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    1 か月前

2010年1月19日火曜日

クレイマー、クレイマー('79)         ロバート・ ベントン


<男女の役割分担が崩壊することで開かれた、新しい文化の様態>



1  「Kramer vs. Kramer」という原題の意味するもの ①



この映画から、私が感じ取った率直な感懐を書いていく。

それは、我が子の親権を巡って、人事訴訟を起こすに至った元夫婦が、相互の弁護士による攻撃的でハードな応酬によって出来した局面にインボルブされながらも、「息子の幸福にとって、どちらの親が養育することが相応しいのか」という、極めて現代的で根源的な問題に対して、一貫して真摯に向き合うことの大切さであり、想像を絶したであろう、「法廷闘争」下におけるリアルな状況の中で、件の元夫婦が人間的にも社会的にも、深く学習するに至った心理プロセスを丁寧に描き切ったことである。

事故の際に救急車を追い駆けて、その被害者から賠償請求訴訟を引き受ける弁護士(アンビュランス・チェイサー)の存在が揶揄されるほど、訴訟大国アメリカの、「とことん決着をつけざるを得ない文化」の過剰な臭気がその背景に垣間見られるが、何しろ、その民事一審訴訟件数は、欧州の6、7倍と言われ、弁護士数に至っては、日本の20倍との数字が独り歩きするくらいである。

本作の場合、家出した元妻が原告となって、7歳の息子の親権を争う物語だが、常識的に考えた場合、事情がどうであるにせよ、家出された元夫に勝ち目がないケースであるにも拘らず、既に我が子の養育で解雇されたばかりの主人公のテッドは、「息子を自分で養育したい」という元妻の要求を蹴って、人事訴訟での決着に打って出たことから「法廷闘争」が開かれていった。

「どんなことをしても、相手を叩き潰すことだ」

これは、勝ち目がないと括った彼の弁護士が、当人に言い聞かせた言葉。

まさに、かつての夫婦は、我が子の親権を巡って、裸形の自我を晒すに至るタフな「法廷闘争」を繰り広げたのである。

近年、日本でも本家のアメリカ輸入の、ADRという名の「裁判外紛争解決手続」(訴訟に任せない、当事者を中心にした紛争解決方法)が注目されているが、しかし本作で展開されたその「裁判内紛争解決手続」の実態は、本来、ADR等の方法によって話し合いで解決すべきプライバシーの問題を、民事法廷の場を通して、かつて共存した配偶者である相手を甚振り、不必要なまでに不快にさせる状況を作り出してしまった想像以上のシークエンスが、後半の映像のピークアウトとして記録されたのである。

ADR・神戸地裁柏原支部の調停室(ウイキ)
このような夫婦の、このような関係性の密度の希薄さであったなら、一見、このような展開になるであろう流れ方に沿うかのようにして、恐らく、ごく普通の裸形の自我を晒すに至った、件の人事訴訟での「過剰な副産物」の事例を映像から拾ってみよう。

まず、原告の妻ジョアンナに対する、夫側の被告弁護士の厳しい追及が続いた。

彼女は既に原告弁護士の質問に対して、「彼の冷たい態度は、私の感情を無視したので、私は自殺寸前でした。この恐怖と不幸が、私に家を捨てさせたのです」と答えていたのである。

明らかにジョアンナに同情的な法廷の空気を裂くように、被告弁護士は、まずテッドを庇うようにして彼女を責めていく。

「結婚生活は8年でしたな。その間、ご主人はあなたに肉体的暴力を振るいましたか?」
「いいえ」
「息子に肉体的暴力を加えたことは?」
「いいえ」
「ご主人はアルコール中毒で?」
「いいえ」
「別れた理由はよく分りますな」

この後、ジョアンナの男友達について詳細に質問した後、被告弁護士は、夫であるテッドとの人間関係の失敗の責任問題の重要性について、彼女をを追い詰めていくのだ。

「両親と女友だち以外で、最も長く付き合ったのは?」
「私の子供です」
「一年に二度しか会わんのに?クレイマー夫人、前のご主人が一番長い付き合いじゃないんですか?」
「そうです」
「何年です?」
「子供が生まれる前が一年、その後は7年」
「すると、最も重要な人物との交流に失敗した訳だ」
「失敗はしていません」
「成功と言えますかな。離婚で終わった場合に」
「失敗は主人の方です」

このジョアンナの力ない言葉に、被告弁護士は畳みかけていった。

「人生で、最も重要な人物との関係が失敗しているというのに」と弁護士。
「成功はしていません」とジョアンナ。
「結婚ではなくて、あなただ。大切な人間関係に失敗したのは、あなた自身だ。そうでしょう!」

