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2010年10月4日月曜日

危険な年('82)        ピーター・ウィアー


<自死によって炸裂した「物語のライター」の痛ましき愛国心>



 1  理想主義者の本質を隠し切れない「謎の男」の困難な闘い



 本作は、社会派ムービーの取っ付きにくさをラブロマンスで希釈することで、本来的な「主題が内包する問題解決の困難さ」を提示した作品である。

 この手法が成功したか否かについては、観る者によって判断は分れるだろうが、少なくとも、異質な国家の異質な文化に偏見を持ち、そこに職業意識に見合っただけの「正義」に依拠して自己投入することを拒む西欧人の傲慢さと軽薄さ、それを限りなく相対化させた一人の人物の、あまりに困難な仕事に挑む地道な闘いに眩いまでの光を照らすことができただろう。

 その男はリアリストだった。

 且つ、理想主義者の本質を隠し切れないヒューマニズムの側面も持ち、そして誰よりも奥行きの深い愛国の士だった。

 西欧人ジャーナリストから「小人」と呼ばれたように、身長僅か140cm程度のその男が、映像総体を根柢から支配していた事実を誰も否めないだろう。

 「主題が内包する問題解決の困難さ」とは、奥行きの深い愛国の士=ヒューマニストが内側に抱え込んでいる困難さであった。

 宗主国オランダからの独立後、特定の支持基盤を持ち得なかった、「民族独立の父」であるスカルノ体制下のインドネシアは、西側諸国との対決政策によってIMFからの経済援助を停止され、国内の経済状態は悪化し、インフレによる物資高騰は民衆の生活を圧迫させるに至り、街にはホームレスや売春婦が溢れる惨状を呈していた。

スカルノ大統領(ウィキ)
これが、1965年当時のインドネシアの実情だった。

 個人の力では到底及ばないであろう、こんな厄介な問題を抱える、赤道直下に広がる世界最多の島嶼国家の困難さの中枢に、全人格的に対峙した件の男は、少しでも自らの理想を具現する戦略を描いて実践躬行(きゅうこう)していった。

 その方法が、リアリストたる所以でもあった。

 この男の困難な闘いこそ、この男と同様に、オーストラリア人の父を持つ、作り手の思いが投影された人格像であると言えるのだろうか。

 結局、この映画は、個人の力では到底及ばない艱難(かんなん)な問題を抱える風土の中で、それでも個人の力が及ぶ臨界点を描いた作品であるとも把握できるのだ。

 この男の名前は、ビリー・クワン。

 フリー・カメラマンである。

 彼はカメラマンであるというその職業的ポジションを利用して、インドネシアの様々な悲惨な現実を撮り溜めしていた。

 しかし、その写真の殆どが世に出ることはない。

 それを世に出すには、仕事の制約があり過ぎた。

 右派からのテロルの危険も伴うだろう。

 しかし彼は、その現実を世界に訴えたいと本気で考えていた。

ビリー・クワン(左)とガイ・ハミルトン
その手段として、彼はインドネシアに取材に来る各国の特派員を利用しようと考えたのだ。

 ところが、前述したように、エアコン付きのホテルに泊る多くの外国人記者は、現地人と常に一線を画し、溶け合うことを拒む連中だった。

 彼らは、異国の地で不自由する下半身の処理を、売春婦でしか生きられない女たちの、そのチープな「性」を買うことによって処理している凡人たちと言い換えてもいい。

 しかし、彼は諦めなかった。

 ABS(ABCのモデルで、オーストラリア放送協会)の放送局員である、ガイ・ハミルトンという男が、彼の前に出現したからである。

 「野心があり、認識の甘さがあるが、やっていけそうだ」

 この言葉は、本作の冒頭で、ガイ・ハミルトンを案内した直後のビリーの評価である。

演説するアイディットPKI書記長(ウィキ)
ビリーは、自分の理想を具現するために、あらゆるデータを蒐集し、この国の中枢のポストに就く者ばかりか、PKI(インドネシア共産党)の最高指導者のアイディット(9月30日事件で処刑)ともコネクションを張り巡らせていた。

