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2008年12月18日木曜日

深呼吸の必要('04)        篠原哲雄


<「なんくるないさー」――予定調和の「青春爽快篇」が削りとったもの>




序  深呼吸の必要



6人の少女がいて、とある小学校の水泳大会で、今プールに飛び込もうとしている。その中の一人の少女は、先生の「ヨーイ!」という掛け声でゆっくりと深呼吸を始めた。ホイッスルの合図で、その少女だけがプールに飛び込むのが遅れた。しかし少女は、まるでそれが自分のリズムであるかのような泳ぎで、最後にゴールした。

映像は、ゴールした瞬間の少女の顔をアップで映し出す。

少女はそこに、自分の泳ぎを完遂したときの満足感を満面の笑みで表した。心を洗うようなチェロの心地良い音楽に乗って、映像のタイトルが映し出されたあと、陽光を浴びた小型船で深呼吸する成人女性の表情に繋がっていく。


少女が成人した今、彼女は沖縄の離島に「きび刈り隊」の一員として向かうその思いを、船上で変わらずに深呼吸することで繋いでいたのである。

映像のタイトルは、「深呼吸の必要」。

このプロローグが、映像の全てを物語っていると言っていい。


これは、深呼吸を必要とする都会の若者たちが、沖縄の大自然に抱かれた未知のゾーンで、束の間、濃縮された時間の中での苛酷な労働体験を通して、その青春の曲線的な軌道に初めて深呼吸することの素朴な喜びを、過剰な感傷を排したかのような落ち着いた映像作りの中に、様々に手の込んだエピソードで上手にまとめた一篇だったが、随所に「如何にも」というストーリー展開の嘘臭さが盛り込まれていて、それを確認するように二度目に観たとき、私には大いに不満が残されてしまった。

つまりこれは、出会い頭の一回的な感動譚で終わってしまうだけの作品だったということである。特段に悪くはないが、繰り返しの鑑賞に耐えられるだけの映像的達成には届いていない。それだけのことだった。



1  「きび刈り隊」の長い一日が暮れて



物語のストーリーラインを追っていこう。


特別に主役のいない作品ながら、一応冒頭のシーンで紹介された少女が物語の中心にいて、そこに八人の主要登場人物が絡んでいく。その内二人は、「きび刈り隊」を受け入れる沖縄のとある離島の老夫婦。彼らは名を平良(たいら)と言い、皆からそれぞれ、「おじい」、「おばあ」と呼ばれている。

その老夫婦の下に毎年、出稼ぎのようにきび刈りにやって来る放浪のアルバイターの名は、田所豊。

この田所という万年青年のような男の指導によって、都会から「きび刈り隊」としてやって来た5人の若者たちの、想像を絶する苛酷な協同作業が展開されることになるというストーリーラインは、至ってシンプルなもの。

その5人の若者たちの名は、それぞれ、池永修一、西村大輔、川野悦子、土居加奈子、そして立花ひなみ。因みに、このひなみという女性が、冒頭の描写で深呼吸したあの少女だった。


「きび刈り隊」の5人は、真冬の2月に沖縄の離島にやって来た。

そこは、上着を着る必要のない常夏の島。

この島での彼らの最初の自己紹介と、翌朝からのきび刈り作業の時間の繋がりの中での描写によって、既に物語の中枢の部分が映し出されていく。

彼らは都会の空気感をそのまま持ち込んだ生活感覚で、殆ど異文化の生活環境に放り出されるが、自分の意志で踏み入れた地からもう脱出できない。どこかで深呼吸を必要とするような何かを抱えているであろう彼らの過去は、映像の前半部では殆ど紹介されず、彼らもそこで、「実は自分は・・・」などという紋切り型の対人アプローチを意図的に回避していて、余分な感傷を不要とする、その描写の自然なリアリズムが説得的であった。

「言いたくないことは、言わなくていい」というこの家でのルールが、自己紹介の際に伝えられることで、少なくとも彼らは、その自我に刻まれた様々な過去を封印することが担保されたのである。しかしそれは、映像を後半部で劇的に展開させていくための、作り手のあざとい仕掛けでしかなかったのだ。


離島の炎天下で、きび刈り作業が始まろうとしていた。

その仕事は極めて単純だが、小さな丘の高みから見下ろす一面のきび畑を、僅か35日間でその全てを刈り取らねばならないという現実に直面して、彼らは一様に、観念と現実労働とのイメージの落差をも把握できない感情に、二の句を告げない者のように固まっていた。

