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    2 週間前

2009年10月15日木曜日

クイズ・ショウ('94)      ロバート・レッドフォード


<社会派映画の最高到達点 ―― フィフティーズの光と影>



1  「家族主義の時代」の物理的目玉商品


優れた社会派ドラマは優れた人間ドラマに補完されることによって、最強の社会派ドラマであることを典型的に検証した映像―― それが「クイズ・ショウ」だった。

以上の視点で批評していくが、この章では、映像の文化的背景について簡単に触れておく。

「古き良き時代」の代名詞とも言えるアメリカのフィフティーズ(50年代)を特徴付けるのは、道徳的規範の拠点となる家族を中心とする大衆消費文化の目立った展開であった。

戦勝気分も手伝って、人々が押し並べて裕福な生活を渇望し、家族のために消費することが社会の安定に直結するという「家族主義の時代」こそ、ゴールデンエイジと呼ばれるフィフティーズの基幹のイデオロギーだったと言える。

そんな時代が分娩した大衆消費文化の勃興は、「家族主義の時代」の物理的目玉商品として、1954年に54%の普及率を誇ったと言われるテレビジョンの顕著な文化現象だった。

テレビを介して消費文明を拡大的に定着していくことで、企業スポンサーと消費者の関係がより直接的に近接し、その需要と供給の相関性がより強化されていったのである。

従って、テレビ番組のスポンサーとなる企業がテレビ局に求めるのは視聴率の安定的推移のみとなる。近年のインターネットの著しい普及によってその内実に由々しき変化が見られるとは言え、両者のこの根深い関係性はテレビの制作現場の基本命題となって、21世紀の現在となってもなお変わらない構造性をギリギリに保持しているだろう。

ともあれ、テレビ文化の顕著な台頭を特徴づけたフィフティーズの中で、視聴者参加型のクイズ番組、それもアメリカン・ドリームを象徴するかの如き一獲千金のギャンブル性を備えたクイズ番組の隆盛は、勤勉と合理主義の精神を尊ぶプロテスタンティズムのメンタリティから逸脱する風潮とも言えるが、第二次大戦後、一人勝ちした感の深いこの国の資本主義の澎湃の必然的展開であったとも捉えられるだろう。

今でもアメリカには、平均100億を手に入れることができるばかりか、「2002年末に3億ドル(約350億円)という記録的1等当せん額を出すパワーボール」(「確率論の入門基礎」HPより)という高額ロトくじ(宝くじ)があるが、しかしそれは所詮、単なる運不運のレベルの問題に過ぎない。

しかしフィフティーズの時代の中で、実録映画のモデルになった「21」というクイズ番組は、映像に記録された「事件」の影響力を見ても判然とするように、「広範囲な教養を持つ立派なアメリカ人」を志向する大衆の格好のモデルとして要請され、それを手に入れるために必要な情報量を持ち得る限定的で、特定化された「選ばれたアメリカ人」であることが、視聴者の過剰な関心を喚起させ、この国の大衆をブラウン管の前に釘付けさせる磁力を持ったのである。



2  「博識な庶民」より「見栄えのするインテリ」



製薬企業の社長
この映画のストーリーは、超人気クイズ番組の「21」のスポンサーとなっている製薬企業の社長が、不満を表出することから開かれた。

何週も勝ち抜いているチャンピオン、ハービー・ステンペルのイメージが些か俗物的で、周囲の空気を読めないような「博識な庶民」であったことに対して、スポンサーの社長は大いに不満を抱いていた。

彼にとって、超人気クイズ番組の視聴率が横ばいであるという現象への不満が最も大きかったが、彼が求めるチャンピオンイメージは、「もっと見栄えのするインテリ」タイプのアメリカ人であった。

そのスポンサーの強い要求を電話で受けたNBCの社長は、現在のチャンピオンであるハービーを「アメリカン・ドリームを体現する庶民派」として満足していたが、スポンサーの要求には逆らえず、番組プロデューサーのダン・エンライトにハービーを切ることを命じた。

ダンとアル・フリードマン(プロデューサー)は、スポンサーの意に適ったチャンピオン候補探しを始めるや、自局の他のクイズ番組に応募して来た一人のハンサム青年を発掘するに至った。

