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2008年12月16日火曜日

秀子の車掌さん('41)      成瀬巳喜男


<ラストのスパイスが痛い、長閑なる「プロレタリア・ムービー」>



序   滑稽さ半分、ほろ苦さ半分



昭和初期に、エンジンの部分が運転席より前のフロント部に張り出した大型乗用自動車があった。

その名を、ボンネットバスと言う。

このバスは戦後も使用されていたが、今では観光用の路線バスとして、日本の各地(例えば八王子市、金沢市、呉市、福山市、彦根市など)を走っているが、全国でも二十数台というレア物の存在価値を示しているに過ぎない。

ところで本作は、このボンネットバスが物理的な主役を演じていて、そこに成瀬特有の「ほのぼのとした、ユーモアたっぷりの人情劇にも潜む人生の厳しさ」がストーリーの骨子として絡んでいく。

観た後の感懐も複雑で、言ってみれば、「滑稽さ半分、ほろ苦さ半分」という味わいだろうか。

それ故にこそと言うべきか、いつまでも心に残る小品として、地味ながら私の成瀬嗜癖症の一角を占める佳作となっている。


―― 以下、この「滑稽さ半分、ほろ苦さ半分」という映画の、その短いストーリーを簡潔に追っていこう。



1  バスガールの名所案内―― 事業所内改革



背景は、昭和十六年頃の甲州。

ボンネットバス(ウイキ)
そこに、一台の乗り合いバスが走っている。

ドライバーの園田は車掌のおこまと視線を合わせた後、バスの客席を振り返った。

誰も乗っていないのである。

「ねえ、この調子じゃ、今月はまた月給が危ないわね」とおこま。
「うーん、まずダメだね」と園田。
「困ったわね・・・開発の車が来たわよ」

おこまはそう言った後、後方から来るもう一台のボンネットバスを振り返った。

追い抜いて行ったそのバスには、客が満席だった。

「開発の車」とは、ライバル会社の「開発バス」のことである。

そして全く客のいないこのバスの会社の名は、「甲北乗り合いバス」。

園田とおこま
それこそ、見るからにおんぼろバスだった。

「調子が良さそうだな」と園田。
「乗り心地も良さそうね」とおこま。
「おこまちゃん、後ろで昼寝でもしてなよ。当分お客はありそうもないぜ」
「うん」

そう答えた途端に、停留所ではない道端でバスを待っている農夫がいた。

客を拾ったまではいいが、農夫には幾つもの荷物があって、それを車掌のおこまがバスに運び入れていく。

次の停留所で乗り込んできた客は、沢山の子連れのおかみさん。

車内は混雑したが、乗車賃は大人二人分の二十銭のみ。

「開発のバスの方が、綺麗で速くていいんだけど、このバスはいつでも空いているからね」
「そうだよ。荷物があるときは、これに限るよ」

これは、「甲北乗り合いバス」の客となった二人の大人の会話。

彼らは厄介な荷物の運搬用として、当該バスを利用しているのである。

途中、バスを降りたおこまが自宅に寄って、用事を済ませて再び走り出していく。

長閑な風景が車道の周囲に広がっていて、とても太平洋戦争直前のこの国の風景とは思えなかった。


おこまは下宿先の雑貨店のラジオで、バスガールの名所案内の放送を聴いて、閃くものがあった。

翌日、彼女は園田に相談して、自社のバスにも名所旧跡のガイドを取り入れることを提案したのである。

そのアイデアに躊躇なく賛同した園田は、早速、社長の元にに相談に赴いた。

「社長、ちょっとお願いの件があります」
「何だ、園田。君はこの会社に対して、何か要求したいことでもあるのか?」
「要求というほどのことじゃないんですけど、ちょっと要求したいことがあるんです」
「要求とは何だよ。早く言え、早く。今日はちょっと忙しいんだよ」

