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    4 か月前

2009年10月7日水曜日

歌行燈('43)     成瀬巳喜男


<木洩れ陽の中の表現宇宙>



1  プライドラインの確信的撃破 ―― その罪と罰



少し長いが、「虚栄の心理学」という拙稿から引用する。

「(虚栄心とは)自らの何かあるスキルの向上によって生まれた優越感情を、他者に壊されないギリギリのラインまで張り出していく感情であるとも言える。スキルの開拓は、自我の内側に今まで把握されることもなかった序列の感覚を意識させることにもなる。この主観的な序列の感覚が、内側に優劣感情を紡ぎ出すのである。

自分より高いレベルにあると勝手に認知された者への劣等意識が、自分より低いレベルにあると勝手に認知された者への優越感情をほどほどに中和し、自分なりに相対化している限りでは、その平穏なるラインを喰い千切って、空気を破壊するような虚栄心の暴走は見られない。

ところが、スキルの意志的向上は、大抵、そのプロセスで『道』の序列者たちと観念的に出会ってしまうから、自らの序列性を測ることで、自己を基準にした他者の優劣度が観念的に把握されざるを得なくなってくる。この主観的把握がスキルの前線で他者とクロスするとき、他者の多様性に即して虚栄心が様々に反応するのは、それが見透かされることへの恐怖感情を本質とするからだ。

その些か繊細で、特有の心象を括っていくと、虚栄心には、二つの文脈が包含されていることが分る。

その一つは、『私にはこれだけのことができるんだ』という自己顕示的な文脈。もう一つは、『私はそれほど甘くないぞ』という自己防衛的な文脈。虚栄心とは、この二つのメッセージが、このような特有な表出を必要とせざるを得ない自我のうちに、べったりと張りついた意識の内実なのである。

虚栄心は、相手が必要以上に踏み込んでくると察知したら、プライドラインを戦略的に後退させ、水際での懸命の防衛に全力を傾注する。いずれも、見透かされないための自我防衛のテクニックであると言っていい」

本作が「虚栄心」をテーマにした映画でないことは重々承知しているが、この厄介な心理の膨張と、その破綻についての描写が私の興味を引いたので、そのテーマを特定的に切り取って書いてみる。

自らが構築した等身大の「虚栄の砦」に篭っていれば別に問題が生じなかったにも関わらず、「謡(うたい)の名手」であることを自他共に認め、それを無限大に拡大していった挙句、一人の按摩はとうとう本物のプロとクロスしてしまって、そのプロの確信的攻撃性によって撃破されてしまった。

「相手が必要以上に踏み込んでくると察知したら、プライドラインを戦略的に後退させ、水際での懸命の防衛に全力を傾注する」余裕すらなく、素人でしかない「謡の名手」の高慢な態度をへし折る目的で、本物のプロが相手の拡大された「虚栄の砦」を粉砕するために土足で侵入し、完膚なきまでに破壊し去ってしまったのである。

因みにプライドラインとは、「ここだけは守りたい虚栄的自我の絶対防衛ライン」のことで、筆者の造語。本物のプロが土足で侵入し、完膚なきまでに破壊し去った「虚栄の砦」こそ、プライドラインという名の「絶対防衛ライン」であった。

その結果、相手の拡大された「虚栄の砦」を破壊した男が、破壊された男と同様に高慢な若造だったが故に、その破壊の結果が悲惨な運命を必然化してしまったのである。

若造の名は、恩地喜多八(きだはち)。

能のシテ方観世流宗家(能の主人公を演じる観世流儀の当主)、源三郎の養子であり、将来が嘱望されている謡い(能の声楽部分)のホープだった。この一行が伊勢に向かう車中で、宗山(そうざん)という「謡の名人」の噂を聞いて、喜多八は「鬼退治」に向かったのだ。


場所は伊勢古市。(画像は、伊勢古市の麻吉旅館)

そこに盲目の「謡の名人」が妾をはべらして、贅沢三昧の生活をしていた。そんな凡俗の徒の「虚栄の砦」に強引に闖入(ちんにゅう)し、その倨傲(きょごう)な態度をへし折ってしまったのだ。

