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2008年12月19日金曜日

マッド・シティ('97)       コスタ・ガブラス


<「サムは局のものよ」― 特定他者の消費の構造> 



 1  序  




 正直、コスタ・ガブラスの映画はあまり面白くない。

 多くの賞を取り、多大な評価を受けている映像作家であるにも拘らず、私には彼の描く「物語性」に入っていけないところがある。彼の一貫したその社会派的な作品の多くが、俗に言えば面白くないのである。

 しかし、「マッド・シティ」だけは違ってた。

 本作が、コスタ・ガブラスの作品であると知らないで観たことが幸いしたのかも知れない。或いは、非確信犯的なジョン・トラボルタの滑稽で、切ない演技が、私を惹きつけるに足る魅力に充ちていたのかも知れない。

 更に本作を観終わったとき、私の中でこの種のテーマについて以前から書きたいと思っていた、まさにその類の作品と出会った痛快感を覚えることができたことも、極めて重要な要素であったと思われる。

 そのテーマは、「特定他者の消費の構造」である。

 

 1  「サムは局のものよ」



 以下、本作の粗筋を詳細にフォローしながら、そのテーマについて言及したい。

 
 テレビの地方局に左遷されていた、かつての敏腕記者がいる。マックスである。
 
 彼は偶然取材に訪れた地元の自然博物館で、思わぬ特ダネのチャンスを手に入れようとしていた。博物館を解雇された一人の男が、女性館長に詰め寄っていたのである。彼は館長を軽く両手で突いて、抗議を重ねた。「帰って!」という館長の考えは変わらなかったため、男はバッグに忍ばせていた銃を取り出して、それを相手に向けたのである。
 
 「聞いてくれ」
 「ふざけないで」
 「ふざけてない」

 そこに、見学に来ていた小学生の集団が雪崩れ込んで来た。

 「静かに、じっとしてろ。銃は怖くない。館長と話してる」

 男は館長を威嚇するが、彼女はそれでも真剣に話を聞こうとしない。男は苛立ってきた。その二人の遣り取りを、トイレの中から窺っていたマックスは、外で待たせている局のアシスタントに無線で連絡を取った。

 「警察を呼ぶわ」とアシスタント。
 「止せ!生中継をする。警察は後だ」とマックス。
 「でも、警察に・・・」
 「こいつは大ニュースだ。バカはするな」

 マックスは、局の上司に直接連絡した。

 「男が銃を持ってる。鞄にもきっと武器が。人質は大人二人に、子供たちだ」

 上司の了解を取り、さっそくライブで「事件」が放送された。

 「マックスが博物館で、人質事件に出会(でくわ)しました。現場から中継です・・・」 

 一方、博物館では、ようやく「事件」が発生したばかりだった。

 館長を脅していた男が、誤って黒人の警備員を撃ってしまったのである。慌てる男は、撃たれて腹を押さえる警備員のもとに走り寄った。しかし男は表に出られず、館内で立て篭もろうとしていた。撃たれた警備員は街路に出て、その緊迫した状況がマックスの局の中継に利用されていく。

マックスとサム(右)
館内の男は、それをテレビで観て確認することになった。マックスはトイレから館内の情報を送っていたが、それが男に知られて、トイレの外に出されてしまうのである。ここでマックスからの連絡が、一時的に中断することになった。

 男の名前はサム。
 
 彼は館長に再雇用を求めに来ただけなのである。しかし事態は、サムの思惑を越えて、一般的な「人質事件」として一人歩きしてしまっていた。そこに警察から電話が入った。

 その電話にサムが出て、逆に警備員の安否を心配する。

 「彼を撃つ気はなかった。事故だ」
 「それは良かった。今出てくれば、罪は軽くなる」
 「それはできない」
 「そうか。君の要求は何だ?」と警察。

 しかし要求を聞かれても、サムは人質を取った理由を自ら把握できないでいる。サムは傍らのマックスに尋ねたのだ。

 「要求は何かって?」
 「言えよ」
 「ないよ。こんなつもりでは・・・」
 「落ち着いたら話すと言え。人質も殺さないと」とマックス。

 テレビレポーターのマックスが、事件を仕切っているようでもあった。サムは警察にその通りに伝えて、電話を切った。

 「それで、次はどうする?」とサム。
 「何か要求しろ」とマックス。
 「どんな?」
 「金だ」
 「金は給料だけでいい。仕事にさえ戻れれば」
 「それじゃダメだ。高級車か飛行機でも要求しろ。つまらん要求じゃ、相手が不安になる」
 「仕事が戻ればいい」
 「なぜ銃を?」
 「話をするためだ。館長と。もう出て行けない!刑務所に入れられちまう。俺には家族がいるんだ」
 「止める方法はある」
 「どうやって?」
 「教えよう・・・」

