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2010年3月12日金曜日

めし('51)   成瀬巳喜男


<「覚悟の帰郷」という、相互の自我を相対化させた時間の決定力>



1  観念的に社会的自立を目指した女の、その心理の振幅の激しさ



「あなたは私が毎日、どういう思いで暮らしているか、お考えになった事あります?結婚って、こんなことなの?まるで女中のように、朝から晩までお洗濯とご飯ごしらえであくせくして。たまに外へ出て帰れば、嫌なことばかり」

倦怠期にある夫婦生活の変わらぬ日常性への不満から、その妻、三千代のこの言葉から物語は大きく動いていく。

物語の「起承転結」を、簡単になぞってみよう。

大阪転勤の証券マンである、夫の初之輔との夫婦生活における、「朝から晩までお洗濯とご飯ごしらえ」の日々への不満が、夫の姪の家出による一過的な共同生活を延長させていく経緯の内に、疑似的な「三角関係」の構図を先読みした心理を身体化してしまったこと。

これが、「起」である。

そこに、自らを語ることを回避するかのような夫に対する苛立ちと嫉妬を生むに足る、夫婦生活の心理的風景があった。


そして、冒頭の妻の小爆発をコントロールし得なかった夫の優柔さによって、東京の実家への、意を決した「帰郷」に繋がったのである。

これが、「承」である。

「今はただ、母の懐へ飛び込んで、私は子供のように眠りたい」

これが、妻の三千代が帰郷した際のナレーションである。

このナレーション通りに、三千代は母の懐に抱かれて安眠する描写が、その直後に記録されていたが、母もまた、娘の揺れる感情を正確に把握していた。

「眠いんだよ、女は。主人を持つと気疲れだけでもね」

本質を衝いた母の言葉である。

ここで敢えて結論的に書けば、成瀬の他の作品と比較して、本作はハッピーエンドに終わるが、大阪での夫婦の倦怠感を忌避して、東京の実家に戻って来た妻の心理の振れ方が、極めて精緻な描写を作り出した一連のシークエンスによって、本作の生命線であることを検証し得たと言えるだろう。

その妻の心理の振れ方に焦点を当てて、「転」と「結」の描写に言及するのが本稿のテーマである。

心地良い東京の実家での生活の中で、一時(いっとき)、ストレスフルな自我を浄化した三千代が、職安で偶然再会した旧友との会話こそが、紛う方なく本作を根柢から支えていた。

それほどに重要な描写だった。

職安に足を運ぶ行為を示すような、自立への思いを秘めていたはずの三千代の覚悟を、遥かに凌駕する自立への強いモチーフを抱懐する女が、そこにいたのだ。

彼女の名は、山北けい子。

この時点で、彼女は未帰還兵の夫を待つ身であるが、実質的に戦争未亡人と言っていい。

幼い息子の傍らで、彼女は三千代に、自分が置かれた厳しい状況を淡々と語っていく。

「あと二月で、失業保険が切れるのよ。その間、何とかしなきゃと思うと、この頃、夜も落ち落ち眠れないわ・・・でもいくら頑張ったって、女一人じゃ駄目ね・・・まるで眼の前、真っ暗よ。時々、どうにでもなれって、やけ起こしたくなるわ。御免なさい、あなたのような幸福な奥さんに、こんな惨めな話ばかりしてしまって・・・」

その話を耳にした直後、夫婦らしき二人のちんどん屋を横目で見て、「同質効果」(対象に同質性を感じることで、精神が安定する心理効果)による笑みを零すけい子と、笑みを零せず、立ち竦む三千代がいた。

