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2011年11月26日土曜日

恋する惑星('94)       ウォン・カーウァイ


<女性によって支配された「恋の風景」の、お伽話として括り切った映像の訴求力>



1  ギリギリのところで掬い取られた、「失恋の王道」を行く者が占有し切れない物語の哀感



大人の恋を精緻な内面描写によって描いた「花様年華」(2000年製作)と異なって、「恋の風景」を描いた映画の中で、これほど面白い映画と出会う機会もあまりないと思わせる本作を、一貫して支配しているのは女性である。

本作の風景を、より正確に言えば、失恋に懊悩する男か、それに近い心理の渦中にある男に対して、雑踏の街の只中で自由に呼吸を繋ぐ女たちが物理的、或いは、心理的に最近接したことで仮構された「恋の風景」の物語である。

物語の風景の根柢を作る女たちが、男の心理的風景を翻弄し、突き動かしていくという「恋の風景」の変容の微妙な様態が、件の男たちの心理的風景を支配し切っているのである。

「雑踏ですれ違う見知らぬ人々の中に、将来の恋人がいるかも知れない」

これは、物語の前半の主人公であった、若い刑事モウの冒頭のモノローグ。

25歳の若い刑事モウは、彼が切望する「恋の風景」の幻想を置き去りにした女に支配され、「恋の風景」に関わる中枢の物語を最後まで占有し切れないのだ。


若い刑事モウが負った、殆ど絶望的な失恋の痛手が辿り着いた先に待機していたのは、自分の誕生日が賞味期限となる1か月間にわたって、パイ缶を買い続けるというチャイルディッシュだが、このような精神状態に搦(から)め捕られたら相応の説得力を持つと思わせる、験担(げんかつ)ぎを止められない行為に象徴される、「恋の賞味期限」という切実な心理的風景だった。


そんな自棄的な男の行動を惹き寄せるように最近接したのは、金髪にサングラスという出で立ちを有するドラッグ・ディーラーの女。

ところが彼女は、男の切望する「恋の風景」と全く重なり合うことのない、「生きるか死ぬか」といった、ダークサイドな物理的風景の渦中を遊泳しているから、蠱惑(こわく)的な「恋の風景」の芳香を自給することはない。

そんな女に翻弄された挙句、一人寂しくホテルを退散する若い刑事の「恋の風景」には、その心の空洞を埋めるに足る何ものもないペシミズムが漂っていた。

当然ながらと言うべきか、「恋の風景」の幻想から置き去りにされたバックラッシュで、「将来の恋人」との出会いをギャンブルにしてしまった男と物理的に最近接しながらも、相互の心理的風景は全く折り合うことのない陰惨さを晒して見せたのである。

それでも、見事な袈裟切りに遭って、「失恋の王道」を行く若者には、麻薬密売で裏切られ、殺人事件を犯して逃走中の、件の「悪女の深情け」のサービス精神に縋るしかなかったというオチが、最後に待っていたのが、前半部の物語を貫流する「恋の風景」の陰翳感を相対化するシーン。

若い刑事モウが、今や使用価値なきポケベルを捨てたとき、格好のタイミングで飛び込んできた、「誕生日おめでとう」という金髪女からのメッセージ。

それは、「失恋の王道」を行く若者にとって、「恋の賞味期限」という切実な心理的風景に、一陣の涼風を呼び込む心地良きメッセージだった。


思うに、前半部の「恋の風景」を支配したのは、不在なる失恋相手であったが、その若者の心の空洞を埋めたのが、ダークサイドな物理的風景の渦中を遊泳している金髪女であったというオチこそ、「失恋の王道」を行く者が占有し切れない物語を、ギリギリのところで掬い取るものだったのだ。

この一陣の涼風の漂流感が、本作で描かれた「恋の風景」が、より鮮明な意志を持って、後半部の物語の中に引き継がれていく。

従って、映像構成の変容は、「恋の風景」を明るく彩ることで、男と女の恋に纏(まつ)わる微妙な心理の機微がユーモア含みに拾われていくのである。



2  「恋の風景」の物語の漂流感が脱色されていない男の鈍感さ



物語は、若い刑事モウが立ち寄る小食店を拠点に、マイナースケール(短音階)基調の前半部の物語と切れて、全く衣裳を代えたメジャースケール(長音階)の「恋の風景」に繋がっていく。

