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    1 日前

2008年11月12日水曜日

野いちご('57)     イングマール・ベルイマン


<凝縮された時間が抱え込んだ老境の悲愴性と、その軟着点>



序  老境の孤独の極みと、そこからの救いの可能性をテーマにした秀作



イングマール・ベルイマン ―― 私が最も好む映像作家の一人である。

中でも、本作の「野いちご」。これは絶品である。

幾度か、薄っすらと冷たいラインが私の頬を濡らして、激しく胸を打った。

就中(なかんずく)、あのラストシーンの、完璧なまでの構図の決定力はどうだ。

殆ど言葉を失って、繰り返し観ても、私はその余情に絡み付かれてしまうのである。

改めて、重厚な映像が放つテーマの根源的な問題提起に、真摯な省察を対峙させる態度を立ち上げて、私なりのサイズで構えてしまうのだ。

私にとって、それほどの作品だった。

何人も不可避なる、迫りくる死への恐怖に怯える老境の極みを、中枢的なテーマと脈絡しない余分な描写を確信的に削り取ったばかりか、そこに一切の奇麗事の言辞を拒む頑な作家的精神によって、ここまで深々と描き切った映像があっただろうか。

これが1950年代に作られた作品であることに驚くが、今もその独創的な表現世界のパイオニアとしての役割性をも超えて、なお一歩抜きん出ているものがある。

そして何より、その冷厳な筆致と、ほんの少し均衡を合わせた感のある穏やかな映像の括り方は、本作の殆ど完璧な表現世界の中に於いて、全く違和感のない軟着点であったからこそ、本作を今なお新鮮な感覚で自然に受容できるのである。

「八月の鯨」より
ウンベルトD」(ヴィットリオ・デ・シーカ監督)、「家族の肖像」(ルキノ・ヴィスコンティ監督)、「八月の鯨」(リンゼイ・アンダーソン監督)、「田舎の日曜日」(ベルトラン・タヴェルニエ監督)、「永遠と一日」(テオ・アンゲロプロス監督)等々。

老境の孤独の極みと、そこからの救いの可能性をテーマにした秀作はいずれも好きだが、その中で、「野いちご」が放つ純粋に内面的な表現世界の濃密さは、私の中でも出色なものだったのである。



1  悪夢の恐怖からの解放を求めるようにして



―― たかだか、90分ほどの映像の短いストーリーラインを、ここでは詳細に追っていこう。


「人間の付き合いは隣人の性格を批判したり、行動を評価することから始まる。私はこれを嫌い、あらゆる形式の社交生活を努めて避けた。他人との付き合いを殆どしなかった。私の生涯は勤勉に費やされ、まず生活の糧を得ることから始められ、勉学への愛情に終った。

一人息子も私と同じ医師で、ルンド(注1)に住み、結婚して数年になるが、子供はいなかった。母はまだ生きていて、高齢にも関わらず壮健だった。妻のカリンは、既に数年前に死んでいた。

私は家政婦に恵まれていた。私は几帳面な生活を好み、私自身も煩わしく感じているが、周囲の人々にも辛い思いをさせていた。

私の名はエベルハート・イサク・ボリー。年齢は78歳。明日、私はルンドで博士号50年の表彰を受ける」


ストックホルムに住む一人の老医師、イサク・ボリーの独白による映像が開かれて、この奥行きの深い内面的ドラマのタイトル・クレジットが映し出されていき、そこに、エリク・ノルドグレンの聞き心地の良い音楽が追いかけていく。


(注1)スウェーデン南部にある観光都市。ルンド大聖堂やルンド大学で知られる。高い山がなく、スウェーデンでは冬にそれほどの雪の降らない、比較的温暖な地である。


再びモノクロのドラマの映像が繋がって、なお、独白は続く。

イサクの夢
「6月2日。日曜の早朝。私ははなはだ奇妙で、不快な夢を見た。毎朝の散歩のとき、今まで見たことのない街に迷い込み、人気のない往来を歩いた・・・」

そのときイサクが見たのは、道路脇に高く掲げてある針のない大時計。

彼は思わず自分の懐中時計を手にとって、そこに動いている針を確認した。

イサクは街を彷徨(さまよ)い、そこで一人の老人の後姿を視界に捉え、近づいて、その肩を後ろから軽く叩いた。


すると、生気のないデスマスクのような表情を持つ老人が振り向いた後、その場に倒れこみ、黒々とした多量の血を流して絶命したのである。

更に、イサクが少しその歩行を進めたとき、棺を積んだ無人の馬車が前方から走って来て、街灯に引っかかった勢いで、棺だけがそこに置き去りにされたのだ。

イサクが恐々と、その棺に近づいたとき、棺の中の遺体の手が彼を捕捉したのである。その遺体の顔は、イサク自身だった。

その悪夢の恐怖からの解放を必死に求めるようにして、イサクは現実の世界に脱出したのである。

覚醒したイサクは辺りを見回し、慌ててベッドから起き上がり、ガウンを羽織って、就寝中の家政婦、アグダの部屋に行った。

「朝食の支度をして下さい。車で行く」

飛行機を予約していたアグダの反対を押し切って、イサクはその日の5時に始まる名誉博士号の表彰式に間に合わせるため、14時間の余裕を持って、自家用車ですぐに出発しようとしたのである。40年間もの間、イサクに仕えていたアグダの強い反駁に、イサクは自分の我が儘を吐き出した。

「正直に言って、あんたの強情には閉口している。もう長いことだ」
「明日でもお暇を頂きますよ」
「私は車で行くよ。好きなようにしなさい」

そんなイサクの強情な態度に閉口しながらも、アグダは荷物の支度を自ら率先して手伝った。

「あんたの世話にはならない。上手く詰めるね、アグダさん」とイサク。

結局、自分の力では何もできないのだ。それを知っているからこそ、アグダは朝食の用意まで膳立てするのである。

「名誉博士!くだらん!大たわけ博士がいいところだ。婆さんに何か買ってやろう。機嫌を損ねたくないからな」

「人間の付き合い」の悪さを自認するイサクは、そんな言葉を独り言のように吐き出して、まもなく自分が運転する長旅に打って出たのである。

そこに、思いもかけない同乗者が加わった。

夫婦間に何某かのトラブルを抱えていて、ストックホルムの義父の家に滞在していた(と思われる)息子の嫁が、義父の車に同乗したのである。

その名はマリアンヌ。

かくて、歳の離れた二人の大人の、そこに全く男女の感情が入り込む余地のない者たちの、ルンドへの旅が開かれたのである。



2  車内での些か濁った空気をクリアにするために



「女の悪徳は何?」とマリアンヌ。同乗者である。
「泣くこと、子供を産むこと、悪口を言うこと!」とイサク。運転者である。

車内での、そんな毒気のある会話の後、イサクは正直に吐露した。

「お前は私を嫌っている。最初からだ」
「考えたことないわ」
「なぜ、家に帰る?」
「帰りたいだけよ」
「エバルトは私の息子だ」
「分ってるわ」
「私に似ている。主義を持っている」
「言う必要ないわ。借金のことでしょ!講師になったら返すわ。1年に5000ずつ返すと言ってるわ」
「約束は約束だ」
「私たちは自分の時間がなく、彼は働きすぎているわ」
「お前の収入がある」
「あなたはお金に困っていないのよ」
「約束は約束だよ。エバルトは私を理解している」
「でもあなたを憎んでいるわ!」

イサクとマリアンヌ
この言葉に、イサクの表情は一瞬凍りついた。マリアンヌもフォローしない。

「なぜ私が気に入らぬ?」
「事実を知りたい?」
「知りたいよ」
「あなたはエゴイストよ。他人の言うことに、絶対に耳を貸さないわ。話の分る老紳士のような顔をしているけど、とても頑固よ。世間では、人情があると言っても、私たちは良く知っているわ。私たちは騙せないわ。私が行ったときのことを覚えてる?私たちを助けて下さると思ったのよ。何とおっしゃったか、覚えてる?」
「自由に泊っといで、と言った」
「あなたはこう言ったのよ。“お前たちの揉め事に巻き込まれたくない。そんなことに構っていられない”」
「そう言ったか?」
「もっと言ったわ。こうよ。“精神的な悩みには関心がない。だが精神科の医者なら紹介しよう。当節流行の神父でもいいよ”」
「そう言ったか?」
「独断的な考え方だわ。お世話になりたくないわ」

義父に対する義理の娘の言葉は毒気に満ちていて、あまりに直接的であり過ぎた。

「お前が傍にいてくれて嬉しかった」とイサク。
「猫と同じね」とマリアンヌ。
「同じだよ。お前が私を嫌っているのは、大変残念だ」
「嫌ってないわ。哀れんでいるのよ」