 マックスはサムを外の見える窓に連れて行って、外の群集の人だかりを見せた後、アドバイスした。

 「・・・あの人々、あれが世論だ。世論は力だ。君のしていることは、彼らには憎むべきことだ。子供を人質にするなんて、まさに狂ってる・・・君は狂ってない。ただ頭に来ただけだ。だが、外の連中は知らない。皆、職をなくした辛さは分る。周りにもいる。それを知れば同情する。投降する前にこうすればいい。君の気持ちを訴えろ」
 「どうやって?」
 「私が君にインタビューする。そこで君が事情を説明するんだ・・・やるか?」
 「分った」
 「先に子供の解放を」
 「じゃあ、一人だけだ」

 二人の話は、このような異様なまとまり方を見せた。

 以降、マックス経由で警察との連絡を取っていくことになる。サムはマックスの指示で、ロボットのように動いていくのだ。警察は子供の全員の釈放を求めるが、マックスは自ら警察に説明した。

 「・・・だが、要求を聞かねばどうなるか分らない」
 「許せんな」と警察。
 「分るが・・・彼はとても怒ってる。事態は予断を許さない」
 「分った。でも早く済ませろ」

こうして、マックスが仕切る「人質事件」の物語の幕が開かれていったのである。


 マックスは単身外に出て、警察署長を巧みに説き伏せ、子供の身を案じる親たちに、「夕食までに子供たちが帰れるよう努力してます」と安心させた。今や事件の主役は、一介のテレビマンであるマックス以外の何者でもなかった。局内でもマックスの評価が上りつつあった。

 サムは館内で、マックスに自分の事情を丁寧に説明した。

 「女房にも言えないし・・・」
 「クビになったことを?」 
 「毎日、制服を着て、仕事に出る振りをして、映画館に行って、一日中ボヤっと考えてた」
 「今日は、何が目的でここに?」
 「館長と話を」
 「危害を加える気は?」 
 「なかった」
 「危害を加える気がなくて、なぜ銃や爆薬を?」
 「さあ・・・クビになれば、家も手当てもなくなり、手当てがなければ子供も育てられない」 

 元気なく事件の動機を話すサムは今、自分の起した行動の行く末に面喰うばかりだった。そんなサムの不安をよそに、メディアはサムの自宅を襲い、警備員の入院する病棟にまで侵入していく。
 
 自然博物館の中に、マックスとサムがテレビカメラの前に立って、事件の経緯について語り出した。

 「サムさんは愛妻がいて、子供も二人いる。家と車のローンがあり、医療費、食料代、電気代、ガス代、衣料代もかかる。だが仕事を解雇された」

マックスがここまで言った後、サムにマイクを向けた。

 「俺が言いたいのは、クリフを撃ったけど、あれは事故だ。それと・・・給料に不満を言っていたが、それがもらえなくなって、如何にあの小切手が・・・あの紙切れが生活を支えてたかと。俺は道端で暮らしてる人たちを見ると、いつもああいう人は、浮浪者か麻薬中毒かと思ってた。だが、ある家族が道端で、ボール箱で暮らしてた。ウチもああなると思ったら、耐えられなくなって・・・この銃のことだが、ただのライフルだ。何でもない。それでテレビなんかで、銃を見せて注意を引いてるので、俺も銃を持っていけば、館長のバンクスさんも、多分、5分くらい話を聞いてくれるかと。でも、だれも俺みたいな者は・・・ただ毎日働くだけで、話も聞いてくれない。ウチはいい家族だ。クスリもやらないし、問題もないし、教会にも行ってる・・・でも俺みたいな人間の話は、誰も聞いてくれやしない・・・警察も、皆も全部忘れてくれ。家に帰りたい・・・子供に危害は加えない。俺も子供がいる。なのに仕事がなくなった。どうすればいい・・・こんなことになって申し訳ない・・・帰りたい。それが今の望みだ。それだけだ」

