今の暮らしを止めて、あの地獄みたいな貧乏暮らしはできやしないよ。金のないのは、首のないのも同じだからな・・・」
「そうかしら」
「別れるとなると、この家だって返さなきゃならないだろ?」
「当たり前よ!そんなこと。あたし、こんな暮らしが嫌なの。本当に嫌!」
「なあ、お玉。お父つぁんをもう苛めないでおくれ。わたしゃもう、何の望みもないんだよ。今のままで、太平楽だ」
「変わったわね、お父つぁん」
「変わったのは、お前だよ。でも、旦那は可愛がって下さるんだろ。何事も辛抱が大事だよ。とにかく、世知辛い世の中だからな・・・」

お玉はそれに答えず、父の元を離れて行った。


お玉が妾宅に入ろうとしたそのとき、雨の中、末造の妻と思しき女が傘を差して立ち竦んでいた。

驚愕したお玉は、慌てて部屋の中に潜り込み、お梅に確認させたが女はもういなかった。

心配した隣家のお貞は、おしげの例を出して、女が一人で暮らすことの難しさを諭した。

それに対するお玉の反応は、多分に感情的だった。

「お師匠さん、私にこの暮らしを続けろとおっしゃるの?私にはこの暮らしの外には道がないとおっしゃるの?」
「お玉さん・・・」
「どうして私がこんな苦しまなきゃならないのか、私、分らなくなってしまって・・・世の中・・・」

お玉は精神的に追い詰められていた。


追い詰められた女に、一時(いっとき)の至福が訪れた。

岡田が傘を返しに来たのである。慌てるお玉。

心の準備ができないまま、お玉は化粧の時間を稼いでいた。玄関で待たされる岡田。彼の中にも、少なからぬ意識が蠢(うごめ)いている。そのロマンチシズムの芳香を、リアリズムが打ち砕いた。岡田の後ろに、末造が立っていたのである。

「じゃあ、ここに置きます」

岡田は傘を玄関に置いて、その一言を残したのみで帰って行った。

末造は何も語らず、疑心暗鬼の表情を崩さずに、化粧台の前に座るお玉を睨みつけるだけ。お玉は肌を露わにさせて、男を色情絡みで誘(いざな)った。

男は女の上体に絡みつくが、女の傍らにあった分厚い洋書に目敏く見付けたのである。

男は商用で留守にすると言って、女に必要な金を与えて、妾宅を後にした。

その際、男はそこにあった書籍を「これ、もらっていくよ」と言って、急ぎ早に出かけて行ったのである。



その後、お玉はお梅を実家に帰し、岡田を持て成す準備を始めた。

ご馳走を作り、髪結いに行き、岡田が無縁坂を通る四時頃には、すっかり身支度も整え、家の前に立って待っていた。

そして、その岡田がいつも通り姿を現した。

しかし、お玉に気づいた岡田は、軽く会釈した後、一瞬怯んだように見えた。彼はそこにしばし立止まった。

男は動かない。女は待っている。

しかし、その距離は全く縮まらない。女はひたすら、常に待つばかりの身であるからだ。

立止まっていた男が反応した。

男は後ろを振り返り、その後ろから男の友人が追って来たのである。岡田は木村を待っていたのだ。

女はそれを見て、悄然とした。二人の学生はラインを合わせて、視線を前方にもっていく。彼らの視界に女が捉えられる。

女はもう、そこに待つだけの身を耐えるのに限界を感じていた。

二人が女の方に近づいたとき、女は自らの意志でその場を離れて行った。そして路傍の片隅にその身を寄せて、後姿のみを遠慮気に差し出したのである。

二人の学生は、女の傍らを過(よ)ぎっていく。

女は一瞬、アクションを起す。ほんの少しだけ、体を二人の近くに寄せたのだ。

それに気づいた岡田が振り向いたとき、女の表情から小さな笑みが零れた。
男はそこに幾分思いを乗せながら、帽子を取って頭を下げた。しかし男はその後、恰も一連の動作であるかのように、その坂を下って行った。女の表情から笑みが消えたとき、男の姿はより小さくなっていたのである。