被告弁護士は怒鳴ってみせた。

想定外の状況に置かれたジョアンナは、嗚咽するばかりだった。

「認めますか?夫人」と裁判長。
「はい」と頷くジョアンナ。

これが、初日の「法廷闘争」の内実だった。

テッドとジョアンナ
「Kramer vs. Kramer」、即ち、「クレイマー夫妻の対決」という原題の意味するものが、映像後半の一連のシークエンスの中でリアルに展開されたのである。



2  「Kramer vs. Kramer」という原題の意味するもの ②



数日後の法廷。

被告弁護士の質問に答えるテッドの主張には、相当の合理性と説得力があった。

恐らく、本作の中で屈指とも言える極めつけのテッドの主張は、以下の通り。

「僕が疑問に思ったことは、女であるが故に、より良い親になり得る法則があるだろうか、また良い親になるためには、ただ相手のことを黙って聞く忍耐があればいいのか、或いは、全く相手を無視するのがいいのか分らない。それとも、妻が言う愛なのか、それがどこに書いてあるのか、男でも女より深い愛が持てるのかも知れないのに。ビリーには完璧とは言えないが、僕が作った家庭がある・・・朝起きれば、一緒に食事してから学校へ行き、夜また一緒に食事をして本を読んでいる。お互い愛し、生活を築く。それが壊れたら、二度とは出来ない。ジョアンナ、止めてくれ。ビリーのために」

このテッドの主張に、ジョアンナは真摯に耳を傾けていた。


この二人は、事態に対して真摯な態度で向かおうとしているのである。

それでもこの二人が、このような事態を作り出してしまったのは、必ずしも、テッドのワーカホリックに起因するものではないことを示唆しているのかも知れない。

思うに、「ごく普通の程度の男女関係」として、或いは、「共存する者たちの拠って立つ適正な人間関係」として、この二人は既に継続力を失ってしまったか、それとも初めから、相性の見合った適正関係として立ち上げられていなかったのだろうか。

その文脈を映し出す映像のリアリティが、本作を貫流する極めて現代的な主題についての真摯な物語を根柢から支えていた。

ともあれ、その日は、原告弁護士によるテッドに対する厳しい詰問が待っていた。

ワーカホリックを続けていた会社を解雇されたテッドは、給料がダウンした会社に再就職したのは、何より裁判に勝つためだった。

原告弁護士にその辺りの事情を勘繰られた挙句、解雇されたことを本人に認知させようとした。

順調だった前の会社を、ビリーの看病のために大事な仕事に支障を来たしたことを、原告弁護士は問い質したのだ。

「契約の締め切りに遅れ、会社に大きな損害を与えた件については?」
「その日は子供の発熱で帰宅し、締切りに遅れたのは事実ですが・・・子供が40度の高熱で、たった一人で苦しんでいるのを放っておけますか!」

テッドはここで感情を露わにし、激怒した。

「あなたに、父親としての適性は?」

原告弁護士は、なお畳み掛けていく。

「あります」とテッド。
「子供が失明しかけた原因は?」

この想定外の詰問に、テッドは狼狽し、答えられなかった。

これは、息子のビリーが、公園のジャングルジムで十針を縫う怪我をした一件を指している。

明らかに保護すべき父親の責任は免れなかったが、しかし結果的に、子供の普通の遊戯での初歩的なミスが大事故を惹起した不幸と考えられなくもなかった。

寧ろ、その後の、テッドの取った迅速な行動こそが、「あるべき父親像」を体現したとも言えるのだ。

そのとき、彼は息子を抱いて、往来の激しいニューヨークの街の中枢を走り抜いて行ったのである。

「まさか怪我のことを持ち出すとはね。ごめんなさい。考えもしなかったわ。本当よ」

この法廷が閉じたとき、興奮冷めやらぬテッドを裁判所ののエントランスで待っていたジョアンナは、必死に弁明した。

既に彼女は、この「法廷闘争」を通じて、将来性の見込まれた企業を解雇されるに至るまで、元夫のテッドがビリーの養育に対して、深い愛情を持って懸命に専心している現実を目の当たりにしたのである。

