<空洞化した自我同一性を補填し得る、「自分自身の黄金」を弄る女の物語>
1 「愛は私の宗教」と断じる女の、「妄想性認知」という病理に近い何ものか
「もはや嫉妬もない。自尊心も捨てた。でも、愛は私に微笑まず、顰(しか)め面をするだけ。売春婦で苦しむ女たち。結婚に悩む女たち。女たちに自由と尊厳を与えること。頭には思考を。心には愛を。愛は私の宗教。魂のない肉体も、肉体のない魂もない。私はまだ若いはずなのに、人生の秋を感じる」
これは、本作のヒロインである、アデルが書いた日記の一文である。
「愛は私の宗教」と断じるアデルは、「特定他者」である、ピンソンという名の若い英国軍人をひたすら愛し、求め、彼を追ってカナダにまでやって来て、なお執拗に追い続けていく。
逃げれば逃げるほど、男を求める欲求感情が昂じていく。
人の心理とは、そういうものだ。
しかし、アデルのケースは、「普通に愛し合う関係」の範疇を超えているのだ。
その過剰さは、殆ど病理に近い何ものかである。
それは、過剰なまでに他者から認められたいとする「承認欲求心理」であると言っていい。
妄想によって自分の感情だけが止め処なく暴走する、「妄想性認知」という心理学の概念もある。
その辺りの心理を、深々と描き切った映像の凄さに圧倒されるほどだ。

この映像の凄いところは、自分が愛する「特定他者」からの愛情を占有するために、「愛される権利」を持つと信じる女の心象風景を、その皮膚感覚の見えない辺りまでをも描き切ったことにあるだろう。
若い英国軍人である「特定他者」を愛する女は、男の愛を手に入れるために、男の情事を覗き見したり、当人の了解なしに男と結婚したという嘘話を、父への手紙で知らせたり、或いは、娼婦を「供給」して男の下半身の処理まで配慮したり、等々、何でもありなのである。
そして遂には、ニセ催眠術師の所に自ら出向いて、「愛を憎しみに変えたり、逆に、憎しみを愛に変える」などという催眠術の依頼をする過剰ぶりなのだ。
以下、ニセ催眠術師に頼み込んだときの会話。
「催眠術で人の気持ちを変えること・・・」とアデル。
「人の気持ちを変える?」とニセ催眠術師。
「つまり、愛を憎しみに変えたり、逆にまた・・・」
「それはダメです。私の力は魂までも動かせない。催眠術でできるのは、意思と逆のことをやらせるだけ。それも、人によって効かないこともある」
「例えば、男を結婚させるには?」
「それはできないこともない。適当な場所に連れて来る。簡単ではないが、金次第だ」
「お金はあります。父が持っています。父を巻き込みたくないので、私が・・・」
ここで、父の名を聞かれたアデルは、曇った鏡に「ヴィクトル・ユーゴー」と書いた。
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ヴィクトル・ユーゴー(ウィキ) |
何より、アデルの狂気の如き振舞いの極め付けは、男の婚約者の父の家に乗り込んだ行動だろう。
「ピンソン中尉は相応しくない人物です。ピンソン中尉は陰謀家です。私の家族にも取り入って、ウブな私を巧みに口説きました。私は世間知らずで、心を動かされました。私は彼の虜になり、婚約も破棄して、彼との結婚を決めました。彼は借金で投獄されるのを恐れて、軍隊に入りました。それでも私の決意は固く、両親も同意しました。式も挙げました」
アデルは、そう言ったのだ。
その証拠とばかりに、アデルは新聞の切り抜きを見せたのである。
「何で、そんなひどい男と結婚したのかね?」と婚約者の父。
「恋の感情は抑えられません。軽蔑しているのに、愛してしまうのです。それに、もうすぐ彼の子が・・・」
このときアデルは、枕を腹に入れて妊娠を装っていたのである。
それを知ったピンソン中尉も、部下に、「脅しても何をしてもダメなんだ」と嘆息するばかり。