その名は、チャールズ・ヴァン・ドーレン。33歳である。

著名な詩人を父に持ち、世間でも知られたヴァン・ドーレン家の一族であるという育ちの良さと、上品な顔立ちの当人自身がコロンビア大学特別講師という職業を知ることで、まさに「見栄えのするインテリ」の候補者として、ダンとアルは確信的に特定したのである。

「週給86ドル?君のような秀才をそんな薄給で雇う社会は問題だ。アメリカ教育の危機だ」

本人を前にして大袈裟に言い放ったのは、ダン・エンライトだった。

「アメリカ教育の危機」とまで言われたチャールズの心が動いたのは、彼の自我にとって、その拠って立つ心理的文脈がまさに格好の動機付けを得たからでもあった。

チャールズ
物語は、候補者として特定的に選ばれたクイズ好きのハンサム青年が、「教育的効果」を強調するプロデューサーたちの巧みな誘導によって、次代チャンピオンの候補者として決意するまでの心理の振幅を丹念に描いていく。

要するに、名家の御曹司であるチャールズは、NBCの他のクイズ番組に応募した偶然性によってハンティングされたのだ。

彼はダンたちの振舞いから、「21」という番組が「ヤラセ」の要素を持つことを感知し、一旦は出演を断るが、テレビ局のプロたちの詐術に嵌って、結局、「インチキはなし」という条件で出演を許諾したのである。

その日がやって来た。

元々、クイズ番組に関心を持っていたチャールズは、難なく質問をクリアしていくが、現役チャンピオンのハービー・ステンペルの獲得得点に差をつけられていた。チャールズは、最後に逆転のポイントを稼げる勝負に打って出て、その質問を受けるに至った。

「1862年、南北戦争の司令官と意見が衝突し、グラント将軍は身柄を拘束されました。そのときの北軍の司令官の名前は?」

このときチャールズは、その質問が他のクイズ番組のオーディションを受けた際に出された質問と同じであることを認知して、内心の動揺を隠しながら、熟考の末、「ハレック」という、元々答えられた回答を口に出した。当然の如く、それが正解となり、チャンピオンの交代が実現したのである。

その質問を受けたときのチャールズの心の世界は、プロデューサーたちとの「インチキはなし」という条件が破られた現実の重みを受け止めつつも、「とりあえず、今はこの沸騰した状況を抜け切る」ために、冷静な態度を装う処方の時間に費やされたに違いない。

その後の映像の描写は、チャールズの心の中の動揺を直截に露呈するものだった。

誘われてもエレベーターで降りることなく、一人、階段を駆け降りながら、こう呟いたのだ。

「答えを知ってたんだから、インチキじゃない。それに教育的効果もある。汗をかいたんだから、2万ドルは当然だ・・・すごいな、2万ドルか!」

明らかに、自分の犯した行為の重大性を認知する青年が、その行為の欺瞞性と犯罪性を稀釈化するための言い訳作りに翻弄されている心理が、そこに捨てられていた。

一切は、ここから始まったのである。

ところで、この「インチキ」にはもっと狡猾な裏工作が潜んでいた。

現役チャンピオンのハービー・ステンペルに、件のプロデューサーたちはNBCの別の番組への出演を約束するかのような誘いを持ちかけて、「21」の本番で間違った答えをするように求めていたのだ。

「金の生る木」でもあった、夫の博識を自慢する妻にも相談したハービーは、悩み抜いた末に「インチキ」を了承し、信じ難いほどの簡単な問題を間違えるという負け方をしたのである。

「簡単な問題を間違える方が、リアリティがある」というようなプロデューサーの説得には、大衆心理に通じた者の狡猾さが滲み出ていた。

また、「もっと難しい問題で間違えたい」というハービーの虚栄心を拾っていく描写にも丹念さが窺えて、前線下の心理の緊張感がひしと伝わってきた。

因みに、そこで出された「簡単な問題」とは、「1955年のアカデミー作品賞のタイトル名は?」というもの。

「マーティ」より
答えは、「マーティ」。

なぜ、この問題が簡単だったか。

映画のモデルになった時代が1958年だったからだ。僅か3年前のビッグイベントの話題について、「博識な庶民」であるハービーが知らない訳がないと、当時の視聴者が考えたのは当然だったのである。