哀れなる者、汝の名は宗山なり。

そこだけは死守したいはずのプライドラインを砕かれて、宗山は「道」の序列の最上位に近い辺りに位置する者と遭遇して慄(おのの)き、怯(ひる)み、最後には跪(ひざまず)いて、教えを乞う醜態を晒すばかりだった。

ところが、「鬼退治」の快感に酩酊する若造の態度は、跪く男の倨傲さよりも始末に悪かった。

「そんなに聴きたいのか、俺の声が?じゃあ、こうしな。若布(わかめ)の附焼でも土産に東海道を這い上り、恩地の台所の板の間に、恐れながらと手を付きな。そうしたら、親父に内緒で俺がこの『浦船』でも教えてやろう。分ったか!宗山」

そんな毒気含みの啖呵を捨て台詞にし、縋り付く宗山の手を振り切って、喜多八は勝ち誇った者のように立ち去って行ったのだ。

宗山の指示によって、彼の娘のお袖が、喜多八を雪の中に追って行った。

「可愛いな。死んでも人の玩具(おもちゃ)になるな」

それが、お袖を宗山の娘であるという事実を知らない喜多八の置き土産となった。更に残酷極まる置き土産が、お袖を待っていた。プライドラインを撃破された宗山が、その日のうちに縊死したのである。

その後、嫌われ者の宗山の死を喜ぶ記者たちの前で、得意げにそのときの状況を話す喜多八がそこにいた。

鼓師である辺見は感嘆するが、高慢な喜多八の態度に「芸で生きる者」の人格的欠如を感じた父は、息子を勘当するに至ったのだ。

岩手県平泉町の白山神社能舞台・国の重要文化財(ウイキ)
「謡を口にすることはあいならん。恩地喜多八は流儀の外道でござる。只今を限り恩地家を勘当いたす。世間一通り分るようにお書き下さい」

父は記者の前で、そう吐き捨てて、一切の弁明を認めなかったのである。

それが、素人名人のプライドラインを確信的に撃破した驕慢な若造に対する、厳粛なる養父のペナルティだった。以降、謡を口にすることを禁じられた有能な芸能者の、殆ど予定不調和的な人生が開かれるが、次章で言及していく。


―― この章の最後に、筆写自身が映像から特定的に切り取った「人生論的映画評論」のテーマ言及として、プライドラインを撃破された宗山の自殺の意味を考えてみたい。

何より言えるのは、宗山の自殺は単に、「道修行」の上位者から罵倒されたことに起因するというよりも、それまで世俗的次元での過分な充足感を得てきた彼の自我アイデンティティの拠点が、その安定的な秩序を崩され、迷走するに至ったという不安感、恐怖感のうちにあると言えるだろう。

この文脈から捕捉できること。

それは「道修行」にのめり込み、そこで相応の快楽を手にしている者が、その相応の秩序を自ら崩し、拡大させていく方向に走るときのリスクを無視してはならないということだ。自我アイデンティティの安寧の基盤を拡大させていけばいくほど、その「道」の上位者と遭遇する機会が増えるリスクに対する覚悟もまた、内部強化されねばならないのである。

映像のケースにおいて、地元で嫌われるほどの性悪キャラの宗山であったにしても「道修行」にのめり込む熱意の大きさは計り兼ねないながらも、それでも、そんな自分を特定的に狙い撃ちしに来た若造のターゲットになったという不幸は、ある意味で同情するに余りあるだろう。

彼は若造に縋ることによってのみ、自我アイデンティティの秩序の再構築を求めたに違いないからだ。ところが、妾を三人持つ男の高慢さは、若造のより攻撃的で差別的な高慢さを突き抜けられなかった。

成瀬巳喜男監督
ここでは、素人芸の「道修行」の世俗的な快楽の風景すらも認知しない若造の狭隘で、差別的な態度の有りようが何より問題となる。この若者の犯した行為は多分に罪悪性を帯び、それが若者の自我アイデンテイィティの拠点をも奪う決定的なペナルティによって返報されるに至ったのだ。