「凄い状況になっているじゃないか」と木村。
「何が?」と岡田。
「何がじゃないよ。あれを見ろよ」と木村。
「おい、止せよ。失礼じゃないか・・・あの人には、あの人の世界があるんだ」と岡田。
「君には、君の世界があるか」と木村。


こんな二人の会話の内容を知ることなく、無縁坂の静寂なる路傍に、女はひとり固まっていた。

悄然とした表情を消せないまま、女は妾宅の玄関を開けた。

そこに末造が、険しい表情で立っていた。女はもう、リアリズムの世界に戻されていたのだ。

しかし男は何も語らない。女にとって、それもまたもどかしい。事態の決着を付けられないからだ。

だから女の方から、男に切り出した。

「なぜ、叱らないんですか?」
「叱ることはないさ。行っちまうんだよ、岡田さんは。さっきお金を返しに来たよ。西洋へ行くんだってさ。ヨーロッパへ・・・・皆、飛び立って行ってしまうんだよ、学生さんは。可哀想な奴だよ、お前は・・・」

男の話が終るや否や、女は慌てて表に飛び出て行った。

走って、走り抜いて、女は学生に追いついた。

振り返った学生は、木村だった。そこに岡田はいなかったのだ。

女は木村から岡田のドイツ行きを聞いて、「やっぱり・・・」と力なく反応した。女は洋書を木村に預けて、岡田に渡してもらうように頼んだのである。

洋書を受け取った木村は、女に正直に洩らした。

「よく、あなたの話が出ましたよ、岡田と。しかし岡田はもう、僕らからも離れて、遠くへ行ってしまったのです。僕らの手の届かないような所に・・・」

女の表情が、一瞬輝いた。

「岡田さんも、どんなにかお喜びで・・・」
「ええ、喜んでますね。秀才の道をまっしぐらに走り出したところですからね。こういう時にも、脇見をしないところが秀才なんだな」
「遠い所へ・・・」

お玉はそう呟いて、その場を離れて行った。

まもなく彼女の魚屋に寄って、岡田の寮に届ける鯛のお造りを注文した。魚屋は相手を特定したとき、一瞬、怪訝な態度を示した。

お玉はそのことを百も承知である。だから彼女は届け先を敢えて変更して、はっきりと言い切ったのである。

「分ってるでしょ、私のところ・・・ついそこの高利貸のお妾の家(うち)よ。分って・・・」

お玉が帰宅したとき、末造は静かな口調で問いかけた。しかしその言葉は、女の心を見透かしたような毒気に充ちていた。

「どうした、会ってきたか?」
「ええ・・・」
「喜んでいただろう、岡田さん」
「ええ・・・」
「しかし何だな。行き先がヨーロッパじゃ、ちっとやそっとや帰って来られまいからな」
「あなた、もう何もおっしゃらないで下さいな」