女の想いは、男に弾かれる度に燃えていくのだ。
2 「愛される権利」という病理に近い何ものか
ここでは、一般論を論じたい。
そのテーマは、「愛される権利」。
結論を言えば、「愛される権利」などというものは存在しないという論稿である。
以下、「心の風景・愛される権利」からの拙稿を引用する。
「自我」を親に作ってもらう「特殊性」の中で生きるしかない、「子供」という存在だけは例外だが、人間には、人を愛する自由はあるが、人から愛されるという権利はないのである。
子供は愛されることがないと、健全なナルシズムが育たないからだ。
「母に愛される自己」を愛することができるのは、愛される自己に価値を見出すからである。
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ジョン・ボウルビィ |
自己を愛する心が、同様に、自己を愛する他者のとの間に心のアーチを架ける。
他者への愛によって、狭隘なるナルシズムは相対化するのである。
愛のゲームには、他者に対する援助や献身という感情が媒介することを知り、ナルシズムの暴走に歯止めがかかるのである。
然るに、愛されないままに成人した者への「愛の権利」は、どこかで充分な補填を受けるべき何かであるのか。
私たちの社会は、当然の如く、その問いを愚問とする。
既に成人した者に、「愛の権利」はもう届かないのだ。
私たちの社会が、「内気なるストーカー」を受容することもないのである。
「君には、僕を愛する義務がある。僕もまた、君から愛される権利がある」
ここまで言い放つ大人の我が儘までは、私たちの社会の「愛の制度」は、当然網羅し切れない。
相手を脅迫してまでも占有したいと望む、そこだけすっぽりと欠落したかのようなストーキングまがいの愛情の、暴力的な補填への振舞いに、野蛮なる「愛の狩人」は、一体何を見ようとするのか。
それとも、何ものをも見ることができないのか。
自己史への何かの拘りが、過剰な補填を求めてしまうかのような歪んだハンティングは、尖った者ほど自壊に向かう流れを止められないようにも見えるのだ。
「私はまだ愛されていない」
「愛される権利」の無秩序な立ち上げの風景が語って止まないもの ―― それは結局、他者を愛する自由という文脈の厳しさは、経験的に学習してきたものの厳しさと同義であり、そこで手に入れた、ある種の能力が内包する様々なる価値、例えば、想像力とか、援助感情とかいうような中枢的な価値の媒介なくして、容易に辿り着けない厳しさを映し出す何かであるということだ。
愛はリレーされた何かではない。
それは、獲得された能力の集合的な何かである。
「愛される権利」への過剰な拘りが、既に少しずつ、病理に近い何ものかである。
程々に愛された自我が確保し得たナルシズムの健全なラインが、その自我の社会化的展開の中で、発達段階の適切なサイズに合わせるかのようにして、本来的な稜線が伸ばされていく行程は、愛という能力を履修する時間をふんだんに含んでいて、それを権利としてしか観念化されない歪みを無造作に置き去りにすることはないであろう。(「心の風景・愛される権利」より)
3 空洞化した自我同一性を補填し得る、「自分自身の黄金」を弄(まさぐ)る女の物語
「愛される権利」をテロルもどきで奪回しようという、おぞましい風景を想起するとき、「アデルの恋の物語」の過剰性が際立ってくる。
アデルは、「愛のテロリスト」なのだ。
「愛のテロリスト」は、空洞化した自我同一性( アイデンティティ)の全てを、「愛」によって補填しようとする過剰なる者である。
ではなぜ、アデルは「愛のテロリスト」になったのか。
それは、前述したように、彼女の自我の形成過程に起因するだろう。
ここに、アデルが書いた夥(おびただ)しい文章の一部がある。
「身分や生まれに、何の意味があろう。本名だって偽名かも知れない。全て欺瞞だ。私は父の名を知らない。名もない父の子として生まれたのだ」
更に、こんな言葉もある。
「父の名は大き過ぎる。私はヴィクトル・ユーゴーの名から逃げられない」
カナダの下宿先である、サンダース家の婦人との別れの際に吐露した言葉だ。
そして極め付けは、以下の独言。
「今は、父が施してくれるパンの他には、何も持たない若い娘が、4年後には黄金を掴むのだ。自分自身の黄金を。若い娘が古い世界を捨て、海を渡って新しい世界に行くのだ。恋人に会うために」