それでも、それが「ヤラセ」であると誰も思わなかったのは、空調を停止して回答者に汗を流させるという局側の手の込んだトリックも手伝って、「ヤラセ」に関与した二人の新旧のチャンピオンの迫真の演技と、「『博識な庶民』であっても、簡単な問題に答えられないのが人間の可笑しさ」というリアリズムを受容していたからであろう。



3  「特別な人間」に上り詰めていった果てに



2章で言及した以降の紆余曲折のストーリー展開を、ラストシーンまで簡単にフォローしていこう。

本作で最も重要な登場人物であるチャールズの心理の振れ方に関する映像が、いよいよその濃度を増幅させるシークエンスが中心となっていくので、その辺りの批評こそ映像のテーマ性と把握するが故に、その問題意識についての言及は次章の中で展開していこうと考えている。

何より、「テレビは印刷機の発明に次ぐ大発明だ。俺はそのスターだ」と妻に語っていたハービーの凋落ぶりは、眼を覆う惨状を呈していた。

プロデューサーに騙されたハービーの地方検事局への訴えは棄却され、精神障害者に仕立て上げられる始末で、彼もまたテレビ局に利用されただけの人間として、一つの記号としての役割しか果たせなかったことが判然としていく。

新チャンピオンになったチャールズ(左)
一方、新チャンピオンになったチャールズは、えも言われぬ快楽のシャワーを被浴していた。

いつしか彼の中で、良心の呵責に苛まれる時間が稀薄化されていって、クイズの回答の多くを二人のプロデューサーに丸投げしていったのである。

それもまた、「普通の人間」の「普通の脆弱さ」を露わにする心の流れ方であったと言えようか。

ともあれ、ハービーの惨状と明らかに切れて、一つの記号の役割以上の存在価値を継続させていたチャールズは、大学のキャンパス内にあって一躍ヒーローとなっていた。

女子大生に追い駆けられ、有頂天になっている33歳の独身男が飛翔する構図は、殆どトラジコメディー(悲喜劇)の様相を呈ししつつあったが、「21」を消費する視聴者の基調音は「英雄譚」を歓迎する空気を未だ壊すことがなかった。

件の独身男はクイズを勝ち進めるや否や、程なく「タイム」、「ライフ」の表紙になり、今や「博識な庶民」を越えて、「見栄えのするインテリ」として、堂々と国民的人気を誇る「特別な人間」に上り詰めていったのである。

しかし、彼の前に一人の男が出現することで、彼の心中で何かが騒ぎ出していった。

その男の名は、ディック・グッドウィン。

「あなたはヴァン・ドーレンより10倍、頭のいい男よ。人間的な面でも10倍よ」と妻に言わしめた、ハーバード大の首席卒という肩書を誇る、立法管理小委員会の捜査官である。

彼は「21」の不正を暴くために、ワシントンから自ら捜査に乗り出した野心家だった。

ディック・グッドウィン
その野心家が遂にチャールズの前に現れて、多分にブラフを小出しにして、殆ど恫喝するように肉薄していった。

既にハービーから「ヤラセ」の事実を聴取し、それをネタに二人のプロデューサーに接触を試みるものの、番組出演の約束の履行を求めるハービーの脅迫の録音テープと、精神科通院の請求書を提示され、実際のところ、万事休すの状態だった。

しかしディックは、まもなく他の番組出演者からの決定的な証拠を掴んでいて、反転攻勢に打って出ていった。

聴聞会への召喚状を携え、チャールズに真相告白を迫っていったのである。

そして聴聞会が開かれ、チャールズの思いも寄らない証言が刻まれたのである。

「この一年にあった事をもし変える事ができたら、過去は変えられません。しかし教訓となります。私は人生と自分自身を学びました。そして、社会に対する責任を。善と悪が見かけと異なる事も学びました。

私は深く欺瞞行為に関わりました。友人を裏切りました。数千万の友を、この国の人々に嘘を、知っている事と知らない事の両方で嘘を。なのに、消え去る事だと子供のように思っていました。消える訳ないのに。