二人はその後、激しい言い争いになった。男には女に対する強い感情があるから、振り切れないのだ。

そんな男を前にして、自分の思いを消化でき得ない女は、畳に蹲(うずくま)って泣き伏すだけだった。

そこに、魚屋の配達が届いた。

 それが何を意味するか分っている男は、逆上し、即座に魚屋に鯛の造りを持って返させようとした。

お玉がその金を支払うことで、その場を取り成したが、男の怒りは収まらなかった。再び、激しい言い争いが開かれた。

その醜悪だが、極めて人間的なる振舞いの中で、お玉は明瞭に自分の意志を一つの叫びに替えたのである。

「放して!私もう、縛られたくないんです!・・・卑怯です、あなた!お金でばかり私を縛ろうとする!もう、沢山!イヤ!」

男を確信的に振り切るようにして、女は表に飛び出て行った。

女は走り続ける。

走り続けて止まった先に、一台の馬車が女の視界に入った。その馬車には、女がその夢想のオアシスの対象にしていた男が乗っていたのである。

こちらに簡単に振り向いても気遣いない男を、女はただ呆然と見守って、思いを内側に深々と封印した眼で、その馬車の先を追っていく。


まもなく、女は忍ばずの池の畔に立って、そこに水草を求める雁の群れに眼をやった。

群れの中の一匹の雁が夜空に高々と飛び立って、やがて見えなくなった。


*       *       *       *



4  赤裸々に炙り出されたリアリズムの様態



これは、リアリズムのドロドロした世界からその身を抜け出して、ロマンチシズムの世界の芳香が放つときめきに、束の間酩酊することで、そのかけがえのない青春の不幸なる日々に、一瞬、閃光を放った女の物語である。

少なくとも私にとって、「籠の鳥」の悲哀の物語を、そのように読み替えることによって、ヒロインの心情世界との距離感を縮め得る鑑賞が可能になったといえる一篇だった。

本稿はどこまでも、「人生論的映画評論」の枠内で言及していきたい。

そのような把握によって、女のロマンチシズムの世界の芳香を嗅いでいくとき、女のそれは悲恋ではないと言っていい。

失恋でもない。決して得恋ではないが、「この時間があったから、自分の魂の中枢に仄かな焼け跡を残すことができた」と、いつまでもその記憶に張り付かせて、固有のアイデンティティを確保し得るような、言ってみれば、「プロセスの快楽」を手に入れたか、或いは、手に入れつつあった自我のなだらかだが、しかし、一途な漂流を描いた一篇であった。

そのような読み替えの醍醐味が、果たして、そこにどこまであったか。それを、本篇における関係世界の中から探ってみようと思う。

本作で描かれた幾つかの人間関係は、全てドロドロのリアリズムに黒ずんでいるか、それともグレイな彩りに褪せていた。

ここに、その主要な三つの人間関係を俯瞰してみよう。

その第一は、お玉と末造の関係。

いつの世にも嫌われる高利貸がコツコツ日銭を貯めて、それなりの財を為す。経済的余裕ができた頃には、既に中年の年輪を重ねていて、古女房にはとうに飽きがきている。そこで妾の一人でも持って、「女」を占有したいと考えるのは、恐らく、世の男の通常の倣いと言っていいかも知れない。末造もまた、そんな男の一人だった。

そして男の前に、若い女が現われた。

男は高利貸の債務に苦労する口入の女を介して、その若くて、色気の漂う女をゲットする。あまりに通俗的な展開だが、ここで重要なのは、男に囲われた女の意識には、「後妻」としての了解ラインが存在していたということだ。

女には既に妾とされた苦汁を舐めた経験があったから、口入屋の話に簡単に乗らなかった。結果的に、「後妻」の条件で持たされた家が妾宅であること、そして、自分を囲った男の職業が高利貸であることを知って愕然とするが、女にはもう後戻りができなくなっていたのである。

その理由は、女を頼る父の存在の故である。これが、リアリズムの第二の関係である。

女は父が愛情を注いで育てた娘だけあって、父に対しては反発意識が少ないどころか、何とか父の老後の安定を保障してやりたいと考えたのである。

勿論、そこには困難なる時代状況の制約があるが、本作で描き出された父娘の関係には、情愛の結合力が決定的な関係力学を支配する何かがあったと言えようか。

娘には、「飴屋でもまたやろうか」と言う父の、甘え含みの感情の投げかけを拒めないだけの情愛感情が、なお生き残されているのだ。余程、自分の幼年期に苦労した父の記憶が、その自我に張り付いているのだろう。

彼女の父は、無論、悪人ではない。卑劣でもない。ただ少し卑屈さと、生活力の欠如が目立っているだけである。彼女はそんな父に大きな不満を持ちながらも、決定的に遺棄することなどできようがないのだ。

それが彼女の弱みであり、その弱みに付け込んで、人並みに好色な高利貸がその経済力によって堂々と侵入してきたのである。

しかしこの男には、お玉という女を金銭で占有し切る男の色気と人格的能力が決定的に足りなかった。人の心を金で買えない切なさを感じ取る能力の欠陥こそ、この男の決定的な欠陥であったのだ。

