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    1 か月前

2011年8月22日月曜日

白いリボン('09)     ミヒャエル・ハネケ


<洗脳的に形成された自我の非抑制的な暴力的情動のチェーン現象を繋いでいく、歪んだ「負のスパイラル」>



序  忘れ難き一級の名画と出会ったときの情感の残像が騒いで



こんな映画を観たいと切望して止まない映画と出会ったときの興奮と感動が、鑑賞後、何日経っても自分の脳裡に焼き付いていて離れない。

ここで提示された問題の多くは、人間の本質に関わる厄介なものばかりで、私が尊敬するイングマール・ベルイマンの映像と知的に格闘しているときの情感の残像が煩く騒いでしまって、少なくとも私にとって、それは決して心地悪い体験ではなかった。

しかし、独自の映像宇宙を構築したベルイマン映像に比べると、問題の掘り下げが浅いように印象づけられたのは事実。

それは、本作が「ミステリーの群像劇」という枠組みに縛られているために、澱のように見えない辺りにまでじわじわと肉薄し、問題の根源を剔抉(てっけつ)していくという技巧の方略が有効性を持たなかったからに違いない。

分りやすいハリウッド映画全盛下にあって、ミステリーのシネマディクトをも集客する商業戦略と睦み合うことなしに、今や、一本の名画が不朽の価値となる時代の到来と無縁になってしまっているのだろう。


それでも、ミヒャエル・ハネケ監督(画像)が構築した映像の凄みは、一貫して妥協を拒む冷厳なリアリズムと、曖昧さの中でも重要な伏線を張り、その多くを回収していった心理学的且つ、論理的構成力の完成度の高さにおいて、最後まで微塵の揺るぎもなかった。

既に私にとって、この映画は忘れ難き一級の名画となった所以である。



1  「純真無垢」の記号が「抑圧」の記号に反転するとき



物語の梗概を、時系列に沿って書いておこう。

1913年の夏。

北ドイツの長閑な小村に、次々と起こる事件。

村で唯一のドクターの落馬事故が、何者かによって仕掛けられた、細くて強靭な針金網に引っ掛かった事件と化したとき、まるでそれが、それまで連綿と保持されていた秩序の亀裂を告知し、そこから開かれる「負の連鎖」のシグナルであるかのようだった。

以下、それらの「事件」、「事故」や、看過し難い出来事を列記していく。

まず、冒頭のドクターの事故を忘れさせるような悲劇が出来する(ナレーターでもある村の教師の言葉)。

荘園領主でもある男爵の納屋の床が抜け、小作人の妻が転落死するが、男爵に恨みを持った小作人の息子は「事件」を確信して止まなかった。

同日、牧師の息子であるマルティンが、橋の欄干を渡る危険行為を教師が目撃し、本人は死ぬつもりだったと告白。


父に伝えられることを恐れるマルティンには、既に物語の序盤で、定時の帰宅時間に遅れた姉のクララと共に厳しく叱咤されていた。

以下、その際の父の説教。

「今夜は、私も母さんもよく眠れない。お前たちを打つ私の方が痛みが大きいのだ。お前たちが幼い頃、純真無垢であることを忘れないようにと、お前たちの髪や腕に白いリボンを巻いたものだ。しっかり行儀が身に付いたから、もう必要ないと思っていた。私が間違っていた。明日、罰を受けて清められたら、母さんに白いリボンを巻いてもらえ。正直になるまで取ってはならない」

「白いリボン」とは、厳格な牧師の父にとっては「純真無垢」の記号であるが、それを巻かれる子供たちにとっては、「抑圧」の記号でしかないことが判然とする説教の内実だった。



2  子供たちの「従順過ぎる自我」の心理的背景にある、専制君主的な男たちの振舞い




秋の収穫祭の日。

男爵家のキャベツ畑が荒らされるが、犯人は、転落死した小作人の妻の息子だった。

その夜、男爵家の長男が逆さ吊りの大怪我を負い、父を激昂させる。

「犯人は我々の中にいるのだ。私は罪人には必ず罰を与える男だ」

小作人を集めた前で、村人の半分を小作人に雇う男爵の檄は、村人たちを震撼させるに足る劇薬だった。

男爵家の長男の問題の責任を問われて、男爵家の乳母であるエヴァが解雇され、彼女に好意を持つ教師に泣きつくというエピソードが拾われていた。

まもなく、事件に怯(おび)える男爵夫人は子供たちを連れて、実家に帰っていく。

冬。

家令(事務・会計管理、使用人の監督等の任務に就く)の赤ん坊が風邪をひくという小さな出来事を、映像は拾っていく。

その風邪の原因は、赤ん坊の部屋の窓が開いていたことにあり、この辺りから、「事件」、「事故」に子供の関与が濃厚になっていくという伏線が張られていくが、その伏線の回収は遅々と進まず、いよいよミステリーの濃度を深めていくのだ。