私は怖かった。死ぬほど。自分というものがなかったからです。真実を語る事が唯一の道です。私事で恐縮ですが、私は自分を見つけました。今までの私は、役を演じてきたのです。

自分には能力があると錯覚を。運に恵まれ、自分というものの基盤を泥にまみれて、築く事をしなかったのです。借り物の翼で飛んでいたのです。全てが安易でした。これが、その結果です」

チャールズの、真摯で感情のこもった長広舌が閉じられた。

「ヴァン・ドーレンさん、勇気ある発言です」
「私も委員長の言葉に賛成です。魂を揺さぶる力を持った声明文でした」
「私も君に賛辞を表したい。私は今まで、民事・刑事の両方で、多くの証言を聞いてきたが、今日は格別の感銘を受けた」

聴聞会の中で、明らかにチャールズの勇気を称える空気が広がりつつあった。

ちょうど、そのときだった。

一人の聴聞委員が、静かに、しかし明瞭な意志で言葉を結んだのである。

「ヴァン・ドーレン君、私もNY出身だが、君とは生まれが違う。声明文の意義は認めるが、感想は違う。君のような知性豊かな人間が、単に真実を語っただけで讃辞を?」

この極め付けの物言いの直後、下院立法管理委員会の空間には万雷の拍手が沸き起こった。

明らかにチャールズの魂は宙に浮いていて、予想を超える空気の変調に当惑し、孤立を深めつつあった。退廷を促された彼は静かに立ち上がり、法廷に呼んだ両親に随伴されるように聴聞会の場を去って行った。

しかし、聴聞会に詰め寄っていたメディアはチャールズの家族を取り囲み、コメントを求めていく。

「ほっとした」

チャールズは、その一言を結んだ。

「息子さんを誇りに?」と記者。
「勿論」とチャールズの父。
「今も?」
「これで息子は教職に専念できる」
「大学の理事会は、彼に辞任を求めるそうですよ。息子さんが追われる感想は?お答えを」

チャールズの父
この思いもかけない記者の言葉にチャールズの両親は狼狽し、反応する術を失った。

息子が犯した過ちに対するペナルティをも読み切れないほどに、相も変わらない世俗離れした父のドンキホーテぶりが露わになって、実利性の稀薄な「絶対教養主義」の権化と化したヴァン・ドーレン家の人々と、世俗そのものの直接的表現として集約されたラストシーンにおける、多くのテレビ視聴者の「哄笑の渦」とが見事な対比を成していた。