人の背丈よりも高い、広大なススキ野原のようなきび畑には、7万本のきびが群生している。南国沖縄では、きびの糖度が最も高まるのは1月から3月にかけてである。しかも栽培したそのきびを、製糖工場に直ちに運ばなければならない。一度茎を刈ってしまうと、どんどん酸化が進むので糖度が落ちてしまうからだ。だからこの作業は、「援農隊」による集中的な刈り込みこそが、まさに勝負を分けるのである。

今、この7万本ものきびを、おばあを除く7人の手によって、35日間内に一気に刈り取る必要があった。ざっと計算すると、一人一日、286本のきびを刈らなければならないのである。

その作業は、まず「つくろい」といって、きびから伸びた葉を鎌で落としていく。次に、きびの上の部分(梢頭部)を切り落として、最後に斧できびの根元を刈るのである。この単純なきび刈り作業を、一人一人が夕方の6時までに終えねばならない。しかもきびの葉は、剃刀の刃のように鋭利で切れやすい。同時に鎌や斧を使うので、危険を伴う作業でもある。勿論、手袋をして作業に入るが、それを自然の生活と無縁な都会の若者たちが、時間限定で完遂せねばならないのである。それは紛れもなく、未知のゾーンに於ける未知なる戦いでもあったのだ。

歯に衣着せぬ田所の説明的指導に、まず悦子が反発した。

「そんな、威張ることないでしょ。あんたは慣れてるかも知れないけどさ」
「一応年上なんだから、“あんた”はないだろ」と田所。

年上の大人に敬語を使えない悦子に、彼は大人の男としてのプライドを普通の口調で固めて見せた。そこには、この若者たちに舐められたら、作業の遂行に支障を来すという思いも含まれていただろうが、「長幼の序」を無視する傾向が強い現代っ子たちへの不満が当然あったと思われる。

炎天下での昼食の後、午後からは女性が葉を切って、男性が茎を刈るという分業体制できび刈りの作業を終えた。疲れ切った若者たちの表情には不安感が滲み出ている。それは、この仕事があと一ヶ月続くという現実に対する不安感だった。そんな不安感以上に、都会生活の感覚と切れない悦子が、またしても愚痴を零す。

「これじゃあ、工事現場のおっさんだよぉ。ほら、見て、最悪」

自分の焼けた肌を示して、今のところ文句を言わないひなみと加奈子に感情をぶつけるが、全く反応がない。

悦子の不満の捌け口は、結局田所に向かって吐き出される以外になかった。入浴帰りの田所に、彼女は無理難題を吐瀉(としゃ)する。

「ねえ、コンビ二とか、どこにあるの?」
「あるよ。7時で終りだけどね」
「そんなの、コンビニじゃないじゃん。日焼け止めとか売ってんの?」
「ちゃんと、週に二回本島から船が来るから、欲しい物があったら、そのとき注文して。次は明後日かな」

悦子の我が儘をピシャリと封じた田所は、一人だけで入浴しようとする高校生の加奈子に対して、ルールを守ることを強要した。今度は、田所からの指示に嫌々ながら従ってきた西村大輔が、目一杯の皮肉を吐き出したのだ。

「親切とお節介は紙一重か」

この一言に、田所は強く反応した。

「何か言ったか」

くぐもった声を吐き出して、西村に近づいていく。しかし、それ以上何も起こらない。西村もまた、それ以上の皮肉を言うつもりはなかった。

結局、加奈子は冷たい水で、外で一人洗髪した。黙々と髪を洗う加奈子の後ろから、タオルを持ったおばあが近づいて、自分より遥かに背が高い高校生の髪を、優しくタオルで包み込んだ。女の子は一言も発しないが、その気遣いに柔和に反応する思いを内に封じ込めている。こうして、「きび刈り隊」の長い一日が暮れていったのである。



2  「なんくるないさー」という生活感覚の律動感の中で



翌朝も、厳しく照りつける南国の陽光の下でのきび刈り作業が始まった。

昨日のように、田所の歯に衣着せぬ指導の下で、若者たちはそこに殆ど感情を入れることのない作業を続けていく。疲労のため活気のない昼食が終り、変わらぬ作業が再開される。こうしてまた一日の仕事が終り、そこに製糖工場からのトラックがやって来て、彼らが必死に刈ったきびが束ねられて搬送されていく。一本のきびの茎が含んだ糖分の密度が最も高いその瞬間に、きびは工場に搬送されねばならない。だからこの仕事は、時間との戦いなのである。

この日、「きび刈り隊」が刈ったきびの重量は3トンだった。この数字に「スゴイじゃん!」と満足する悦子に、田所は、「一日に6トンから、7トンは入れなきゃダメなんだ」と瞭然と言い切った。