男爵家を解雇されたエヴァの両親に、意を決して、教師は求婚に行く。

しかし、父親から結婚を1年待つように、一方的に通告されるばかりで、その些か命令口調の通告を受容する以外にない善良なる教師が、そこにいた。

既にエヴァは町で働いていて、ここでも、娘の良縁の可能性を捨てていない厳格な父親の意識が見え隠れするが、しかし、その本音は、教師の人間性を観察するための「猶予期間」であったのだ。

また、「事故」が出来した。

男爵家の荘園の納屋が火事になり、小作人が縊首しているのが発見されたのである。

更に、退院したドクターは助産婦との男女関係を続けていたが、彼は信じ難い言葉を吐き、彼女に別れを告げるのだ。

「お前は醜く、汚く、皺(しわ)だらけで、息が臭い。ふぬけた死人のような顔をして。世界は壊れない。お前にも私にも」

このように、映像は、この村に住む男たちの専制君主的な振舞いを次々に見せていくのである。

この専制君主的な振舞いこそ、村の子供たちの「従順過ぎる自我」の心理的背景にあることを示していくのだ。

そのドクターは、あろうことか、14歳の自分の娘であるアンナとの近親相姦の関係にあった。

そのことを助産婦に指摘されたドクターは、「お前は黙って死ね」と罵るのみ。

その辺りに、冒頭のドクターの落馬事故との因果関係があるらしいことを、完璧なまでに論理的な映像は、観る者に提示していくのである。



3  「悪意や、嫉妬、無関心や暴力よ」という闇の文脈



春。

愛児のジギと新しい乳母を連れて、男爵夫人は村に戻って来た。

助産婦のダウン症の息子、カーリが顔面血だらけの状態で発見され、視力を失う事件が出来する。

この辺りで、一連の「謎の事件」のの犯人が、村の子供たちの集団的な行為であることが判然としてくる。


神学の授業での「仕切り方」を見る限り、牧師の長女のクララがそのリーダーであることをも、観る者は理解し得るだろう。

近代的思考を持つ男爵夫人は、この時点で、自分と子供たちの人生の行く末を考え、今度ばかりは意を決して、冷酷な性格の夫に告白するに至る。

以下の通り。

「でも、ここにいられない。言いたくないけど、あなたと一緒にいても、少しも楽しくないの。子供たちだって、ここではとても育てられない。ここを支配しているのは、悪意や、嫉妬、無関心や暴力よ」

「ここを支配しているのは、悪意や、嫉妬、無関心や暴力よ」という男爵夫人の言葉こそ、本作を貫流する闇の文脈である。

まもなく、ドクター、助産婦とダウン症の息子カーリの姿が消え、一連の「謎の事件」の「真犯人」こそ、逃亡した彼らの仕業だという噂が、あっという間に村全体に広がっていく。

その後、教師はエヴァと結婚し、徴兵される。

第一次世界大戦が勃発したのである。

終戦後、教師は町で仕立屋を開き、村人たちとは2度と会うことはなかったというナレーションによって、ナレーターとしての教師の役割は形式的には完了する。

但し、この間、助産婦の離村に際し、彼女からカーリの事件の犯人が判明したと聞いたことから、彼なりに調査していく経緯が描かれるが、そこで得た教師の情報は、牧師の子であるクララとマルティンの姉弟が一連の「謎の事件」に深く関与している事実であった。