「自分の都合だけで、ネタを追うのがマスコミか」

これは、聴聞会に来ていたハービーの真摯な反応だった。

彼は今や、チャールズの家族の惨状を目撃して、飽和点に達しつつあった怒りを反転させて、自分を排斥した本来の敵であるメディア一般に吐き出したのである。

「僕の標的はテレビだった。だがテレビは勝ち続けるのさ」

この言葉は、ディック・グッドウィン。

彼のこの一言が、「頓挫した事件収拾」の全てを集約していた。

「クイズ番組は公益事業じゃない。娯楽です。我々は犯罪者じゃない。ショー・ビジネスの人間です」

この言葉は、NBCプロデューサーのダン。テレビを裁くはずの聴聞会の場で、彼は悪びれることなく堂々と論陣を張っていた。

「クイズ番組も復活する。質問をやさしくすりゃいいのさ。大衆は頭のいい人間を見たいのではない。見たいのは金だ」

この言葉は、製薬企業の社長。聴聞会前に、ディックに対する反論として言い切ったものだ。

映像のラストシーンは、チャールズを見送るディックと、彼を一瞥して小さな笑みを返した後、表情を引き締めてタクシーに乗り込んでいくチャールズの姿を映し出した。



4  社会派映画の最高到達点 ―― 「見栄えのするインテリ」の内面分析を中心に



ハービー(右)
本格的な社会派映画の価値の真髄は、「映像を観る者が登場人物の誰にも特段の共感感情を抱かせないところにある」と私は考える。

しかし、その実情は、登場人物の誰にも特段の共感感情なしに済まない映像が、普通に溢れている事実を否定できないのである。


しかし、この映画は違っていた。

ラストシーンで、「勇気ある自己批判者は賞賛される」という精神風土を逆手に取ったかのようにも見えた、その真摯な弁明が覆される事態を招来した、本作の実質的な主人公であるチャールズは言わずもがな、その父親の脱俗的な教養人も含めて、彼を追求するディック(原作者がモデル)とその妻にも、それぞれ等身大の「人間臭さ」を身体表現させていて、まさに「映像を観る者が登場人物の誰にも特段の共感感情を抱かせない」という社会派映画の価値の真髄を、殆ど完璧なまでに表現し切っていたのである。

その点こそが、本作を評価する最も重要な要素だったとも言えるだろうか。


―― 以下、筆者が社会派映画の最高到達点と絶賛して止まない本作の批評に入る。


そのテーマの本質は、「優れた社会派ドラマは、優れた人間ドラマに補完される」という冒頭の一文を敷衍させて、映像の主人公のチャールズの内面分析を中心に言及していきたい。

社会派映画としての本作の骨格を、チャールズという男の内面深くに肉薄した感のある精密な心理描写が支え切っていた、という把握が本稿の中枢の問題意識にある。そんな印象が最も強い映像だったからだ。

例えば、「ヤラセ」のクイズ番組に恐々とアクセスしていく青年の心理が、既に逃げ場を失った状況下で手に入れた、えも言われぬ快楽のシャワーを存分に被浴した心理に引き渡されたとき、彼の隙だらけの自我は殆ど非武装の爛れ方を露呈していた。

この辺りの心理描写は抜きん出ていて、さすがに、「普通の人々」という傑作を世に送った作り手の力技を彷彿させるものがあった。

ともあれ、チャールズの自我が非武装の爛れ方を露呈していたのは、甘美で危険なトラップが迫り来るリアリズムの攻勢に対して、彼の中に充分な免疫力が形成されていなかった心理を検証するものであるだろう。

しかし言葉を換えれば、そのような甘い罠の誘(いざな)いを何処かで待望する心理が、彼の中に伏在していたとも考えられる。

名家の御曹司でありながら、詩人でもある父が教鞭を執る一流大学の「特別講師」の地位に甘んじている現状に対して、特段に顕在化された不満感情が噴き上がっていく心理的ラインに届かなくても、決して彼は「自分充分」という実感を手に入れていた訳ではないだろう。

大学のキャンバスでも滅多に遭遇することのない父との距離感において、空間的近接度に反比例するかのように、その心理的スタンスには、「偉大な父」を絶対に凌駕できない「低位度ポジション」を自覚する者の看過し難い落差感を感受していたに違いない。

世俗に疎い父の、その完璧過ぎる程の教養主義が、知的文化フィ―ルドにあって充分に尊敬に値する何かであったのに比べて、その高みに全く届き得ない自分の「特別講師」という「低位度ポジション」に集約される知的風景は、主観的に何か寒々しいイメージに覆われていたのではないか。

そして、まさにそのことの認知が、脱俗的教養主義とは縁遠い情報武装によって、父とは違うアイデンティティを外部世界に見出していくという自我の展開を刻んだようにも思われるのだ。

ヴァン・ドーレン家の別荘で、父が「主催」する教養のゲームに親しむチャールズは、心のどこかで父への対抗心を柔和に表現していたし、世俗の消費文化に無関心な父に対して、テレビ出演によって多額の金銭を「働いて得ている」と反応したとき、「レベルが違う」という言葉を加えた心理には、「偉大な大学教授」が手に入れる報酬が、単に精神的な名誉の枠に留まっている事実を指摘したかった思いが含まれていたであろう。

それは同時に、自分が手に入れているものの価値が、金銭的報酬に加えて精神的な名誉も包含されていることをも意味するに違いない。

従って、一獲千金を手に入れる可能性を持つテレビのクイズ番組へのアプローチは、単に金銭的モチーフで動いたとは考えにくいのだ。

件の番組に出演し、そこでチャンピオンになり、それを継続させることによって手に入れる有形無形の価値は、恐らく、彼の中で伏在していた感情ラインに叶う何かであったと思われる。

