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2011年3月16日水曜日

暴力脱獄('67)       スチュワート・ローゼンバーグ


<理念系の称号を付与するための作り手の想念の内的風景>



1  構築力の高い映像との出会いへの期待



私を映像文化に引き寄せる最大のモチベーションは、構築力の高い映像との出会いへの期待であると言っていい。

因みに、「映像構築力」とは、私見によると、映像表現の「完成度」の高さの基準となるものある。

その「映像構築力」は、「主題提起力」と、映像展開を破綻なくまとめていく技巧的力量としての「構成力」に支えられている、と私は考えている。

これは、そこだけはエポックメーキングの山稜を形成するかのような、個性的な映像が揃い踏みしたニューシネマの時代の作品においても、無論、例外ではない。

私の率直な感懐を言えば、「映像構築力」の高いニューシネマの作品は限定されている。

それらは、「真夜中のカーボーイ」(1969年製作)であり、「ジョニーは戦場へ行った」(1971年製作)であり、「スケアクロウ」(1973年製作)であり、「タクシードライバー」(1976年製作)、「地獄の黙示録」(1979年製作)などである。

いずれも、時代や人間の根源に迫る深みに達した映像である、と私が評価する作品群である。

その文脈から言えば、それ以外の映画は、私にとって、単に面白いだけの娯楽作品であるか、それとも、観終わって5分も経てば忘れるような凡作であるに過ぎない。

心の襞(ひだ)に触れる構築力の高い映像との出会いを求めて、私は今日もシネマディクトであり続けるだろう。



2  理念系の称号を付与するための作り手の想念の内的風景



さて、「暴力脱獄」のこと。

本作は、そんな私の個人的評価を言えば、それなりに面白い娯楽作品以上のものではなく、恐らく、それ以下でもない。

ルーク
作品の内容は、私が最も嫌う「スーパーマン映画」のジャンルに入るもの。

人物造形が極端なまでに類型的であるという内実も、全く馴染めない。

だから本作は、スーパーマン的ヒーローの「不屈の脱獄譚」として愉悦できるか否か、そこに評価の全てが懸かっている一篇であった。

何より、ニューシネマの時代の多くの作品がそうであったように、本作もまた、「絶対悪」としての「権力」や「体制」という巨壁が物語の中枢を支配し、そこで支配される者たちの、「反権力」という名の瞋恚の炎(しんい のほむら)が集合する。

集合された瞋恚の炎の中から、その怒りを代弁する不屈の「スーパーマン」が、巨壁の支配による圧力と対峙し、敢然と闘いを挑んでいく。

その闘いは、「相手を倒すか、自分が倒れるか」という、「反権力」の果敢な闘争を必然化するのだ。

「絶対悪」としての「権力」とは、刑務所という名の巨壁を支配する刑務官たち。

「反権力」の巨壁の支配による圧力と対峙し、敢然と闘いを挑む不屈の「スーパーマン」は、囚人たちのヒーローであるルーク。

本作の原題となった「Cool Hand Luke」。

その意味は、「容易に物に動じない男(ルーク)」。

ドラグライン(左端)

ルークに一目置くに至った、囚人たちのボスであるドラグラインの命名だ。

これは、ポーカーでブラフをかけて、大金をせしめた度胸を見せたことからネーミングされたもの。

元々、酩酊の果ての公共物(パーキングメーター)破損という、軽微な罪で2年の懲役刑によって刑務所入りしたルークだが、「容易に物に動じない」性格の本領を発揮して、瞬く間に「塀の中」のヒーローになっていく。

そんな「Cool Hand Luke」だったが、無期懲役の囚人もいる中で、二年の懲役刑ながら、凶暴な権力の振舞いに服従することを拒絶し、繰り返し脱獄を試み、最後は「バニシング・ポイント」(1971年製作)の主人公の苛烈な人生の閉じ方の如く、笑みを浮かべて「殉教」するに至る。

ただ、それだけの格好良い男の、格好良い生き方をフラットに表現するだけに留まらず、本作の作り手は、「神なき時代」の実存的な精神世界のメタファーとも言えるような、曰く言い難い「思想性」を張り付けたのである。

神を信じないルークが、天を仰いで繰り返し問いかけていくのだ。

「俺たちを見守っていると信じているのか。こんな命、いつでもくれてやる!神よ、聞いたか!さあ、持っていけ!そこにいるのか!愛せ!殺せ!徴(しるし)を見せろ!」

労役中に雷雨が襲来し、「戻れ」というドラグラインの言葉を無視して、天に向かって叫ぶルークの異様な光景だった。

更に、ルークの母親の死に関する、こんなエピソード。

「母親が死んで、葬式など考え始めると、知らず知らず、気持ちがおかしくなる。つい逃亡したくなるもんだ。しばらく労役は中止だ」

刑務所長にそう言われたルークは、懲罰の対象行為なしに懲罰房へ拘禁された。

この一件を契機に、ルークは脱走を繰り返すようになるが、その心理は了解し得るものと言える。

「絶対悪」としての「権力」に対して、敢然と闘いを挑む不屈の「スーパーマン」の立ち上げを告げる、理不尽な懲罰房入りという、極めて分りやすい物語設定だったからだ。

このとき、懲罰房から解かれたルークが、亡き母を偲んで、バンジョーの弾き語りをするシーンが挿入されていたが、そこでも神が語られていた。

雨が降ろうと 寒かろうと
車の前に キリスト下げてりゃ 
何の心配も ありゃしない 
プラスティックの そいつはピンク
暗い中でも キラキラ光る
持ってお行きよ
遠くへ旅するときは
やさしい聖母を 手にしていれば
アワビ貝の台に座って
ライン石を まとったマリアを
150キロで ブッ飛ばしても
怖かない
だってマリアは
地獄へ送ったり しないからさ