それを確信した教師は、直接、牧師の自宅を訪問している。

そこでの牧師との緊迫した会話については、本作の核心的な内実を含むので、後述する。



4  洗脳的に形成された自我の非抑制的な暴力的情動のチェーン現象を繋いでいく、歪んだ「負のスパイラル」



ここからは、際立って鋭利な構築的な映像の主題性にのみ限定し、その因果関係を箇条書きで列記していく。

映像を支配する闇の主体が、小村で呼吸を繋ぐ子供たちであることを前提にして、物語の構造を要約すると、以下の通り。

【児童への厳しい教育を日常化させた、父権主義的なプロテスタンティズムをベースにした、権威主義的で抑圧された閉鎖系の階級社会の定着】(欺瞞的な「負のコミュニティ」の常態化)

↓ 

【閉鎖系の階級社会内部での、様々な権力関係の無秩序な集合的形成】



【特段に目立つことがない、ごく普通の欺瞞が蔓延する、閉鎖系の階級社会でストックされた日常的なストレスが、厳しい教育の日常化によって作られた自我を持つ、村の児童や貧しい小作人に象徴される社会的弱者への攻撃的転嫁の常態化】



【排他主義・権威主義的で抑圧された閉鎖系の階級社会でストックされた、日常的なストレスの攻撃的転嫁の対象と化した、社会的弱者を覆う閉塞感のストックが、いつしか加速的に肥大していくことで、それが集合された悪意(クララをリーダーにする「子供十字軍」という稚拙な組織構造)を形成し、噴き上げていく】=【その構造は、笑みを奪われるほど、厳しく躾けるプロテスタンティズムの教育環境の常態化によって、却って被抑圧感情を分娩させていく児童の自我のうちに、彼らが視認した大人社会の欺瞞や理不尽な暴力の様態を、彼らが選択し得る反感の身体化という、屈折した悪意に変換させる事態に収斂される】




【以上の文脈を敷衍し、ここでエーリッヒ・フロム(画像)の「自由からの逃走」(東京創元社刊)を援用(注)すれば、この現象は、ストレスの掃き溜め先であった、劣等感と無力感に晒されるだけの「個の自由」よりも、明日のパンを保証してくれる、リアリズムに裏づけられない「権威への従属」に流れていく、「権威主義的性格」を形成する精神の土壌になっていくことで、社会的弱者の劣等感と無力感を希釈化する効果を持つに至る】

以上の言及を総括的に言ってしまえば、思春期に踏み込む以前に、既に、抑圧的な養育を一方的に押し付けるだけの親に反発した児童らは、洗脳的に形成された自我の非抑制的な暴力的情動のチェーン現象を繋いでいく、歪んだ「負のスパイラル」を体現させていくということだ。

洗脳的に形成されたが故に、非抑制的な暴力的情動を育ててしまった単純思考の子供たちの人格総体にとって、まさに、親の教えをチェーン化していく行為とは、欺瞞的な「負のコミュニティ」に呼吸を繋ぐ大人たちに制裁を加える戦術のうちに、「快・不快の原理」によって直截に表現する選択肢を見い出したのだろう。


(注)以下、エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」(東京創元社刊)から、最も重要だと考える一文を引用しておく。

「労働者階級や自由主義的、およびカトリック的なブルジョアジーの消極的なあきらめの態度と対照的に、ナチのイデオロギーは小さな商店主、職人、ホワイト・カラー労働者などからなる下層中産階級によって、熱烈に歓迎された。

この階級の古いひとびとは、より消極的な大衆基盤であったが、かれらの息子や娘たちがより積極的な闘士であった。息子や娘たちにとっては、ナチのイデオロギー ―― 指導者にたいする盲目的な服従と人種的政治的少数者にたいする憎悪の精神、征服と支配への渇望、ドイツ民族と『北欧人種』の賛美 ―― は、驚くべき感情的な魅力をもっていた。

ヒトラーとヘス、シュトラッサー、ヒムラー(ウィキ)
ナチのイデオロギーがなぜそんなに下層中産階級に共感をよびおこしたかという問題の答は、下層中産階級の社会的性格のうちに求められなければならない。かれらの社会的性格は、労働者階級や上層中産階級や1914年の戦争以前の貴族の社会的性格とはいちじるしくことなっていた。事実、下層中産階級や上層中産階級にはその歴史を通じて特徴的な幾つかの性格があった。