その感情ラインが、「見栄えのするインテリ」を求めるテレビ局の思惑のラインに乗ったとき、その番組を熱心に視聴する不特定多数のアメリカ人からの賞賛をたっぷり被浴する機会を得ることで、殆ど未知のゾーンに連れて行かれてしまったのである。

未知のゾーンに連れて行かれた者が、元の世界に戻ることは容易なことではない。

それが人間の性(さが)だ。

まして、その世界に身を預け入れることに相応のモチベーションを保持していた者であれば尚更である。その世界から自分の意志でUターンできない者の、その心中に張り付いていた罪の意識を稀釈化することで楽になった自我が、それでもなお稀釈化できない感情を残しているとき、その抵抗虚弱点(この場合は、「良心性」という自我様態)を衝いてくる者の出現によって、少なからぬ動揺を来したとしても可笑しくないのだ。

本作の主人公のチャールズは決して世俗に疎くないが、それでも名家の御曹司であるという特殊な養育環境の中で、その自我の免疫抵抗能力は限定的だったであろう。

チャールズ
「33歳のナイーブな大学特別講師」 ―― これが、彼のキャラクターの枠組であったと言える。

そんなナイーブな大学特別講師の前に出現したのが、立法管理小委員会の捜査官、ディック・グッドウィンだった。

ハーバード大の首席卒というブランドイメージをちらつかせることで、相手の知的フィールドに侵入する手口を切っ先鋭く突きつける男の手法は、いかにも、国民的人気を誇るテレビ番組の欺瞞性を暴くことで名を売ろうと考えていた野心家然とした振舞いだった。

そんな野心家のターゲットの一人にされたチャールズが過剰な反応を身体表現したのも、何より彼の抵抗虚弱点を露呈していて、そのナイーブさの「致命的な脆弱性」を検証するものであった。

聴聞会に耐えるような決定的で、説得力のある証拠を持ち得ていないディックのブラフの攻勢に狼狽(うろた)えるほどナイーブなチャールズには、元々、このような「犯罪的行為」に手を染める能力など持ち合わせていないのだ。

「犯罪者」としての能力に著しく欠けたそんな男が、映像後半を通してジワジワと追い詰められていく心理は、まさにこの男の「致命的な脆弱性」を露呈するものであった。

聴聞会へのチャールズの召喚状を携えていたディックは、「チャールズを救うことと、彼を告白させること」を同時に考えていたが、聴聞会でチャールズが疑惑否定の証言をする事実を聞き知って窮地に追い込まれていた。

当然の如く、ディックの本来の狙いが、チャールズの信憑性の高い決定的な証言を介して、テレビ局と製薬企業の「犯罪性」を糾弾することにあったからだ。

そんなディックが、最後の勝負を賭けた行動に走った。

チャールズを待ち構えていたディックは、自分の伯父の浮気の話をしたのである。

そのときの会話を再現する。

「数年前、僕の伯父が伯母に浮気を告白した。身内で小さな話題に」とディック。
「小さな?」とチャールズ。
「なぜって、8年も前の浮気だからさ。僕は言った。“黙ってりゃ、バレなかったのに”。伯父は答えた。“黙っている方が辛い”」
「僕は我慢できるかも・・・」

チャールズの弱々しい言葉がそこに捨てられたが、明らかに、召喚状を提示されたナイーブな男の内側で葛藤が生じていた。と言うより、既に彼の心中で、抵抗虚弱点である「良心性」という自我様態が大きく揺れていて、疑惑否定の証言をする相当の厚顔さと覚悟が不足していたとも思えるのである。

その証拠に、ディックの伯父の話を聞いた直後、彼は遂に父に真相を告白してしまうのだ。

彼はそれ以前にも父に告白しかけたことがあったが、その告白を後押しする強い感情のサポートが不足していたので、結局、そのときは腰砕けに終わってしまった。

なぜチャールズは、このとき、父への告白に踏み切ったのか。

詰まる所、もう彼の自我には、抵抗虚弱点である「良心性」という自我様態が爛れ切っていて、それを内側で封印しておくことに限界を感じ取っていたのだろう。

何しろチャールズという33歳の独身男は、「質問だけ聞いておく。答えは僕が考える。その方が良心の呵責が減る」というような青臭い言葉を、社会的な倫理感が不感症になっていて、厚顔無恥なる確信犯である、件のNBCプロデューサーに吐露するほどのキャラクターの持ち主であることを認知せねばならない。

