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    4 か月前

2011年8月30日火曜日

ピアニスト('01)         ミヒャエル・ハネケ


<「強いられて、仮構された〈生〉」への苛烈極まる破壊力>



1  「父権」を行使する母との「権力関係」の中で



母の夢であったコンサートピアニストになるという、それ以外にない目的の故に形成された、実質的に「父権」を行使する母との「権力関係」の中で、異性関係どころか、同性との関係構築さえも許容されなかった事態に象徴されるように、一貫して自己犠牲のメンタリティーを強いられてきた娘のエリカは、ポルノショップと覗き趣味に象徴される、「男性性」の世俗文化とのクロスを介して、男根を喪失した「形だけの女」(注)という自己像(「女性である自己」の現実に対する嫌悪感)のうちに閉じこもることで、殆ど男性的な性格を身に付けた結果、既に、観念的にはマゾヒズムの世界への自己投入によってしか安寧し得ない自我を構築してきてしまった。

母の夢の具現の前では、「父」という、本来の役割を遂行し得ないエリカの父親は精神疾患を患い、まもなく、映像に登場することなく逝去するに至るが、中年女性になっても、「父権」を行使する母との「権力関係」だけは延長されていたのである。

それは、ファーストシーンでのローキーな画像の中で、観る者に直截に提示されていた。

「ママ、疲れているの」

帰宅が遅れた娘の、いかにも疲弊し切った言葉である。

「そうだね。レッスンが終わったのは、3時間前。それまで何やってたの?」
「やめて」
「答えるまで、部屋に入れないよ!」
「散歩よ。8時間も教えっぱなし。息抜きがしたいわ」

強引に娘のバッグを開けて、預金通帳を見て、金額が減っているのを確認し、文句を言うばかりの母。

「一体、何に使ったの?」
「クソババア!」

そう叫んで、母の髪を掴む娘。

それが、娘のマキシマムな抵抗手段だった。

母親の支配に従属する娘の生活の現実が、そこに提示されていた。


(注)バスルームでの剃刀のシーンの意味は、母との「権力関係」の中で、人間的感情(とりわけ、「女」を意識する感情)を否定され続けたことに象徴される心理的要因によって、長く無月経状態になっていて、それでも、「形だけの女」を演じ続けねばならない強迫観念が、このような行為に及んだとも考えられるが、明らかに、ここにもエリカの自罰傾向の片鱗が読み取れるであろう。



2  「権力関係」の危うい均衡のうちに継続されてきたものが揺らぎ出したとき



それでも、ウィーン国立音楽院のピアノ科教授でもあるエリカが、まさにその商品価値性によって、予想だにしない快楽を手に入れる対象人格と出会ったのである。

エリカとワルター(右)
それがワルターだった。

音楽院の大学院に入学した学生である。

以下、エリカの演奏会直後の、二人の会話。

精神疾患直前の晩年のシューマンについて論じた、アドルノの「幻想小曲集」(8曲から成るシューマンのピアノ曲集)論を例にとって、ヒロインのエリカはワルターにレクチャーする。

「自らの狂気を悟り、最後の一瞬、正気にしがみつく。それこそ、完全な狂気に至る直前の自己喪失を意味する」
「見事な教授法です。まるで全てをご存じかのようだ」
「シューベルトとシューマンなら。それで、私の父は精神疾患で入院しているの」

まもなく、若くハンサムなワルターに関心を持ったエリカが、豊饒な知的イメージを抱かせる、「変わり種の天才ピアニスト」への愛に惹かれるワルターの前で、自我の奥深くに隠し込んだ本性を吐露していくのだ。

エリカが書いた、信じ難き内容の手紙を読むワルターの言葉が、嫌々ながらそれを代弁していく。

「一番の望みは、“手と脚を背中で縛られて、母の近くで寝かされたい。但し、ドア越しで母が近づけないこと。翌日まで、母のことは気にしないで、この家の全ての鍵を持ち去り、一つも残さぬこと”これをやると、僕に得が?“もし私があなたの命令に逆らったら、ゲンコツで私の顔を殴って。なぜ母親に逆らったり、やり返さないか聞いて。そして、私にこう言って。自分の無能さが分ったかと”」