すなわち、強者への愛、弱者にたいする嫌悪、小心、敵意、金についても感情についてもけちくさいこと、そして本質的には禁欲主義というようなことである。かれらの人生観は狭く、未知の人間を猜疑嫌悪し、知人にたいしてはせんさく好きで嫉妬深く、しかもその嫉妬を道徳的公憤として合理化していた。かれらの全生活は心理的にも経済的にも欠乏の原則にもとづいていた」(「自由からの逃走」第六章 ナチズムの心理 より/東京創元社刊・筆者段落構成)



5  屈折した悪意を「正義」に変換させる、存分に魅力的な心理技巧の核心としての「イデオロギーの妖怪性」



「ある思想がイデオロギーへと変異するときはいつも、そのイデオロギーは生活がうまくいっていない人々によって支持されます。これは、テロリズムに関するすべての形式の基本モデル」(「ぷらねた~未公開映画を観るブログ」より掲載)

これは、ミヒャエル・ハネケ監督の言葉。

また、こんなインタビューも拾われていた。

「カンヌ映画祭ではとりわけアメリカ人の批評家が、『白いリボン』を、第三帝国において犯罪を行った世代の成熟を描いている作品だと判断しました。これは、簡潔な理解の仕方ではないのですか」

このアメリカ人の批評家の指摘に対して、ミヒャエル・ハネケ監督は、以下のように語っている。

「もちろん、アメリカの方はそこにとびつくのですが、しかし私はすでにカンヌでのすべてのインタビューでこう言いました。映画をそんなに切りつめてしまうべきではない、と。『白いリボン』はファシズムについての映画ではありませんし、ファシズムをまったく説明することが出来ない作品です。根本にあるのは、どこからファナティズムあるいはテロリズムが生まれたのか、という問いです」(同上)

要するに、この映画は、専制君主的な父親に虐待された子供たちが、将来的にナチス党員に育っていくことを暗示した短絡的なストーリーではない、ということだ。

これは、映像で提示された暴力の内実がナチズムの温床になるという短絡的で、矮小化された指摘に対する作り手の注意喚起であり、異議申し立てであるが、しかしそれは、映像で描かれた欺瞞的な「負のコミュニティ」が分娩する悪意の集合体が、やがて、この国を覆い尽くすであろうファナティシズム(ファナティズム)の温床になるという把握を否定するものではない。

こういうことだろう。

ドイツ帝国時代のプロイセン王国領(緑)(ウキ)
既に、統一を完了させた国民国家(1871年ののプロイセン王国の成立)の中で、そこだけは、「アーリア人の民族的純血の厳守」という排外主義の物語によって特化され、仮構された「敵性民族」や、社会的弱者に対する集中的ハンティングのうちに、「『内なる攻撃性』を転嫁せよ」というアジテーションに矮小化される文脈に収斂されるに違いない、洗脳的に形成された自我の非抑制的な暴力的情動の「負のスパイラル」の集合体が、この国のファナティシズムの充分なる温床になるという怖さについて、本作は映像的に考察した一篇であるということだ。

映像のラストで、賛美歌を歌う子供たちの声の中でフェードアウトしていく意味は、決して蔑ろにし得ない何かだったのだ。

即ち、やがて顕在化していく、仮構された「敵性民族」や、社会的弱者に対する特定的で、集中的なハンティングを全体主義の組織の構造性のうちに束ねる、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の力強い立ち上げが、全てを解決してくれると思わせる宗教色の強い思想と睦み合うことで、いつしか、誰にも止められない「イデオロギーの妖怪」と化した怖さが、そこ寝そべっているのである。

それは、イデオロギーの絶対主義が、常に相対的でしかない、巷間の思想が撒き散らしていた悪意の集合体を、「憎悪の共同体」のうちに一気に丸のみにした瞬間だった。

何よりそれは、洗脳的に形成された自我の非抑制的な暴力的情動の集合体が内包する、屈折した悪意を「正義」に変換させる、存分に魅力的で、手の込んだ操作的な心理技巧の核心であったと言えるだろう。

本作の作り手は、この辺りの怖さを訴えたかったに違いない。



6  ナレーターとしての教師の存在の意味についての考察



最後に、物語を2点において言及してみる。

その1点。

この映画の語り手である、31歳の教師の存在の意味である。

近村から赴任して来ていた教師と、彼の恋人である17歳のエヴァだけは、一貫して、「殆ど完璧な善良なる者」という風に描かれていたが、作り手が彼らの振舞いのうちにのみ、「救い」を見い出したという見方は感情的に理解し得るが、果たしてそんなニュートラルな「第3者」的ポジションとしてのみ、この晩年の教師の述懐を受容していいのだろうか。