三千代は遠い親戚に就職の斡旋を依頼するなどして、それなりに東京での生活自立への思いを継続させていた。

しかし、大阪に残した夫への手紙を投函しようとして躊躇する行為に見られるように、なお意地を張っているように見える。

その手紙の内容は、以下の通り。

「あなたの傍を離れるということが、どんなに不安に身を置くことか、やっと分ったよううです・・・」

彼女は既に、夫からの連絡を求めている気分に心を預けていたのである。

そんな悶々とした感情を抱えた彼女が、和服姿で堰堤を散策して駅に着いたとき、思いがけない光景を眼にして、驚きの表情を隠せなかった。


幼い息子を傍らに、山北けい子が新聞の立ち売りをしていたのである。

それは、衝撃的な光景だった。

真剣に社会的自立を考え、行動する女と、それを志向しながらもなお、大阪との縁を断ち切れず、中途半端な思いを抱く女との違いは決定的だった。

本作の中で、最も重要なシーンである。

観念的に社会的自立を目指して、東京の実家に戻った女の、その心理の振幅の激しさが表現されていたからだ。



2  微笑む妻と、微睡む夫



その足で帰宅した彼女は、大阪から夫が訪ねて来た事実を母から知らされ、玄関に置かれていた古びた夫の靴を視認し、当惑する表情を見せた。

その場を離れて、三千代は逃げ去るように表に出て行った。

「おい」


そう呼び止める夫の声で振り返った三千代は、予想もしない夫の明るい表情に視線を合わせるが、それに反応する視線を持てない彼女は、咄嗟に視線を落としてしまう。

その交叉の不自然さが、この夫婦関係の風景を端的に証明していた。

閑話休題

「視線を合わせない夫婦」が、改めて視線を合わせたときの葛藤と緊張に注目したのは、映画評論家の佐藤忠男である。

以下、ここに佐藤忠男の一文があるので、それを引用する。

「・・・夫婦がちょっとしたトラブルのあと久しぶりで出会い、どぎまぎして互いに視線がずれる。その視線の葛藤の精密な描写を見ていると、あ、そういえばこの夫婦は互いに相手の眼をまじまじと見合うことがほとんどなかったのだ、ということが、改めてくっきりと思い出されるのである」(「日本映画の巨匠たちⅡ」佐藤忠男 学陽書房)

「・・・この夫が、人間関係においてものごとをはっきりさせるとことが嫌いな性格なのだということがくっきりと理解できる。はっきりさせるということは緊張をつくり出すことである。彼は他人と緊張関係をつくり出すことが苦手であり、したがって嫌いである。妻に対してさえもそうである」(同上)

夫婦の葛藤と緊張の原因が、「緊張関係をつくり出すことが苦手」な夫の優柔さにあることを指摘しているのである。

佐藤忠男
佐藤忠男は、この夫のモデルが、結婚に失敗した成瀬巳喜男自身の反省に基づいているのではないかと書いていたが、興味深い見方だ。

殆ど予約されたかのような、夫婦の物語を続けていこう。

交叉の不自然を露呈した夫婦の、街路での会話。

「いつ、いらしたの?」と三千代。
「今朝」と初之輔。
「真っ直ぐ、ここへ?」
「急に出張でね。あっちこっち行ってたんだ」
「出張?」
「うん」
「・・・そう」

そこに小さく漏れた笑みは、明らかに理由をこじつけて上京した、夫の心理を見透かした者の反応だった。

「どっか、行くつもりだったの?」と初之輔。
「いいえ」と三千代。
「ああ、喉渇いた」
「ビール、召し上がります?」
「お金、持って来ないよ」
「少しなら、私、持ってるわ」

妻は、天爛漫に振舞う夫の顔を小さく見上げた。


食堂に入って、ビールを飲む二人。

「苦い・・・」と三千代。
「美味い!」と初之輔。

好きなビールを夫に飲ませてやりたいという配慮の中に、上京後にストックされた妻の空洞感を埋めるに足る心が溶かされていた。

「あなた、私がすぐ帰ると思いになって?」と三千代。
「ああ・・・だから手紙書かなかった。僕の仕事は、明日済むんだ。一緒に帰る?」

この夫の言葉に小さな笑みを返した妻は、ゆっくり間をとって、自分の思いの一端を正直に告げた。

「私、あなたに手紙を書いたのよ。だけど出さなかった」
「どうして?」
「ふふ・・・」

妻は小さい笑みを返した後、後ろに振り返り、定食屋の外を見上げる仕草を見せた。

次の言葉を放つ前の、絶妙な「間」を取るためである。

再び、夫の方に向かって、妻は本音を吐いた。

「ねえ、私東京へ来て、2500円も使っちゃった」

夫はそれに反応せず、近々、自分が出世する見込みのある内輪話を妻に切り出した。

「君に相談するって、返事しておいた」
「いいのに。あなたがお決めになって」
「そりゃね、僕だって、君が苦労しているのは分ってんだけど・・・」
「いいのよ」
「もう、そろそろ帰ろうか」

最後に、三千代の大きな笑いが、店の小さなスポットの中で弾けていた。

倦怠期にある夫婦が、このとき抱えていた危機を、決定的に克服した瞬間だった。

「あなた、手紙捨てちゃったの。何て書いてあったか知ってらっしゃる?」
「う~ん、眠いなあ」

これは、転勤地の大阪に戻る列車内での小さな会話。

微笑む妻と、微睡(まどろ)む夫。

三千代は、傍らで眠る夫を横目で見て、上京中に書いた夫への手紙を、列車の外に破り捨てたのである。

最後のナレーション。

ラストカットである。

「私の傍に夫がいる。眼を瞑っている。平凡なその横顔。生活の川に泳ぎに疲れ、漂って、しかもなお闘って、泳ぎ続けている一人の男。その男の傍に寄り添って、その男と一緒に幸福を求めながら生きていくことにした。そのことは、私の本当の幸福なのかも知れない。女の幸福とは、そんなものではないのだろうか」