こんな滑稽な遣り取りの後、園田は名所案内の必要性を訴えたが、社長は相手にしなかった。

園田が、「開発バスの先手を打つ」という話を加えることで、社長は一転して承諾したのである。

何とも変わり身の早い社長の人となりが、ユーモアたっぷりに描き出されていて、観る方も何だか愉しい気分になってくる。


園田はおこまと相談して、名所案内の文面を、市内の旅館に泊まっている小説家に頼むことにした。

井川
小説家の名は井川。

その井川が一生懸命に書いてくれた文章を聞くために、二人は旅館を訪ねたのである。

井川は流暢な調子で、自分が書いた文面を読んでいく。

「皆様、この道路と並行に右手に見えています小さな道は、旧甲州街道であります・・・」

井川はさすがに小説家らしい文面を読み上げて、それをおこまに細々(こまごま)と伝授する。口調に注意することや、詠嘆的なリズムをつけること、更に、指先で名所の場所を示すジェスチャーの必要などを説明し、おこまに自作の文面を読み上げさせた。10枚分の原稿料は無料であることを確認した二人は安堵したが、原稿を覚える立場のおこまにとっては、難しい課題が一つ加わったのである。

「甲北乗り合いバス」で、おこまの名所案内のパフォーマンスが始まった。

車内には小説家の井川も乗っていて、彼の指導によるおこまの案内の練習が続けられていく。

順調に名所案内が進められていたとき、突然、道路に飛び出して来た子供に、園田は急ブレーキを踏んだ。

おこまと井川は大きく揺さぶられ、体を倒された。

それでも傾いたバスを元に戻すため三人とも下車し、バスを押し戻そうとしたが、逆にバスは沿道から外れて、畑の方に滑り落ちてしまったのだ。

そのとき、おこまも一緒にバスから落ちて、不運にも怪我をしてしまったのである。

早速、園田はその事故の様子を、電話で会社に報告した。

電話に出た社長は、事故でバスが畑に落ちたと聞いて、何やら嬉しそうな様子なのだ。あのおんぼろバスが事故で故障したとなれば、保険が降りて、セコハンの車に買い替えができると考えたからだ。

しかし、走行中の事故ではなく、乗客が降りて一端止まってからの事故であり、しかもバスは故障もせず、軽く傷がついた程度であると知った社長は、それでは保険が降りないからと、園田にエンジンをぶち壊せと命じる始末なのだ。

そればかりは出来ないと断った園田は、乗車していた客や、周りの住民の目撃者がいるから無理だなどという理由を付言して、ゴリ押し社長に頻りに説明した。

しかし、一向に社長は聞く耳を持たないのだ。

偽証を求められた園田は、思いもかけない事態の展開に悩んでしまった。

「ねえ、井川さん。偽証罪っていうのは、よほど悪い罪でしょうか?」
「うん、それはよほど悪い罪だな。僕も法律的には良く知らんが、道徳的に言っても良くない。偽証するってことは、人を裏切ることだ。いや、人を裏切るというよりは、自分を欺くことなんだ。良くないね」
「弱ったなぁ」と園田。
「困ったわね」とおこま。
「君はどうするつもりなんだ?」

園田は立止まり、井戸の水を飲んで暫く考えた後、きっぱりと言い切った。

「私は覚悟しました。嘘を言わなきゃならないなら、あんな会社辞めちゃいます」
「あたしだって、そんな会社辞めちゃいます。他にいくらだって働くとこあるわ」
「そうだとも。ねえ、井川さん。急にこう、胸が晴れ晴れとしてきましたよ」

園田もおこまのフォローがあって、意を強くした。

「そりゃ、正直っていうのは、一番気持ちのいいことだよ」と井川。
「ねえ、園田さん、井川さんに辞職願いの良いものを考えてもらいましょうよ」とおこま。
「そうだ。胸のスッとするような文句を、一つ書いて下さい」と園田。

二人は完全に、覚悟を括った者のような振舞いを貫いている。

「なあ、君。そう慌てなくてもいいだろう。まだ辞めろって言うかどうか分らないのだから」
「きっと、言いますよ。だからこっちから先手を打って・・・」と園田。
「まあ、待ちなさい。僕がその社長っていうのに会ってみるから・・・」
「でも、それじゃ」と園田。
「僕にもいくらか責任があるんだから」と井川。

聡明な井川のアドバイスによって、二人の思いが固まったのである。


三人は会社に乗り込んで、社長と直談判に及んだ。

「ご用件は?」ととぼける社長に園田は、井川こそ名所案内の文面を書いた作家であることを紹介した。その瞬間、社長の態度が豹変したのである。

「あなた、何ですか。やはり新聞社の方にも御関係が、お、おありでよね?」
「ありますよ」と井川。
「そうでございましょうな。かねがね、先生の御高名は承っております」
「いや、先生などと言わんで下さい。いや、それよりもですね・・・」
「いやいや、先ほどのことは冗談ですよ。園田、お前あんなこと本当にしてるのか?」