或いは、権威主義的で抑圧された閉鎖系の寒村に蔓延する「悪徳」を相対化する象徴的人格像として、「殆ど完璧な善良なる者」である教師の存在が設定されたのか。

それとも単に、物語のナビゲーターの役割でしかないのか。

勘繰って言えば、こんな風にも読み取れないか。

マイダネクの監視塔と有刺鉄線(ウキ)
即ち、彼を知識層(後に、仕立屋になった)と呼んでしまっていいのか迷うが、少なくとも、一連の「謎の事件」に真摯に対応した感のある、このような「殆ど完璧な善良なる者」が多く存在しながらも、ホロコーストに流れていく、後の「第三帝国」が分娩したファナティシズムの澎湃(ほうはい)を食い止められなかったという相応の無力感の有りようを、結局、問題解決の艱難(かんなん)さをあっさりスル―する、その辺りの心理的矛盾の芽を、「誠実に動いた努力の果ての良心的な傍観者」という規定によって摘んでしまう、所謂、「認知的不協和理論」の防衛戦略の様態を垣間見ることも可能なのである。


「誠実に動いた努力の果ての良心的な傍観者」という把握のうちに自足し得る防衛戦略の様態を、私は決して指弾している訳ではないが、ただ、ファナティシズムの澎湃のプロセスを囲繞する因子には、心理的矛盾の解消に熱心であったに違いない知識層の、この種の「認知的不協和理論」の発現が、看過し難い何かとして存在した事実を指摘したかっただけである。


「殆ど完璧な善良なる者」であった、31歳の教師の「立ち位置」を、そのようにも読み取れる存在として見るのは傲岸(ごうがん)過ぎるだろうか。



以上が、私の些か強引過ぎる解釈だが、ここからは、冒頭のナレーションについて簡単に言及しておこう。


「これから話すことが全て真実か、あまり自信はない。噂で聞いた部分もある。年月を経ても不明なことがたくさんあるし、未だに解かれない謎も多い。それでもあの奇妙な出来事を、誰かに話しておくべきだと私は思う。あの出来事こそが、あの当時の我が国そのものなのだ」

以上が、この物語の冒頭の老人のナレーション。

この文脈を読み解く限り、ナレーターである晩年の元教師は、恐らく、20世紀の世界史を決定的に変容させた第二次大戦後の、その相対的平和の安定した状況下で、本作で描かれた忌まわしき出来事についての懐古を綴っていることが想像される。

即ち、「あの出来事こそが、あの当時の我が国そのものなのだ」という言葉に象徴されるように、明らかに、この作り手は元教師のナレーションを介在にして、歴史の本質に関与する北独の小村の忌まわしき物語を語らせていて、それが、その後じわじわとこの国に蔓延していった、看過し難きファナティシズムの尖り切った現実を暗示させるものになっていると言える。

しかし、このナレーションの中に、その後の歴史についての言及が全くなかったのは、既に私たちにとって、それが「共有すべき負の遺産」になっているが故に、「言わずもがなの現実」であるからだろう。

「言わずもがなの現実」を分娩した、果てしない闇の広がりについて、そこだけは怯(ひる)むことなく照射させたに違いないのだ。

そう思わせる一篇だった。



7  「村の実質的な精神的権力者」の相貌を剥き出しにしていく男の本性



2点目。

それこそが、最も由々しき問題提示になっているので、詳細に言及したい。

以下の把握である。

何より、本作を権力関係において仕切っていたのは、領主である男爵でもなければ、インモラルのドクターでもなく、紛う方なく、欺瞞の極致を体現した牧師であるということだ。

このことは、ジギの事件の直後、「日曜の礼拝の後、牧師の許しを得て、男爵が話をした」というナレーションによっても判然とするだろう。

牧師こそ、プロテスタンティズムによって精神的に統一されていた、村内における「神の代弁者」だったのだ。

その牧師の欺瞞の極致を、以下のエピソードは雄弁に語ってくれるだろう。

例えば、牧師が可愛がっていた小鳥を串刺しにした、長女クララの「犯罪性」を明瞭に認知しつつも、普通に堅信礼(プロテスタント諸教会において、幼児洗礼者が教会の正会員となる儀式)を受けさせ、特段に咎(とが)めることをしなかった。