彼は一時(いっとき)でも早く、重い心を楽にさせたかったのだ。それ以外ではないであろう。

ハービー
この「繊細さ」は、レストランで平然とハービーに「ヤラセ」を求める会話を放つ、番組プロデューサー、ダン・エンライトの「厚顔さ」と比較すれば、抜きん出て際立つ「脆弱さ」であると言っていい。

従って、少しでも心の負担を軽減させるためには、彼には父の内懐に抱かれるしかなかったのだ。

父に告白することによって、いずれ全ての真相が明らかになることへの恐怖感を中和化し、父に与える精神的ダメージを軽減させたかったのだろう。

自我の統御機構が十全に作動しなくなったとき、飽和点に達したディストレス(厳しく辛いストレス)が暴れ狂って、もう彼のナイーブな精神では、極限的とも考える〈状況〉に全く太刀打ちする何ものをも機能し得なくなってしまったのである。

その後の聴聞会におけるチャールズの「勇気ある証言」は、ディックから伯父の浮気の話をされたことが直接の引き金になったとは言え、元々、その心理的背景を考えた場合、存分に浴びた快楽シャワーの増幅の中で摩耗していた自我の内側に、それでも稀釈化できない罪悪感情がなお張り付いていたが故に、どこかで矛盾する自己像を延長させてきてしまった心の風景を無視できないのだ。

要するに、彼の中には快楽を被浴する感情を強化させる心理的文脈と、「このままでは自分がダメになる」という理性的認識による脱出願望が共存していたのである。自分の味方であると囁くディックの勝負を賭けた攻勢的アプローチは、チャールズの後者の感情を徹底的に後押ししてしまったということだ。

上述したように、聴聞会でのチャールズの長広舌は、「どうすれば、自分を軽傷で済ますことができるのか」という計算のもとに開かれた「巧みな弁明」だった。

しかし前章でも言及したように、この「巧みな弁明」は、一人の聴聞委員の本質的で切っ先鋭い煩悶によって自壊するに至った。

穿(うが)って言えば、「勇気ある自己批判者は賞賛される」というアメリカ人好みの精神文化風土に乗じて、苦渋のポーズを上手に小出しにしながらも、表玄関から堂々と帰還する腹積もりだったに違いないチャールズの、その「姑息な戦略」を破綻させる映像の予定不調和の流れ方は、「映像鑑賞者が、登場人物の誰にも特段の共感感情を預けさせない」という社会派映画の真髄を見事に表現し切っていたと言えるだろう。

チャールズ父子(左)
失うものをできる最小限に留めようと考えたと思われるチャールズが失ったものは、決して彼の予定調和のラインの範疇に収まり切れない程のリスクを随伴していた。

加えて、彼を守り切ろうとしたディックの思惑も大きく削り取られたばかりか、チャールズの父親の楽天的な物語の括り方も自壊するに至ったのである。

元々、自分から仕掛けたトラップではないにしても、テレビ局のアンモラルな番組作りの本質を正確に認知した後でも、「ヤラセ番組」から我が身を解放させなかったチャールズの欲望ラインの爛れ方は、普通の人間の自我の脆弱さの範疇から大きく逸脱するとは言えないかも知れないが、それでも、「自分が犯した行為に対して、きちんと落とし前をつける」という社会正義の厳粛さの中では、彼の受けたペナルティは当然の帰結であった。

少なくとも、映像の作り手は、そのような文脈でチャールズの内面に肉薄し、彼に関与したテレビ局のスタッフ、そして彼を追求した野心的な捜査官に対しても、限りなく等距離の視座で、且つ客観的に、そこに捨てられた様々な人間的な思いを記録し切ったのである。