一人の「謡の名人」の「虚栄の砦」が自壊する事件を、このような心理学的視点で捉えることによって、著名な文学作品を映像化した本作への批評的アプローチは、少なくとも私にとって、「人間の脆弱さ」を描き続ける成瀬巳喜男への共感的理解を随伴していて、より印象深いものになっていた。



2  木洩れ陽の中の表現宇宙



二年後、喜多八は門付けとなって、見過ぎ世過ぎを立てていた。

偶然、喜多八は板前出身の次郎蔵と知りあい、協力し合うことで、共に門付けとして世俗的な成功を収めていた。本物の「謡の名人」の「芸」が、場末の大衆が群がる世俗的文化の中で一頭地を抜いていたのは当然だった。

その次郎蔵から、宗山の娘のお袖の事情を知って、喜多八は驚きを隠せなかった。

お袖は父の死後、強欲な継母に引き取られ、廓の女郎にさせられていたのだ。しかし「死んでも人の玩具になるな」という喜多八の言葉を守って、彼女は一貫して客をとらなかった。そのため継母から酷い折檻を受け、虐待を受ける日々に耐えていたということ。

この次郎蔵の話から、喜多八は宗山との一件があった雪の日、自分を追い駆けて来た娘が宗山の妾ではなく、実の娘であることを初めて知ったのである。

映像はここから、「起承転結」の「転」の世界に導かれていく。一切はここから開かれていったのだ。

ともあれ、そんなお袖を救ったのは、芸者置屋を営む次郎蔵の姉だった。義侠心に富んだ彼女は、お袖に三味線を習わせて、芸で身を立てさせようと努めたが、お袖の技量は全く上達せず、悩める日々を送っていた。

お袖についての不幸な事情を次郎蔵から聞いた喜多八は、彼女に自ら芸の手解きを引き受けることを決意した。連日のように、喜多八は宗山の亡霊に取り憑かれていて、彼の墓参を考えていたところだった。宗山の娘に対する芸の教示は、彼なりの贖罪でもあったと言える。

まもなく門付けの姿で、お袖が身を寄せる春木屋の前に喜多八が現れた。

抜きん出た技量の喜多八の門付け芸の美声は、「あたし、あやかりたい」と本音を漏らすお袖の強い関心を引くことになった。表に出た彼女は当然の如く、喜多八を特定できていなかった。


そんなお袖と喜多八との、短い会話。

「芸ができないと、嫌な勤めをしなければなりゃしません。死んでも人の玩具になるなと言われました」とお袖。

泣きながら、お袖は自分の不器用を恥じていた。

「誰に?」と喜多八。確認したいのだ。
「あるお方に」とお袖。彼女は未だ喜多八の素性を特定できていない。
「それで、その言葉を守っているのか、お前さん」
「守り通せなかったら、死にますわ」
「死んでも玩具にならない覚悟でいるのか」
「ええ」
「よし、俺が芸を教えてやる。今夜の夜明けから、七日の間、七日間で教えてやる」

自分の忠告を誠実に守るお袖の純真な思いを、喜多八は固く受け止めていた。

ここから、僅か七日間に凝縮された、「木洩れ陽の中の表現宇宙」が開かれていく。

明け方の鼓ヶ嶽の松原。

「世にも哀れなる者のために、本日より七日の間、お言葉を返します。どうぞお許しのほどを」

養父の住む方向に土下座して、喜多八は謡を口にすることの許しを乞うた。

その異常な姿を視認して、お袖は怪訝そうな表情を見せるが、無論、喜多八を特定できていない。

「さあ、お袖さん。教えるのは舞だ」

喜多八はそう言って、お袖に舞から教えていく。

芸者として自立的に生きていくために、舞の「芸」を教示することが最も有効であると、喜多八は考えたのであろう。


明け六つ(午前6時ころ)の辺りから開かれた幻想的な謡と舞が、そこにあった。

眩く林間を縫って照射される黎明の木洩れ陽の中で、喜多八はお袖に著名な謡曲である「松風」(注1)を伝授していく。木洩れ陽の中で妖しく響く謡と舞の幻想的な構図の中枢に、二人の男女が展開する表現宇宙が眩いくらいの輝きを放っていた。