ポーランドの堅信礼(イメージ画像・ブログより
その堅信礼で、聖餐(ここでは、イエスの血としてのワインに口をつける儀式)に尻込みした娘のクララに対して、父である牧師は、クリスチャンとしての資格を強引に付与することで、「犯罪」に関わる娘との「共犯関係」を作り上げてしまったのである。

クレバーなクララはこのとき、自分の父親の度し難き欺瞞性を見透かして、恐らく、一連の「謎の事件」の主導者としての行為を確信的に延長させてしまったと思われる。

ラストシーン近くで、助産婦のダウン症の児童に対する暴力行為の主導者として、村の教師から疑義を持たれても、父である牧師が、自分たち姉弟を守ってくれるだろうという確信があればこそ、詰め寄る教師に対して、事件との関与を明瞭に拒絶し切ったのである。

そして、案の定、教師からその件を指摘された牧師は、「名誉」を頑として堅持するが故に、事件の本質を「隠蔽」するに至ったのだ。

その辺りの会話を再現してみよう。

「先生は、自分の生徒や私の子供が犯人だと言うのかね?」

これは、教師の間接的な指摘に対する、件の牧師の反応。

小さく首肯する教師に、牧師の反撃は一気に畳みかけるまでには至らなかった。

噴き上がる感情の整理に、ほんの少し手間取ったからだ。

「分っているのか。君は正気で・・・」

ここまで言葉を放った時点で、明らかに、牧師の心の動揺が観る者に伝わってくる。



牧師は、そこで一瞬の「間」を取って、それでも収まらない感情を言葉に繋ぐのだ。

「君がこんな醜悪な話をするのは、私が初めてなはずだ。もし、このことで君が誰かに迷惑をかけたり、誰かを告発して、家族や子供の名誉を公に汚したりすれば、ここで、はっきり言っておくが、君を刑務所に送るぞ」
「でも・・・」

反駁するために、教師は口を挟もうとするが、相手の男は、「村の実質的な精神的権力者」としての本性を露わにするのだ。

「私は牧師として様々な経験をしてきたが、こんな不快な話は初めてだ。君は子供が分っていない。だから、こんな低俗な間違いを犯すのだ。心が病んでいる。君のような男に、子供たちを任せておいたとは!この件は役所に報告しておく。出て行ってくれ。もう二度と顔を見たくない」

興奮して捲(まく)し立てているが、そこに垣間見えたのは、「村の実質的な精神的権力者」の相貌を剥(む)き出しにしていく男の本性であった。

恐らく、薄々感じ取っていた我が子の「犯罪行為」を、このとき確信にまで高めた可能性があったにしても、件の牧師は、その教師に権力的な恫喝を加えながら、「許し難き大人」(ドクター)や、嫉妬の対象となる上位階級の子弟(男爵家のジギ)のみならず、遂には、最も立場の弱い発達障害児(ダウン症の児童カーリ)への暴力にまで加速させていったに違いない、長女のクララを庇い切ったのである。

この一連の「謎の事件」のエピソードの最終地点にこそ、この村の「負のコミュニティ」の爛(ただ)れ切った様態が露わにされ切っていて、映像に映し出されないものの怖さが沸点に達したと言えるのだ。



8  「哀れなる少年」 ―― 「汝の名はマルティンなり」



マルティン
それにしても、「哀れなる少年」 ―― 「汝の名はマルティンなり」である。

一方的に、牧師の父から罪悪感を押し付けられるだけの少年は、自慰行為のペナルティをも受け、両手を縛られて就眠に入るのだ。

少年の涙の筋の痛々しさは、なお壊れないで耐えている思春期前期の自我の、それ以外にない呻きであり、理不尽な言語暴力への恐怖の戦慄である。

発達課題において、最も大切な思春期前期の自我の胎動を破壊する、罪悪感情の権力的な刷り込みによって分娩された、自死への誘(いざな)いの危機を運良く越えても、クララが仕切る「子供十字軍」の縛りの中では、少年の涙の筋の痛々しさの行方が「悪意」を加速させる、洗脳的に形成された暴力的情動のチェーン現象を繋いでいく、歪んだ「負の系譜」を体現させていくだけなのだ。