 涙交じりのサムの静かな語りに、テレビ視聴者は釘付けになっていた。

 「彼が何より望んでいるのは、皆の許しです。我々にはその心がある・・・法とは違う。現場より、マックスの独占中継でした」

 最後は、例によってマックスが仕切って独占中継を括ったのである。

 この放送によって、サムに対する世論の支持が高まっていった。中には、「サムのTシャツ」を売る業者までもが現われて、それを多くの消費者が買っていく。その視聴者の感情形成に、マックスは大いに関わっている。彼が放送する「犯人像」が、そのまま視聴者の犯人像を形成してしまうのである。

そのマックスは、今度は警察を相手に交渉する。彼がサムの妻や友人とインタビューすることを条件に、5人の人質の解放を警察に約束させようとした。しかし警察は、犯人の投降を強く求めて止まないのだ。事態があまりに大きくなりすぎたからである。

 この二人の遣り取りを、FBIがモニターを通して情報を管理している。そのFBIの指示で、サムの妻とのインタビューの許可が下りることになった。
 
 重症を負った警備員のクリフの病室が、テレビでライブ中継されていく。病院の外には、クリフを応援する多くの黒人たちが集まっていた。

 「クリフはどうなる?クリフはどうなる?クリフは夢を砕かれた」

 彼らはラップのリズムで、事件にアクセスしようとしている。黒人の人権を守る運動家たちの格好の題材であるからだ。そもそもサムの解雇は、クリフの勤務の継続の保証のために館長が決断したものなのである。


 一方、サムの妻はインタビューに応じていた。

 「サムは努力家です。ときどきバカをするけど・・・」
 「それで、サムはどんなご主人です?」とマックス。傍らには警察署長がいた。
 「いい主人よ。ちゃんと方向を示してあげてれば大丈夫。でも今回のことは、あの人らしくないわ」
 「この数日、彼に弁当を作ったことは?」
 「自分で作るの」
 「クビになったのに、自分で弁当を作って、制服を着て仕事に行く振りをしてた訳だ。どうして?」
 「何が?」
 「あなたに言えなかった。怖くて?」
 「きっと心配させまいと」
 「怖さから?それが、いい夫婦のしるし?」
 「私たちいい夫婦だわ。彼が違うって言った?」
 「きっといい御夫婦だ。だが、あなたは彼を子供扱いした」
 「子供のときがあるの。自分でも私の三番目の子だって。それだけ?」
 「別に悪気は・・・」
 「彼を愛しています?」とアシスタント。
 「勿論、愛しているわ。心から愛しているわ。誰より優しくて、親切な人よ。子供たちにだって・・・」

 ここでFBIからの指示が入り、サムの妻を本人と電話で話をさせることになった。メディアの暴走が、事件の解決を優先させるFBIの思惑を越えてきて、本来の権力的介入が直接化したのである。
サム夫婦の電話の遣り取り。

 「えらいことになった」とサム。
 「すぐに出て来て」と妻。
 「子供たちは?」
 「パパはどこかって、心配してるわ」
 「刑務所に入れられる」
 「サム、話はいいわ。早く出て来て」と妻。

 サムは傍らのテレビに目をやった。そこに妻が映っている。
 
 「お前、テレビに!」
 「何?銃は捨てて」
 「皆、どけ」
 「出て来て」
 「マックスを」
 「関係ないわ。銃を捨てて」
 「俺は刑務所には行かないぞ」
 「お願いよ」

 サムは怒って電話を切った。

 妻は外から拡声器で訴えたが、サムは屋外に向って威嚇射撃をした。警官からも銃の応酬があり、状況は一変したのだ。博物館に戻って来たマックスは、サムの発砲を責め立てる。

 「皆が同情しているのに、突然発砲なんかして。せっかくの印象が台無しだ」

 サムは明らかに自己を失っていた。


 マックスは物語の修復を余儀なくされ、アシスタントを使って、サムの友人たちにコメントを収録させた。 その狙いは、「サムの善人性」の強調である。

 その極めつけは、サムの実家の母のインタビュー。

 母は息子について語っていく。

 「もう十五年、このレックス(犬の名)を飼ってます。去年死にかけたとき、サムは必死でずっと徹夜して暖めてやった。本当に優しい子です。バカだけど、あの子も何とかしたいのよ、必死で」