それ以上ない辛辣な言葉を投げかけるマリアンヌは、一瞬笑って誤魔化す義父の表情に合わせるかのように、自分も笑って見せた。

「今朝見た夢を、お前に話したい」とイサク。話題を変えようとしている。
「夢に興味ないわ」とマリアンヌ。取り合おうとしない。

会話の繋がりが切れて、老人は義理の娘に語る言葉を失っていた。

「見せたいものがある」

車内での些か濁った空気をクリアにしたかったのか、老人はそう言って、ある場所で車を停車した。

車から降りた二人は、自然の溢れる静寂な森の中にその身を預け入れたのである。



3  穏やかならざる記憶の氾濫



そこに、瀟洒(しょうしゃ)な洋館が建っていた。そこはイサクの一家が、イサクの思春期まで、夏を過ごした懐かしい別荘だったのである。

老人は娘に語る。

「20歳になるまで、夢をここで過ごした。子供が10人いた・・・今は誰もいない」
「泳ぎたい」と言うマリアンヌに、老人は頷いてみせる。

その思い出深き場所で、老人は思わず呟いた。

「いちごがある・・・」

一人になった老人の若き日の回想が、老人の言葉によって開かれていく。

「私は少々感傷的になっていた。多分少々疲れていて、昔を思い出したのだろう。子供の頃に遊んだ土地を眼の前に見て、様々なことを思い浮かべた。どういう訳か分らぬが、過ぎ去った日々の記憶が甦って、現実の出来事のように私の眼に映った・・・」

サーラ
老人の眼に眩く映った一人の少女。彼女の名はサーラ。

その思い出深き少女に、老人は語りかける。

「年をとったので、昔の私には見えまい。だがお前は、昔と少しも変わっていない」

老人の若き日の回想が、リアルな重量感を持って展開されていく。

野いちごを摘むサーラに、柔和な言葉をかける一人の若者がいた。サーラに言い寄っていくその若者は、自分の傲慢を突かれていた。

「あんたはうぬぼれが強すぎるわ」
「俺が好きなんだろ。キスしようよ」
「変なことすると、イサクに言うわよ」
「イサクなんて、片手でやっつけてやる」
「彼と秘密に婚約しているのよ」
「聞いたよ。誰だって知ってる・・・結婚するのは、いつなのさ?」
「あんたたち兄弟は4人いるけど、イサクが一番優しいわ。そしてあんたが一番悪くて、アホウでマヌケで、言いようもないわ」

そう言われても、サーラを口説く若者。若者は強引にサーラにキスし、抱擁した。

「イサクに知られたら、何と言うの。私をこんな目に遭わせるなんてひどいわ。悪い女にされるところだったわ。行ってよ。顔も見たくないわ・・・」

サーラの嘆きが捨てられていた。若者の名は、イサクの弟、ジーグフリッドだったのである。

まもなく、ジーグフリッドが一緒にいるところを、会食の席でからかわれたサーラは、階段の下で嘆きを繋いでいた。その現場を、老人イサクが微笑みを浮かべて覗いているのである。

「イサクに気の毒だわ・・・」

そう呟いて、サーラはイサクに会いに行った。

「空虚と悲しみがまた私を襲ってきたが、まもなく若い娘の声に夢を覚まされた。その声は、私に何か尋ねていた」

穏やかならざる記憶の氾濫を切り裂くようにして、まさにそのとき、老人イサクは現実の世界に戻されていた。時間の危うい漂流を切断されたイサクは、後ろから若い娘に声をかけられたのである。



4  招かれざる同乗者    



自分の名をサーラと名乗るその娘は、イタリアまでのヒッチハイク中の途上で、ルンドまでの車の同乗を懇願したのである。

そこにマリアンヌが戻って来て、娘の同乗を承諾することになった。

娘はやがて他の二人のボーイフレンド、アンデレスとビクトルを紹介し、合わせて5人のルンド行きが殆ど自然の流れで決まったのである。

車内での3人の奔放な振舞いが、車内の空気を一変させた。

「私の恋人もサーラと言った」とイサク。
「そう?私に似てたのね」とサーラ。最も奔放な振る舞いを見せる娘である。
「うん、そっくりだった」
「どうなったの?」
「弟と結婚して、子供を6人産んだ。今は75の婆さんだ」
「年をとるの、嫌だわ」

思わず本音を吐いた娘は、隣に座るアンデレスに注意され、車を運転するイサクに謝った。イサクは笑って受け流していく。

事故が起こったのは、その瞬間だった。

対向車と衝突しそうになって、ハンドルを大きく回したが、その対向車は横転してしまったのだ。

横転した対向車から二人の男女が出て来て、自分たちの運転ミスをイサクらに謝罪した。彼らは夫婦喧嘩の渦中にあって、車を運転する妻のミスで事故を起こしたと言うのである。

「主人をぶとうとして、罰が当ったんです。神様の罰よ・・・」

これは、車を運転していた当人である妻の言葉。その意を汲み取ったイサクは、横転した車を元に戻すことを促し、皆でそれを実行することになった。

「世間には、ものを利己的に考えない人もいるのよ」

これも相手の妻の言葉。この言葉が夫に放たれて、なお夫婦喧嘩の余韻を、そこに残していた。

「妻は少々、神経が昂ぶっているのです」

これは、皆の協力を得て自分の車を起こそうと、その共同作業に加わった夫が、イサクらに語った言葉。その間も、妻の皮肉が途切れることなく吐き出されてきて、夫は相当閉口気味だった。

しかし車が起こされても、結局エンジンがかからず、夫婦は自家用車をその場に置いて、イサクの車に同乗することになったのである。比較的大型車であるイサクの車に、今や7人の老若男女がひしめき合っていた。

「妻が泣いても、芝居としか思えんのです・・・どうやら本物だ。命が助かったんだ」

これは、涙ぐんでいる妻に向かって、夫が放った毒気に満ちた言葉。

先ほどの妻の辛辣な言葉に対する逆襲のような夫の皮肉に、妻はこのとき、相当に居心地の悪い心境の中にいた。

「黙ったらどう?」と妻。

夫はすぐに逆襲する。

「妻は妙な才能があるんです。2年間、ガンになったと信じさせ、ありもしない症状を訴えて、我々を悩ませたんです。あまり、まことしやかなので、私もつい信じるんです」

他人の車の中で、なお醜い夫婦喧嘩を曝け出す空気感が、この中年夫婦を乗せる前の和やかな雰囲気を完全に壊してしまっていた。

「しばらく、そっとしていてあげたらどう?」とマリアンヌ。

後部座席に坐る夫婦の、夫に向かっての一言だった。

一貫して沈黙を守ってきたイサクの息子の嫁は、他人の夫婦喧嘩を見せ付けられて、我慢し難かったのだ。

「女の涙は神聖だから、触れるなというのですね?あなたは美しい。だから年取った妻に同情できるんです」と夫。
「同情する理由は他にもあるわ」とマリアンヌ。

言葉は静かに放たれるが、相変わらず毒気がある。

「辛辣な皮肉ですな。だが、あなたは冷静だ。妻はヒステリーの標本です。私の立場が分りますか?」
「カソリックです」
「その通り。だからお互いが耐えられるのです。私はカソリックで、妻にはヒステリーがある。だから殺し合わんのです」

相手の夫がここまでプライバシーを露出したとき、妻の怒りが噴き上げてしまった。夫の顔を何度も平手打ちしたのだ。

「爆発です。世間で言う発作ですな。まさに喜劇です。爆発のタイムを計りたいです」

殴られた顔を手で覆い、涙目になった夫は、妻の行為を笑い飛ばしたのである。

「お黙り!お黙り!」

今度は、言葉で反撃する妻。

ここで遂に心の許容臨界点が切れたのか、事故を機に車の運転を代わっていたマリアンヌは、突然車を停車させ、その思いをダイレクトに刻んだのだ。

「若い人が3人いるのよ。お降りになっていただきたいわ」

夫婦は抗弁することなく、「すみません。許して下さい」という妻の言葉を残して、静かに車を降りて行った。



5  神学論争の熱気の中で



再び5人になった車の旅は、イサクの回想からリセットされていく。

「この土地は忘れることができない。最初に開業した土地で、老齢の母が近郊の大邸宅に住んでいる」

その開業した記念すべき土地で、イサクはガソリンを給油した。


スタンドの若い夫婦は、先ほどまでの中年夫婦の険悪さとは全く無縁な良好性を示していて、イサクに対する尊敬の感情も持ち合わせていた。

「この辺の誰にでも聞いてごらんなさい。皆、先生を覚えています」

スタンドの若い店主(?)に、こう言われたとき、イサクは本音ともとれるような思いを呟いた。

「ここに住むべきだった・・・」

この一言を残して、イサクは開業時代を懐かしむ余裕の中で、ドライブを繋いでいる。

スタンドの若い店主と
 「昼食を摂りながら私は機嫌が良く、この土地で開業していたときの話をした。私の話は、皆を笑わせた。お世辞で笑ったのではなかった。そして私はクラレット(注2)とワインを飲んだ」(イサクのモノローグ)