3  「覚悟の帰郷」という、相互の自我を相対化させた時間の重要性



ノスタルジアを充足させる多くの好意的な反応と切れて、「めし」は、正直に言えば、私には些か不満の残る作品だった。

奇麗に作られ過ぎていたからである。

恐らく、人間の残酷な日常性をリアルに写し撮って来た、成瀬の映像世界に馴染み過ぎてしまったのだろう。

放浪記」より
例えば、「あらくれ」(1957年製作)、「放浪記」(1962年製作)に代表されるように、女が社会的に自立することが遥かに困難な時代にあって、女性起業家を応援するリベラル・フェミニストから好感を得られるような、自立心の強い女を描き続けて来た成瀬映像は、一貫してリアリズムの筆致を失っていなかったが、それでも、そんな女たちの能動的な生きざまは、殆ど希少価値以外の何ものでもなかったに違いない。

だから、女が自立することが困難な時代を背景にした物語の主人公の、一頭地を抜くかのような生き方の、その抜きん出たリアリズムは、寧ろ、本作のような作品の中にこそ生かされていると言えるだろう。

その意味で、本作のリアリズムは、成瀬的映像世界を裏切っていないのだ。

私の場合、ただ単に馴染みにくかっただけである。

本稿を書くに当って、繰り返し本作を鑑賞したが、主人公の三千代の振舞いと、それを特定的に切り取って補完した心理描写は精緻を極めていて、余分なものを削り取った分、何気ない動作に表象される的確な内面描写は、成瀬の技量の確かさを改めて検証するものであった。

結局、三千代が夫との共存関係に復元するのは、夫に対する愛情が継続されている「内なる時間」を確認し、その中枢の感情を夫の中にも見出すことができたからである。


既に自分の内側で形成された夫に対する人格像が、自分の理想像と上手に折り合いが付けられない程に乖離してしまったのは、多くの夫婦のケースがそうであるような、倦怠期を迎えた夫婦の日常的な様態という解釈で把握できるものだ。

彼女はそれでもなお、本稿の冒頭で紹介した不満を夫に吐き出したのは、夫の姪の唐突な闖入(ちんにゅう)に端を発しているとは言え、大阪の転勤生活の不具合感に起因する、ある種の孤立感を深めていたからである。

その結果、彼女は実家のある東京に戻った。

そこで、彼女なりに本気で就職を考えた。

その感情に嘘はないが、甘かったのだ。

その甘さを認知させるに充分な体験をしたことで、社会的自立を求める彼女の中の心象世界が大きく揺らいだのである。

自分の甘さに気付くということは、自己を相対化できたということだ。

戦争未亡人の厳しい生活自立の様態を目の当たりにすることで、彼女は大阪での転勤生活の閉塞感と、それを否定して上京したはずの、自分の感情傾向に深々と張り付く類の観念性を相対化し切れたのである。

既に彼女の内側で、夫との再会以前に自己を相対化できていたという心理文脈は、蓋(けだ)し重要だ。

それ以外に、夫婦の復元は有り得なかったからである。

夫もまた、妻を求める思いを一貫させていた。

多くの夫婦のケースがそうであるように、夫婦の愛情の継続力は、中だるみの状態感が意識の表層に浮き上がって来ただけで、求め合う関係の求心力は全く途絶えていなかったのである。

妻を孤立させた原因子である、自らの不徳を反省する時間を作り出すことで、彼の内側においても、夫婦の復元に必要な限りの自己相対化が可能だったということ。

本質的には、それ以外ではないだろう。

自己を相対化できた夫婦が、かつてそうであった関係の辺りにまで復元するのは必至である。

実家にて
即ち、妻の「覚悟の帰郷」が包含する本質的内実は、夫婦がそれぞれの人格主体の有りようを、未来の共存の潤滑油を必要とする分量を保証し得るための、相互の自我を相対化させる時間だったということ以外ではないだろう。

成瀬は、このような難しい心理の振れ方を精緻に描き出した。

本作が、稀有な傑作と評価される所以だろう。



4  「文学」に擦り寄ってしまったナレーション



本作に対する私の不満を、2点に絞って敢えて書く。

その1

ナレーションの問題である。

私が思うに、映像表現でナレーションが必要とされるのは、それなしに説明し得ない難しい描写が要求されるときであるだろう。

本作では、ファーストシーンとラストシーン等において、倦怠期を迎えた夫婦生活の危機の際と、それを修復させて、目出度く大団円をを迎えた折に、妻である三千代の述懐という形で挿入されていた。