自分の手紙をここまで読んだワルターに、エリカはSMの道具を見せて、更に言葉を添えていく。

「電話を待つわ。全てあなた次第。嫌いになった?長年の望みだったの。そこにあなたが・・・命令するのはあなた。着る服も決めてあるわ」

返す言葉を失ったワルターが、重い口を開いた。

「病気だよ。治療しなくちゃ」


そんな反応を受けても、エリカの思いは変わらない。

「殴りたいなら殴って」
「手を汚したくない・・・心から愛していた。今は嫌悪感だけ」

そう言い捨てて、ワルターは帰宅して行った。

「好きにしなさい。大人なのだから。これが全てを捧げた結果・・・大したご褒美だよ」

これは、このアブノーマルな顛末を知って驚く母の言葉だ。

言うまでもなく、エリカのマゾヒズムの世界への自己投入は、「父権」を行使する母との「権力関係」の中で、一貫して自己犠牲のメンタリティーを強いられてきた彼女にとって、それ以外にない自我防衛機制であり、今や自罰によってしか安寧に辿り着けない、屈折した自我の表現様態だったが、一切は、その本来の役割を果たせない父に代わって、「父権」を行使し続けてきた母との歪んだ「権力関係」の産物だったと言っていい。

エリカの被虐性欲の根柢に横臥(おうが)するのは、コンサートピアニストになれないことで母を悲嘆に陥れた自己への加虐心理であるが故に、ワルターから「病気だよ。治療しなくちゃ」と言われても、「殴りたいなら殴って」と反応するばかりだったのだ。

それが、“手と脚を背中で縛られて、母の近くで寝かされたい”という、ワルターへの文面の本質である。

そのことは、「権力関係」の中で自己犠牲を強いられてきたエリカの自我に張り付く、母からの承認欲求の屈折した様態であると言えるだろう。

だからこそ、ワルターへの手紙によって、彼から「今は嫌悪感だけ」と帰宅され、その顛末を母に知られ、詰(なじ)られても、「ママ、愛してるわ」と言って、抱きついていくばかりだったのだ。

「狂ってるよ」

母の言葉だ。


それでも、二人で縺(もつ)れ合い、抱き合って、号泣する娘がそこにいた。

しかし、彼女の母に対する承認欲求もまた、初めて知った青年との身体感覚のリアリティの前で微妙な誤作動を見せていく。

母と縺れ合い、抱き合って、就眠に入ろうとしたそのとき、彼女は突然、母親の上に覆い被さっていくのである。

それは、エリカの中で累加されてきた屈折した感情が、封印し得ない性衝動となって溢れ出たのだろう。

彼女には、向かっていく対象人格が母以外に存在しないこと。

そこに、彼女の悲哀の極みがあると言っていい。

更に言えば、彼女の中の観念的なマゾヒズムは、それまでのような継続力を持ち得なくなってきたのだ。

ワルターの出現によって、支配し、服従するだけの「権力関係」の危うい均衡のうちに継続されてきたものが、エリカの中で揺らぎ出したのである。


生まれて初めて経験したであろう異性感情の嫉妬心から、教え子のオーディションの日、彼女の衣服のポケットにガラスの破片を忍び込ませて、ピアニストにとって命とも言える手を傷つける行為に象徴されるように、ワルターへの愛し方を知る術を持たないエリカは、それでも青年との愛を欲する感情を身体表現するには、手紙での告白を自己否定する以外になかったのだ。