イサクの珍しく饒舌な気分に嵌るようにして、若者たちは熱気を乗せた議論を重ねていく。

「美が創造の血管に見出されて、生命が現れる。生命の源となることの素晴らしさ」

アンデレスの気取った語りである。この若者は、サーラの恋人らしい。

「彼は牧師になるのよ」とサーラ。
「神と科学は口にしない約束だった。アンデレスは約束を破った」とビクトル。
「いい文句だったわ」とサーラ。
「現代の人間が牧師になるなんて分らない」とビクトル。
「君の合理主義こそ、僕には分らない」とアンデレス。
「僕に言わせれば、現代人は自己の虚しさを知っている。死を生物学的に理解している」
「それは君の想像に過ぎない。人間は死と虚しさを恐れている」
「人間に信仰を、悩める人間にはアヘンをか」
「二人とも夢中でしょ」とサーラ。イサクに話しかけた。
「どうして神を信じられる?」とビクトル。
「君は現実的に考え過ぎる」とアンデレス。

ここで若者たちから、イサクは議論の感想を求められた。

「私が意見を言えば、老人の皮肉に聞こえる。だから言わない」
「それじゃ、可哀想よ」とサーラ。

アルコールが入ったイサクの上機嫌の気分から、言葉が放たれていく。

酩酊気分のイサクの信仰心が開示されて、議論は収拾に向かった。

イサクは矢庭に立ち上がり、90を過ぎた母を訪ねることを思い立ち、マリアンヌを誘って出かけて行ったのである。


(注2)フランスのボルドー地方産の赤ワイン(赤鮮色)で、「クレレ」とも呼ばれる。



6  狷介な母、そして若者たちの熱気の予約された結末



母を訪ねたイサクは、名誉博士号の授与を祝って電報を打ったという母の歓待を受けた。

イサクに随伴したマリアンヌのことを、既に死んだイサクの嫁のカリンと間違えて、「出てってもらっとくれ。話したくないよ」と毒づく母に、彼女が息子のエバルトの嫁であることを納得させたのである。

言いたいことをズケズケ言うイサクの母の頑迷さ、意地の悪さに戸惑うマリアンヌ。孫が20人いても、訪ねて来るのはバルトのみであることを嘆き、遺産目当ての親族の振舞いに対して、露骨に痛罵する老女。

いかにもその性格の狷介(けんかい)さが、親族を近寄らせないものであることを、本人だけが自覚できていないようでもあった。

「私が悪いんだよ。死なないからだよ。遺産を当てにしているのに・・・」

イサクの母
この言葉の中に、イサクの母の狷介さの裏に張り付く卑屈さが見え隠れしていた。

そんな母が、イサクの甥に贈ろうとしていた時計に針がついていないのを見て、思わずイサクは、明け方に見た悪夢を思い出した。唐突に襲ってきた不快極まる時間から、イサクは早々に立ち去ったのは言うまでもない。

それでも、ひ孫までいる90歳半ばの母を邪険にしないイサクの性格の一面が、終始、「息子」を演じる老人の精一杯の孝行を、そこに繋いでいたのである。

一方、車で待つ若者たちに、小さなトラブルが生じていた。

先ほどまでの熱気のある神学論争を続ける二人の青年が、遂に喧嘩沙汰まで起こしていたのである。

呆れるサーラの話を笑いながら聞くイサクは、ここでも話の分る老人を演じ切っていた。

再び、ルンドに向けてのドライブの旅が開かれたのである。



7  封印された過去に向かう、老教授の凄惨な白昼夢



「私は眠りに落ちた。だが夢に付きまとわれ、屈辱という他はない幻覚に襲われた。私の意識の中に深く根を下ろしていたことが、現実の出来事のように私を打ちのめした」(イサクのモノローグ)

イサクのあまりに苦い、青年時代の回想のシーン。

眼の前にサーラがいる。彼女は老人となったイサクに鏡を突きつけて、攻撃的な言葉を放ったのだ。

「あなたがどんな男か見せてあげるわ。あなたはまもなく死ぬのよ。私はまだ若いわ。気を悪くしたでしょ」
「いや、別に気にしていない」と老人イサク。その声は震えている。
「気にしているわ。真実を聞きたくないのよ。もっと早く言えば良かったわね。苦しめないで済んだわ」
「分っているよ」
「いいえ、分っていないわ。分るはずないわ。もう一度鏡を覗きなさい。よく聞くのよ。私はジーグフリッドと結婚するわ。私たち愛し合っているのよ。顔色が変わったわ。笑いなさい・・・そうよ、笑うのよ」
「胸が痛む」

鏡を突きつけられて、無理に小さな笑みを作るが、老人イサクの表情は苦痛で歪んでいた。

「教授なら、なぜ痛むのか分るはずよ。でも分らないのね。肩書きは教授でも何も知らないのよ。もう行くわよ。ジークフリッドの赤ん坊を見るのよ」

サーラはそう言って、老人イサクの前を立ち去った。

サーラはジークフリッドとの間に産まれた赤ん坊を抱いて、優しく語りかけていく。

「可哀想に、静かに寝ているのよ。風を怖がらないで。鳥を怖がらないで。カラスやカモメを、海の波を怖がらないで。私がいるわ。抱いてるわ。すぐ夜が明けるわ。しっかり抱いてるわ」

赤ん坊を抱きながら、サーラは、夫ジークフリッドの待つ邸に入っていく。そこに置き去りにされたイサクは、邸の外から弟夫婦の円満な家庭風景を覗いている。

まもなくイサクは、一つの建物の中に入っていった。

「入りなさい。ボリー教授」

この声に案内されて、イサクが入った場所は、10人の医学部の学生らしき者たちが見つめる医学部の試験の会場だった。彼はそこで、一人の学生として試験に臨むことになったのである。 

「その細菌を鑑定して下さい」

試験官にそう言われて、イサクが覗いた顕微鏡には、何も映っていない。イサクは「顕微鏡が壊れている」と弁明したが、それをあっさりと否定され、狼狽する。次に黒板に書いてある言葉を読むことを求められ、イサクはそれを読み上げるが、その意味を全く説明できないのだ。

「教授、黒板に書いてあるのは医師につとめです。医師のつとめを知ってますか?」

試験官にそう聞かれても、医師のつとめについて何も答えられない老人イサクが、そこに惨めに竦んでいる。

「医師のつとめは、許しを請うことです・・・あなたは罪を犯している。あなたは何も分っていない」

試験官にはっきりと言われて、イサクは激しい狼狽を隠せない。

「重い罪ですか?」とイサク。その眼は、縋るような者の必死さを表現していた。
「残念ながら・・・」と試験官。

イサクは震える手でグラスに水を注ぎ、懸命に弁明を繰り返す。

「私は老人です。その点を考慮して下さい」

試験官から試験の続行を認められたイサクは、今度は女性患者の診断を求められた。イサクはうな垂れている女性の顔を上げて、「死んでいる」と診断したのである。その瞬間、その女性は突然大きな笑い声を上げて、イサクの無能振りを嘲っているようであった。

そして医学試験の結果は、当然の如く、不合格となった。

「その上、あなたは重大な罪を問われている。冷淡、利己主義、配慮の欠如。奥さんの申し立てです。これから会わせます」
「死んでるんですよ?」とイサク。彼の不安は、殆ど炸裂気味である。
「冗談だと言うんですか。一緒に来ますか?もう拒めない。来なさい」

試験官の案内で、イサクは暗い森の中を鈍い足取りで進んで行ったのである。

イサクは案内された森の中で、そこだけは小さく開けた場所を視界に収めた。

そこでは、既に死んだはずのイサクの妻の笑い声が、静寂な空間を劈(つんざ)いていた。

まだ壮年の頃のカリンが、他の男と不倫をしている現場を、イサクはその視界に捕捉したのである。

「30年前に死んだ女は忘れる。記憶は年とともに薄れる。だが、この場面は覚えているでしょ?不思議ですね。1917年5月1日、火曜日。あなたはここに立って、あの二人の行動を見ていた」