しかし、そんなジョアンナの弁明に全く反応しないで、睨みつけるようにして、テッドはエレベーターに乗り込んだ。



3  「Kramer vs. Kramer」の予定不調和の軟着点



「子供は原告が引き取るものとする。被告は養育費として、月400ドルを支払う。父親の面会は、両者の話し合いの上、隔週末の一夜に決め、子供の休暇は半分は充てる」

裁判前にテッドの被告弁護士が言ったように、結局、親権を巡る彼の人事訴訟は敗訴になった。

しかし諦め切れないテッドは、上告を決意する旨を弁護士に告げた。

しかし勝ち目がないと言う弁護士は、もし上告するならビリーを証人台に立たせるという条件を提示され、さすがのテッドも拒絶せざるを得なかった。


上告を断念したテッドは、ビリーに対して、「ママと生活するようになった」旨を話すが、そのビリーから、「誰が夜、本で読んでくれるの?」と聞かれて、「ママさ。でも、きっと会いに行く」という弱々しい反応しかできなかった。


このテッドの言葉に、ビリーは泣き出してしまった。

「嫌なら、帰って来ていい?」

このビリーの言葉に、今度は父親のテッドが胸を詰まらせてしまったのである。


父子にとっての、最後の朝食。


ジョアンナが家を出て行った翌朝のしくじりが嘘のように、今では普通の主婦の普通の食卓を整える能力、所謂、「ミールソリューション」(食卓問題の解決)をクリアしたテッドは、この朝もまた、フレンチ・トーストを手慣れた手つきで、父子が協力して作っていた。

いよいよ別離の時間が近づいて、ビリーはまた涙を零した。

ブザーが鳴った。

「いいか?」とテッド。

頷くビリー。

しかしジョアンナは訪問して来たが、部屋に訪ねて来なかった。

「ロビーにいるわ、一人で来てくれない?」とジョアンナ。

ロビーに現れたテッドに、彼女は考え抜いた末の言葉を結んだ。

「今朝起きて、ビリーと一緒に暮らすことばかり考えてたの。ここにいたこともよ。あの子の部屋の絵は、私が描いたのよ・・・まるでここにいるような錯覚を起こしたわ。ビリーを連れに来たけれど、あの子の家はここよ・・・あの子は連れて行かない」

ロビーで嗚咽しながら、彼女は静かに語ったのである。

「上に行っていい?話したいの」

ビリーに直接、自らの思いを伝えたいという彼女に、テッドは凛として言い切った。

「君一人で行け。僕はここにいる」

テッドの思いを受け止めて、エレベーターに乗り込んだジョアンナは、涙を拭って、テッドに小さな確認を求めた。

「可笑しい?」
「素敵だ」

このテッドの一言が、本作のラストカットとなって、映像は静かに閉じていった。



4  困難な心理的文脈の振れ方を、ほぼ完璧に描き切った映像構築力  まとめとして①



この映画の素晴らしいところは、原題が示す民事法廷での苛烈な主張の応酬の中で、時には、相互の弁護士の戦略的な揺さぶり、攻撃的手法に意に反して呑み込まれながらも、それぞれ充分なほど誠実に、且つ、真摯に自分の思いや主張を語ることで、息子に対する切実なる愛情を吐露しただけではなく、その表現の中で、彼らの裸形の自我が露わになっていくプロセスが、丁寧に描き切れている点にあったと言えるだろう。

逆に言えば、この人事訴訟ににおける原告と被告は、かつて夫婦であった時代に、このような率直で真摯な会話を結んで来なかったという寒々しい現実を検証してしまったのである。

それは、夫婦が離縁する原因がどこに因っていたかについて端的に説明するものであったに違いないが、何より、妻の封印された感情世界を殆ど把握して来なかった、夫の家庭形成力の不在こそが逆照射されてしまったのだ。

前述したように、そこで逆照射された直接的な原因が、夫のワーカホリックに起因するとしても、夫にそのような生活を延長させ続けた夫婦の感情関係の乖離の現実は、お互いの性格や感情行動傾向等の、その致命的な落差感に淵源するという把握も充分に可能なのである。

本作は、その辺りの微妙な曲折的な感情が、鮮やかに描き切れていたと高く評価できるだろう。

思うに、「我が子の幸福」のイメージの家族形態を最優先する二人の、変わらぬ愛情の行方の軟着点が、「元の鞘に戻る」という安直な予定調和のラインでまとめ上げなかったところに、本作が提起した問題の根源性と、深い人間学的考察によるシビアなリアリティが保証されていたのである。