その一言に、「えぇー」と嘆息する悦子に、傍らのおじいが放った一言。

「なんくるないさー」

それは、「どうってことない、何とかなるさ」という意味。

これは、沖縄の人々の生活感覚を自然に表現した言葉だが、未だ若者たちにはその律動感が理解できないでいる。


その律動感に最も馴染めなかった悦子が、「きび刈り隊」を離脱した。船を待つ悦子の下にひなみがやって来て、5日分の賃金とおばあからの弁当が届けられた。それで、悦子はもう帰れなくなった。彼女の中にある「後ろめたさ」の感情が、それより強かったはずの不満感を退けたのである。

映像は、元気にきびを刈る悦子の表情を映し出して、都会感覚の若い女の子の心にも、南国に暮らす者たちの思いの深さが届くことを検証して見せた。そしてその検証は、同時に給料の不満で離脱した大輔の場合にも確認されることになる。

その夜、入浴を終えたおじいたちの前に大輔が現われた。

「よう、お帰り。さあさ、上がりなさい」とおじい。
「あの、やっぱり、ここの方がいいって分ったから・・・」と大輔。

それ以上言葉が出てこない。

軽く一礼する若者に、「早く、ご飯食べなさい」とのおばあの一言で、全て解決。おじいの家に集った「きび刈り隊」は、再び結束することになったのである。


「きび刈り隊」の結束は、今までの感情の不足する作業に少しずつ、労働する者の感情を入れることになった。若者たちは、昼間は製糖工場で働く若者と交流するようになるが、その中に加奈子は入っていかない。入っていけない何かを映像は垣間見せるが、一切の説明をしない。

唯、こんな描写があった。

きび刈りの際に、常にジャージの上着を脱がない加奈子の左手首が転倒した際に晒されて、そこにリストカットの傷跡が刻まれていたのである。それだけで想像できる女子高生の内面を、それ以上掘り下げていくストーリーラインで、この映像は形成されていないということ。それは恐らく、主題性を逸脱しない限りでしか、そこに参加する若者たちの、「曰くありげな過去」への言及には意味がないということなのだろうか。

こんな描写もあった。

ジャージの上着を脱がない加奈子の振舞いを医学的に説明する池永修一に、田所は悪意なく語りかけた。

「医学部とか、目指してたんじゃないですか?いやね、多いんだよ、こっち来るの。司法試験とかね、公認会計士とかね、何度も落ちて結局挫折したような奴。そういうのが、皆こっちに逃げて来んのよ・・・」

あまりに無神経な田所の暴言に、重苦しい沈黙が流れて、田所は必死にフォローするが、誰も相手にしない。その沈黙を、終始寡黙で、温和なイメージを与える青年である池永自身が破って見せた。

そんな青年の一言。

「当ってる。田所君の言うこと、その通りだよ」

却ってその言葉が、沈黙をより気まずいものにしてしまった。このような「曰くありげな過去」に対する描写は、ここでもそれ以上の言及を必要としなかったのである。

そんな池永が、近くに他の店がない商店で、偶然、ひなみと会って帰路を共にした。彼女は冒頭の自己紹介で、派遣会社に勤めていることを説明していた。

「今、休みなの?派遣」と池永。

今度は彼が質問した。

「そんな余裕ないって・・・今回は、自分で自分を派遣した」とひなみ。

映像が映し出した会話はこれだけだが、その帰路で二人は初めて長い会話を重ねたようだった。

しかし、ひなみのこの一言は、映像の主題性に関わるキーワードと言ってもよかった。少なくとも、派遣社員である彼女は、自らの明確な意志で「きび刈り隊」に応募したのである。だから少々仕事がきついからと言って、簡単に東京に逃げ帰るわけにはいかないのである。

この「きび刈り隊」に、新たに参加者が加わった。

本土で看護婦をしている美鈴が、休暇で「里帰り」して来たのである。彼女も加わって、「きび刈り隊」の若者たちの間に、少しずつ共有する時間が増えていった。南国の海辺の夕景に、若者たちのはしゃぎまわる姿がシルエットになって映し出されて、いよいよこの苛酷な協同労働が佳境に入ったことを暗示する描写でもあった。

関係が深まれば、当然、そこに言い争いも起こってくる。心に溜め込んだ、相手に対する違和感が噴き出してくるからだ。

そんな若者たちの間に起こった、極め付きともいえる軋轢の一つ。
美鈴に関心を持っているかのような田所の、定期的な移動を繰り返すその生活風景が、明らかに彼女に向かって、自らの口から語られていく。