 当然、ガイ・ハミルトンに対する情報のスクラップも用意していて、彼の顔写真も何枚も撮り溜めていた。

 更に、インドネシア在住の英国大使館の秘書のジルとも懇意にしていて、彼女からの貴重な情報をもスクラップブックに蒐集していたのである。

 「良い相棒になろう。君の眼になる」

 これは、半人前のジャーナリストである、ガイに対するビーリーの言葉。

 ビリーは、「野心があり、認識の甘さがある」ガイを、限りなく本物に近いジャーナリストに育て上げていくのだ。

 ジャーナリストとしてのガイに対する評価は、後に、ロンボク島の取材で、「子供が痩せこけている」とコメントし、暗に自己満足的と批判され、メロドラマと揶揄されるコメントのレベルだったのである。

まもなくガイは、ビリーの尽力によって、PKIの最高指導者のアイディットへの独占インタビューに成功した。

 「良い相棒になろう」と切望するビリーにとって、ガイの成功は、何より自分の理想を具現していく一つのステップになっていく。

左からビリー、ジル、ガイ
そんなビリーが、ガイにジルを紹介したのもまた、仕事の共同戦線を張ることで、同様に自分の理想の具現を実践しようとしたからだろう。

 同時に、異国の地で溜めたストレスのガス抜きとして、ビリーは二人の恋愛へのシフトをサポートしたのである。

 無論、そんなビリーの思惑を、二人は知る由もない。

 二人にとって、ビリーはどこまでも「謎の男」なのである。
 
 
しかし、「謎の男」に対する二人の信頼感には厚いものがあった。

ジルとガイ
「ビリーは人を裏切らない」と信じさせる何かが、ビリーには存在し、それが彼に多くの「友情網」を形成させるに至ったのである。



 2  一切の希望の証を喪失した者が流れ込んだ究極の選択肢



 ビリーに対するジルの信頼感の厚さは、ビリー個人の人間性溢れる秘められた行為を知っていたからである。

 ビリーには、現地に養女がいて、その子供の面倒をも養っていたのである。

 その事実をジルから聞かされたガイは、ビリーとの信頼関係を強化していった。

 また、ガイとの共同作業が円滑に進む中で、ビリーはガイに対して、その憂国の思いを吐露する重要なシーンがあった。


パーンダヴァの人兄弟を描いたワヤン・クリ(ウィキ)
ジャワ島の影絵芝居として有名なワヤンの話題に触れたとき、ビリーは自らがスカルノの真似をした写真を見せて、「僕の英雄だ。天才だよ」と吐露したのである。

 「スカルノは、偉大な人形使いだ。右派と左派を巧みに操る」

 ビリーは影絵を使いながら、ガイに自分の政治信条を開陳していくのだ。

 「右派と左派は絶えず闘っている。光と影がバランスを生み出す。西欧人は答えを求めたがる。何が善で何が悪かを。ワヤンにはそのような結論はない」

 善悪二元論に固執する西欧人の単純な発想を批判するビリーは、彼が尊敬して止まないスカルノが依拠した柔軟な政治思想を説明したつもりなのである。

 因みに、スカルノ政治の中枢理念は、「ナサコム」(NASAKOM)と呼称されるものである。

 「ナサコム」とは、「民族主義」(Nasional)、「宗教」(Agama)、「共産主義」(Komunis)という三つの概念を集合させたもの。

 この中枢理念が形成された背景には、インドネシア国内で、様々な敵対的関係にある組織の結束を訴える必要が存在したからである。

 元々、拠って立つ政治基盤を持たないスカルノにとって、複雑に集合した島々を国民国家として立ち上げるには、このような中枢理念が求められたのである。

スハルト(ウィキ)
とりわけ、スカルノの庇護の下で大衆的支持基盤を拡大していったPKIと、9.30事件を契機に陸軍大臣兼陸軍参謀総長に就任した、スハルトを最高指揮官にする国軍との拮抗状況を巧妙に利用することで、スカルノは権力の均衡を保持していたという重要な政治的背景を無視できないであろう。