アイスホッケーのゲーム後、ワルターを訪ねたエリカは、手紙での告白について謝罪し、自分に対する彼の愛を占有しようとした。

しかし、スケートリンクの控室でノーマルなセックスに及ぼうとする、若いワルターのオーラルセックスの欲求に応えられず、吐き戻すばかりのエリカ。

セックスに関わる彼女の欲求は、結局、ポルノショップ等を介した情報でしかなく、彼女自身、身体を経由する異性愛の生身の感覚に届き得ないのだ。

被虐を求めるワルターへの手紙での、エリカの欲望の表現は、単に、彼女の閉鎖系の観念の世界が噴き上げたものでしかなかったということである。

「咥(くわ)えて吐かれた」

またしても、相手の欲求を満足させ得ないストレスから罵詈雑言(ばりぞうごん)を吐かれて、追い返されるエリカは、「あなたが望むなら何でもするわ」という思いを吐露する以外になかったのである。


明らかに、このときワルターは、豊饒な知的イメージを抱かせる、「変わり種の天才ピアニスト」であったと信じたエリカの〈性〉の本質を見透かしてしまったのである。

「この女は、〈性〉について無知なだけの中年ピアニスト」でしかない現実を。



3  「強いられて、仮構された〈生〉」への苛烈極まる自己破壊力



夜も更けて、ワルターは、エリカの家を唐突に訪れた。

追い返そうとするエリカの母を押しのけて、ワルターは、エリカの望み通りの行為に及んだのだ。

殴りつけ、蹴り上げていくワルターの加虐行為に、悲鳴を上げるエリカ。

「お願いだから止めて」

そこに、殴られ、蹴られ、着衣に血を滲ませた中年女がいる。

エリカは、自分が求めた「愛情表現」の行使によって受けた痛みの前で恐怖し、拒むのだ。

そして、エリカの生身の肉体の中枢を抉(こ)じ開け、ノーマルなセックスに及ぶワルター。

しかしここでも、女は身体を経由する異性愛の生身の感覚に届き得ず、そんな態度を見た男もまた、「早く帰れってことか」と反応するばかり。

それでも「寸止めの美学」とは無縁な、ごく普通の〈性〉を愉悦する男は、精嚢に満たされたザーメンを放出するためのセックスを、たった1回の射精によって完結することで、女との初めての性行為を果たし得た。

この日、スケートリンクの控室で認知してしまった中年ピアニストへの現実。

「お前が要求するなら、マゾの怖さを見せてやる」

そんな中年ピアニストに散々、振り回されたことに対する憤怒が、恐らく、こんな尖り切った思いに結ばれて、ノーマルな〈性〉を求める青年に、抑え切れぬ情動の噴出を具現させたのだろう。

豊饒な知的イメージを抱かせる、「変わり種の天才ピアニスト」への愛に惹かれたワルターの心理から言えば、謎多き年上の女にリードしてもらえるはずだった、蠱惑(こわく)的な「性愛」の行方が全く定まらない〈状況〉に翻弄されていて、それでも、そこに存在すると信じる、「奥深い熟女のフェロモンの魅力」を追い続けた果てに知った現実に幻滅し、一気に興醒めしたのだ。

「君のために忠告しておく。男を弄(もてあそ)ぶのは止めた方がいい。愛に傷ついても死ぬことはない」

女との関係に終止符を打ったかのような、ワルターの捨て台詞である。

男の愛に応える術を知らない女だけが、そこに置き去りにされたのだ。

なお、男との愛の継続的な関係の維持を求める女は、男の変容を恐れつつも、覚悟を決めたかのように、翌日のピアノ演奏会に臨むのである。

ナイフを懐ろに入れ、母と共にコンサート会場に現れたエリカは、ひたすら、ワルターの来場を待っていた。

多くの知人の来場を遣り過ごした果てに現れたワルターは、単に、「教師と生徒」の関係の延長線上に位置する者たちの、その形式的な距離感覚を保持させながら、エリカに明るく挨拶して、一瞬のうちに会場内に消えていった。

「演奏を楽しみにしています」

女友達らしき同世代の若者のグループに混じって、悪びれることなく、その一言を放ったワルターは、昨日までの捩(よじ)れ切った関係の噴出の一切が虚構のトラジディーであったかの如く、自分を待つ者を特段に意識させるに足る素振りすら見せず、恰も、全きを得てリセットさせた人格を軽快に開いて見せたのである。

