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    3 か月前

2011年5月9日月曜日

天然コケッコー('07)       山下敦弘


<「リアル」を仮構した「半身お伽話の映画」>



 1  「思春期爆発」に流れない、「思春期氾濫」の「小さな騒ぎ」の物語



 島根県の分校を舞台にした、天然キャラのヒロインの、純朴で心優しきキャラクターを、観る者に決定付けた重要なシーンがある。

 天然キャラのヒロインの名は、右田そよ(以下、そよ)。

 中学2年生である。


 そよと、同学年のイケメンの転校生、大沢広海(以下、広海)を含む全校生徒7人が、海水浴へ行ったときのこと。

 眩い陽光を被浴する海水浴で存分に愉悦した後、その帰路、広海(ひろみ)が近道を行こうとした際、ヒロインのそよも同行しようとした。

 しかし、最年少の小2のさっちゃん(早知子)が排尿を訴えた。

 そのとき、広海との同行を優先するあまり、そよはさっちゃんのアピールを我がままとみたのか、自分の小さなエゴを通してしまった。

 このとき彼女は、一陣の風のように吹いてきた「都会」の芳しい臭気に誘われて、古き良き「田舎」の文化を捨てたのである。


広海とそよ
同時にそれは、規範的な伝統文化の中で果たしてきた彼女の役割、即ち、「幼い子供の世話をする姉」としての保護者意識を捨てて、「思春期氾濫」の「小さな騒ぎ」の中で揺れる、「性」を意識する「自己」の欲求を選択的に優先したことを意味するだろう。

 しかし、彼女は悔いることになる。

 自分の小さなエゴを通した結果、さっちゃんが膀胱炎になったからだ。

 「さっちゃん、痛がっとろうか。さぞかし、泣いとろんじゃろうな。自分が恥ずかしゅうていられん」

 これが、彼女の、そのときのモノローグ。

 当然、尿意があるのにトイレを我慢すると急性膀胱炎になりやすいという知識を持ち得ない彼女の責任は、その心理の振幅を考慮しても限定的であることは明瞭だ。

 それでも、彼女は自分を責めるのだ。

 そこに、規範的な伝統文化の影響力の大きさを見ることは可能である。

 ともあれ、このモノローグによって、観る者は、「心優しきヒロイン」としての、そよの「人格像」に決定的な感情移入を果たすだろう。

 映像前半で固めた、このキャラクターイメージが、本作の成功を約束したと言っていい。

観る者は、このヒロインのモノローグによって、少なくとも本作が、「大人vs子供」という構図のラインで物語を動かす映画でないことを知るのだ。

 それは、「思春期爆発」に至ることのない、物語のソフトランディングをも予約させたのである。



 2  「思春期彷徨」の通過儀礼の一つのステージが終焉を遂げて



 更にヒロインの、以下のエピソードも、「田舎で出会いたい少女No1」(Yahooユーザーレビュー)という評価をグレードアップさせたであろう。

 東京への修学旅行先で、広海の友人が廃校祝いに受け取った(このシーンは些か乱暴)「校舎の瓦礫」を、「ジョーク」と考えて捨てたとき、そよはそれを大事そうに拾って、自分の旅行バックに収めておいたのだ。