後半部の物語では、同様に、そこに投入した感情のスケールダウンを露わにする、「予約確定の恋」の病に悩みながらも、見事な袈裟切りに遭う「失恋の王道」という、絶望的な無残さを晒すにまで至らない若い警官が主人公であるが故に、後半部の「恋の風景」は、明らかに、陰翳感漂う前半のヘビーなリアリティと切れて、ユーモア含みの風景を開いていくのである。




ここでは、若い警官に好意を寄せる、ショートカットの女の子が物語を支配していく。


女の子の名はフェイ。


小食店の新入りの店員である。



彼女は若い警官の留守宅に忍び込んでは、部屋の風景を変えていくのだ。


 フェイによって警官の部屋の物理的風景が少しずつ、しかし確実に、明るく健康的なタッチで変容していくが、鈍感な男は気がつかない。

物理的風景の変容が心理的風景の変容を予約し、そこに、「恋の風景」の鮮度の高い関係が作り出した物語が提示されていく。

以下、この鮮度の高い「恋の風景」の変容の様態を、物語の中から拾っていく。

「彼女が戻ったような予感がした」

件の警官のモノローグである。

彼には、スチュワーデスの恋人が忘れられずに、未練を引き摺っているのだ。

あろうことか、走って帰宅してみると、部屋は水浸し。

慌てて、雑巾で拭きとって、バケツに処理していく。

「部屋も感情を表し始めた。部屋は相当な泣き虫だった。部屋が泣き出すと、始末に負えない」

少しずつだが、確実に変容していく自分の部屋にあって、未だ認知し得ない〈状況〉の様態を、若い警官は、このように表現した。

偶然手に入れた警官の部屋の鍵を持って、不法侵入するフェイには、このような距離感覚の中でこそ、惚れた男の部屋の模様替えを愉悦する気分が弾けていくのだろう。


しかし、このような事態が継続力を持ち得る訳がない。

若い警官は、金魚を買って、いつものポップな気分で戻って来たフェイと鉢合わせしてしまうのである。

「何でここに?」とフェイ。

慌てふためくフェイの狼狽ぶりが可笑しい一言だ。

「俺の家だ」と警官。

フェイの狼狽ぶりを目視した警官は、まるでサポートするように会話を繋ぐ。

「何が怖い?」
「あなたに会ったのが怖いの・・・帰るわ」
「帰るなら、帰れよ」
「脚が動けば帰ってるわ」
「攣(つ)ったのか?」
「こんなの初めて」

冗談とも思えないフェイの反応に拍子抜けしたように、警官は、ここで明瞭なサポートをするのだ。

「休んでいけよ」

フェイが小食店の店員であることを知悉(ちしつ)している警官には、馴染みやすさも手伝って、こんな反応が言語化されるのだろう。

「スチュワーデスの彼女の脚もマッサージした。女の脚は柔らかい。触れるのは久し振りだ」

これは、フェイの脚をマッサージしながらの、警官のモノローグ。

相変わらず、彼にはスチュワーデスの恋人が忘れられないのだ。

男の感触が記憶した女の肌の温もりは、袈裟切りに遭う程の「失恋の王道」を経験するまでには至っていないが故に、いつもどこかで中途半端な感情を随伴させてしまうのであろう。

なぜなら、この時点でも、男は、スチュワーデスから返還された鍵の事実を知らないのである。

「帰るわ」

恐々と洩らしたフェイの言葉である。

「もう少し休んでいけよ。音楽でも」

ここでも、優しい警官の言葉が添えられた。

彼は、フェイの好きなママス&パパスの「カリフォルニア・ドリーム」を選択して、それを、一人暮らしの男の部屋には充分な広さを持つ空間に響き渡るように流していく。

「好きな曲?」とフェイ。
「彼女が好きだった曲だ」と警官。

すっかり、元恋人が好きだった曲であると信じ込んでいるのか、それとも、フェイの家宅侵入の事実に気がつかない鈍感さが言わせた言葉なのか、一切不分明だが、少なくともフェイだけは知っている。