傍らの試験官は、イサクに明瞭に言い切った。

そのイサクの耳に、1917年のこの森で、妻が語った言葉が侵入してきた。

「このことをイサクに話すと、こう言うわ。“私がお前を哀れに思う”神様みたいにね。そこで私が泣いて、“本当に哀れと思う?”すると彼が、“心から哀れに思う”そこで私が許しを請うと、彼が“許しを請う必要はない。許すことは何もない”でも本心じゃないのよ。口だけなのよ。それから急に優しくなるわ。私が大声を上げて、心にもないことだと言うわ。彼は私に鎮静剤をくれて、よく分っていると言うわ。私が彼の罪だと言うと、悲しそうに罪を認めるわ。でも何も感じてないのよ。感情がないのよ」

イサクを回想の現場に運んだ試験官は、回想が切れたその場で、イサクに言い放ったのである。

「聞きなさい。静かでしょう。全てが除かれた。見事な外科手術です。苦痛も出血も痙攣もない。申し分のない手際です」
「刑罰は?」とイサク。
「私は知らない。慣習の通りでしょう・・・孤独ですよ・・・そうです、孤独です」
「慈悲はないのですか?」とイサク。その表情は強張っている。
「私に頼んでも無駄です」と試験官。突き放すような態度を貫いている。

そこで、イサクは現実の世界に舞い戻った。

因みに、試験管と患者を演じたのは、事故を起こして束の間イサクの車に同乗させた、あの中年夫婦であった。



8  辛辣さの中に渦巻く、辛く、深い澱んだ感情  



凄惨な白昼夢から生還したイサクの傍らに、マリアンヌ一人がシートに坐っていた。

「思い出したくないことばかり、夢に見る」とイサク。
「どんなこと?」とマリアンヌ。
「生きながら、死んでいる」

マリアンヌ
このイサクの言葉に、マリアンヌの心は大きく振れた。

「エバルトに似てるわ・・・彼も同じことを言ったわ」
「私が死んでると?」
「彼がよ」
「まだ38だよ」
「話をしましょうか」とマリアンヌ。
「聞かせてもらいたいね」とイサク。
「2ヶ月前のことよ。エバルトに話したいことがあったのよ。雨が降ってて、彼がそこにいたわ」

ここから、マリアンヌと夫エバルトの回想シーン。海辺でのこと。

「何を言いたいんだ。不愉快なことだろうね?」とエバルト。
「言わないで済ませたかったわ」
「男ができたのか」
「止してよ」とマリアンヌ。笑っている。
「他に何がある?話があるといって、海岸に誘い出したんだよ。早く言ってくれ。ここなら、どんなことでも言える」
「何だと思ったの?殺人をしたと思った?盗みをしたと思った?・・・子供ができるのよ」
「本当か?」
「今日、分ったのよ」
「そうか。そんなことか」
「言っておくわ。私は産むわ」
「はっきり言うね」

その言葉を捨てて、車から出たエバルトは、雨に濡れた海岸に立ち竦んでいた。そこにマリアンヌが寄り添っていく。

「子供を作りたくないことは知っているはずだ・・・生きているのも愚かしい世の中だ。人間を増やすのは、なおさら愚かしい」
「口実だわ」
「僕だって、喜ばれて生まれてきた子じゃない。誰の子か分らない」
「そんなことは、理由にならないわ」
「こんな話で病院に遅れたくない」

医師のエバルトはそう言い捨てて、その場を離れた。

「卑怯よ!」

マリアンヌの辛辣な言葉が追いかけた。 

「そうだ。こんな人生は我慢できない。たとえ一日でも余計に生きたくない。冷静を失って言っているんじゃない」
エバルトもそこに、存分な感情を込めて反駁した。車に乗り込んだ夫に、妻はなお言葉を突きつける。
「間違ってるわ」
「良いも悪いもない。我々は我々の欲求に従うだけだ」
「どんな欲求に?」
「君は生きて、生命を創造したがっている」
「あなたは?」
「僕の欲求は死だ。完全な死だ」

エバルトの信じ難い言葉に、マリアンヌはもう反応できなかった。

ここで、イサクを相手にした、マリアンヌの告白が閉じたのである。

「こんなことを、なぜ話した?」とイサク。
「あなたとお婆さまを思って、急に恐ろしくなったのよ」
「分らないね」
「こう思ったのよ。これが彼の母だ。一家の長老だ。氷のように冷たく、死よりも近づき難い。そしてその息子。二人の間には年齢の差があるのに、彼は自ら生きた死人と言っている。そして死んでいるように、冷たいエバルト。私は赤ん坊を考えたわ。私が見たものは、ぞっとする冷たさと、死と孤独だけなのよ。恐ろしくなるわ」

マリアンヌの言葉には、相変わらず毒気がある。それは、真実の言葉を放つ者の、静かな攻撃性を内包するかのような毒素であった。

「エバルトのところに帰るんだろ?」とイサク。どこまでも理性的である。
「従えない、と言いによ。私の子は奪わせないわ。愛している彼にもよ」
「私が力に?」 
「無駄なことよ。手の下しようがないわ」
「話をしてからどうした?」
「翌日、家を出たわ」
「彼から何とも?」

マリアンヌは首を振った後、皮肉を込めて答えた。

「私たちがあの二人のようね。車から追い出した二人よ」
「私の結婚を思い出した」とイサク。
「私たちは愛し合っているのよ・・・」

マリアンヌが泣きながら、その思いを口にしたとき、イサクはその関係の中で、深い感情的な繋がりを継続的に作り上げてこなかっただろう息子の嫁が、自分の旅の同行者になったことの真の理由を感じ取ったに違いない。

義父に対して辛辣に振舞う彼女もまた、自分の辛さを誰かに吐き出したかったのである。彼女の煩悶は、義父にも大いに関係することだったのだ。



9  軟着点を手に入れた風景の変容



そんなとき、3人の若者たちが花束を抱えて、車の窓から顔を出した。

イサクの名誉の式典を祝福する彼らの言葉は、尊敬する慈父への率直な思いが込められているようでもあった。

「あなたは賢いお爺さんよ。人生のことなら、どんなことでもご存知なのよ・・・」

このサーラの言葉が、若者たちの思いを代弁していた。

ルンド大聖堂(イメージ画像・ウィキ)
まもなく、ルンドに着いて、イサクとマリアンヌはエバルトの自宅に落ち着いた。そこには、家政婦のアグダとエバルトが待っていた。

エバルトの妻に対する配慮は、彼女がイサクに告白した内実よりも遥かに柔和だった。マリアンヌが家を空けていた間、夫は妻への愛を確認したに違いない。そんな夫を受容するマリアンヌは、もうつい先ほどまで、頬を涙で濡らした女性とは明らかに切れていたのである。そんな息子夫婦の変容の様子を見て、胸を撫で下ろすイサクの印象深く映し出されていた。

やがて、盛大なる式典が始まった。

整然と行進するラインの中に、礼装したイサクと、その息子エバルトがいる。普段と変わらぬ表情のイサクに、ラインを見守る一般の観衆の中から、「イサク先生!」と呼びかけるサーラの声が飛び、イサクは小さな笑みで反応した。

「イサク・ボリー。医学に知識が高く、臨床医術に優れ、あなたの仁慈を施したる医師。その名を知られた医学博士・・・在位50年の優れたる医学博士に値する」

式典での、イサクの栄誉を称える挨拶である。

「・・・私はその日の出来事を心に浮かべ、起こったことの全てを思い起こして、書き記そうと考えた。相次いで起こった様々な出来事の中に、関連を見出せると思ったからだ・・・」 (イサクのモノローグ)



10  海岸線が曲線状をなす陸地に、穏やかに入り込んでいる完璧な構図の中に



その夜、イサクは家政婦のアグダに、今朝の無礼を謝罪した。いつもと様子が違うイサクの態度に、アグダは驚くばかり。更に、アグダを驚かすもう一つのエピソード。それはイサクからの、この言葉だった。

「私たちは長い間、友達として付き合ってきた。お互いに、アグダとイサクと呼ぼう」

当惑するアグダは、この申し出を一蹴する。

「それはいけません」
「なぜだね?」 
「親しくし過ぎるのはいけません。このままがいいのです」
「しかし私たちは年寄りだよ」
「考えなさい。噂がうるさいですよ。イサクなんて、呼べません」
「どう、うるさい?」
「妙な噂を立てます」
「常に正しく振舞えるかね?」
「そのつもりです。私たちの年なら、よく分ってるはずですよ」