自死以外に選択肢が存在し得ない地獄の沼に搦(から)め捕られていて、極度の過緊張の精神状態から、常に表情を強張らせているのだ。

少年の繊細過ぎる自我が落ち着く先は、思考停止のファナティシズムの世界に吸収されていく以外になかったのか。

「哀れなる少年」 ―― 「汝の名はマルティンなり」だったという外ないだろう。


「哀れなる少年」の青春の輝きもまた、罪悪感情の権力的な刷り込みよりも巨大なシステムの中でのみ保証されるのだろうか。

そして、この映画の中で由々しき描写は、家令の息子が男爵家の長男であるジギの笛を奪って、ジギを池に放り込むという直接的暴力を行使したことが露見し、父である家令に激しく殴打されながらも、その父が離れるや、此れ見よがしに笛を吹き鳴らすシーンである。

それは、圧倒的な権力関係で父子関係を結ぶ「負のコミュニティ」にあっても、既に、思春期に達した家令の息子の反抗期現象という、心理学的に目立った枠組みを突き抜けて、少年の暴力的情動が抑制不能な状態を顕在化させてきた事実を裏付けるものだったと言っていい。

同時にそれは、父の飼っていた小鳥を串刺しにしたクララと同様に、隠れ忍んで、暴力的情動を形成させてきた「子供十字軍」の「聖戦」が、もはや、悪徳の象徴でもあったドクターの家族を離村させるほどの直接性を持ち得たことを意味するだろう。

「子供十字軍」の暴力的情動が、その噴き出し口を求めて止まない「病理」を顕在化させてくる辺りに惹起したのは、遥かに巨大な暴力である第一次世界大戦の勃発だったという流れは、この映画の本質的な問題提示をより鮮明にさせる何かだったに違いない。


一切を吸収し、丸吞みしていった〈大状況〉の風景が決定的に変容するところでフェードアウトしていくときに流れる、神を讃える「純朴なる少年少女たち」の透明な声。

そこで、タクトを握るのは、牧師に「君を刑務所に送るぞ」と恫喝された教師だったというアイロニー。

今や、この村は、〈大状況〉の風景の決定的変容の坩堝(るつぼ)の中で、一切の矛盾をも溶かしゆくパワーを持ち得てしまったのである。

それは、何かが開かれ、そこで開かれた新しい未知なる世界への誘(いざな)いでもあったということなのか。



9  ミステリー部分で読み解く由々しき意味につて ―― 余稿として



本稿の最後に、ミステリー部分で読み解く由々しき意味を考えてみよう。

ミステリーには殆ど関心がない私だが、敢えて、本作をミステリー部分で読み解く意味があるとすれば、以下の文脈にまとめられるだろうか。

即ち、本作の物語がドクターの「落馬事故」によって開かれ、そのドクターの血を分けた可能性がある、助産婦の子供であるカーリに対する暴力によって閉じられたという文脈である。

まず、ドクターの「落馬事故」。

ここからは私の主観的推理だが、助産婦との不倫に飽き飽きしていたドクターが、長女である美形のアンナに対して、未だインセストに至らずとも、そこに流れていくと思わせるセクハラを繰り返していたに違いない反徳的な行為が存在していたということ。

従順で心優しいアンナには、父の不徳に対して彼女なりの拒絶反応を示していたにも関わらず、そのセクハラへの防止が自分の力でどうすることもできない現実を感受したとき、彼女は牧師の長女であるクララに相談したと考えられる。


恐らく、厳格なプロテスタントである父から、「思春期の性」に関わる行為が、「白いリボン」を巻く対象に値する「悪徳」であると教え込まれていたに違いないクララやマルティンが、人知れず悩むアンナの苦痛を知ったとき、ドクターの存在自身が「天誅」を下すべく悪徳的なる人物として特定され、密かに、ドクターに対するペナルティの行使を考えていて、その大雑把な「秘密の共有」が、クララを頂点とする「子供十字軍」の中で存在していたのではないか。

アンナもまた、それに強い異議を唱えなかった。

しかし、ドクターの「落馬事故」に際して驚きの表情を露わにしたアンナにとって、「子供十字軍」の立ち上げによるペナルティの行使は、優しい性格の彼女には容易に受容できない何かだったのだろう。