突然、表情を和らげ社長は、園田の方に向って、今度は叱るように言い放った。

「はあ」と園田。
「バカだなぁ、お前。考えたって分るじゃないか、あんなこと。ハハハハ。どうぞ先生、お上がり下さい」

すっかり豹変した社長は、女の子の給仕に命じて、ラムネと氷を注文させた。

「あ、園田。ちょうどいい折だから、ウチの車を少し綺麗にしようじゃないか」
「あの車、とても汚かったですね」と井川。
「いや、恐れ入ります。あの車、毎日繁盛しているもんですから。ハハハハ」

その後、社長はおこまの怪我の状態を心配して見せた。

彼は井川の前で、社員思いのパフォーマンスを必死に演じて見せたのである。何とも滑稽な会話であった。



2  裏切られた改革



一件落着だった。

その安心感もあって、井川はまもなく東京に戻って行った。

二人は踏み切りの前で手を振って、子供のように「さよなら」と言って、井川を送ったのである。

井川を送った後の二人の表情は、紺碧の空を突き抜けるような笑顔に包まれていた。

車も綺麗に模様替えされて、乗客も増えていった。

怪我で療養中のおこまは、案内の文面をすっかり暗記していた。

照れ臭い気持ちを抑えて、おこまは登山客の前でガイドを始めていく。

その頃、社長は模様替えをしたバスの売却と、事務所の廃業を決めていた。園田が驚くほどの社長の機嫌の良さの原因は、まさにそこにあったのである。

その事実を知らない園田とおこまは、笑顔を交換し合っていた。

映像の最後は、おこまが満面の笑みで、先の登山客にガイドする井川の文面だった。

「皆様、この川は笛吹川の流れでございます・・・あの左の手の上流に当って、小高い丘が見えますのは、古歌に歌われているさしでの磯でございます・・・」


*       *       *       *



3  戦前版「労働者残酷物語」



本作は、一台のオンボロのボンネットバスを巡って惹起された、事業所の雇用主である社長と、その下で働く社員、具体的には、バスドライバーと車掌との、滑稽だが、しかしリアリティ溢れる関係のエピソードについての物語である。

従って、本作の登場人物は、基本的には三人であると言っていい。

確かに本作には、東京からやって来た小説家が重厚に絡むが、しかしその役割はどこまでも、物語の「起承転結」の「承」と「転」の部分を請け負う溶媒的役割以上のものではない。

まず、この物語の「起」の部分。

自社のバスがあまりにオンボロなので、客足をライバル会社のバスに取られて、勤務の甲斐がない車掌のおこまが、偶然聞いたラジオ放送の名所案内にヒントを得て、それを運転手の園田に相談した。

それを園田が自社の社長に掛け合って、その許可を得たというプロットである。

物語の「承」にあたる部分は、この二人の相談を受けた作家が、路線内の名所案内の文案を練って、ひと通り練習した後、路線バスの実践練習で、そのガイドを試行するというプロット。

そして、物語の「転」の部分。

これはまさに、ガイドの実践練習中に、バスが偶発的なトラブルに巻き込まれて損傷し、車掌のおこまも怪我をするという件(くだり)である。

それ以降の物語の展開は、本作の中でも際立って滑稽で、ドラマの喜劇性を観る者に堪能させるものだった。

園田とおこまの、自社の社長に対する直談判に、井川という小説家の強力な助っ人があって、さしもの、権力的な社長の態度が豹変するという展開は、殆んど一級のコメディのそれと言っていい。

その結果、オンボロバスは改善され、おこまの怪我も癒えて、井川を見送った後の二人の勤務に向う雀躍感が映像に映し出されていく。

しかし、物語の結末はそこにはなかった。

最後の「結」の部分は、バス会社の社長の「改心」を経て、すっかりバス事業所の空気が変わったと思いきや、実はその社長が、かねてよりバスの売却と事業所の廃止を着々と計画していたという、コメディの括りとは思えない残酷なる落ちに流れ込んでいくのである。