 「クリシュナは言う“欲望で魂が濁っています。煙が炎を隠し、ちりが鏡を曇らすごとく。だから心が貧しいのです”」

 ヒンズー教神話の神を引き合いに出して、憂国の思いを「相棒」に語るビリーが、その柔軟なイメージを自ら剥ぎ取る表現を結ぶのだ。

 そんなビリーを、絶望の底に陥れる事態が出来した。

 「PKIに武器を供給する船が入って来る」

 シンガポールから英大使館に入った機密情報を、悩んだ末にガイに教えるジル。

 内戦の勃発を危惧させるこの機密情報を、悩んだ末にガイに教えたのは、ガイの身を案じた末のジルの愛情だが、ガイはこの一級の機密情報を報道しようとした。

 「報道すれば、ジルが疑われる」

 ビリーはガイにと忠告するが、野心に燃えるガイは、PKI決起の情報をスクープとして取り上げてしまうのだ。

 「君は変わった。人を平気で裏切る。なぜ、恋愛だけに夢中になれない。なぜ、女を愛せない」

 深く慨嘆したビリーは、いつものように入手した情報をタイプに打つばかり。

ガイの暴走
ビリーにしてみれば、ガイのためにジルを紹介したのにも関わらず、「恋愛だけに夢中になれない」ガイの野心は、他の外国人特派員のレベルと変わらないメンタリティを見せつけられるだけだった。

 ビリーを深い絶望の冥闇(めいあん)に陥れる事態は、ガイの問題に留まらなかった。

 と言うより、それこそがビリーを絶望の底の闇に陥れた最も重要な原因だったに違いない。

 貧しい女性を養女にし、その子供の病気の世話も焼いていたビリーが、子供の様子を見るために訪ねたとき、既にその子供は病死していたのである。

 幼い命を救えず、無力感に浸るビリーの苦渋な表情が映し出された後、ビリーは明らかに、もうそこにしかない究極の選択肢に流れ込んでいく。

 米を奪い合う人々を目の当たりにしたビリーの絶望感と、その現実を伝えない記者たちとスカルノへの怒り。

ビリー
その遣り切れなさが、彼を追い込んでいったのだ。

 「スカルノよ、国民を養え!」

 ホテルの部屋から降ろした大きな垂れ幕には、そう書いてあった。

 ビリーの投身自殺は、その直後に出来した。

 ジャワの諺で、「叶わぬ夢」という意味の「月のしずく」の思いを突き詰めて、ビリーは飛び降りたのである。

 「我々は必ず勝つ。信念があるから」

 これは、ガイの下で働くクマールの言葉。

 彼は、虐殺の連鎖の中で、まもなく壊滅するPKIのメンバーだったのである。

 そのクマールと共に、9.30事件で発動された戒厳令下の危機的状況を何とか突き抜けて、脱出したガイは、ジルが待つ特別航空便の中に消えていった。



 3  自死によって炸裂した「物語のライター」の痛ましき愛国心



 本作を要約してみよう。

どこまでも、本作はビリーの映画であって、そこで挿入されたラブロマンスは、物語に付加価値を添えるためのものであり、それ以上でもそれ以下でもないだろう。

 
 遥か異国の地での、大使館付きの秘書と報道局員とのホットな睦みという、如何にも定番的なラブロマンスは、せいぜい、「暴走ドライブ」のエピソードを挿入させることで物語を散らしていくが、それもまた、フラットな三流映画のラブロマンスのカテゴリーを突き抜けることができなかった。

 
 
 ところが、ビリーの誘導によるラブロマンスが、報道局員の裏切りによって破綻したとき、それは同時に、物語を支配したビリーの理想主義の破綻を決定付ける事態を意味したのである。

 ピーター・ウィアー監督(ウィキ)
ビリーの悲劇は、ラブロマンスの一過的な破綻の範疇に収斂される何かでしかなかったが、何よりそれは、物語がビリーの支配域から逸脱した瞬間でもあったのだ。

 この文脈で見る限り、本作で展開されたラブロマンスが、ビリーとの濃密な関係なしに存在しなかったことを検証するものだったと言える。

 
ガイに始まって、ガイに終わる物語の本質は、ビリーという「物語のライター」との関連なしに存在し得なかったことを意味するからだ。

 結局、本作は、ビリーの理想主義の幻想が独り歩きした挙句、ビリーが嘆いたこの国の悲惨な現実に、彼の理念系が無惨に弾かれて、その痛ましき愛国心が自死によって炸裂するという終焉を確認することで、一切が説明し得る映画であったということである。

(2010年10月)

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