いつしか松原への道程の中に走り込むお袖がいて、そこに待つ男の姿態を確認し、思わず笑みを漏らした。

「できたよ、お袖ちゃん。よく習ってくれた。これからお座敷で、三味線を弾かずにこれを舞え。誠を極めた芸はどこかで人の心を打つ」

そう言って、喜多八はお袖に「舞扇」を渡した後、「これでお父つぁんも浮かんでくれることだろう」という意味深長な言葉を残し、足早に立ち去って行った。この瞬間、お袖の心中で喜多八の素性が特定できたのである。


(注1)「謡曲。三番目物。観阿弥作、世阿弥改作。古今集などに取材。昔、在原行平に恋をした須磨の海女(あま)の姉妹、松風と村雨の霊が現れ、思い出を語って狂おしく舞う」(Yahoo辞書より)


―― 本章について簡単に言及する。

成瀬巳喜男らしくない潔く振舞う男と、その男に芸を伝授される女の素直さと清潔感。それが際立っていたのが本章だった。

更に、自分を勘当した養父の「法」を確信的に破って謝罪する男の心情の中枢には、「按摩殺し」への贖罪を身体表現する人格性が滲み出ていて、「厳父の命を守り、それに服従する息子」という家父長的な基本命題が垣間見えていた。

この把握も成瀬らしくない。

それにも拘らず、「木洩れ陽の中の表現宇宙」の描写の輝きは抜きん出ていた。

この構図のインパクトは、映像総体の商品価値を決定づける力技となっていて、本作の生命線とも言えるシークエンスであったことだけは間違いない。

1943年という困難な時代の中で構築された映像世界の限定性は、この構図の決定力によって決して稀釈化されるものではなかったが、独立的な描写の価値として、一頭地を抜くシークエンスの求心力は際立っていたと思えるのだ。



3  偶然性への依拠と、極め付けの予定調和の物語の壊れ方



相変わらず、喜多八は門付け生活を続けていたが、いつしか彼の内側にはお袖に対する慕情が生まれていた。慕情が断ち切れない喜多八は、お袖が厄介になっている春木屋の辺りに足を向けていた。

桑名鋳物を象徴する桑名宗社(ウイキ)
ところが、お袖は既に春木屋にいなかった。桑名の芸者置屋に移っていたのである。

そのお袖と次郎蔵が偶然出会った際、次郎蔵からの問いかけもあって、喜多八の素性の話題に触れた。

そのとき、お袖は次郎蔵に正直な思いを告白した。

「仇などとは思いません。初めは恨みもしましたが、鼓ヶ嶽の松原で舞を教えて下すった後で、これでお父つぁんも浮かんでくれるだろうとおっしゃった一言で、さらりと恨みも晴れました。今では却って、若旦那にもう一目会いたいと明け暮れ思わない日はありません」

お袖の正直な思いの吐露の中にも、まるで二つの魂が溶融されたかの如く、喜多八への慕情を滲み込ませていた。

当然、そんなお袖の気持ちを知る由もない喜多八は、場末の飲み屋で「恐怖突入」を試みていた。

芸者が多い桑名で宗山の亡霊に怯える男は、たまたま呼んだ按摩を飲み屋に入れて、肩の凝らない体を人身御供にしたかのように、殆どマゾヒズムの世界に沈んでいたのだ。

一方、桑名の芸者置屋に身を寄せるお袖の元で、恩地源三郎と辺見雪叟(せっそう)の御大コンビが、ひとときの遊興の世界に遊んでいた。

彼らの相手をするのは、お袖。

しかし、遊興の客人に自ら進んで酌をすることもなく、芸も振舞わないお袖だが、温和な老人たちを目の当たりにして、彼女は唯一の舞の芸を披露して見せた。鼓ヶ嶽の松原で、喜多八から学んだ舞の芸である。