以上の概略的な展開説明で判るように、このドラマは「バス事故」を転換点にして、その前後を分ける、典型的な「起承転結」の物語である。

前者を「喜劇」にすれば、後者は「悲劇」である。

そして、その「悲劇の悲劇性」を未だ経験することなく、それは「喜劇」の延長上を駆け抜けた。バス会社の二人の従業員の底抜けの明るさを、観る者だけが知らされて括られる、戦前版「労働者残酷物語」なのである。

流れる」より
無論、「流れる」という名作の完成度の高さにとうてい及ぶべくもない小品だが、それでも充分に、成瀬の映像ワールドのエッセンスに触れる作品でもあったと言えるだろう。

皮肉にも本作を作ったとき、その予感があったかも知れないが、成瀬もまた知らなかったのだ。

この国が、泥沼の太平洋戦争に突入する、まさにその前夜にあったことを。

この小品は、何ともアイロニカルな映像だったのである。



4  未だそれを知らない者の満面の笑み



さて、本作のストーリーの基幹について、もう少し分け入ってみよう。

私は既に、本作が三者の物語であることを言及したが、それは具体的に言えばこういうことだ。

そのキーワードは、「ボンネットバス」という文明の利器のアイテムにある。このバスへの三者のスタンスと、その心情の行方について注目すると、そこに明瞭な落差感を窺うことができるのである。

まず、前者について。

「ボンネットバス」へのスタンスのこと。

これは、二人の従業員の間には殆んど差異はない。

その文明の利器を、自分のサラリーの対象として考える態度に於いて、園田とおこまの間には、「労働者」としての共有意識があった。

しかし車掌である彼女にとって、自分が勤務するバスに殆んど乗客が利用しない現実は、その若さを持て余すだけではなく、最も大切なモチーフになるだろう、仕事の甲斐性すらも得られないのである。

従って、その仕事の内実に対して彼女は充分なアイデンティティを確保できてないのだ。

またバス会社の社長にとって、この利器の存在価値は、当然ながら、ビジネスの対象でしかない。その利器が営業利益を生まないお荷物になれば、彼はそれに付加価値をつけて、第三者に高く売却しようと考えるだろう。

彼は恐らく、事故前からその計画を入念に練っていた節がある。だから今や、オンボロバスでしかないこの大型乗用自動車に特別な手を加えず、買い手がつくまで放置していたのであろう。

そして、バス事故が発生した。

起承転結の、「転」の部分のエピソードの端緒となった出来事である。

事故によって、三者のこのバスに対するスタンスと、その心情の振れ方は際立っていた。

勤務の現状に「不満」と「不安」を託(かこ)っていたおこまは、社長の違法行為の督促に象徴される態度に対して退職を辞さない覚悟にまで振れていった。

一方、ボンネットバスをサラリーの対象としてのみ考えていた園田にとっても、社長の態度は憤慨に値するものだった。「不安」の心理を甚大な「不満」が呑み込んでしまう心情を、彼は表現したのである。彼もまた、職を辞する覚悟を持ったという訳だ。

それに対して、バス会社の社長は、どこまでも悪銭を手に入れる算段しか考えることがなかった。

彼は保険金の不法入手を策略するが、この卑俗な計画は井川の存在の前で呆気なく砕かれていった。

この時点で、三者の関係は決定的に破綻含みの様相を見せていたが、しかし、社長の狡猾な豹変によって、一時的に予定調和の流れの方向に空気が形成されたのである。

表面的には、社長の打算が破綻するに至ったことで、園田やおこまの「労使交渉」は、一応彼らの願うイメージの内に導かれていったのだ。

事故から暫くして、外部からの強力な「オルグ」の役割を担った井川が、「労働運動の前線基地」を離れて行った。地元に残された二人の「プロレタリアート」は、狡猾な社長から「勝利」を勝ち取って、勤務状況は見違えるほど好転した。