ラストシーンのナレーションについては、本稿で拾っていた内容の通りだが、「女の幸福とは、そんなものではないのだろうか」という件(くだり)を言いたいための述懐であることが理解できるものの、それを映像表現で補填できなかったとは思えないのである。

或いは、それを挿入せずとも、それ以外に流れていかなかった夫婦の軟着点を、三千代の笑みの表現の中で、「言わず語らず」の内に了解し得ることも可能だったのではないか。

ナレーションの挿入によって、本作は「文学」に擦り寄ってしまったと思えるのだ。

本作が、「観客主体」という大衆文化を作り出した、50年代の映画全盛期の制約がある事情を斟酌し得たにしても、そのことによる説明的な物語の瑕疵は、「観客主体」の想像力を削り取る負の効果しか生まないだろう。

そう思えてならないのだ。

その2

騒音とも聞こえかねない、音楽の使用の問題である。

それが、三千代の感情の起伏を表現する役割を持っていたにせよ、些か過剰過ぎなかったか。

早坂文雄
主に、「醉いどれ天使」(1948年製作)以降の黒澤明の音楽を担当した、早坂文雄の起用の有無に問題があるか否かについては批評しかねるが、それにしても本作における早坂の音楽は、少なくとも、成瀬の映画作品との不調和を感受させるものだった。

以上の理由のほかに、ハッピーエンドの括りに対する個人的違和感なども手伝って、私には、「夫婦3部作」と言われる「めし」、「夫婦」、「妻」という作品の中で、夫婦の実相を決して奇麗事で語らなかった「妻」こそが、「夫婦」を主題にした成瀬映像の最終到達点を示した作品であったと考える次第である。




5  「成瀬伝説」の嘘について



「成瀬伝説」の嘘について。

その1

銀座化粧」より
成瀬巳喜男が、「めし」によって低迷期を脱したと言われる、「復活の嘘」について簡単に言及したい。

「戦後の『浦島太郎の後裔』(1946年)前後から始まった『スランプ』と目される時期で、作品の質、興行収入共に振るわない低空飛行が続いていた。そうした中で制作されたこの作品は、林のリアリティー溢れる描写を盛り込んだ上で、『倦怠期の夫婦』という暗鬱な題材ながら軽妙な処理で親しみやすい高質のホームドラマに仕上がった」

この「ウィキ」の言及での過誤は、「スランプ」と、「作品の質」が「振るわない」という部分。

石中先生行状記」(1950年製作)は明らかに佳作であったし、何より、「めし」に先行した「銀座化粧」(1951年製作)の出来栄えは、はっきり言って、「めし」(但し、その演出力が抜きん出ていたことは紛れもない事実)に張り付く感傷を脱色させた相当の秀作であると、私は評価して止まないのだ。


その2

更に、巷間に伝えられる愚昧な「評価」についても一言。

「『女』を撮らせたら当代随一の監督」という評価が定番となった成瀬だが、実は、「男」を撮らせても当代随一の監督であると、私は思っている。

なぜなら成瀬が描く「虚栄だけの、意気地のない男」こそ、「日本の男」のスタンダード・サイズであるからだ。


本作の初之輔像に見られる「優柔さ」、「甲斐性のなさ」、「決断力の乏しさ」、「本音を隠す狡猾さ」、「勝負弱さ」等々、全てこの国のスタンダード・サイズの「男」たちの実相に近いと思えるのである。

成瀬こそ、この国の男女の本質に肉薄した類稀な映像作家であったということだ。

一貫して奇麗事を描かない、年季の入ったリアリストであるからだ。



6  エロチシズムの芳香漂う成瀬映像の原節子



それにしても、成瀬映像の原節子。

小津が自分の理想を特定的に押し付け、仮構したかのような「聖女伝説」を削り取ってしまえば、身過ぎ世過ぎで苦労し、夫への悋気をも隠さない、「普通の主婦」を身体表現できる演技派女優であることを実証したのが、成瀬映像の原節子である。

成瀬映像の原節子は、何と色気ある女優であることか。

当然だ。

生身の人格の「身体性」の濃度を希釈化させた「聖女」から、「聖女性」を脱色してしまえば、普通の生身の身体が発する臭気を嗅ぐことができるのだ。

本作以外にも、庭にフワフワと転ってきた紙風船で遊ぶ夫婦が、倦怠期の空気感を克服するという見事なラストシーンながら、個人的にはハッピーエンドの括り方に不満が残る「驟雨」(1956年製作)や、義父との情愛を際どく描くことで、エロチシズムの芳香漂わせた「山の音」」(1954年製作)という作品が有名であるが、私自身の好みの問題を除けば、いずれも成瀬映像の原節子の本領発揮の映像であった。

(2010年3月)

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