「サトウキビの刈り入れが終わったら、北海道に行くんですよ・・・・皆、待ってるんですよね。夏は帯広のジャガイモでしょ。秋は長野の白菜、それで春はここでしょ。その間に岡山の桃、山形のサクランボ、おまけに千葉の落花生までやってんだから、勘弁してよって感じなんですよね・・・いやぁ、でもね、一度行くと農家の人が、なかなか離してくれないんですよね。そうやって、もう7年目なんですけど」
「好きなんだ、こういう仕事」と美鈴。

意識している相手を前に、田所は如何にも自慢げに自己開示している。

「いやぁ、何て言うんですか、出会いと感動って言うんですか。そうやってあっちこっち旅していると、何かやっぱり、自然も人も素晴らしいなぁと思っちゃうんですよね。何て言うか、生きてる実感みたいなものがあるんですよ。もうね、会社とか何かに縛られるような生き方とか、できないですよね」

こんな田所の奇麗事な語り口に対して、普段から先輩面されている大輔が目一杯の感情を込めて吐き出した。

「現住所、どこなんすか?」
「え?」
「住民税とか、どう払ってるんですか?」
「何言ってんの?」
「出会いと感動のために、一年中旅してる?生きてる実感?そうやって農家の手伝いしてれば、喰うところも、寝るところも確保できて、おまけに日当までもらえる、何年もやってれば仕事も覚えて、俺らみたいに、新しく来た奴に先輩面して威張れる。だから辞められないだけなんじゃないんですか?要するに、普通のところじゃ生きていけないから、逃げ回ってるだけなんでしょ?ここには、いろんな人が逃げて来るって言ってたけど、あんたの方がよっぽど逃げてるんじゃないんですか?」

大輔は、明らかに攻撃的だった。

それに誰も反応しない。空気の変化は瞭然としていた。しばらく沈鬱な空気が澱んでいたが、突然、悦子が立ち上がって、大輔の傍に近づいていく。その彼女の口から、思いもかけない言葉が飛び出してきた。

「やっぱ、そうか。あたし、あの試合ずっと観てたよ、最初から最後まで。凄かったよね、ノーヒットノーランだもん」
「西村君て、あの西村大輔、甲子園の?」とひなみ。

空気の思わぬ変化に、大輔の気持ちが柔らかくなった。その突発的な攻撃性がすっかり萎えて、初めてその心情を吐き出した。

「あんなの、まぐれだよ・・・・大学に入って三年、試合になんか一度も出してもらえない。仕方ないよ。体もでかくないし、まあ、それが実力なんだから。なのに、無闇に投げ込んで、肩も腰もいかれて・・・よりによって甲子園で・・・まぐれだよ。あんなことさえなかったら、野球好きでいられたのに・・・」

その告白を受け止めるように、年長の池永が立ち上がり、商店で買ってきた花火を皆の前に持って来た。殆ど言葉の不要な静寂な世界で、若者たちが花火を興じている。何かが、少しずつ動いているかのようだった。



3  綺麗にまとめられ過ぎた映像の円環的な括り



風雨の激しい闇のような日にも、「きび刈り隊」の作業は続いた。

おじいの一言で作業は中断し、彼らは早々と引き上げていく。しかし船着場に荷物を取りに行った田所が、いつまで待っても帰って来ないのだ。風雨の中、彼を迎えに行った一行は、交通事故を起した田所の車を発見し、彼を助け出したのである。

看護婦の美鈴が応急処置をするが、傷が動脈まで達していて、医者を呼ばねばならなくなった。

「助けてあげて、お医者さんなんでしょ?」とひなみ。

彼女は池永に懇願した。池永は一瞬迷ったが、その後の判断は早かった。田所の血液型を確認して、同じ血液型の大輔から採血し、それを田所に輸血したのである。田所の一命は取りとめられて、彼らは眩しく光る朝を迎えた。

大仕事を成し遂げた池永の傍らに、ひなみが座り込んでいる。

今度は、池永の告白の始まりである。

「昔から、子供が好きでね。だから小児外科を選んだ。でも、気づいていなかったんだ。その小児外科医が沢山の命を見送らなきゃいけないってことを。それも小さな命を。名前が同じ子がいてね。まだ、八つになったばかりで・・・俺が手術を決めた。どこでも良かった。忘れられれば。忘れることなんかできないのにな・・・忘れちゃいけないのに・・・」

ひなみも、自らの過去を開いていく。

「小学校のときね。水泳大会があったんだ。前の晩すごい緊張して、眠れなかったの。そしたらね、お父さんが言ったの。“飛び込む前に深呼吸しなさい”って。それで聞いたの。深呼吸したら、速くなるの?勝てるのって。そしたら、“速くはならない、でも楽しくなるよ”って。で、スタートのときやってみたんだ。空見上げて、こうやって腕伸ばして、思い切り吸い込んだの。けどね、その間に皆スタートしちゃって。でも泳いでいる間、いつも苦しかったのに、何かちょっと楽しかった。ビリはビリだったけどね」
「ビリは、ビリか」と池永。