だからクララは、ドクターへのペナルティの詳細な内実をアンナに説明することなく、ドクターを屠ったのである。

以上は、私の主観的推理の仮想ラインの一つだが、実は、以下の見方も相当の説得力があると考えている。

アンナ
即ち、アンナに対するドクターのセクハラが開かれたのが、ドクターの退院以降であるとという把握である。

退院したドクターがアンナに年齢を聞くシーンがあったが、このシーンは相当に意味深であると言っていい。

要するに、アンナに対するドクターのセクハラが、いきなりインセストに及んでいったという見方である。

或いは、そこにインセストに及ぶセクハラ的暴力が介在したとしても、プロテスタンティズムによって精神的に統一されていた村内において、「その陰険さが不幸の元ね」(「黙って死んでくれ」と言われた助産婦の「反撃」)と非難されるほどのインモラルの振舞いは、不倫関係の延長で「父に待望されない子供」であったカーリを産んだ助産婦と同様に、悪い噂が絶えなかったドクターへの「天誅」を必然化したに違いない。

従って、インモラルの振舞いよって悪い噂が絶えなかったドクターこそが、いの一番に「子供十字軍」のターゲットにされた理由は、ほぼこの類の把握で説明がつくだろう。

前列、左から二人目の女の子がクララ
いずれにせよ、この文脈で物語を読む限り、クララを筆頭にするであろう「子供十字軍」の行使を支えるメンタリティには、児戯的ながらも、「正義」という絶対記号が付与されていた。

当然過ぎることだが、ドクターの落馬事故によっても、歪んだパターナリズムという、そこだけは抜きん出て尖り切った風景を変容させない、北独の寒村の閉鎖系の「負のコミュニティ」の中で、男たちの専制君主的な振舞いが延長されていた。

由々しきことに、「事故」が「事件」にならなかったことによって、クララを筆頭にするであろう「子供十字軍」が内側深くに貯留した暴力的衝動は、よりエスカレートしていくに至る。

その暴力的衝動の加速的なエスカレーションが、最後には、「子供十字軍」のペナルティの対象にはなり得ない発達障害児への暴力に結ばれたとき、そこには既に、「正義」という絶対記号は雲散霧消していたのである。

そこに生き残されていたのは、単に、自分たちのストレッサーを惹起させる、目障りな対象人格に対する暴力的衝動以外の何ものでもなくなったのだ。

この暴力的衝動のチェーン現象の怖さにこそ、本作を観る者たちが眼を背けざるを得ない、人間の自我の圧倒的な脆弱さの様態ではなかったのか。

だから私は、ドクターと助産婦の時間差による、逃亡に関する正確な予測は困難であると考えられる。

少なくとも、「落馬事故」以降の「負のスパイラル」の現実を、物語の最終ステージで認知したドクターが、カーリを殺害して埋め込んだとも考えられるし、ドクターと事件の真相の情報を共有したに違いない助産婦の慌て方を見る限り、殺害目的でカーリを連れ出して離村したドクターを追って、カーリを取り戻そうとしたとも想像できるのだ。

そして、「犯人が判明した」という助産婦の言葉を受けて、重い腰を上げたという印象の強い、物語のナレーターである教師のみは事態の本質に届き得たのである。

前述したように、事態の本質に届き得たその教師に対する、牧師の権力的な反応の全てが、この物語の本当の怖さを露呈させたのだ。

しかし、教師の「正義の私的調査」の継続力は、牧師による権力的な恫喝によって封印されていく。

彼もまた〈大状況〉に呑まれることで、事件に関するごく普通のレベルの関心の度合いを希薄にしていかざるを得なかった。

仕方ないことであろう。

「殆ど完璧な善良なる者」であった教師にとって、それが彼の為し得る行為の限界だったのだ。

アムール」でパルムドールに輝いたハネケ監督
従って、自分の幸福を選んだ教師に対する作り手の視線は、一貫してニュートラルだが、その辺りについての言及は前述した通りである。

いずれにせよ、このような映像を構築し得たミヒャエル・ハネケ監督の力量に脱帽するばかりだ。

凄い映像作家と言うより外にない。

紛れもなく、現代の映像フィールドの中でNO.1のアーティストである。

(2011年9月)

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