こんな男を前にして、女はただ生活のためにだけ、自分の肉体を上手に切り売りして時間を繋ぐ戦略を身につければ、それで良かったのであろう。

三つ目の関係は、末造とお常の夫婦関係である。

若き日々に苦労したであろう叩き上げの商人が、遂にその道の頂点近くにまで上りつめたという実感を抱いたとき、既にそこには、その若き日々の夫婦の苦労の記憶よりも、今そこにある心地良い生活ラインに馴染んだ自我が捕捉する情報にすっかり搦(から)め捕られてしまっていて、関係の共存の継続が空洞化し、そこにはもう共存強化に向う感情の再生産は絶望的になっている。

これもまた、人の心の無常のさまを否応なく映し出す真実であると言っていい。

共存感情の衰弱の発火点に、異性感情の劣化の現実が当然の如く横臥(おうが)するから、その関係修復は、形式的な夫婦関係の様態を辛うじて維持させる知恵に委ねる以外にないのであろう。

そこに未だ援助感情が生き残されていれば、関係の継続力はギリギリに保持されるのである。

この夫婦の場合、女房の悋気(りんき)が過剰に激発した分、感情の爛(ただ)れをより顕在化させるに至ったが、その激発も一過的な感情のうねりの内に収拾する可能性もないとは言えないのだ。

関係のリアリズムは、まさに夫婦関係のそれに於いて極まったのである。

血縁の柵(しがらみ)と、そこから伸ばされた感情のラインが一定の情愛のレベルに達することによって、その幻想に潜り込むことができる父娘の関係のリアリズムは、非血縁的な夫婦関係のそれに比べて限定的であると言えるだろう。

夫婦関係のリアリズムは、それが自壊の可能性を含むことで、却ってそこに、より人工的な修復の余地を担保するとも言えるから、まさに人間の関係様態における極めつけの知恵を検証するのである。

以上の三つの関係は、リアリズムのそれぞれの様態を赤裸々に炙り出していて、思わず引いてしまうが、しかし、これが人間の関係様態の偽らざる写実であることを否定できるものではない。



5  約束されない物語の、約束された着地点



然るに映像には、第四の関係というものが創作的な意図で提出されている。お玉と岡田の関係がそれである。女のロマンチシズムの世界への芳香―― それが漂流する関係世界である。

当然の如く、と言うべきか、この二人の関係にはドロドロしたリアリズムが入り込む余地がない。入り込む余地がないのは、その関係が未だ未成熟であり、そこに人格的なクロスが深々と出し入れされていないからである。

男にとって女の存在は、未知なる世界の幻想的な慕情の、漠然とした不定形の輪郭しか描けない何かであり、女にとっても男の存在は、自分の「分」の枠組みに収まらない夢想のイメージの中にある何ものかでしかない。

この関係が内包する決定的な落差感こそ、却って二人の感情を泡立たせ、その幻想のイメージラインを膨張させていくものになっているのである。

未知の世界への闖入(ちんにゅう)は、いつの時代でも私たちの心の夢想的なオアシスであり、それが蜃気楼のような存在感の稀薄さを了解するに足るだけのものであっても、人はその夢のオアシスに、その身を束の間預ける思いを捨て切れなのである。リアリズムに雁字搦めにされた女にとって、その自我を束の間心地良くさせてくれる時間への潜入は、何よりも切実だったと言えるだろう。

男もまた女の微笑に誘(いざな)われていくに足るほどの、その心を、束の間癒す安息の時間が求められていた。

彼にとって、留学試験の艱難(かんなん)な状況突破というリアリズムの冒険に拉致されている間、そこに噴き上がる不安を上手に解消させる自我の戦略が切に求められたのである。

二人はほぼ、その固有な時間を重ねるようにして邂逅し、情動系のラインの表層辺りでクロスし、弄(まさぐ)るような心情のリアリティを表出することなく、甘美なるイメージのラインで、殆んど遠慮げに限定的な時間を共有したのである。