ワルターの明るい笑顔を視認したエリカは、最後まで異性との関係を構築し得ない現実の酷薄さを感受して、既に覚悟を決めていた行為に流れ込んでいった。

一瞬にして擦過して行った男と、そこに置き去りにされた女。

それは、ワルターとの関係の終焉を告げた瞬間だった。

凄まじい形相を見せるや、女は、自宅を出る前に用意したナイフで、自分の左胸部を突き刺したのである。

男を殺害するためではなかったと考えられるが、或いは、彼女自身にも、それとなく覚悟を決めていたものが存在したにも拘らず、行為それ自身は衝動的であったとも思えるのだ。

昨日、男によって完全に見透かされ、幻滅を与えたことを認知しつつも、「そうであって欲しくない」という思いが恐怖感となったとき、女は、それとなく覚悟を決めていた行為に衝動的に流れ込んでいったのではないか。

然るに、この恐怖感が現実となった女の選択肢は、もはや限定的だった。

血を滲ませながら、コンサート会場を出ていく女。

もう、彼女には、近未来の〈生〉に対する突破口になり得る、残された選択肢は完全に閉ざされてしまったのである。

件の女の自罰志向の極点である、このラストシーンの構図こそ、「権力関係」の中で自己犠牲を強いられてきた屈折した自我の、それ以外にない一つの人生の閉じ方であったのだろう。

少なくとも、「強いられて、仮構された〈生〉」のみを生きてきた彼女は、彼女の閉鎖系の観念の世界が、普通の欲望系に呼吸を繋ぐ青年の、そのノーマルな世界と折り合えない現実を認知することで、自分を呪縛してきたものの虚構性を自己の身体感覚のうちに触れてしまったのだ。

然るに、「強いられて、仮構された〈生〉」を壊すことこそ、その負の系譜への清算になると、一瞬、脳裡を過(よ)ぎったか否か不分明である。

従って、その苛烈極まる行為は、結果的に彼女の中で抑圧していたものを、その根柢において屠(ほふ)ったという由々しき事態を意味するだろう。

言うまでもなく、嬉々として会場内に消えていった女の母が、40年の長きにわたって仮構してきた途方もない物語と、それを遂行した「禁断の〈性〉と〈生〉」に関わる負の系譜をこそ、彼女は屠るに至る行為に及んでしまったのだ。


「自らの狂気を悟り、最後の一瞬、正気にしがみつく。それこそ、完全な狂気に至る直前の自己喪失を意味する」

それはまさに、精神疾患直前の晩年のシューマンについて、ワルターにレクチャーしたエリカの言葉だが、それとなく覚悟を決めた彼女の行為をなぞっていく伏線であったという、如何にも文学的な着地点に落ち着くであろう。

狂気の助けなしに為し得ないが故に、結果的に彼女は、殆ど自己喪失の感覚の中で、ギリギリの際(きわ)で正気にしがみついて、「強いられて、仮構された〈生〉」を屠ったのだ。

それでも女は生きていく。

「強いられて、仮構された〈生〉」を屠った後の、全く新しい人生を生きていく。

そういう解釈のうちに括りたいと思わせる、あまりに見事なラストシーンだった。



4  「約束された非武装なる虚構の城砦」を破壊する挑発的映像



見たくないもの、触れたくないものが、微かに自分の中に内在しているのに気付かないか、或いは、内在していることを認知しつつも、それを見えない辺りにまで押し込め、封印することで安堵する何かを、大抵、私たちは内側に抱え込んでしまっている。

そうしなければ、「反復」→「継続」→「馴致」→「安定」という循環を持つ、「日常性のサイクル」に亀裂が入り込み、それを放置しておくと、亀裂が自己運動を起動させ、いつしか、「安定」に向かう「日常性のサイクル」が、本来そこにあったところに戻り得ない〈状況〉に拉致され、「非日常」という厄介な時間のゾーンに搦(から)め捕られるリスクを高めてしまうからだ。