ボンネットバスは改善され、乗客も少しは増加した。

そして何よりも、怪我を治癒したおこまが「労働前線」に復帰することで、名所案内のガイドという新展開が開かれたのである。

彼女は照れながら、登山客を相手に、井川の名文を流暢に表現する。

その表情には、映像の冒頭シーンでの、不満を抱くそれと、決定的に切れる明るさが零れていた。

彼女の満面の笑みの内に滲んでいたものは、何かを達成した者の満足感を漂わせていたのである。

その満足感は、明らかに傍らで、ボンネットバスを運転する園田の感情と重なり合う何かでもあった。

その「何か」とは、充足感とも言えるし、アイデンティティの達成感であるとも言えようか。

二人の感情のラインは、ここでより強化された方向で繋がったのである。

同様に、事故後にもっと大きい満足感を表現した男がいた。

バス会社の社長である。

彼は改善したバスを高値で売り付けたばかりか、その日限りで事業所を閉鎖するつもりでいたのである。

その日とは、まさにおこまのガイドデビューの日であった。

あろうことか、その記念すべき日に、社長は「打算の成就による満足感」を手に入れて、喜色満面の表情を映し出したのだ。

「労使」の双方で手に入れた満足感のいずれが、「ジョーカー」を引くことのない者のそれであったか、それは映像を観る者だけが、その時点で知ることになる。未だそれを知らない者の満面の笑みが、そこに置き去りにされたのである。

件(くだん)の「労使紛争」の結末は、戦後の高度成長期を特徴づけた、「解雇権濫用法理」(解雇には正当な事由がなければならないという考えで、戦後に定着)をベースにした終身雇用制とは無縁な、戦前の労働者が置かれた現実から見れば、しごく日常的な風景であったかも知れないが、それでも物語の、一見、予定調和的な流れ方を見事に裏切る「労働者残酷物語」の終焉に流れ込んでいったのだ。



5   ラストのスパイスが痛い、長閑なる「プロレタリア・ムービー」 



閑話休題。

―― ここに、以上の三者の心情の流れ方を、簡単に整理してみた。

以下の通りである。

「プロレタリアート」である園田とおこまに殆んど差異がないが、名所案内を発案したおこまのアクションを過大評価して、そこに園田との微妙な差異を敢えて強調した次第である。

一応、以下の表は、「事故前」、事故直後」、「事故後」という時間軸をベースに、この三者の「思いの変化」(それ以外に他意のない把握)を整理したものである。

(事故前)    (事故直後)      (事故後)

おこま:不安感・不満感→甚大な不満感 →充足による満足感

園田 : 不安感→    甚大な不満感 →   〃

社長 : 無関心→    打算とその破綻→打算の成就による満足感



結論 ―― 要するに、この映画は、「ラストのスパイスが痛い、長閑なる『プロレタリア・ムービー』」を描いた作品だったのである。


いつもそう思うのだが、成瀬は日本人が好んで止まないかのような努力信仰(?)や能動思考、更には、「思いを強くすれば報われる」というような、ある種の精神主義的なメンタリティを確信的に嫌っているような所がある。

とりわけ、根拠のない無謀な猪突猛進のスピリットや、表面的に好印象を持たせるだけの向上心で、困難な事態を突破しようとする人の心の流れ方について、極めてシニカルなスタンスを確保しているように思えるのである。

若き日の成瀬巳喜男(右)
人生はいくら努力しても報われないことがあるし、どれほど能力が秀でていても、それが好結果に繋がるとは限らないし、ましてや、現実的な根拠なくしてひたむきな思いを束ねても、それが遭遇する必然的な状況の壁に弾き返されることは勿論のこと、仮にそうでなくても、90パーセント成功裡に進んだ事態の展開が、全く予期せぬ偶発的な事象とのマッチングによって、それが脆くも崩れ去っていくという現実こそが、まさに私たちの人生の真実の姿である。

そんな風に成瀬は、いつもあるがままの人間と人生を把握し、それを淡々と、そしてしばしば残酷なまでに映像に刻んでいくのだ。

従って、この「人生論的映画評論」の中で、繰り返し強調して恐縮するが、成瀬映画のコアにあるのは、日常性の厳粛までのリアリズムであり、それを根柢において支える人生観、即ち、「人生は思うようにならない」という当たり前だが、それ以外に表現しようがない心理的文脈である。

本作もまた、その例外ではなったということだ。

だから私は成瀬が好きなのだ。

自己欺瞞や過度な偽善とは無縁な映画監督であるが故に、私は成瀬がたまらなく好きなのである。

それは殆んど、「成瀬嗜癖症」と言っていいだろう。                       

(2006年9月)

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