これが、その夜のイサクとアグダの長い同志的関係の確認に結ばれた、一つの小さなエピソードの顛末だった。

ルンド大学のメインビル(イメージ画像・ウィキ)
アグダが去った静かなイサクの部屋に、外から若者たちの歌声が聞こえてきた。

“花の匂う美しき谷に 疲れた心を休めて”

イサクとの別離を告げる、3人の若者たちの清澄な歌声の後に、サーラの別れの言葉が繋がれた。

「私たち旅を続けるのよ・・・先生、いつまでも忘れないわ。今日も明日も、いつまでも!」
「私も忘れない」

若者たちとの別離の後、ベッドに潜って眠れないでいるイサクの元に、息子のエバルトが挨拶に来た。
その場を立ち去ろうとするエバルトを枕元に呼んで、父は遠慮げに尋ねた。

「お前たちはどうするのか、聞こうと思ってね。聞いては悪いが・・・私に関係のないことだが・・・」
「いてくれと頼みました」と息子。
「だが、無理に・・・」と父。
「彼女がいなくては・・・」
「無理か・・・」
「一人では生きられません」
「その気持ちは分る」
「折れました」
「そしてマリアンヌは・・・」
「考えさせてくれと言ってます」
「貸した金の件だが・・・」と父。
「金はお返しします。返しますよ」と息子。父の真意が読めないでいる。

そこにマリアンヌが入って来て、就寝の挨拶をした。そこにもう息子はいない。

「旅が楽しかった。ありがとう。私はお前が好きだ」
「お父さん、好きよ」

その言葉を残して、マリアンヌもいなくなった。 

イサクの最後のモノローグ。

「私は気が落ち着かず、淋しくなると、気を鎮めるために、子供の頃を思い出した。今宵もそうした」

映像の最後は、青春時代の夏の別荘。

野いちごの森で、満面の笑みを浮かべるサーラがいた。

「イサク、もういちごはないわ。お父さんを呼んできて。皆で船に乗るのよ」
「探したが、お父さんもお母さんもいない」
「私が手伝うわ」

サーラはイサクの手を引いて、海が見える高みまで連れて行った。

そこから見えるあまりに長閑で、美しい入江の風景は、一幅の絵画そのものであった。

海岸線が曲線状をなす陸地に、穏やかに入り込んでいる完璧な構図の中に、自然に溶け込む存在の眩さを放つかのようにして、静かに釣糸を垂れる父と、その傍で読書に興じる母がいる。

その光景を穏やかな表情で見つめるイサクが、そこにいた。


*       *       *       *



11  死という絶対的観念の支配力



人間、長く生きていると色々なことがある。

それが積極的であれ、消極的であれ、現在の自分の人格形成に何かしら影響を与えたと思えるような、様々に辛い経験や苦い思い出の数々が、時には学習的に吸収された何かとなって、そこにほんの少し、刺激含みの突破力を感受させる力動感の中で息づいている記憶として、雄々しく立ち上げられているかも知れない。

学習的に内化された記憶情報の幾つかは、既にその人格の中で、「あれがあったから、今の自分がある」と言わしめる経験であるに違いないからだ。

そのとき、「辛い経験」と認知された記憶情報は、「もう同じ失敗は繰り返さない」という、極めて主観性の高い確信的自我の内に収斂されている場合も多く、逆に言えば、それらは確信的自我によって相対化された挫折経験でしかないということである。

その類の相対経験を多く抱えるほど人格を豊饒化し、強化するとは言い切れないが、少なくとも、固有の人生を生きる人間の曲線的な航跡を主観的に俯瞰するとき、学習的に内化されたと信じる挫折経験に過分の重量感を乗せることで、そこに少なからぬ自信を纏(まと)った人格を実感的に括り上げることが充分に可能である。

この程度の物語を自在に転がして生きていく独特の存在体、それが私たち人間の偽らざる様態であるだろう。

以上の挫折経験をほどほどに、中和する心地良き記憶情報の幾つかが存在し、それが自らの人格の内側で違和感なく共存するに足る時間を立ち上げられる者は、そこにどれほどの曲線的航跡を認めてもなお、間違いなく現在の自己をそれなりのサイズで受容する能力を持つ者であると言えるだろう。

世の中には、九分の失敗の体験よりも、一分の成功体験のみによって、存分に自己受容し得る能力を持つ者も存在する。

このような御仁は、ここで言及した能動的文脈によって、自分の人生をいかようにもオプチミスティックに把握し得る特性に恵まれているので、それはそれで充分に自己了解的な人生を蕩尽し切って、比較的柔和な面持ちの中で果てるに違いない。

結構な人生である。いや、天晴れな人生と言うべきか。

しかし人間という生き物は、一筋縄ではいかない厄介で複雑極まる存在体である。

恐らくそれは、その固有なる生命の人間化の過程で、生存と適応の戦略を中枢的に司る、自我という能力を形成的に手に入れていく内面的な過程と濃密に脈絡する何かと、多いに因果関係を持つだろう。

自我という能力は、自らに降りかかってくる圧倒的な情報の氾濫に対して適切な反応をすべく、その生存・適応戦略を有効に遂行し得るに足る情報処理を不可避的に強いられるのである。

様々に刺激的な情報を恣意的に腑分けし、それが存在することによって、自分の人生を暗く彩る不安をもたらす情報、とりわけ、中和化され得る「挫折経験」のレベルの相対性を超えた、痛々しいまでの不快情報の「絶対経験」と認知せざるを得ない情報は、自我によって意識の見えない辺りまで封印されることが、まま起こるのだ。

これもまた、自我の生存・適応戦略の一つの機能の産物であると言っていい。

トラウマとか、心的外傷と呼ばれるレベルの情報は、殆ど固有なる人格の相対性の中で現象化するものなので、それらは、本人でなければ決して測り得ない何かであると言うしかないのだ。

そのような自我は、九分の成功体験よりも、一分の由々しき挫折経験によって、その人生が決定付けられると考えやすい流れ方をする場合が多いので、自己防衛のためには、意識の奥深くにその不快情報を封印させてしまった方が、恐らく、幾分かは楽なのである。

オプチミストから見れば末梢的な経験でも、それを深刻に受け止めてしまった自我にとっては、「絶対経験」と呼ぶしかない非能動的文脈だけが内側で澱んでしまうのだ。人間がそれぞれに異なった人生の航跡を描いて、固有なる自己の歴史を作ってしまう必然的帰結がそこにある。

そして人間にとって最も厄介な事態が、紛れもなく存在してしまうということ。それが存在することによって、人間が「時間」というものを意識下に据えながらも、その未知なる圧倒的な観念性に畏怖してしまう現実、まさに人間が人間であるところの、際立って固有なる存在性を表出する現実、それこそ、「死」という絶対的現実である。

しかし、その絶対的現実は、同時に絶対的な観念である。

「死」は、私たちにとって絶対的現実でありながら、どこまでも絶対的な観念でしかないのだ。私たちは 「死」を、呼吸を繋いでいく者の現実の只中で、決して経験でき得ない現象として見つめていく外はない。想像力の範疇でしか、それは存在感を持ち得ないのである。

だから「死」は、私たちにとって常に一つの観念、しかも絶対的な観念以外ではないのだ。



12  老境の最後のステージに上り詰めた者のリアリティの凄み



―― 前置きが長くなったが、映像の世界に入っていく。


主役のヴィクトル・シェストレムとベルイマン
映像は、以上の根源的なテーマ性を含む作品として、充分に芸術的な完成度の高い表現に届き得たと思われるので、ここに言及した次第である。

老医師イサクが悪夢を見たその日、彼にとって最も栄誉ある名誉博士号の授与式が催される日であった。

50年の長きに及ぶ医学への貢献に対して、彼は生涯二度とないであろう最大の栄誉を受けることになっている。

それは人によっては、勲章を受けることで舞い上がる類の世俗性と馴染んでいる分だけ、却って余生を元気づける圧倒的な熱源になる者も多いに違いない。

しかしイサクの場合は、少々違っていた。

彼は元来社交を好まない人物であり、世俗的会話を享受する性格ではなかった。それどころか狷介(けんかい)とも思える振る舞いもあり、自ら人間嫌いを任じるタイプの男でもある。

「名誉博士!くだらん!大たわけ博士がいいところだ」

そこに多分に、衒いを擯斥(ひんせき)することで自虐の態度を振舞う感情が見え隠れていたにしても、こんな言葉を平気で吐く人物は、元来人を評価し、或いは、評価の対象となることを少なからず嫌う人物であるに違いない。