そしてその時間が限定的であればあるほど、とりわけ、女の情動系の振幅は大きく、それは身体表現に繋がる内的必然性を孕んでいたと言えるだろう。

この緊張感が女の中で高まっていったのは、女に強いてくる関係のリアリズムの柵(しがらみ)の大きさによると考えられるのだ。

そこに、男との間で形成された幻想の文脈が破綻していく必然性があったと言えるだろう。少しずつ、関係幻想に落差感が生まれつつあったのである。

そして遂に、その幻想が自壊していく時間が訪れてしまった。男のドイツ留学が成就したとき、男の内面世界をリアリズムが一気に支配したのである。

女だけは、それを知らない。

それを知らない女は、男をひたすら待つ。

女は一貫して、待つだけの時間を繋いできた、言わば、自我を裸形状にする自在性を奪われた、文字通りの「籠の鳥」であったのだ。

そんな女が、その日も男を待っていた。その日だからこそ、男を待っていた。

女を「籠の鳥」にした男が出張で外出したその日こそ、女は念入りな化粧を施して男を待っていたのである。

しかし、籠から飛び出た女の前に現われた男は、夢想的なオアシスでプラトニックに戯れた、あの好青年ではなかった。

男は、女だけが知らない別の人格に変貌していたのである。

それもまた、「約束されない物語の、約束された着地点」だったのだ。

雁の群れ・イメージ画像
女は、雁の群れが飛び立つ池の畔に立って、そのさまを見届けたとき、全てが終焉したことを実感せざるを得なかったのである。

自由に飛翔する雁の群れの描写が意味するイメージは、あまりに自明である。

そこに本篇の原作のテーマが据えられていたのは、明治の文豪の世界の中では相応に切実感を含んでいたが、本作が製作された時代の空気との違和感を中和させ、それと上手に折り合いをつける表現を作り出すのは、決して容易ではないだろう。

戦後の自由な空気感の中に、恐らく、明治の時代下にあっても、「籠の鳥」の悲哀とは無縁であったこの国の女たちの、その本来的な強(したた)かさを感受させる描写の導入を削り取ってしまったら、それは単なる啓蒙的な「文芸映画」のカテゴリーに収斂されてしまう何かでしかないからだ。

(本作の評価は、その一点においても問われるのだが、その点に関しては私の問題意識と脈絡しないので、ここでは論評を避けたい)

閑話休題。 

女は再び、「籠の鳥」の人生に戻っていくことになるのだろうか。

映像は、女の未来を語らない。語る必要がないからなのか。

それでも女の自我は、昨日までのそれと違って、少しは絶望に搦(から)め捕られた凄惨な時間を浄化する変化を刻んだに違いない。

女はロマンチシズムの甘美な時間を、束の間占有することで、「プロセスの快楽」というものを、明日の人生に繋いでいくに足る分だけ手に入れたかも知れないのである。

このエピソードが、或いは、「籠の鳥」を脱却して、自立への原動力を分娩する可能性を内包することもまた、否定できないのである。

リアリズムに縛られた女が一時(いっとき)遊んだロマンチシズムを、新たなリアリズムによって破砕されたとしても、ロマンチシズムが作り出したエネルギーの力が、女を「籠の鳥」に閉じ込めようとする男への不満のエネルギーとリンクするとき、女は新たに自らを、自在なる渡り鳥である「雁」に象徴される飛翔体に生まれ変わるべく、決死の跳躍を果たすかも知れないのである。



6  過剰な描写、余分な描写、偶然性への依拠



最後に、本作への私個人の「好みの問題」から出来する不満の中で、どうしても無視できない点を指摘しておきたい。

その一。

この作り手は、描写が過剰なのだ。

例えば、末造の本妻であるお常が、土砂降りの雨の中に亡霊のように妾宅の前で、お玉を睨んで立っている描写と、その亡霊に怯えるお玉の恐怖心を、そこだけ異様なスポットを当てて照射する描写など、殆んど怪談映画のそれと変わらない。そして、登場人物に対する不必要なまでのクローズアップのシーンは、彼らの内面を映し出す効果を逆に減殺させてしまっている、等々。