 彼女には、「人の善意」を無にしてはならないという「絶対規範」がある。

 そんな彼女だから、田舎にいる年下の生徒や学童たちのことを配慮し、彼らへの土産を真剣に考えるのである。

 「土産、土産って、せっかく東京来てるのに、結局、田舎のことばっかじゃない」

 これは、広海の歯に衣着せぬ物言い。

 「田舎のことが好きだと分っただけでも、勉強になったのう」

 これは、中学校の担任教師である松田先生の、「教育的配慮」によるフォロー。

 望んで東京に修学旅行に来ても、地元の友人のことばかり気にかけるヒロインの、面目躍如たるキャラ全開のエピソードである。

 「山と一緒じゃ」

 新宿副都心にある都庁舎の、地上48階ビルを見て、呟くそよ。

 両耳に手を当て、耳を澄ませて、穏やかな「田舎」の自然の音を聴くのだ。

 「あんたらぁとは、いつか、仲良うやれる日も来るかも知らん」
 
 ヒロインのそよは、「都会」の無機質の風景を、「田舎」の自然の風景に変換させる能力を持つのである。

 その直後、先に歩く広海の手を握るヒロインの、持前の天心爛漫さが弾けるカットに繋がるのだ。

 これは、彼女の中の「田舎」と、広海の中の「都会」との融合を意味するシーンである。


演出中の山下敦弘監督
要するに、この作り手は、「田舎vs都会」という風に、一切を対極的に見る視座を拒否し、何もかも包摂的に把握したいようである。

 そこにこそ、「バランス」を最も好む日本人の嗜好の壺に叶う、本作の成功の秘訣があったという訳だ。

 教室のカーテンが風に揺れ、長回しのカメラが巡っていった先に待つ、笑みを湛える少女の顔のアップ。

 桜咲く陽春の季節がやって来て、高校生になったヒロインの通過儀礼の一つのステージが終焉を遂げ、新たなる「思春期彷徨」のスタートを告げるラストシーンだった。



 2  「リアル」を仮構した「半身お伽話の映画」



 毒気なしで、人畜無害の見本のような本作の人気の秘密が、まさにそのことを検証する映画であったにも関わらず、多くのファンが本作との折り合いの悪さを感受しなかったのは、この国の「田舎観」の大枠を決めているだろう、四季折々の美し「日本の原風景」の中に包括される日常性の柔和な彩りと、「ほのぼの感」、「温(ぬく)もり感」、「ほっこり感」という、現代日本人の最も好む空気感が横溢(おういつ)していて、それが、一貫して映像を支配していることに因っていると言っていい。


加えて、「終焉」への軟着点が約束された(注)、「思春期」特有の「過渡期的な情動氾濫」が過剰に噴き上がることなく、天然キャラのヒロインによって小出しにされる、「情動の騒ぎ」を浄化させる物語構成がフィットすることで、特段に極め付けの「大芝居」を挿入させる余地を無化していく演出が冴えまくっていた。

 だから、淡々と日常性を繋ぐ「思春期」の物語の訴求力を高めたのである。

 そして、更に決定的なのは、心優しきヒロインへの感情移入が観る者に存分に嵌っていたこと。

 これが、最も大きな成功因子かも知れない。

 既に、この国の観客は、感情移入し得ないドラマには情感投入できなくなっていて、キラーコンテンツとも言える一部の「映像」世界では、複雑で厄介な「社会派」の「問題作」に、凛として対峙する姿勢を劣化させて久しい。

 従って、「成功した映画」の絶対的な基準は、魅力的な登場人物への感情移入の有無に関わると言っていい。

 まさに本作こそ、「成功した映画」の格好のモデルであったという訳だ。


 更に本作では、天然キャラの、心優しきヒロインのモノローグが推進力になることで、どこまでも、「子供目線」でリードする物語を自在に転がし得たのである。

 それによって、「大人vs子供」という、面倒臭い二項対立が希釈化されるから、厄介な「大人の世界の事情」を削り切る難題を、いとも簡単にクリアてしまうことも可能になった。

 映像構成のエッセンスは、存分に感情移入し得るヒーロー、乃至(ないし)ヒロインを造形し、彼らに関わる「受容されるべき格好のエピソード」を特定気に切り取って、それらを散りばめた物語を構築すること。

 何より、そのヒーロー、乃至ヒロインの内面が、「人の心が分る」という極めて繊細な描写を集中的に束ねていくこと。

 それが、今日(こんにち)のこの国で持て囃され、受容される映画の基本要件の一つである。

 この基本要件を、ごく自然に見せる物語のうちに十全に満たせれば、その作り手は「最も訴求力の高い映画を作る監督」という評価が定まるだろう。

 「行って帰ります」という、「規律正しさ」を想起させる方言にシンボライズされているように、「怒号」や「叫喚」の殺伐な描写を確信的に削り取って、エピソードごとに切り取っていくオムニバスを繋ぐ映像の、その「余白」を大切に拾い上げていくことで、「これが日常性の基本形である」というメッセージを刻む静謐さを印象付けた本作もまた、当然の如く、その例に洩れなかったということだ。

 「田舎で出会いたい少女No1」、「安心して見れました」、「スローライフの心地よさ」、「子供たちのあるべき姿」、「懐かしい気持ちなれる」等々、Yahooのユーザーレビューに象徴されるように、恐らく、「自然志向」の大人に大受けのヒロインのキャラクターの魅力を、ここまで上手に描き切った作品も稀である。


 その結果、田園風景が広がる過疎県の、とある分校を物語のステージにしながら、「貧困」の問題が完全にスルーしているが故に、本作は「リアル」を見事に仮構した、言わば、「半身お伽話の映画」になったのである。


(注)以下、ヒロインのそよが、広海が東京への進学を考えていることを知ったときのモノローグ。本作のキャッチコピーの一部でもあるが、明らかに前半の述懐は、「大人目線」であると言える。

「もうすぐ消えて無くなるかも知れんと思いや、 ささいなことが急に輝いて見えてきてしまう。このワシと登校したことを、そのうち奇跡みたいに思い出すことになるんじゃろうか」

(2011年5月)

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