 マックスはこのインタビューで、サムのイメージの回復を狙ったのである。しかしそのマックスの中継車に、局のアンカーマンのケビンが訪ねて来た。マックスを嫌って、彼を地方に左遷させた張本人である。このケビンは、マックスの特ダネを奪うつもりだったのだ。彼はマックスを押しのけて、サムとのインタビューを申し入れたが、マックスは躊躇する。マックスは上司から、特集番組を持たせてくれるという条件付だったが、他局のインタビューを取り付けたのである。

「サムは局のものよ」

 このアシスタントの一言が、全てを物語っていた。

 アシスタント自身が既にケビンに懐柔されていて、自らの仕事の場を持てた喜びを言葉に刻んだのである。メディア内部の矛盾が顕在化しつつあったのだ。

 それは同時に、マックス自身がサムの心情を、思い入れ含みで理解する立場にシフトしつつあったことを意味していた。事態は変化しつつあったのである。



 2  「我々が彼を殺した!」



 サムに対する一般視聴者の支持率が、急速に降下した。

 その支持率が59%から32%まで落ちた原因は、人質になっている子供たちの親が、テレビで犯人を嘲罵したからである。この誘導は、明らかにケビンの狡猾な介入によって起こされた事態である。ケビンは、犯人サイドに立つマックスの報道から、被害者寄りの報道にシフトさせたのである。やがてマックスだけが、状況から取り残されていくようになっていく。

 他局とのインタビューで、サムの印象はいよいよ悪くなっていった。全ては、メディアの情報操作次第なのである。先に収録したサムの母や友人、妻のインタビューを放送する際には、悉くサムを悪罵する映像のみを流したのである。

 「時々、バカをするけど・・・」(妻)。
 「変な奴だね・・・彼はカッとなる。確かに危険な奴だ」(友人)。

 この友人の放送を聞いたサムが放った一言は、「あれは誰だ?」。

 テレビでは、アンカーマンのケビンが、犯人のサム批判を続けていた。

 また、この放送を観ていたFBIは事態の危険性を察知して、迅速な行動の必要性に迫られていく。

 館内に、まもなくFBIの拡声器が流れてくる。

 「人質を解放して、武器を捨て、すぐに投降しろ!」

 この声を聞いたサムが放った一言は、「投降しようと思ったのに・・・」。もはや事態は、マックスの支配下を完全に逸脱してしまっていた。彼はサムの傍らにいて、呆然とするばかりなのだ。テレビの放送は、更に彼らの立場を追い詰めるような情報を流していく。
 
 入院中のクリフの奥さんの談話である。

 「皆さん、眼を開いて。サムに同情している人、サムより、私の子供の心配をして。子供の父親が死んだ。主人が死んだわ」

 放送は更に、デマゴーグを重ねていく。

 「病院がただ今、クリフ氏の死亡を発表しました。善良な市民が、人質を救おうとして犯人に撃たれたのです。既に、人質が取られて3日が過ぎ・・・」

 表からは、FBIの投降の呼びかけが続く。

 クリフの死に衝撃を受けたサムは、直ちに全ての人質を解放した。館内にはマックスとサムのみ。そのマックスに、サムは「あんたも信用ない」と一言。マックスも「そうだな」としか反応できない。全ては、この男が仕組んだ物語だったからである。

 僅かに残る気力で、サムは妻に電話した。
 「もう帰れない」という言葉が虚しく届いて、妻からは「愛してる」という言葉が戻って来た。やがてマックスは、館内から一人戻って来た。戻って来ないのは、サム一人。


 突然、館内から激しい爆発音が轟いて、玄関のガラスの破片が、博物館前で警官たちに事情を説明していたマックスの体に突き刺さってきた。それは、サムの自爆を意味していた。

 傷だらけのマックスに、彼のアシスタントがマイクを持って近寄って来て、コメントを求めて来た。マックスは、サムの身を案じるのみ。それに対してアシスタントの言葉は、「死んだわ。大特ダネよ」の一言。彼女もまた、今や普通のテレビマンに成り切ったのである。