二人はゆっくりと深呼吸して、心地良い朝を満喫しているかのようだった。


以上、映像後半の劇的展開にまでに至る描写に、私は正直、辟易(へきえき)した。

日本中を駆け巡る自然大好き人間がいて、その偽善に不満を持つかつての甲子園のアイドルがいて、そこで最初の噴火が起こる。その噴火を和らげる言葉が追ってきて、和らげられた心が、このようなドラマにおいて定番となっている告白が始まった後に、それを花火の宴で一応柔らかく包み込んでいく。

そして、命に関わる事故が起こり、その命を若者たちが救っていくのだ。何と都合の良いことに、その若者たちの中に看護婦がいて、医者がいた。そして、その命を救う献血を施したのは、事故を起した自然大好き人間の天敵であった、かつての甲子園投手だったという、そのあまりに見事なる連係プレー。

私は、ここで駄目になった。

それまで丁寧に描いてきたこの秀作もどきの作品が、結局は、奇麗事のお座成り映画に過ぎなかったことを実感して、もうその先を観れなくなってしまったのである。なぜ普通の等身大の青春を、普通の感覚で描き切ろうとする覚悟が足りないのか。それが何よりも、私には我慢し難かったのである。

従って、その後に待つ感動的なラストシーンに至る展開のさまを、これ以上言及するつもりはない。

後は、簡単にまとめておく。

事故を起こした田所が脱落し、妊娠している美鈴が倒れて、彼女も戦力から外れていくことで、ノルマ達成に絶望的な状況に直面した者たちの獅子奮迅の活躍で、きび刈り作業を完遂させるのである。その間、これまで全く言葉を発しなかった加奈子の能動的変化が契機となって、若者たちはいつもより一時間早く起き、目標

達成に向かって突き進む寡黙な描写が印象的だった。

この映像で、加奈子が放った言葉が、映像の主題性を語っているので、それを記しておく。

「朝は来るんだ。くたくたになるまで働いて、ご飯食べて、それでぐっすり眠れば、朝は来るんだよね」

もう一つ。

作業の休憩の合間に座り込んでいる大輔に、田所からグローブが渡された。「フィールド・オブ・ザ・ドリーム!」という声が池永から発せられて、男三人は刈られたきび畑のフィールドに三角形を作って、キャッチボールをする。それは、ようやく心が通じ合った者たちの心のキャッチボールだった。

そして、最後に残したきび畑の一画をひなみが刈り取って、一本ずつ皆に手渡していく。35日間の苛酷な作業が終わった瞬間だった。

恐らく、こんな儀礼的な手続きを経て、「きび刈り隊」の日々が自己完結するであろうことを暗示した後、映像は、翌年の新たな「きび刈り隊」への田所の説明の描写によって、円環的に閉じていくのである。

それだけの映画だったが、あまりに綺麗にまとめられ過ぎていて、間違いなくこの作品が、「文部省選定」の対象に値する作品であることを印象づけられるものだった。


*        *       *        *



4  「ノルマ」についての考察



この「青春爽快篇」を敢えて観念的に把握すると、こんな言い方ができるだろうか。

それは、このドラマは、他者から与えられたノルマを、それが本来的に他者のためであるという要素を認めたくないばかりに、恰も自分に課したそのノルマを、自分のためのノルマであると思い込むことで、自分の人生と生活の速度を、そのノルマのラインに極力合わせてきた律動感に少しずつ破綻を来したとき、そこにもう身も心も投げ入れることが困難になってきたその軌跡に生まれた空洞感に、ほんの少し新しい風を吹き込むことを必要とする心を持つ者たちの物語であったということだ。

それは、時間限定の苛酷な労働を自分が意志的に選択し、そこに心身を投げ入れることで展開された時間が刻んだノルマを、まさに自分が本来切望するイメージに近い了解性の内にほぼ矛盾なく内化できた、何かこれまでと少し違う自己像の確認のための物語であった。

言ってみれば、この作品は「ノルマ」についての考察でもあった。

きび刈り作業という単調で、且つ苛酷な労働の時間を、恐らくそれまでの時間がそうであったような、言わば、強いられたノルマの観念から束の間解放されたと信じたとき、若者たちの自我はそこに新鮮な時間の感覚を確かに捕捉したのである。