評価し、評価されることによって、表面的には、その人間の価値を社会的に固めていくという世俗性を嫌う人物であるからだ。

そしてこの評価の形が、恰も自分の業績の最終到達点であるかのような意識をもたらしてしまうとき、男はその儀式を、自らの人生の最終到達点になるという観念に導いてしまったのではないか。

一つの儀式が、男に「死」という観念を運んできてしまったとも考えられるのである。

しかも男は、自分の過去の固有な軌跡に対する矜持の内側に、ある種の欠如感を抱えていた。

それは自らを、「大たわけ博士」と自嘲させるほどの何かであった。

それが、彼の本音であるかどうかは疑問の残るところだが、年輪のフラットな累加の中で、彼は医学的教養の累進的な学習内化を実感できない欠如感を抱えていたのかも知れない。

このことは、ドライブ中の悪夢の中で、医学試験で落第を告知される痛々しい描写によって再現されていたが、それは紛れもなく、彼の内在的不安感の顕在化でもあったと言えるだろう。

そしてこのような感情の禍々(まがまが)しいまでの出来は、彼がその日の明け方に見た悪夢に淵源するものであった。

人気のない見知らぬ街で、一人彷徨(さまよ)う男の前に、針のない時計が現れたと思ったら、今度はデスマスクの男が出現し、その肩に触れるや、忽ち死体と化す異様な悪夢の流れ着いた先には、自分が遺体となった棺との対面が待っていたのだ。

男はこのとき、明瞭に、迫り来る死の恐怖を実感してしまったのである。死を実感した男はもう、飛行機での式典行きを断念するしかなかった。男の最も深甚な時間を貫流する一日の幕が、まさにそこから開かれたのである。

老人が主人公となるロードムービーとも言える本作は、比較的フラットに推移したと思える男の人生の中で、そこだけは封印しておきたかった被膜のように繊細な闇の情報が、唐突に噴き上げてくる尖りを持った、その固有なる人生の縮図そのものを、些かシュールな筆致で、象徴的に描き出した奥行きの深い傑作であったと言っていい。

悪夢を払拭できない男の一日は、あまりに重量感溢れる内面的な時間であり過ぎたこと、これが本作の真骨頂である。

普通に生きていれば、かなりの確率で逢着するだろう程度に於いて、同じように私的問題を内包する息子の嫁とのドライブ行。

その最初の休憩スポットで、その森を散策する男は、まるでそこに誘(いざな)われるようにして、愛らしく赤い実をつける野いちごをその視界に捉えてしまった。

男が立ち寄った先は、男が青春期を過ごした森の中の瀟洒(しょうしゃ)な洋館だったのだ。

男がそこで捕捉したのは、婚約を約束した一人の少女、サーラ。

野いちごを摘み取るサーラに、イサクの実弟が言い寄っていく場面が、老人イサクの前で開かれたのである。

奔放な振舞いの目立つ弟は、サーラが兄の婚約者であると分っていながら、確信的に言い寄って、そして確信的に彼女の心を射止めてしまったのだ。

弟に恋人を奪われたイサクは、本心では弟を愛しながら、兄のイサクへの贖罪感に煩悶する辺りで、イサクの苦々しい追憶の時間が遮断されることになった。

かつての婚約者であったサーラと、その名が同じであるばかりか、顔も似る見知らぬ少女から声をかけられたからである。

まだそこに、ほろ苦い失恋譚の芳香を僅かに残していた追憶の森への、少しばかり軽い助走の気分を乗せた時間の旅が、老人イサクの中で、その感情文脈の決定的な負の連鎖が出来したのは、イサクとマリアンヌの、居心地悪い空気感を漂わせるドライブ行が、他者の空気を搬入することで、その内実に濃密な人間ドラマのリアリティを炙り出してしまったからである。

イサクが白昼夢の深淵の世界に侵入したのは、まさにそんなときだった。

若者たちの熱気の流入と、中年夫婦のおぞましい関係の爛れ方、実母との縁起の悪いクロス(針のない時計や、年齢を重ねすぎて狷介となった卑屈なる孤独感)を目の当たりにしイサクは、普段の非世俗的な日常性の中では、恐らく、出来することのない感情の小さな奔流を導き出してしまったのである。

イサクの白昼夢。

功なり名遂げた一人の老人の一つの旅が、自分の一生の時間の中で、その白昼夢を含む幾つかの象徴的な出来事を通して、節目となった重要なエピソードを凝縮させるほどの重量感を持ったのは、紛れもなく、息子の嫁であるマリアンヌとの物理的共存を経由する中で、そこに有無を言わさず拾うことになった、内面的時間の甚大な影響力であると言っていいだろう。

マリアンヌ
そのマリアンヌの存在の大きさこそが、一人の老人の狂おしいまでの白昼夢を出来させたという指摘は、後述するが、E.H.エリクソンが自著の中で、鋭利に分析しているところである。

―― ところで、人間の白昼夢が、夢を見るためのレム睡眠(浅い眠り)の中で現出するものであることは、今や常識でもあるだろう。

イサクの狂おしい白昼夢の淵源にあるのは、明け方に見た、恐るべき「死」をイメージさせる悪夢にあるが、その悪夢から逃避するかのようにして選択したドライブ行で、彼は思いもかけないマリアンヌからの辛辣な言辞を、その自我にダイレクトに受け止めてしまうことで、もう一つの狂おしい白昼夢に繋がったと思えるのである。

彼はまさに、自分のライフワークの心地良き軟着点を目指したはずの、その選択的な旅の只中で、巧みな自我の戦略のスキルによって、どこかで忘れていた自分の過去の時間に誘(いざな)われてしまったのだ。

一切は明け方の悪夢を出発点として、その悪夢を、更にシビアな記憶のリアリティの中での出来を後押ししたのが、マリアンヌとの内面的クロスにあったと言えるのである。

そんな心理的背景の中で現出した、「イサクの白昼夢」 ―― それは、あの陽光眩い夏のほろ苦い回想とは、明らかに切れていた。

殆ど闇のような夜の森で、あのときの美しいサーラが、今すっかり老人と化したイサクに向かって、それ以上ない痛烈な言葉を放ったのだ。

「あなたがどんな男か見せてあげるわ。あなたはまもなく死ぬのよ。私はまだ若いわ。気を悪くしたでしょ」

自分だけが無駄に年を重ねてきたと痛感させられるような、一人の老人の凄惨な追憶の攻撃性の根底には、恋人と実弟に裏切られたような男の悲哀のみならず、迫りくる死に向かって、フラットな歩みを続けると思わせる空虚なる感情文脈が、べったりと横臥(おうが)していたのである。

この感情文脈が、まもなく負の連鎖を起こしていく。

それは殆ど、ペシミズムの暴走と言っていい爛れ方を晒していくのだ。

老人イサクはその後、サーラと弟の平和な団欒を覗き見て、自分だけが心の秩序を結べない惨めさの中に置き去りにされ、負の連鎖が搦(から)め捕っていくのである。

老人の白昼夢が次に開いた世界は、医学者としての老人の見識と教養を根柢的に打ち砕く凄惨なる回想であった。

医師としての務めを説明できないイサクは、その身体ばかりでなく、知的な能力の中枢すらもすっかり削られていて、今や、「生ける屍」という観念のイメージを醜悪なまでに晒すばかりなのだ。

この描写に於いて特筆すべきは、イサクの医学試験の試験官とその患者だったのが、現実世界でのドライブ行で、惨めな生態を晒した中年夫婦であったことだ。

既にこの時点で、現実世界でのイサクは、中年夫婦の悪罵の応酬をその記憶に、相当の悪印象を持って張り付けていたのである。

僅か数時間前の出来事が、イサクの白昼夢の中に侵入してきたのは、彼がその中年夫婦のリアルな生態に、自らの壮年期の負の記憶を唐突に想起させて来た文脈を予知するものだったと言える。

現に、その試験官に案内された森の片隅で、イサクが見せつけられた世界が、壮年期に自らが目撃した亡妻の不倫現場であったという事実。これは悪夢のリアリティとして、極めて説得力を持つ描写であった。

イサクはこの心的裂傷の経験を、長く自分の記憶の見えない辺りにまで封印させてきたと思われる。封印させてきた負の情報が、サーラとの苦々しい失恋譚の、その極めつけの愁嘆場の延長上に噴き上がってきたのは、イサクの追憶の流れ方が、既に負の連鎖を必然化してしまったからである。