繰り返し観ても、原題の「Kramer vs. Kramer」の人事訴訟のステージとなった、民事法廷での一連のシークエンスは圧巻だった。

この法廷描写が、得てしてフラットな離婚劇に流されやすい、この類の物語の重量感を根柢的に支えていたと言っていい。

中でも、元夫婦の主張に関わる描写は見事という他はなかった。

法廷の序盤の辺りでは、自己防衛的な構えを崩さなかった彼らが、いつしか、自分の弁護を引き受ける双方の弁護士の戦略的攻撃性から解放されていき、主張の合理的根拠を求める詰問に窮して、時にはサポートする者のように、元夫がアウトリーチした元妻の視線の奥にある感情が少しずつ溶け出していくとき、二人は単に、親権を争う者の狭隘な防衛的スタンスを捨てていったのである。

二人が主張する根拠となった思いを支える心理的文脈が一致し、それを認知し合えたからこそ、しばしば攻撃的な振舞いを露呈した彼らであったにしても、最終的に二人は、それ以外にない軟着点に逢着し得たのである。

我が子の幸福にとって、最善の選択肢は何か。

この問題意識こそ、彼らが自分のエゴを、ギリギリに抑制し得る言動を身体化するに至った一致点だった。

人事訴訟が元夫側の敗訴となったとき、グルーミーな気分に覆われていた男の心を溶かしたものと、一方で勝訴となった女のエゴを溶かした感情が、矛盾することなく融合できたこと。

この心理的文脈の振れ方が、決定的に重要だったのだ。

主張の合理的根拠を求められた二人の内側に、それを自己防衛的に排除しない、少しばかりの誠実さが生き残されていたが故に、彼らは内省的に事態の深刻さを受容し、自分の矛盾とエゴに気付かされ、最善の選択肢に立ち返ることが可能だったのである。

とりわけ、「母となり、それを固定化すること」のみに流れていた女の、その内省的な時間の重量感は決定的だった。

男の真情に触れることで、女は初めて学習し得たのだ。

それは、「愛していない男」から我が子を奪回するという、ドロドロのエゴイズムを克服するに足る価値ある何かだったのである。

その辺りの難しい心理的文脈の振れ方を、ほぼ完璧に描き切った映像構築力によって、本作の作り手が、同時に優秀なシナリオライターでもあることを検証したと言えるだろう。


一個の夫婦の離婚と親権に関わる主体について、これほど真摯に向き合った映像は、かつて存在しなかったのではないか。

そう思える一篇だった。



5  男女の役割分担が崩壊することで開かれた、新しい文化の様態  まとめとして②



本作の中枢の主題について、必要な限り言及したい。

それは、我が子の親権を巡って争われた裁判の背景となっている、アメリカの家族文化の有りようと、そこに関わる元夫婦の意識の変容の様態である。

アメリカ文化に風穴を穿つほどの衝撃、それは言うまでもなく、ベトナム戦争であった。

ベトナム戦争によって変容したアメリカの文化は、堅固な秩序によって家族を守り、それを次世代に繋いでいくことが常識であった、この国の「あるべき男性像」のイメージ崩壊をもたらしたと言える。

俺たちに明日はない」より
ドラッグや暴力、性文化の氾濫に象徴される反体制的な青年層による無軌道な「若者文化」は、この国の「古き良きアメリカ」を自讃し、それをなお継続することを望む良識的な人々との間に、「世代間断絶」という概念に収斂されないほどの質的差異を持った亀裂を生み出していくが、そんな文化のインパクトの中から、既成の予定調和的なハリウッド文化のカテゴリーを確信的に逸脱する、「俺たちに明日はない」(1967年製作)を嚆矢(こうし)とするアメリカン・ニューシネマの時代が台頭したのは必然的だった。

「あるべき男性像」のイメージ崩壊を人々の視界に鏤刻(るこく)したアメリカン・ニューシネマの時代がやがて終焉し、この国の映像文化には、「家族」を主題にした作品群が目立つようになっていった。

元来、厄介な時代状況の突沸によって、それが延長されることで負性的事態が飽和点に達していくと、そのリバウンドの減り張りは非常に分りやすく、この国には内向していく傾向があるように見えるが、それは或いは、この国の極端な文化の振れ方を身体化させていく歴史的な所産のマインドかも知れない。

1979年に、この国の映像文化に登場した、「クレーマー、クレーマー」の表現世界の画期性は、単に「女性の自立」を中枢の主題にしたばかりか、「あるべき男性像」のイメージ崩壊を、更に一歩進めた問題提起になっていたのである。


そこで描かれた家族は、明らかに、家族を守るために命を賭けて強盗犯と戦う父親を描いた、ウィリアム・ワイラーの「必死の逃亡者」(1955年製作)のフレドリック・マーチに代表される、「古き良きアメリカ」の家族の復元ではなかったのだ。