映像の骨格を支えたチャールズの心理の振幅を重点的に描き切った映像の精密さが、社会派映画の真髄を体現した一級の傑作に仕上げたと言えるだろう。

とりわけ、ディックの出現以降のチャールズの不安、葛藤、ジレンマ、恐怖心等の心理の緊張感を、丹念に描き出した本作の秀逸さは抜きん出ていた。

間違いなく、本作は社会派映画の最高到達点を極めた大傑作である。

今なお私は、そう確信して止まないのだ。



5  【余稿】  〈映像の虚構性の生命線は、その映像の「完成度」の問題に尽きるということ〉



例えば、「Focus」、「破線のマリス」などの作品を通して、テレビメディアの欺瞞性を追求した俊英の映像作家である井坂聡の、その切っ先鋭いシャープな映像は、邦画界にあって出色の仕事を果たしていると、私自身とても高く評価している。

それでも両作共に「殺人事件」という刺激的な描写の導入なしに映像を括り切れなかった現実を思えば、「マッドシティ」(コスタ・ガブラス監督)、「ネットワーク」(シドニー・ルメット監督)などの著名な作品も含めて、どうやら「テレビメディアの狂気」をテーマにする映像は、発狂したニュースキャスターをテロリストに機関銃で暗殺させ、それが全米に生放送で放映されるという極端な描写の過激ぶりによって、アカデミー賞、ゴールデングローブ賞を独占した、「ネットワーク」のような戯画化した「傑作?」の域に達していなければ評価の対象にならないようだ。

ロバート・レッドフォード監督
ロバート・レッドフォード監督による「クイズ・ショウ」は、良かれ悪しかれ、以上の刺激的な映像群とは一味も二味も異なっていて、登場人物たちへの殆ど等間隔の距離を確保した視座を最後まで崩さず、主人公の内面描写を鋭利に抉り切った一級の社会派映画に仕上げていたのである。

殺人事件やド派手なアクション、ヒロイズム、過剰な狂気等の描写なしに、人間の心の世界を丹念に記録する地味な描写を、ひたすら正攻法に繋いでいく映像に徹する気概があれば、これほどの感銘深い映像が構築し得るという典型的な作品 ―― それが「クイズ・ショウ」だった。


―― ここまで本稿を繋いできて、脱稿しようと思ったら、海の向こうからとんでもないニュースが飛び込んできた。

何と、テレビの視聴率アップのために、番組の司会者が5件もの殺人依頼の疑惑が持たれて、逮捕拘束されているというのだ。

以下、共同通信社が配信する驚愕すべき記事を掲載する。

「【共同】ブラジルで自ら司会者を務めるテレビの犯罪番組の視聴率を上げるために何者かに殺人を依頼した疑いが持たれ、逃走中だった北部アマゾナス州のワラセ・ソウザ元州議会議員が9日、警察当局に出頭、麻薬密輸の疑いで身柄を拘束された。ソウザ容疑者は容疑を否認している。

AP通信などによると、直接の容疑は麻薬の密輸。これに絡み、対立する麻薬密売組織の幹部殺害を指示した疑いもあるという。同容疑者は視聴率アップのため、ほかに少なくとも5件の殺害を命令し、警察より早く現場に駆け付けるよう番組スタッフに指示していた疑惑が持たれている」(「NIKKEI NET」 2009年10月11日より)

「ネットワーク」
これが事実であるとすれば、「ネットワーク」で描かれた世界が、「テレビ業界の内実を暴露したルポルタージュである」(ウイキペディア)というシドニー・ルメット監督の言葉に、的確な予言性を被せた指摘として俄に現実性を帯びてきてしまうのだ。


然るに、その能力の及ぶ限り、人間の世界にはどんなことでも起こり得ると考える私としては、それらを「とんでもないニュース」として情報受信するが、時待たずして、別に不可思議な事件ではないと冷静に受け止める姿勢に戻されていくだろう。

従って、しばしば「とんでもないニュース」が出来するということが、「ネットワーク」等の刺激満載の映画の評価を特段に高めることとは別の問題であり、その事実と映像の虚構性の位相の違いだけは認知しているつもりである。

映像の虚構性の生命線は、偏(ひとえ)に、その映像の「完成度」の問題に尽きるということだ。それ以外ではないだろう。

(2009年10月)

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