しかし以上の説明では、「きび刈り隊」の若者たちの全ての思いを言い当てるものにはなっていないだろう。

そこで、こんな風に簡単に捉えることも可能である。

それは、一言で要約すれば、与えられたノルマを自分のものにできた若者たちの物語である。だからそこに達成感があった。この達成感は、恐らく彼らが、これまで経験したことがなかったであろう心地良い何かだった。

しかしそれは、彼らを受け入れた南国の人々にとっては、彼らが手に入れたような達成感とは無縁に、去年もまたそうであったようなそのエンドレスな日常性を、淡々と継続させていく変哲のない時間の繋がりの内に空気を吸い、そして自分が生きてきた分だけの二酸化炭素を吐き出すだけの、生物学的な循環世界によって相対化される何かでしかなかったと言えるだろうか。

この落差は、「定着する者」と「旅をする者」との落差であった。

若者たちの達成感は、基本的に、旅をする者が、その旅先で手に入れた感情を大きく逸脱するものではなかったのである。彼らは決して、そこに定着しないのだ。それは、定着しないが故に手に入れることができた達成感だった。

彼らは、自分たちが本来戻るべき場所にリターンしたとき、この南国での特別な経験を自分の新たな人生に繋げていけるかどうか不分明である。しかしその思い出は、彼らの中で鮮明に記憶され、それを思い出すことによって、自分の状況に多少の変化を与える力になり得る何かであるかも知れないであろう。

人は本来、成し遂げるべき仕事が自分の中で明瞭に見えていて、それが自分の地道な継続的作業の累積を通して、その仕事の達成度が、その都度、確認できる心地良さを手に入れることができるならば、成し遂げるべきその仕事を成し遂げたときの達成感は、特別な感情を内側から噴き上げていく感動を随伴するものであるに違いない。ましてそれが、自分一人だけの努力では成し得ないほどの仕事であって、それを同じ目標を持つ者たちのとの共同作業によって完遂されたならば、その感動はひと際鮮烈な記憶として、それぞれの自我に刻印されるであろう。



5  「閉塞状況」と「なんくるないさー」という二元論提示の安直さ



以上の把握を踏まえれば、こんな読み方もできる。


「きび刈り隊」に象徴される都会の若者たちの「閉塞感」と、「なんくるないさー」と言い放つ平良家に象徴されるような、大自然と上手につき合って暮らす者たちの解放感。

この二つの異文化が生活レベルにおいて日常的に交叉するが、明らかに後者の代弁者として紹介される田所の直截な言動によって、前者のアイデンティティを刺激することで、そこに緊張が生まれ、しばしば感情的確執を顕在化させていく。

しかし、田所の自我のバックグラウンドとなっている後者の世界の包容力が、前者のストレスや不安を癒し、それを「なんくるないさー」という精神世界の内に吸収することで、「深呼吸の必要」を求める若者たちの自我に、「普通に働いて、朝が来る」という清々しい日常性の律動感を刻印し、そこに未知なる解放感を保障してしまうのである。

即ち、都会生活に疲れた若者が求める「深呼吸」を、疲れを知らない南国の風土が存分に癒すという構図が中枢にあって、その「深呼吸」を、一時(いっとき)の「きび刈りの旅」によってしか手に入れられない若者たちの、その本来的な欠乏感を嘲笑(あざわら)うかのような田所の存在性が若者たちの視界に捕捉されるとき、そこに生まれた緊張感によって、二つの異文化が必要以上に際立ってしまうこと、それが本作にとって緊要だったと言えよう。

都会における、現代青年の「閉塞状況」と孤立感を、「なんくるないさー」というおじいの言葉と、田所の無神経とも思える発言によって強調される定番的手法には、当然ながら違和感を覚えざるを得ない。

然るに、なぜいつも、このような状況設定の中で都会に住む者たちの「閉塞感」を、それが既に認知された人々の観念のように決めつけて表現されてしまうのだろうか。

大体、「閉塞感」とはどういうことなのか。

その定義を、私は未だきちんとした形で耳にしたことがない。それは、何となく人々がそうだろうと思っている感情を、メディアや活字文化を通して多用されている都合の良い言葉として、極めて感覚的に流布されているようにしか思えないのだ。

私から言わせれば、人生のその多様な軌道の展開において、当然ながら、そこに能力の差異が生まれながらも多くの選択肢が用意されていて、且つ、これほどまでに自由が保障されている社会は他にない。

人々が「閉塞感」と言うとき、それは様々な情報の洪水の包囲網にあって、自らの意志的決断による人生の切り拓きを、能動的に向えない脆弱なメンタリティの言い訳であり、また明日のパンの保障がないギリギリの生活環境とは無縁に生きてきた者たちの、それぞれのアイデンティティの欠如感覚を言い換えた、安直なる概念に過ぎないのである。