 マイクを制して、マックスは立ち上がり、メディアや野次馬の群れで騒然とする中を潜(くぐ)って、それ以外にない言葉を吐き出したのである。

 「我々が彼を殺した!殺したのは・・・我々なんだ。分らないのか!我々が殺した!」

 この一言が、映像の括りとなった。

       
                        *       *      *       *



 3  特定他者の消費の構造



 映画のストーリーから離れたところから書いていく。

 映像のテーマがメディア批判と、それに踊らされて動く、一般大衆の無責任な言動にあることが明らかなので、そのテーマについての一般的な論及を進めていきたい。

 冒頭にも触れたが、そのテーマは、本作のテーマでもある「特定他者の消費の構造」。

 かなり古い話について書く。

尾崎豊
かつて尾崎豊(シンガーソングライター)が不慮の死を遂げたとき、彼の妻へのバッシングが芸能マスコミを暫く賑わしていたことがあった。「歌手の遺産を独占する強欲な妻」の物語が巷間に流され、夫婦の実際の生活を知らない人々の嫉妬にも似た怨嗟や揶揄が、そこに飛び交った。

 歌手の妻が表した手記によると、彼女の自宅や事務所に、「打倒○○」とか、「死ね!」とかのスプレーが噴射されたり、カッターの刃を同封しただけの郵便物が送られたり、燃やされた婦人の写真入の手紙が、何十通も郵送されたりしたらしい。無言電話などは四六時中で、中には直接、自宅のドアが朝から深夜に至るまで叩かれ続けたこともあったとか。さすがにこのときばかりは、夫人も真剣に自殺を考えたと言う。

 そう言えば、この出来事よりももっと古い話だが、タクシードライバーのO氏が1億円を拾ったときも、「殺すぞ!」という脅迫電話が絶えなかったという話を、私は鮮明に記憶している。結局、3LDKのマンションを買っても、O氏は安らぎを得られず、せめて生活を奢侈に流さないように、日夜、自戒していたらしい。


 ―― 以上の事例に通底する、三つの過剰がある。これが本稿のテーマとなる。

 第一に、報道の過剰がある。第二に、報道を受け取った人々がバッシングにアクセスするときの過剰がある。そして第三に、バッシングの被害者がそれに反応する際の自衛の過剰がある。

 後者は前二者の産物だから、要諦は前二者の構造化された脈絡であり、この二重に強化されたバッシングこそ、大衆消費社会の「特定他者の消費の構造」の主調である。

 もう少し分析的に言及すれば、この三つの過剰の後に、被害者が狼狽する姿を見ること(一番良いのは、バッシングの対象者が反省する姿を見ることだが、先の尾崎夫人のように自殺を考えることでもいい)ができれば、熱心な視聴者は安心が得られるという重要な文脈が続くのである。

 即ち、私流に解釈すれば、「特定他者の消費の構造」とは、「三つの過剰、一つの安心」という言葉に要約されるものである。

 まずマスコミがバッシングの対象者(=特定他者)を、その様々な情報網(視聴者からの内部告発を含む)を駆使して発見するか、または後発のハンターたちがメディアスクラムを組んで、既に話題となった対象者に対して、身勝手な自己基準に則って襲い掛かっていく。

 そこで得た末梢的な情報を束ねて、それをスクープを仕立てるべく、集中的、印象的に情報誘導する。そして視聴者が不断に求める消費の需要に応えるべく、それらを毒気含みで選択的に流していく。そこで流された情報を、流した者の意に沿うようかのにして視聴者が受容し、フォローしていくのである。ある種のモラルパニックが形成されていくのだ。

 そして標的にされた特定他者は、その過剰な攻勢に、多くは自衛網を張っていくことで両者間は緊張し、訴訟騒ぎに発展する事態をも招来する。攻勢をかける者たちはそれでは収まらず、しばしば泥沼の闘争を常態化することにもなる。

 つまりこれは、「負の自己完結」(攻撃の対象者が土下座するまで続く、本質的には対自我暴力のことで、私の造語)の構造と把握できるものであるが故に、ここに何らかの形でアクセスした人々には、特定他者が「安心」を供与してくれなければバッシングに終わりは来ないのである。

 だから、人々に最後まで「安心」を供与しないであろう「尊師」や、毒カレー事件の「毒婦」といった人物は、人々の憎悪の対象から永劫に解放されることはあり得ないだろう。明らかに、「日本教」の許容ラインから決定的に逸脱してしまった件(くだん)の者は(無慈悲に子供を殺害するものなど言語道断である)、いつしか事件の話題に触れることすらタブーとなっていくのである。件の者たちの「改心」が全く期待されることさえない不条理の中では、大衆消費社会が切に求めて止まない、特定他者に対する肝心な消費が自己完結しないことが自明だから、人々は件の者たちを、「狂人」や「悪魔」と看做すことでしか情報処理を遂行できないのだ。