「私が置いていったCDよ。思いは伝わらないのね」

そんな彼女のモノローグである。


ところがフェイは、その直後、不覚にも居眠りし、いつしか、ソファベッドで二人で添い寝する風景が映し出されるのだ。

惚れた男と物理的に最近接したことで仮構された、「恋の風景」の物語の漂流感に自己投入しつつも、なお思いが伝わらない苛立ちよりも、今や、物理的な近接に馴染んだ彼女の心の緊張感が解き放たれたのだろう。

「俺も随分、変わったようだ。日頃、気にしていなかったことが気になり出した」

これは、日付を変えても、未だ事態の劇的変容を認知し得ない男の滑稽過ぎるモノローグ。

「最近、色んなものが奇麗に見える」

そんな独言を洩らす男にとって、物理的風景の変容が心理的風景の変容を顕在化させつつある現実に鈍感であるのは、元の恋人によって支配されている、「恋の風景」の物語の漂流感が脱色されていないからである。



3  女性によって支配された「恋の風景」の、お伽話として括り切った映像の訴求力



事態の劇的変容は、殆ど予約されたかのようにやってきた。

一切が判然とするに至ったからである。

昨日もそうであったように、警官の部屋に忍び込んだフェイが、またしても警官と鉢合わせしてしまうのである。

このような突然のインパクトに脆弱なフェイは、警官の追走を振り払って、一目散に逃げ出してしまうのだ。

それは、全ての事情を察知した警官が心理的風景を変容させていく瞬間だった。

明瞭な想いを秘めて、フェイの店を訪ね、デートに誘う男。

有頂天な気分の中、密かに内側の世界で舞い上がる女。

デートの日は大雨の夜。

しかし、待ち合わせの店に彼女は現れなかった。

「彼女は来ない。諦めな。別の相手を探せ。カリフォルニアに行くそうだ」

フェイが働く店のオーナーの言葉である。

「お店に行ったわ。あの晩は大雨。窓の外に雨のカリフォルニアが。本当のカリフォルニアに行きたくなって。そして1年が経った。今夜も同じ大雨。でも、心には彼のことだけが」

これは、1年後、「本当のカリフォルニア」から戻って来たフェイのモノローグ。

この日、スチュワーデス姿のフェイが現れたのは、元の店だったが、そのシャッターを開けて出て来たのは、店を買い取った警官だったというオチがついてくる。

「こんな“搭乗券”で乗れるか?日付は今日。行き先が読めない」

男は、フェイが残していった手紙に添えられた、雨に滲んで特定できない塔乗券を彼女に見せて、行き先を教えてくれと求めた。

フェイは、紙ナプキンを持って来て、男に尋ねた。

「どこ、行きたい?」
「君の好きな所へ」

それが男の答えだった。

それは同時に、予定調和のラストショットでもあった。

印象深い映像の括りは、何より洗練された映画空間を、自在に跳躍するショットのうちに閉じていったのである。

それにしても、訴求力の高いフェイの表現の躍動感の溌剌さ。

自分の思いが、惚れた男の思いの中枢に届いたことを確信したとき、彼女の中の「恋の風景」の漂流感というゲームの愉悦は、恐らく、そこでピークアウトに達したのだろう。

それが、彼女の距離感覚なのだ。

 ウォン・カーウァイ監督
どこまでも自由人であり続けるキュートな女の子は、「夢のカリフォルニア」に旅立つことで、それまでのゲームを相対化して見せたのである。

そして、キュートな女の子が支配する「恋の風景」の自在な世界では、男と女の微妙な交叉がドロドロの肉感的風景に浸かっていくことがなく、「恋の風景」の物語を漂流する多くの者たちの狭隘な展開に収斂されず、どこまでも、ライトサイジングの相応感の中で軽快に絡み合った後、惚れた男との再会を果たすのだ。

当然ながらと言うべきか、極めてスタイリッシュな映像は、ハッピーエンドの小さな自己完結を予約するイメージの中で閉じていく。

結局、最後まで女性によって支配された、「恋の風景」の物語の中で語られた心理的文脈には、見知らぬ男女が最近接し、そこで開かれる微妙な感情の機微をリアルに拾い上げつつも、それを一篇のお伽話として括り切った映像の訴求力は、出色のパワーを検証して見せたのである。

(2011年12月)

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