動くべきときに動かず、走るべきときに走らず、どこかで何となく浮遊しているような気分の様態を、私たちは感覚的に、「閉塞感」と呼んでいるだけなのだ。



6  「大いなる自由」の担保



確かに近代社会は、目眩(めくるめ)く高速なる律動感によって動いている社会である。

しかしそんな社会を、私たちは豊かさを手に入れるために確信的な思いで作り上げてしまったのだ。誰が悪いのでもない。私たちは、豊かさを手に入れるために失った代償の大きさを嘘っぽく嘆く前に、まず己自身の人生と生活様態を見直すことから始めるべきだ。

本当に悔いているなら、近代文明の恩恵に一切与(あずか)ることなく、自らの人生設計を再構築していけばいいだけの話なのである。近代の高速化社会へのアンチテーゼとして「スローライフ」を選ぶなら、選び切るべきなのだ。

それも、一切自由なのである。


撮影地の一つ・永良部島
それでもこの国が嫌なら、自分がパラダイスと信じる異郷の地で呼吸を繋いでいけばいい。ただそれだけのことなのだ。

本作に登場する若者たちがその過去にどれだけ重い荷物を背負ってきたか知らないが、少なくとも映像で観る限り、彼らの人生のほんの僅かな軌跡が、特別に異彩を放つものであるとは到底思えないのだ。

かつての甲子園のアイドル投手が挫折したことで、もっと野球を好きになりたかったなどと考えるのは殆ど甘えではあるが、しかし無安打試合の過去の実績を「まぐれ」と把握できているのは、その分だけリアリストになった証でもある。だからこの若者は、どこかで軌道修正を図りたくて、意を決する者の如く、「きび刈り隊」に参加したのであろう。

挫折した小児外科医も競争の苦手な女の子も、都会で恐らく、異性問題の故に疲れ果てて帰郷した看護婦も、それぞれに固有な問題を抱えているだろうが、それらが特段に憐れむべき不幸を背負っている訳ではあるまい。この程度のことは、誰もが背負う次元のリスクであるに過ぎない。

それでも彼らは、「深呼吸」を必要とするために、遥か南国の地に舞い降りた。それもまた良い。それは若いからこそ可能であり、ある意味で、「深呼吸」を求める心の振れ方がその内側にあったからこそ可能であり、そして何よりも束の間、「今、このときの時間」をモラトリアムにできる余裕があったが故に可能だったのだ。

それは、現代社会が若者たちに与えてくれた「大いなる自由」の担保があるからこそ、何もかも可能であったと言える選択肢なのである。

彼らはその選択肢の中から、「旅」を選んだのだ。

「旅」を選べるエネルギーが温存されていたからこそ、彼らの自我の内に、「なんくるないさー」という究極なる癒しの言葉が、そこに身体的感覚を随伴して這い入ってきたのである。ただそれだけのことなのだ。だから南国の人たちの生きざまを聖化する必要は全くないし、そこに特別な理想形を勝手に描き出す必要もないのである。



7  淡々とした「青春爽快篇」で走り抜けられなかった、その余分な感傷



確かにこの作品には、誇張された過剰な情緒の投入による、赤面するばかりの描写は削られていた。その意味で、ギリギリ及第点の映画だが、それなのになぜ、田所の事故の描写の辺りから、嘘臭い物語のラインに入り込んでしまったのか。

そこに小児外科医や看護婦が都合良くいて、彼らの献身的な尽力による一体感の達成という、「如何にも」的なドラマティックな感動譚に流れていってしまったこと。それで全て駄目になった。田所の事故に若者たちが慌てふためいて、懸命に医者を呼びに行く描写で済ますことの方が遥かに自然だったのではないか。

このシーンのためにこそ、池永と美鈴という、特別な履歴を持つキャラクターを用意したとしか思えないのである。そしてこともあろうに、その田所の命を救う献血をした者が、その直前まで彼とバトルを繰り広げていた甲子園球児であったという、この何とも見事な予定調和ぶり。悪くない映画だっただけに、決定的な局面において、そこだけが、テレビドラマのカテゴリーに収まってしまったことは残念という他はない。

確かに本作は、池永とひなみの間に恋愛関係が発生するような安直なドラマにはなっていなかった。ラストの円環的な映像の括り方も素晴らしかった。その直前の最後のきび刈りの感動譚もギリギリOKである。この程度のカタストロフィーは、ドラマの流れの中では充分に許容し得るであろう。

そして、そんな熱い交流を最後に見せた若者たちの離散の、そのあっさりとした描写は間違いなく上出来の部類であった。それ故にこそ、淡々とした「青春爽快篇」で走り抜けられなかった、その余分な感傷が障害となってしまったのである。