嗚咽ながらの弾き語りの中で語られたのは、キリストと聖母マリアへの存分のアイロニー。

その直後の脱獄の決行と、その挫折の物語展開。

その度に、ルークの足の鎖が増えていくのだ。

それでも脱走を止めないルーク。

捕縛されたルークを待つのは、苛烈な懲罰。

「もう殴らないでくれ。神様、お願いだ。神様、もう殴らないでくれ」

ここでも神が出てくるが、今度ばかりは神に祈り、改心の吐露。

しかし、これは懲罰回避の方便だった。

「本当にまいったのさ。改心しなかっただけだ。計画などしたことは一度もない」

これは、3度目であり、トラックを奪った末の最後の脱獄の決行の際に、同行するドラグラインに語ったルークの本音。


更に、計略的な脱獄行を見事に遂行するルークに感心するドラグラインに、ルークは、一切が成り行き任せの行動であると語るのだ。

成り行き任せの行動で、命懸けの脱獄行を遂行するルークにとって、その契機が懲罰の対象行為なしに懲罰房へ拘禁された理不尽な事態に搦め捕られたとしても、それを継続させていくパワーの源泉が、今や、「絶対悪」としての「権力」に対する闘争という、軟着点を持ち得ない行動であると説明するのは困難になっているのである。

もうそれは、不屈の「スーパーマン」の立ち上げを捨てない者に、それ自身を独立的な価値と看做し、そこに理念系の称号を付与するための作り手の想念の内的風景を見るばかりであった。



3  娯楽作品として作り切れない中途半端さ



ラストシーン。

不屈の「スーパーマン」を立ち上げたルークは、荒れ果てた教会で、神に問いかけていくのだ。

ルークは祭壇の前に跪(ひざまず)き、今度は自己を語りながら、落ち着いた面持ちで吐露していく。

「神様よ、いるか?少し話をしようじゃないか。俺は悪党だ。戦争で人を殺し、酒を飲み、公共物を破損。ものを頼めた柄じゃないが、それにしても随分冷たいな。あんたはまるで、負け札ばかり掴ませてる。中でも外でも。ルールだ、規則だ、看守だと。あんたが俺を創った。どうすればいい?よく聞いてくれ。俺も最初は強かった。だが、そろそろ限界だ。いつ終わる?教えてくれ。どうすればいい?分ったよ・・・膝をついて尋ねる」

そう言った後、彼は天井を仰ぎ、手を組み、神からの答えを待つのだ。

「やっぱりな。俺は仕方がないか。喰えん男だ・・・自分で道を探すか」

このときだった。

「ルーク」と叫んで空き家にやって来たドラグラインを目視して、彼は呟いた。

「これが答えか。あんたも喰えん奴だ」

ドラグラインの報告は、刑務官らの追っ手に包囲されているというもの。

既に脱獄行の継続に絶望視したドラグラインが、居場所を密告したのである。

従って、このルークの「神との対話」は、最後の脱獄の果てに待っていた、「殉教」のシーンに流れていく重要な独白であると言っていい。

しかし、これらの実存的な問いかけが、映像構成に深みをもたらすことは全くない。

なぜなら、ヒーローの人物造形が、このような神との対話を現象化させる心象世界のイメージと、あまりに縁遠い印象を観る者に与えてしまっているからである。

だから、それらのシーンは、殆ど取って付けたような形而上学的な意味づけを仮構するものでしかないのだ。

そのことを、最も象徴するシーンがあった。

有名な卵食いのシーンである。

囚人同士の賭けで、50個の卵を食べ終えたルークの絵柄は、「プラトーン」(1986年製作)における、キリストの磔刑をイメージさせる、エリアスの死の場面を想起させる以上に、遥かに違和感を持たせるシーンであったと言える。

コメディラインの延長線上に、キリストの磔刑をイメージさせる映像構成のセンスの欠如は、ここに極まったと言っていい。

なぜなら、風景の連続性がここで遮断されることで、作り手の意図があまりに遊戯じみているようにしか見えないからだ。

そこには、単純に娯楽作品として作り切れない中途半端さが見え見えなのである。

だから、少なくとも私にとって、絵柄のインパクトは違和感を与えるもの以外ではなかった。

構築力の欠如を露わにした映像の特徴が、まさに、このシーンに象徴されていたと私には思われるのである。

まるで、「人間は自由であるべく呪われている」(「実存主義とは何か」)と言い切ったサルトルの思想を模したかの如く、形而上学的な味付けをしようという色気が垣間見えて、却ってそこだけが浮き上がってしまったのだ。

それもまた、尖った物言いを捨てなかった、ニューシネマの時代の産物なのだろう。

―― 最後に、本作と「パピヨン」(1973年製作)との相違点について一言。

娯楽作品として作り切れない中途半端さを露呈した本作に対して、「パピヨン」の脱獄行の本質が、単に「自由へ逃走」の故に命を賭けた「闘争」と言うよりも、砂漠での裁判シーンの夢に見られるように、パリのケチな犯罪者の生活によって、「人生を無駄にした罪」を拭うべく、「人生」の再生への強靭な思いにこそあって、それが映像総体から読み取れる秀逸な作品であった。

即ち、荒れ狂うマッカーシズムの犠牲となったドルトン・トランボ自身の熱い思いが、まさにニューシネマの時代に復活を遂げた表現の結晶の一つとして、「パピヨン」の映像総体の中で語られていたのである。

私はそう思う。

(2011年3月)

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