普通の人々」より
因みに、「普通の人々」(1980年製作 ロバート・レッドフオード監督)では、家族の問題はより内向化し、中流家庭の崩壊の危機を描くことで、家族成員の自我の拠って立つ安寧の基盤が大きく揺らぐ現実をリアルに抉り出してしまっていた。

「パンと心の共同体」である近代家族が、「パン」の問題を解決してしまったら、そこでは情緒的関係性の濃度のみが基幹テーマになっていかざるを得ないだろう。

「普通の人々」という秀逸な作品では、長男の事故死によって、その肝心な情緒的関係性の濃度が稀薄になった家族が、結局、最も自我の崩れが甚大であった母親が家を出ていくという予定不調和の映像を開いてしまったのである。

更に、ケヴィン・スペイシーが機能不全的な家族の父親を演じて見せた、「アメリカン・ビューティー」(1999年製作 サム・メンデス監督)になると、崩壊した家族の爛れの様相が容赦なく抉り出されてしまっていた。

ロバート・ベントン監督
以上のような劇的な変容を炙り出す家族映画の決定的な起点となった作品が、「クレーマー、クレーマー」であったという定説は揺らがないようである。

この国において、男女関係が決定的に変容したと言われるほど、本作の影響力は甚大だった。

本作では、男性が社会に出て働き、その収入で家族が生活するという常識が破綻していくところから、物語が開かれていったという導入の「初頭効果」(注)は、恐らく映画史に残るインパクトであっただろう。


(注)「最初の印象が人の行動に影響を与える」という意味の心理学の概念で、その反意語は「新近効果」。


妻であり、母であるジョアンナは、自らの意志で家族を捨てたのである。

ジョアンナの「逸脱的な行為」のモチーフが、「素敵なことを見つけたい」という内実だったことを思うとき、常識崩壊の歴史を目の当たりにしてきたアメリカ国民の、その受容能力をも超えるインパクトを包含した一連のシークエンスであったと言えるだろう。

以下、7歳の息子、ビリーに送ったジョアンナの手紙の全文である。

「最愛のビリーへ ママは家を出ました。たまには、パパが家を出て、ママが子供を育てます。ときには、ママが家を出て、パパが育てることがあります。ママは素敵なことを見つけに家を出ました。誰もが望むことです。今のママには、したいことが幾つかあるから家を出ました。ママはいつまでも、あなたを愛しています。一緒に暮らせなくても、心のママです。これからママは、一人で生きていきます」

「ママは素敵なことを見つけに家を出ました。誰もが望むことです。今のママには、したいことが幾つかあるから家を出ました」というジョアンナの行動モチーフには、やはり当時としては相当の覚悟と決意が求められていたのである。

映像は、その辺りのジョアンナの不安心理を的確に表現していたことを想起するとき、まさに時代の画期となるムーブメントが弱々しく立ち上げられていくときの、確かだが一つの小さな鼓動が、そこに収納される息遣いを随伴して表現されていたという触感を刻んでいたのだ。

母からの手紙を、殆どその母親の家事や養育を代行していた父が読み、それをベッドに横になってビリーが聞いていたという構図は、もう充分に「逆転家族」の「非日常の日常的風景」を露わにしているである。

因みに、途中から母からの手紙の文脈の意味を感じ取って、悄然としている7歳の息子がそこに横たわっていた。

「後でまた読もう」

父が慰みにもならない言葉を添えても、ビリーは、「もういい・・・」としか反応できなかったのである。

「家事労働と子育ては女性の仕事」という既成観念による枠組みが破綻し、男女の役割分担が崩壊することで開かれた新しい文化の様態は、世紀が明ける前から加速的に定着していって、もう今では、「クレイマー、クレイマー」で提示された問題の鮮烈さは色褪せてきたが、恐らく、一つの時代が現実に有効にマッチングしなくなって、偏(ひとえ)に劣化していく文化の退行は、いつの時代でも、このような劇薬の臭気を嗅ぐという、意に沿わない人々の嘆息が呆れるほど捨てられていたに違いない。

思えば、アメリカン・ニューシネマの原点とも言える、「俺たちに明日はない」という画期をなす作品のシナリオライターが、20年後に作った家族映画は、それまでの「古き良きハリウッド文化」のカテゴリーを逸脱する映像だったという事実は、充分なアイロニーを超える何ものかであったと言えようか。


(2010年1月)

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