その二。

描写がベタベタと煩わし過ぎる。余分な描写が多過ぎるということだ。

とりわけ、岡田との別離の描写は、簡単に雁が群れ飛ぶシーンの導入で充分効果的な役割を果たすと思われるのだが、しかし映像は、そこに流れるまでに、自分を嫌う魚屋との確執や、末造とのドロドロした悶着の描写を挟むばかりか、最後に岡田を乗せた馬車を見送るシーンの導入に及んで、殆んど観る方は辟易するばかりなのである。


因みに、この作り手には、本作以外でも、「雪国」(1957年)、「暗夜行路」(1959年)、「恍惚の人」(1973年)など、余分な描写のため、映像の完成度を損なう作品があまりに多いのだ。この辺が、豊田四郎(画像)という映像作家の駄目な部分であると、私は勝手に考えている。だから本作の過剰な描写のお陰で、折角の高峰秀子の突出した演技が部分的に壊されてしまっているのだ。残念な限りである。

その三。

映像展開が、偶然性に頼りすぎているということ。

これは豊田四郎に限らないが、とりわけ本作ではそれが眼についたので、些か観賞の許容範囲を越えてしまった次第である。それについては、例示すればキリがないので、言及することは止めておく。


―― 最後に、原作との比較の観点で一言。

映像は森鴎外の原作とかなりの部分で乖離を見せていて、それ自身は全く問題ないのだが、その描写で気になったラストシーンについて書いておく。

原作では、岡田が雁に石を投げて、たまたま、それに当った雁が死んでしまうという、如何にも原作者の女性観の一端(「哀れなる者――汝の名は女性なり」というイメージ)を想起させる描写があったが、それは正直言って、テーマ性に含まれる「弱者としての『籠の鳥』の中の女性」の残酷さと、テーマ性それ自体の露出が些か過剰になってしまって、私には受容しかねる思いが深かった。

然るに、女が忍ばずの池の畔で、飛び立つ雁を見つめるシーンで映像は括られたが、作り手の本来的な過剰さが、ここでは適度に抑制されていて、この描写の表現力に集約されるイメージは、私にとって充分に受容し得るものだった。

森鴎外
因みに、原作のその箇所を以下に引用しておくで、本稿を括りたい。

「石原は黙って池の方を指ざした。岡田も僕も、灰色に濁った夕の空気を透かして、指ざす方角を見た。その頃は根津に通ずる小溝から、今三人の立っている汀まで、一面に葦が茂っていた。その葦の枯れ葉が池の中心に向って次第にまばらになって、ただ枯れ蓮の襤褸(ぼろ)のような葉、海綿のような房が碁布せられ、葉や房の茎は、種々の高さに折れて、それが鋭角にそびえて、景物に荒涼な趣を添えている。この bitiumue(ビチュウム) 色の茎の間を縫って、黒ずんだ上に鈍い反射を見せている水の面を、十羽ばかりの雁がゆるやかに往来している。中には停止して動かぬのもある。
『あれまで石が届くか』と、石原が岡田の顔を見ていった。
『届くことは届くが、中(あた)るか中らぬかが疑問だ』と、岡田は答えた。
「やって見たまえ」
岡田は躊躇した。『あれはもう寝るのだろう。石を投げつけるのはかわいそうだ』
石原は笑った。『そう物の哀を知り過ぎては困るなあ。君が投げんというなら、僕が投げる』
岡田は不精らしく石を拾った。『そんなら僕が逃がしてやる』つぶてはひゅうというかすかな響をさせて飛んだ。僕がその行くえをじっと見ていると、一羽の雁がもたげていたくびをぐたりとたれた。それと同時に二三羽の雁が鳴きつつ羽たたきをして、水面をすべって散った。しかし飛びたちはしなかった。くびをたれた雁は動かずにもとの所にいる」(「雁」森鴎外作 岩波文庫より)

(2006年9月)

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