< 大いなる「母性」の立ち上げによる、全き「疑似母子」の仮構に至る物語>
1 呆れるほどハリウッド的なハッピーエンドに流れ着くエンターテインメント
驚くほど聡明で、感受性豊かな6歳の坊やと、驚くほど拳銃捌きの巧みな中年女が、「絶対悪」との戦争を経て、呆れるほどハリウッド的なハッピーエンドに流れ着くという、娯楽アクションムービーの一篇。
音楽の必要以上の多用だけなら許容し得るものの、予定調和のラストシーンの、そこだけを特段の価値として狙った情緒過多な括りによって、本作は、単なる「西部劇」仕立てによるエンターテインメントと化したのである。
それはまるで、「脆弱な男たち」を退治する「強靭な女」の立ち上げを主唱するだけの、「インディーズのカリスマ」とは思えないような凡作だった。
そんな映画の中で、私がたった一つだけ評価している点がある。
片手捌きで拳銃をぶっ放す、グロリアという名のタフな女の強靭な心を、じわじわと追い詰めていく一連の心理描写である。
それは、以下のシークエンスの中で典型的に見られた描写なので、再現してみる。
2 「非日常」の時間を繋ぐ「スーパーウーマン」の耐性限界が沸点に達して
NYの中枢を、引っ切りなしに跋扈(ばっこ)する車の洪水。
その車のクラクションに、一瞬、驚く態度を見せるグロリア。
「車に驚いたの?」とフィル。
マフィアに狙われた夫を持つ、隣人の親友から引き受けた子供の世話だが、未だ馴染めないプエルトルコ系の6歳の坊やの何気ない一言に、グロリアは過剰に反応するのだ。
「間違ってたわ。寄宿学校に入れておきゃよかった」
「どうせ、あんたはスペイン系じゃないもんね。ママでもないし、パパでもない。赤の他人だ。僕は家族を見つけるよ。あんたは僕とは合わない」
エンタテイメントだから全て許されるという「映画の嘘」の中で表現された、聡明で、感受性豊かな6歳の坊やの決め台詞。
命を賭けて守っているはずの6歳の坊やから、そこまで言われたら、さすがの「スーパーウーマン」の忍耐力も切れるだろう。
何より、「車に驚いたの?」などという物言いは、たとえ相手が子供であったとしても、「スーパーウーマン」の「プライドライン」に抵触しない訳がないのだ。
彼女には、「臆病」などという表現は、決して認知できない何かだからだ。
彼女は、「男」以上に、米国の「男」が拘泥するだろう、「胆力」を本質にする「恐怖支配力」という情感体系を持つ、紛う方なき「スーパーウーマン」であるということだ。
「結構。バーがあるわ。私はあそこで一杯やる。来るもよし。逃げるもよし。好きにして」
そんな「スーパーウーマン」だからこそ、この禁句の言葉が、遂に吐き出されてしまったのである。
「サヨナラ。弱虫。トンマ。マヌケ」
6歳の坊やも、相当意地っ張りだ。
そう言われて、歩き去っていくグロリアに、手を振るフィル。
今や、件の「スーパーウーマン」は、完全に〈状況脱出〉を決め込んだかに見えた。
しかし、肝心のグロリアは、バーの中に入っても全く落ち着かない。
一応、ビールを注文するが、彼女自身、自分でフィルの動向を確認できずに苛立っている。
結局、彼女はバーの店主に子供を目視してもらうが、フィルが既にその場所にいない事実を知って、急いでバーを後にした。
グロリアは、黒人が運転するボロタクシーを拾って、「ブロンクスをゆっくり走って。6歳のプエルトルコ系の子供を捜すから」などと頼み込み、広いNYの町を捜し回るのだ。
まもなく、ビル入り口の階段に、他の子供たちの中に混じって、フィルがいるのを確認したグロリアは、互いに視線を合わせるが、フィルは黙って他の子と走り去っていったのである。
走り去っていくフィルを、グロリアはタクシーで追っていく。
しかし、そこに待機していたギャングに、フィルは連れら去られてしまうのだ。
そこからは、「スーパーウーマン」の大立ち回り。
マフィアのテリトリー下にあるギャング相手に、「スーパーウーマン」の本領が発揮されるシーンだったが、本作は意図的にアクションシーンを削り落している。
ここでは、地下鉄での大立ち回りを経て、フィルを無事救出したグロリアが、何とかホテルに辿り着くという顛末だった。
ホテルに着いても、グロリアは落ち着けない。
彼女の脳裡には、「日常性」という概念が入り込む余地がないのだ。
常に「臨戦態勢」にあるから、その時間は「非日常」である以外にない。
〈死〉を極点にする「非日常」の時間を繋ぐグロリアの耐性限界は、今やクリティカルポイントに達しつつあった。
この辺りの切迫した状況下における、追い詰められた者の心理的緊張感を醸し出す演出は見事だった。
3 大いなる「母性」の立ち上げによる、全き「疑似母子」の仮構に至る物語
切迫した状況下に捕捉された者が、〈死〉を極点にする「非日常」の状況の中にあっても、貝のように押し黙り、埋もれて小さくなっていく生き方を、当然ながら、この「スーパーウーマン」は選択しない。
「胆力」を本質にする「恐怖支配力」を継続的に保持する「スーパーウーマン」には、選択肢が限定的なのである。
選択肢が限定的な彼女は、「恐怖突入」による「状況突破力」を身体化していくのだ。
それが、彼女の生き方であるからだ。

そんな状況を突沸(とっぷつ)させた、このシークエンスで、小生意気な6歳の坊やの態度が明らかに変容していく。
自分を本気で助けてくれる存在としての、「スーパーウーマン」であるグロリアに依存する感情が沸点に達したのである。
「あんたの母親になるって話、まだ断る?」とグロリア。
「なっても構わないよ。ママは死んだし。なってもいいよ。でも、何でなりたいの?」とフィル。
「堅気の暮らしもいいだろう」
「あんたは僕のママで、パパで、家族だ。それに、親友だね。恋人でもある」
「家族がいいわ」
本作の中で、最も重要な会話の一つである。

「疑似母子」の仮構は、大いなる「母性」の立ち上げを意味するに至るからだ。
一貫して、「臨戦態勢」の心理的緊張感を繰り返し映し出しても、大立ち回りの中枢局面を省略したシーンに見られるように、本作は、グロリアという名のタフな「スーパーウーマン」と、孤児となった6歳の坊やによる、全き「疑似母子」の仮構に至る物語だったのである。
(2011年6月)
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