 大衆消費社会は、絶えず人々のストレス解消の標的になり得る特定他者を作り出して、その対象となった人物や集団を裸にして、存分に消費せざるを得ない構造性を内側に持っているようである。

 そこでの裸のされ方には、共通の文脈がある。

 まず彼らの履歴の中で、彼らが如何に「悪」であったかということが、周囲の者の回顧を通して語られる。「善良」なるイメージを初めから被せられた人々の回顧によって、被疑者たちのキャラクターに特定のイメージを持たせていくのだ。恐らく、公判の中で重要視されることもない、「善良市民」のテレビ用コメントがリフレーンされることで、視聴者の被疑者に対する人間観が固まっていくのである。
 
 そして第二に、被疑者がその犯罪に至るまで、いかに良い思いをしてきたかということが、扇情的メディアを介して繰り返し語られていく。そのことで、普通の水準のメディアリテラシーを構築し得ない人々の憎悪感情が、いよいよ増幅されるのは言うまでもないであろう。

 そして第三に、例えばテレビのコメンテーターと称する浮薄な連中が、事件への情緒含みの反応を連射していくことで、事件全体を一つの方向性を持ったイメージに仕上げていくのである。

 「被害者にも人権がある」

 これは、彼らの常套句の一つ。

マスコの一例 ラジオ放送局(カナダ)(イメージ画像・ウィキ)
実はこんな当たり前の、言わずもがなのフレーズを表出していく以外に彼らの存在価値はないと言っていい。このような表出こそ、大衆消費社会が事件を括っていくときの、もう一つの自己完結点になるということだ。

 人々は「安心」を得ることで消費を完了すると同時に、裁きの快楽も手に入れたいのだ。本当は呆れるほど長い時間をかけなければ見えてこない本質的な何かがあるかも知れないのに、公判の緒に就く遥か以前に事件を括り、性急な自己完結を果たそうとするかのように見えるのは、事件そのものが消費の対象になっているからである。

 これが、特定他者となった凶悪犯を消費していく一般的手順である、と私は考えている。

 整理すると、①被疑者の過去の悪徳を、「善良市民」に回顧させる、②被疑者の独占的快楽の実態を暴く、③コメンテーターがそれを補強する、というほぼ同時進行的な流れの中で、人々を飽きさせない速度をもって、事件と特定他者の消費を果たすのである。

 この手順を、先の「三つの過剰、一つの安心」というフレームに重ねれば、よりその消費の構造性が説得力を持つのではないか。まさに大衆消費社会の強(したた)かさを見る思いがする。

 

 4  特定他者に仕立てられた男


 
 映像に戻る。
 

本作の主人公サムは紛れもなく、マックスに代表されるメディアによって特定他者に仕立てられていった。「サムは局のものよ」という新米女性キャスターの一言が、その事実を本質的に言い当てていた。メディアによって特定他者とされたサムには、愚かな誤射事件を起こしたペナルティだけが待っていた。彼は3日間、全米の市民によって消費される運命を負う羽目になったのである。

 勿論、このサムの一件は、私が一般論的に論じた枠組み、即ち、「特定他者の消費の構造」を完璧になぞっていくものではなかった。しかしサムの事件には、「三つの過剰」が存在し、それが「一つの安心」に繋がっていく構造性において、全く同質であったことは論を待つまでもない。
 
 そこに「報道の過剰」があり、「一般視聴者の過剰」があり、そしてそれらの過剰が「サムの反応の過剰」に繋がっていったのである。

 「報道の過剰」については、まずマックスによる「善人なる犯罪者」というイメージ作りによって、そこに大衆の反権力的気分を大いに醸し出していくが、ケビンの登場によって、「性悪なる犯罪者」という物語の転換が図られていく。

 理由は一つ。

 サムを支持する視聴者の支持率の急落が全てだった。

 人質に取られた子供の親たちの発言がメディアに紹介されたことで、サム=悪人説への物語転換が図られたのだ。メディアは常に特定他者を作り出していくが、作り出されたものに対する一般視聴者の反応に対して過敏なため、不特定多数の第三者の気分を形成していく役割を負う反面、その気分の流れ方に影響を受けることも免れないのである。