8  等身大の若者たちの身体の欠落



そしてもう一つ。どうしても私の中で看過できなかった点がある。

それは、この作品の登場人物たちのリアリティの欠如である。田所を除く6人の若者の全てが、洗練された顔立ちを持つ、言ってみれば、メディアで頻繁に露出されているアイドルやモデルといった美男美女であったということ。これはどうみても、テレビドラマのキャスティングと変わらない欠陥であると言わざるを得ないのだ。

なぜ、もっと等身大の若者たちの身体を表出させることができなかったのか。そこにもまた、テレビドラマと変わらない、「如何にも」的なキャスティングの愚かさが垣間見えて、蓋(けだ)し残念だった。

ともあれ、本作が必ずしも、文部省選定の、「都会の若者は自然に向かえ」というメッセージで括られたとは思えないが、そこに寄せられた柔和なメッセージが、例えば、リストカットの経験を持つ加奈子の言葉に集約されている文脈にあったとしても、決して不自然ではなく、寧ろ、それなりの説得力を持った作品に仕上がっていたことは否定し難いのである。



9  「古き良き村落共同体」への限りないオマージュ



爽やかな感動もあった。

とりわけ、若者たちが寄宿する平良家の日常的生活感には、暴風雨が近づいても慌てない人々の、自然に対する、それ以外にない付き合い方が、そのままの身体表出によって素朴な形で映し出されていて、とても感銘深いものがあった。そこにあったのは、労働と生活が大自然のフィールドで矛盾なく溶融し合っているという、「古き良き村落共同体」への限りないオマージュでもあったと言っていい。

その共同体に、都会の雑踏感の中で、自らのアイデンティティを充分に実感できていない若者たちがアクセスしたならば、少なくとも彼らが、「深呼吸の必要」を求める思いを捨てられない限り、そこで存分に包まれて、癒されて、時間をリセットされた感覚を持って、その旅の自己完結を果たすに違いないであろう。そして本作の若者たちは、そこに様々な事情を抱えつつも、そんな類の自我を持つ者たちだったということだ。

それは、「きび刈り隊」に応募する若者たちの共通項であるとは断言できないであろうが、しかし、このような労働アクセスを果たす者たちの心に、自己についての何某かの危機感や期待感といったものがなければ、そもそも成立することのないプロジェクトであったことは、疑いようのない事実だろう。

篠原哲雄監督
従って、このような実践をベースに物語を作り上げ、それを映像化するという試行は、円環的な日常性の枠内に、どこかで予定調和的なドラマ性を内包せざるを得なくなってくるのである。そうでなければ、ドキュメンタリー作品で勝負するしかないからである。

だからこそ、そのドラマ性の内実こそが勝負の分かれ目になってしまうのだ。そして本作はそのような勝負に負けて、シンプルなテーマの映像化という大筋の表現ラインでの攻防に於いては、ギリギリのところで惨敗しなかったという結論になってしまったということだ。

少なくとも、私はそう思わざるを得なかった。従って、トータルの評価では40点というところに落ち着くだろう。



10  「青春爽快篇」が削りとったもの



―― 最後にもう一度、私の把握の確認。


殆ど見透かされるほどに、見事なる予定調和の「青春爽快篇」が削りとったものの内実は何か。

それは、円環的な日常世界の手強い変わり難さに異文化が恐る恐る侵入したとき、そこに生じた緊張感が、やがて炎天下での苛酷な単純労働の累積を通して、そこに少しずつ胚胎しつつあった、「円環的な日常性の粘り越しの強さ」に対する違和感の消失によって、その淡々とした時間の流れを自然に内化し、少なくとも、それを身体感覚的に了解する表現性である。

分りやすく言えば、そこに何も起こらなくてもいいのだ。

特段に刺激的な出来事が何も起こらなくても、若者たちの身体表現の内に内化されたはずの「円環的な日常性の粘り越しの強さ」が、ほんの少し張りついたと想像させる描写が幾つかあれば、それで充分だったのである。

所詮、若者たちは旅人であって、確信的な定着志向者に辿り着いていないのだ。だから彼らが関わった労働の後半の一週間辺りに、それぞれの身体が放つ微かな自発的熱量が、観る者に分るようにその輝きを遠慮げに放ってくれれば、それで充分なのである。事件も事故も必要ないし、ましてや献身も自己犠牲もまるで必要ないのだ。

そこにほんの少しばかり、緊張と葛藤、安寧と充足が挿入されていれば、もう他に何も要らない。それこそ、本物の「青春爽快篇」であったと言えるだろう。

(2006年5月)

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

素晴らしいアイデア、ありがとう...