これを見ても判然とするように、アデルが求めていたのは、常に「パン」を施してくれる、「ヴィクトル・ユーゴー」という名の巨大な把握力によって「骨抜き」にされ、「無化」されてしまう「恐怖」を脱却するに足る、空洞化した自我同一性( アイデンティティ)を補填し得るような「自分自身の黄金」であるということだ。
それ故に、アデルは古い世界を捨て、海を渡って新しい世界に行こうと意を決し、「恋人」という観念系の集合を執拗に追い続けていったのである。
然るに、アデルは自縄自縛の袋小路に陥ってしまっていた。
「自分自身の黄金」を求めるアデルの「旅」を延長させるには、継続的に「パン」を施してくれる、「父」=「ヴィクトル・ユゴー」の把握力を必要とせざるを得なかったということだ。
それは、「ヴィクトル・ユーゴー」という名の、巨大な支配域を超えること以外ではなかったのである。

そこに大脳辺縁系の情動爆発に端を発する、前頭前野の崩れとも見える「狂気」が張り付いていたとしても、「恋人」という観念系の集合を執拗に求めて、「特定他者」としての英軍将校を、カリブ海に浮かぶバルバドス島まで追い駆けたアデルは、その男と遭遇しても、もはや何の反応も示さないシーンに象徴されるように、アデルが追い求めて来た対象人格は、「特定他者」としてのピンソン中尉ではないと解釈することも可能だろう。
また、悪夢の中での、こんな独言もあった。
「姉の衣裳を捨てよう。焼いてしまおう。バラバラにしよう。もう、姉の衣裳は見たくない。見るのは耐えられない」
家族からの「愛」を占有し続けたと信じる姉の溺死の衝撃によって、悪夢にうなされながらも、「自分自身の黄金」を手に入れることで自己の有能性を証明し、父の「愛」を奪回し、「承認欲求心理」を満たそうとしたのである。
これは、決してその領域にまで踏み込んではならない、「愛される権利」を声高に主張し続ける危険な暴走を意味するだろう。
アデル自身、家族からの「愛」を占有し続けたと信じる姉とは別に、彼女もまた、「幼児自我形成期」において、過保護に起因する看過し難い心のコントロールを受けていたに違いない。
だから、「相対的関係性」を認知する発達課題をクリアし得ず、成人期に踏み込むや、彼女の中の強い「承認欲求心理」が、「恋人」という観念系の集合としての、蠱惑(こわく)的な「特定他者」への「ストーキング」という形で現出したのである。
恐らく、この一連の文脈こそが、彼女の深層心理に横臥(おうが)する風景である。
彼女にとって、ハンサムな英国軍人の存在は、言ってみれば、自己の欲求感情を安直に処理し、それによって、見えない自己の深層を欺くための防衛戦略であるということだ。
「愛される権利」という病理に近い何ものかについて、これほど抉(えぐ)り切った映像もないだろう。
私はそう思う。

然るに、フランソワ・トリュフォー(画像)は、「アデルの恋の物語」のうちに、究極の「愛」の「形」を描いたに違いないが、私は、以上の心理分析によって、本作の凄さを受容したいと考えている次第である。
フランソワ・トリュフォーは、実に素晴らしい映像作家だ。
いつもながら思うことである。
「イデオロギーの暴走」がないのが最も良い。
だから、奇麗事を言うことが一切ない。
そこが良い。
後にも先にも、このような、「ストーキング」紛いの行動をし続けるヒロインを描いた実験的作品も稀有であった。
本作のヒロインが放つインパクトは、このヒロインを演じたイザベル・アジャーニの、圧倒的にリアルな表現力に因っていて、蓋(けだ)し壮絶だった。
(2011年5月)
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