本作は、「安定」に向かう本来的な「日常性のサイクル」の幻影が、「強いられて、仮構された〈生〉」という形で分娩されることで、支配し、服従するだけの「権力関係」の危うい均衡のうちに継続されてきた屈折的自我が、拠って立っていたものの根源において、決定的に揺らぎ出したときの緊張と不安、期待と失望、恐怖を描いている。

ミヒャエル・ハネケ監督とイザベル・ユペール
本稿の中で縷々(るる)、言及してきたように、予定調和であってもなくても、観る者に情感溢れる無難な着地点を保証する、数多のラブストーリーに張り付く虚飾と欺瞞に満ちたお伽噺を、ここまでアイロニカルに武装解除させつつ、そこにぶら下がる肝の辺りを剔抉(てっけつ)した映像を私は知らない。

虚飾と欺瞞に満ちていながら、必要以上に隠し込む性(さが)に縋って生きる人間の根源的問題を、その臨界点まで冷徹に、且つ、容赦なく抉(えぐ)り出し、描き切っていく映像作家を、イングマール・ベルイマン以外に私は知らない。

見たくないもの、触れたくないものから眼を背け続ける者が、しばしば、安直に飛びつくチープな物語のズブズブの情感系言語の、その圧倒的な脆弱さを突き抜き、剥がし切り、そこで仮構された〈生〉の虚飾と欺瞞の様態を、恐らく、「白いリボン」(2009年製作)によって完成形に辿り着いたであろう、精緻に練られた高度な知的戦略によって炙(あぶ)り出していく映像宇宙の凄み。

それが、「ピアニスト」だった。

これはまさに、「変態映画」の「変態作家」というラベリングを張り付けることで、己が日常と切断することで安寧の境地に至るだろう、「約束された非武装なる虚構の城砦」への潜入という、数多なるお伽噺の幻想をこそ破壊したい集束的画像だったに違いない。

そう思わせるに足る、存分に毒気含みの挑発的映像だった。




イザベル・ユペール。(画像は、「主婦マリーがしたこと」で、ヴェネツィア国際映画祭女優賞を受賞したときのもの)

何という、プロフェッショナルな女優魂か。

ミヒャエル・ハネケ。

何という、魅力的な映像作家であることか。

(2011年9月)

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

先日この映画を観て、ネットで批評を読みあさっていたのですが、ブログ主さまのご評論が一番しっくりときました。ご評論を読ませて頂いてなおさら思うのは、この映画、希望は全くないように見えて実はあるのではないか、ということです。

例えばワルターがエリカの家に押し掛けてエリカの要求に「応える」シーン。あそこでワルターは、エリカという訳の分からない、しかも彼自身侮蔑すらしているような相手に、彼なりに必死にコミットしようとしているようにも思えます。たどたどしくサディスティックな言葉を彼の本意には反して吐きかけたり、無理矢理身体をつなぎ合わせようとする行為にしてもそうです。もちろん互いに必死になればなるほど、互いの間の深淵が埋めようないものであることが露呈していくわけですが、それでも必死にコミットしてこうとするワルターの態度に一種の救いのようなものを見ました。

そして最後のシーン。私には自刃のシーン以上に、ワルターが屈託なく挨拶するシーン、これほど救い難く絶望的なシーンもないように思われました。とはいえ、ブログ主さまもお書きになっているように、物語の最後で提示されていたのは、(これまでの)自己の喪失ないし清算であると同時に、新しい生の開始の瞬間であったと思います。スタスタと会場を出て、おそらく母とピアノのもとに戻ることも二度とないのでしょうが、とにかく彼女は死ぬことはなく生きていくのだと思います。

色々とこじらせている私にとっては、予定調和なストーリーよりはよっぽど力強く希望を与えてくれる映画でした。
(ちなみに、私はこの映画の中でも出てくるアドルノの研究をしています。論文書きダルいなあと思ってダラダラとこの映画を見ていたらいきなりアドルノが出てきて、その意味では確かに後味悪い映画でした笑)
以上、一方的に乱文、失礼しました。

Yoshio Sasaki さんのコメント...

コメントをありがとうございました。