 ともあれ、ケビンの物語転換の底流には、自分が嫌うマックスの作り出した物語ラインへの反発の表層意識とは別に、3日間も閉じこもったことで、サムをヒーロー視する世論が飽きつつあることを察知し、いつまでも「闘う失業者」のイメージによっては、物語を自己完結できにくくなってしまったという事情が伏在しているようにも見えるのだ。即ち、サムという特定他者の消費の仕方をシフトすることで、「一つの安心」への獲得に繋がったのではないか。私はそう思う。

 次に「一般消費者の過剰」についてだが、これは本作では言及が不足していたように思われる。敢えて言えば、黒人の市民たちが重症を負った黒人警備員への応援を、ラップで表現するシーンが際立つものだったが、それ以外に、大衆の生理を深く抉る描写の導入が補完的に描かれても良かったのではないか。

 確かに「サムのTシャツ」を売買する大衆の強(したた)かさが、サムを特定他者として消費する構造性を浮き上らせるものであったが、残念ながらそのレベルの描写では、「狼たちの午後」のリアリズムに遥か及ばなかったことは否めないのである。
 
 なぜ、大衆のごく自然なる反応の描写が必要なのか。自明である。

 それを描くことによって、メディアと大衆の特定他者に対する「共犯性」が浮き彫りになるからである。即ち、特定他者の標的はメディアによって作り出されながらも、作り出されたものの消費は、大衆の需要度の高さを前提にすることによってしか成立しないのである。メディアはそれ自身の購買力と視聴率を、単に一般的な大衆のニーズにのみ寄りかかっているということだ。従って大衆に飽きられないように、メディアは、その自在な身の置き方を流していく以外にないのである。

 第三の、「サムの自衛の過剰」についても、言わずもがなの事柄である。

 元々、犯罪に及ぶ意志を持たなかった男が、自分の思惑とは無縁な世界に流されたのは、前二者の過剰の結果によってである。とりわけマックスの報道誘導の、その極めて強引な手法のうちに男の自我が搦(から)め捕られ、その蜘蛛の糸の粘着力を遂に稀薄化できなかったとき、男の自衛的過剰の表出が噴き上がってしまったということだ。それ以外にない。男はメディアの格好のターゲットに利用され、徹底的に消費された挙句、自爆に向って一気に駆け抜けてしまったのである。

 このことは、もしサムがマックスと出会わなかった場合を想定して推理していけば、より瞭然とするであろう。

 男は黒人警備員を誤射していたことで狼狽(うろた)えていた。警備員に対する恨みは毛頭ないから、この精神的混乱の中から、この小心な男が一気に狂犬化するストーリーはとても考えられないのだ。男がまもなく警察に捕捉される道を辿る流れは、男の不幸を広げるだろうが、しかしそれ以外にない選択肢として、最も相応しいように思われる。仮に男は博物館に籠城したとしても、とうてい3日間の粘り越しを見せることはなかったはずだ。従って、男は過失致死罪で塀の中に送り込まれたかも知れないが、少なくとも、自爆という悲劇は回避されたことは間違いないだろう。

 一切は、マックスこそが元凶だったのである。

 そのマックスは、三日目辺りでサムへの感情移入を深めるものの、肝心のサムから「信用できない」と言われる始末。そのときマックスは、「そうだな」とサムに答えるしかなかった。

コスタ・ガブラス監督
彼は最後の状況転換の場で必死にサムを救い出そうとするが、この辺の心境には残念ながらリアリティがなく、「作り物」の映画の印象を与えて終ることになった。

 マックスの心境変化が、「我々が彼を殺した」という、「ラストシーンの勝負」に流れる重要な伏線になったことは言うまでもない。

 しかしこのラストに、作り手のメッセージを託してしまったが故の物語の浮薄さという印象は拭えないのである。

 私としては、銃による館内での自殺か、それとも両手を掲げて投降する犯人の悲壮な表情によるアップで、この映像を括った方が正解だったと思われる。
 
 マックスの叫びは必要なかったのだ。

 
私自身の独断的把握によって敢えて言うならば、彼の犯した「犯罪」を内部告発による浄化で、そこに感傷含みのカタルシスを導入する必要など全くなかったのである。

(2007年9月)

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