彼がその森の現場で回想した、妻の言葉が放つ決定的な攻撃力は、老人イサクを心理的に追い詰めていく凄惨なイメージを刻むものだったのだ。

「このことをイサクに話すと、こう言うわ。“私がお前を哀れに思う”神様みたいにね。そこで私が泣いて、“本当に哀れと思う?”すると彼が、“心から哀れに思う” ・・・ そこで私が許しを請うと、彼が“許しを請う必要はない。許すことは何もない”でも本心じゃないのよ・・・私が彼の罪だと言うと、悲しそうに罪を認めるわ。でも何も感じてないのよ。感情がないのよ」」

この言葉によって検証されるのは、イサク夫婦のあまりに寒々しい心理的関係の様態である。

恐らくイサクは、自分が目撃した、言わば、あってはならないこの現実を、自ら直接、妻に指弾する者の如く責め立てることをしなかったに違いない。

しかし、この森の現場で妻が告白したような夫婦のやりとりが、彼らの関係の中で存在したであろうことは容易に推測できる。

それでも問題を大事(おおごと)にしたくないイサクは、妻に鎮静剤を与えることで、関係の修復を形式的に果たす中で、心にもない自分の非を認める偽装を為したと考えられるのである。

そして彼は、それを自分の記憶の奥に封印することで、なお亡妻との夫婦関係を形式的に繋いでいったと思われる。だからこそ、この負の体験は、彼にとって悪夢の世界に閉じ込めておく必要があったのだ。それは無論、妻の人格を守るためではなく、イサク自身の自我防衛以外の何ものでもなかったであろう。

大体イサクが、この森の現場で、このようなふしだらな現実を目撃したということ自体、既にこの夫婦関係に少なからぬ不協和音が生じていて、妻もまた殆ど確信的に、夫を裏切る身体表現を切り結んで見せたとも考えられるのである。

つまりこれは、この夫婦の中で、恐らく公然の秘密となっていた事態を、イサクの側からの自我防衛のネット化によって、敢えて封印してきた夫婦のその浮薄な形式性が、まさに露呈される回想でもあったということだ。

この描写には、極めてシビアな悪夢が添えてあった。

イサクを森に案内した試験官が、眼前に展開した不倫の現場が視界から消え去ったとき、それに戸惑うイサクに、こう言い放ったのだ。

「聞きなさい。静かでしょう。全てが除かれた。見事な外科手術です。苦痛も出血も痙攣もない。申し分のない手際です」

不倫の現場をイサクの視界から消すという行為を、「外科手術」と説明する試験官の含意には、恐らく、その試験官の夫婦の処理の仕方がそうであったような、「見たくないものは排除する」という記憶の消去を、イサクに促す意図が読み取れるのである。それに対する「刑罰」を問うイサクに向かって、その試験官は、「孤独ですよ」と言い切ったのだ。

この描写が意味するあまりの重々しさに、辟易する思いを隠し切れないのは事実だが、このような夫婦関係を最後まで崩さなかっただろう、イサクの孤高性を際立たせたこの描写の緊迫感は、激しく胸を打つ。

ルンド中央駅(イメージ画像・ウィキ)
それは、この男が今日、この「栄誉ある儀式」を迎えるそのときまで、殆ど世俗と切れた日常性を繋いできた内面世界の有りようが、老境の最後のステージに上り詰めた者のリアリティの凄みによって、ダイレクトに鏤刻(るこく)された描写でもあったのだ。

この白昼夢からイサクが覚醒したとき、彼は傍らのマリアンヌからの告白を受け止める。

マリアンヌにとっては、恐らく、その告白を吐き出すための同行であったが故に、覚悟を決めた告白の内実は極めて深刻なものであった。

死を想念して止まない彼の長男の内面世界の孤独のさまが、まさにその両親の冷え冷えとした関係の産物であることが、ここで明瞭に検証されてしまうのである。

然るに、このときイサクは、明らかに自己の内的状況を相対化できていた。辛い回想から生還した男の心に、同様に辛い現在を抱える者がいる。この認知は、男の自我を相対化させた分だけ楽にさせたのだ。

男は、必ずしも狭隘な人格の主ではない。

マリアンヌから息子のエバルトの話を聞いて、少なからぬ動揺を受け、父親としての倫理的責任をも感じたに違いない。

僅かな時間だが、しかし濃密な時間を共有しつつあったマリアンヌに対する感情の受容度は、彼女の話を、「聞かせてもらいたいね」と語らせる思いを、少なくとも、その張り詰めた空気感の影響下で包み込んでいたことと無縁ではないだろう。

そればかりではない。

彼女の辛辣な物言いの後で、「私が力に?」と柔和に言葉を添える、微妙な反応の変化をも刻んでいたのである。

このシーンはまさに、この映像に於けるマリアンヌの存在の大きさを決定付ける描写であった。

その空気感の中で、殆ど想像できたはずのイサクの優しさに、「無駄なことよ。手の下しようがないわ」と反応するマリアンヌの心には、明らかに自己の思いを吐き出した者の、ある種の甘えを含む安堵感が生まれていたに違いない。

そしてその描写の中に、イサクが辿り着くであろう、それ以外にない軟着点のイメージを、充分に想像させるラインもまた生まれていたのである。 

ただ、この種のタイプの人間に多く見られるように、この男もまた、自分の内側に守りたい価値を持つものがあったが故に、必要以上に防衛的自我を作り上げてしまっていた。

プライドラインと言っていいバリアを、その自我によって守られるべき中枢の辺りに構築したために、男はそれを守るための意識のラインをなぞった自己像を、いつしか、予約されたイメージの中で描いてしまったように思われるのである。

男にとって、亡妻との夫婦関係を決定づけた森の中での妻の振舞いは、決して許されるべき行為ではなかったはずだ。

或いは、妻からの挑発的な告白の前で、必死に防衛機制を張るだけのそのさまを、露呈することを恐れるような振舞いの中で、男は「見透かされることの恐怖感=虚栄心」の表出を、自然な身体表現の偽装性によって、自我の内側に封印する努力を連綿と繋いできたのであろうか。

男はそれを自我の奥深くに封印することで、辛うじて守られたと信じる小さな防衛的自我の有りようを、自分なりの理性的把握の中で、一貫した人格的同一性の確認によって、そこだけは、誇り得る者の如く貫流させてきたように思われるのだ。

言ってみれば、半ば確信的に世俗と切れた男の人生とは、生来的な気質や性格の故か、異性関係に於いて少なからぬ裂傷を負った自我の、その防衛戦略の一つの不可避なる帰結点であったのかも知れないのである。



13  偏屈で、エゴイストのキャラクターを非武装化されて  



そんな非世俗的な男が選択した、一つの目的的なるドライブ行。

それは、なお世俗と濃密に繋がることを回避する男の内側に、様々なる刺激的情報をヒットさせる何かとなった。


とりわけ、未だ世俗の垢に染まっていない3人の若者たちとの偶発的な出会いは、彼らの直接的な身体表現とのクロスもあって、非世俗的な男には、却って、その純粋な振舞いの流れ方に親近感をもたらす効果を生んでいく。

非世俗的な男が、彼らの前で、その防衛的自我の不必要なまでの武装を繋ぐ理由が全くなかったこと。

これは男の心を、極めて自然に解き放つ特段の効果を生んでいったと思われる。

偏屈で、単なるエゴイストのキャラクターを、この義父の過去の振舞いの中で、散々見せ付けられてきたに違いないマリアンヌにとって、ワインを飲んで信仰深き言葉を口誦する義父の意外な表出は、非武装化されたその自我の一端に触れたことで、細(ささ)やかな驚きを感じ取ったのかも知れない。

更に、中年夫婦の醜悪なさまに対して、横転した彼らの車を皆で協力して起こそうとする義父の態度は、夫婦を説教しない理性的文脈の中で一貫していた。

そんな迷惑千万な中年夫婦を降車させたのは、自分の夫婦関係の中で、今、まさに進行中の問題を抱えるマリアンヌその人だったのである。

彼女はそのことを義父に告白した理由を問われて、辛辣な反応で切り返したが、それでも、そのような真実の吐露を語るに足る相手として、義父の存在が一定の特定性をもって選択されたことは否定し難いのである。それが、ラストシーンの和解に繋がる重厚な伏線になっていたことだけは間違いないだろう。

そして、老人イサクの一貫して理性的で、思いやりのある振舞いに接した若者たちの嗅覚は、老人に対して、「あなたは賢いお爺さんよ。人生のことなら、どんなことでもご存知なのよ・・・」(サーラ)とイメージさせる人格像を結んでいたのである。

名誉の式典を授与されるほどのインテリ老人が、若者たちに対して一貫して権威主義的な態度を見せなかったことが、若者たちの老人への尊敬感情を胚胎させたのだろう。

実は老人イサクには、その必要がなかっただけだが、単にほんの少し虚栄を剥ぎ取っただけの、その裸形の人格の片鱗を開示したことで、苛烈なる人生経験の免疫を持たない若者たちには、一人のインテリ老人の存在性は、充分過ぎるほどの人格モデルになっていたのである。



14  若き日の恋の裂傷を刻印させる情報イメージ



そして、ラストシーンに直接的に繋がる、若者たちとの爽やか過ぎるほどの別離の描写は、そこに余分な感傷を排した分だけ、清冽な感動を印象深く湧出させる名場面になったと言っていい。

この別離の描写が、ラストシーンに於いて、「もう、いちごはないわ」と呼びかけるサーラの、「イサク受容」の回想の場面に繋がっていったのである。

「いちご」とは、イサクの若き日の、恋の裂傷を刻印させる情報イメージ以外ではなかったということであろう。その「いちご」が、その夜の回想の中で消失したということの意味は、あまりに様々な事態が出来した最も忘れ難き一日の括りを、一種、自己浄化的で、温和なイメージで包み込む表現性を被せたものだったと言えるだろうか。

イングマール・ベルイマン監督 
このラストシーンの見事な構図は、ベルイマン芸術の、その素朴な素顔を垣間見せて、鮮烈なまでに感銘深い描写になっていったことは論を待たないであろう。

たった一日の出来事の中に、老年期を迎えた一人の男の中で、印象的に凝縮されたかのような人生があった。

決して幸福であったと言えない時間も多く含まれているが、しかし特段に悲愴的で、哀れむべき人生ではなかった。そのような無難で、それなりに自分の自我と折り合いが付けられた一定の括りが、そこには垣間見えたのである。

恐らく、それ以外にないイメージラインの中にフェードアウトしていった映像の余情は、その物語が抱え込んだテーマのシビアな重量感と、なお一定の緊張感を保持しつつも、どこまでも深く、どこまでも清冽であったと言えるだろう。

とりわけ、そこに不必要なまでの社会的背景を徒に挿入することで、却って稀薄化された、ある種のドラマの独善性の罠に拉致されなかった点に於いて、本作は蓋(けだ)し秀逸だった。

そんな本作の中枢的テーマを要約すれば、「凝縮された時間が抱え込んだ老境の悲愴性と、その軟着点」という風になるだろうか。

純粋な人間ドラマで突き抜けた、イングマール・ベルイマンの辣腕に脱帽する思いである。



【余稿】  〈驚くほどの復元力があり、予後は希望的であるというエリクソンの分析〉


E.H.エリクソン
―― 稿の最後に、本作を心理学的に分析したE.H.エリクソンの文章を、評論に必要な部分について引用してみる。その出典は、「老年期 生き生きしたかかわりあい」(E.H.エリクソン他著、朝長正徳・梨枝子訳 みすず書房刊)である。

彼は人生の心理社会的発達の段階を、『ライフサイクルの8段階』と命名して、詳細に分析した心理学者として著名である。因みに、そのサイクルを簡潔にまとめれば、以下のようになる。


『ライフサイクルの8段階』(心理社会的発達の段階)

(同調的性向)  (非同調的性向)  (総括的展望) 

幼児期 ・・・基本的信頼 対  基本的不信    希望
児童初期・・・自律     対  恥と疑惑      意志
遊戯期 ・・・自発性    対  罪悪感       決意
学童期 ・・・勤勉性    対  劣等感       才能
思春期 ・・・アイデンティティ  対  混乱         忠誠 
成年前期・・・親密性    対  孤独         愛
成年期 ・・・生殖性    対  自己没入      世話
老年期 ・・・統合      対  絶望         英知




以上の把握は、正直、私には今ひとつ説得力に欠ける、何か機械的な分析のように思えるので、あくまでも彼の意見として引用した次第である。

少なくとも、本作の主人公が「老年期」のステージにあって、そこでは「統合」と「絶望」という二つの内面世界の葛藤があり、その葛藤をバランス良く上手に克服して到達した、「総括的展望」としての「英知」の獲得が、この時期での重要な人生学的テーマになるという把握は理解できなくもない。

本作を絶賛したE.H.エリクソンは、まさに本作の主人公が、彼の心理学の理論のモデルになるような流れ方をしていて、老境期に於ける人生展開の困難さを、何とか突き抜けていく希望を見出していくさまを、些か楽観的に説明して見せたのである。

「まず第一にわれわれが思い起こさなければならないのは、ボールイ博士(イサクのこと・筆者注)が映画の最後にもまだ生きており、伝説的人物として不滅のままでいることである。最後のシーンのその終わりで、ただやすらかに眠りに落ちるだけである。ということは、同調的牽引力と非同調的牽引力との間の緊張は相変わらず存在し、そして、もし望ましい経験が与えられ、変化―そして老人を受け入れる構えが彼にあって実際受け入れることができるならば、さらに新しい力を発達させ続けるということである」(同著より)

このように分析するエリクソンは、先述したことだが、本作の登場人物の中で、マリアンヌという女性の存在を重要視している。

これは本作を観た者なら、恐らく同調するだろうが、エリクソンはこのマリアンヌの存在を、「・・・ボールイ博士一家の中で世代的役割を演じ、これらふたりのうろたえる医師父子の両方に父性について何かを教える娘的人物」(同著)という風に把握した。

私もその通りだと考える。

なぜなら、この映画は、彼女の存在なしに成立しない心理学的テーマを濃密に内包したた作品であるからである。

世代の違うマリアンヌとの、時には辛辣で、そこには、自分の持つ能力のみでは決して開けない未来の時間への希望の可能性を、ラストシーンに於けるマリアンヌの優しい言葉のサポートによって、安らかな境地の中で括られていくイサクの軟着点が綴られていたとも考えられるのである。

更にエリクソンは、「3人の若者たちとマリアンヌと共にした昼食パーティーの席でのシーン」(同著)に注目して、そこで朗唱された賛美歌のリレーの描写が持つ意味にも言及している。

因みに、その描写は本稿では記述しなかったので、ここに記そう。

―― それは、次のイサクの朗唱から始まった。

「私が探し求める友はどこにいるのか 暁は孤独と不安のときだ」

このイサクの朗唱を、聖職者を希望するアンデルスが繋いだ。

「薄明が訪れる時、心は燃えに燃えながら いまだ私は恋い慕う 麦の穂先に、花の香りに 彼の栄光と力の痕跡が見える」

この詩を、マリアンヌが受けた。

「大気の揺らぎと息吹のその一つ一つに、彼の愛がある」

ただこれだけの話だが、エリクソンは、この小さな賛美歌のリレーの中に、「深いところにある信頼と希望の感覚の表現」を見たのである。

殆ど言わずもがなの説明だが、私には、一人の老人の予想もしない内面的な時間の漂流が、少しずつ柔和な軟着点を求めて、濃密に過ぎていく幾つかの重要なエピソードの一つとして、この場面を特定的に切り取って、その意味を把握する着眼点は慧眼(けいがん)であると了解したい。

心理学者エリクソンの、本作に対する結論は、先述したように極めて楽観的である。

最後に、彼の括りについて引用することで擱筆(かくひつ)しよう。(この架空の人物について、エリクソンが確信的に記した言葉を、そのまま受け止めたいという強い思いが、私の中に存在することを素直に認めよう)

「その日の出来事が刺激となって、イサク・ボールイは、自分自身に、そして自分の長い人生に、眼を向けることになった。彼は(患者を)精査し、(病気を)同定し、診断を下す自分の能力については、誇りを持っている。

今、細部に渡って正確に日記に記録されつつあるこの日のすべての出来事は、彼を助け、彼を新しい洞察へと導くよすがとなることだろう。そして来るべき未来には、自己治癒と成長と変化のための新しい経験が―息子とマリアンヌと、そしてアグダとの間にさえ、より開かれた人間関係が待っている。そして孫や、名付け親になってやる子どもの新しい世代は、眠っていた世話と愛と忠誠の源泉を目覚めさせ、おそらくはそれらを解き放つことだろう。

とにかくイサク・ボールイ博士は、自分でも言うように『至極元気だ』。まだ76歳だし、驚くほどの復元力がある。予後は、希望的である」(「老年期 生き生きしたかかわりあい」E.H.エリクソン他著、朝長正徳・梨枝子訳 みすず書房刊/筆者段落構成)

(2007年2月)

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