お袖の舞に謡も加わったとき、老人たちの表情が突然変化した。

彼らは芸者の謡と舞の背景に、喜多八の芸を特定したのである。その事実を特定するや、辺見は堤を打ち、源三郎は謡を披露し、三者の芸が見事な融合を見せていく。


「按摩さん、俺はおめえの仲間を一人殺しているんだ」

引き続き、場末の飲み屋で、恐怖突入の渦中にあった喜多八は、按摩に自らの過去を吐露していた。

まさにそのとき、彼は聞き覚えのある堤の音を耳にして、辺見の存在を確信した。

喜多八は矢も盾もたまらず飲み屋を立ち去り、堤の音がする芸者置屋へと足早に急いだ。途中、次郎蔵と遭遇した喜多八は、共に目的地まで同行するに至った。


ラストシーン。

そこに、予定調和の世界が待っていた。

既に芸者のお袖から喜多八の存在を聞き知っていた源三郎は、息子に対する勘当を解くことを決めていた。その調和的な世界にまもなく喜多八が加わって、四者のハーモニーによって成る謡と舞の芸が、そこにもう余分な感情が入り込む余地がない程の小宇宙が形成されたのである。

父と子、慕情を寄せる男と女。

かつての高慢な若造が苦労の末に成長した魂を中枢とする、二つの再会が劇的に果たされて、ここも成瀬巳喜男らしくない予定調和の物語のうちに閉じていった。


―― この章を、一言で括る。

例を挙げる必要がないほど、風俗と人情を生命線とする典型的な新派劇を彷彿させるに足る、過剰な偶然性への依拠が目立っていたことと、極め付けの予定調和の物語 ―― そこに、成瀬巳喜男らしくない映像世界の壊れ方が顕著に露呈されていたことが何より惜しまれる。



4  戦時統制下の「ヤルセ・ナキオ」



「成瀬巳喜男はある時期、“ヤルセ・ナキオ”と仇名されていた。『歌行燈』は、ちょうどそのころの作品である。

この映画が作られた1943年といえば、日本中が戦争一色に塗りつぶされようとしていた時代で、映画界も戦争への奉仕を目指した。成瀬巳喜男は、その戦争色に染まることがせきなかった。また、結婚に失敗したということもあった。当時、渋谷の桜ケ丘のアパートに一人住まいをしていた成瀬巳喜男は、重い心をかかえて、渋谷道玄坂の飲み屋に行き、もう乏しくなりかけていた酒を飲む日々を送った。

そんな姿を指して、だれいうことなく、“ヤルセ・ナキオ”と呼ぶようになったというわけである。

銀座化粧」より
めぼしい作品を撮ることもできなかったこのスランプ時代は、戦中から、さらに戦後までつづいて、『銀座化粧』や『めし』を撮る1951年に、やっとスランプから脱したといわれる。世評では、そういうことになっているのである。

しかし、本当にそうだろうか。

低迷の時代に撮られた映画にしては、『歌行燈』は、じつに艶やかな作品ではないか。大傑作とはいわぬまでも、かなりの佳品ではなかろうか」(東宝ビデオ解説「山根貞男のお楽しみゼミナール」より/筆者段落構成)

著名な映画評論家による作品評価は、「じつに艶やかな作品」、「かなりの佳品」という言葉が添えられているが、私自身もまたその評価に異論はない。

但し、本作が山根貞男の指摘を待つまでもなく、「日本中が戦争一色に塗りつぶされようとしていた時代で、映画界も戦争への奉仕を目指した」状況下での製作であった事実の重みを無視することができないだろう。

―― 以下、私見による映像への本質的な批評を加えたい。

24世宗家・観世左近(ウイキ)
能楽宗家の芸の本道を貫く男がいて、その男の芸を継承するに足る才能豊かな若者がいた。師症と弟子という関係がそこに成立するが、それは同時に、養子縁組の形式によって成った父子の関係をも二重に構築されていたのである。

この二重の関係の縛りの中で、父の言動は「法」となり、弟子としての息子はその「法」に服従するという絶対的関係が、そこに厳として形成されていた。

この関係は特段の問題を露呈することなく円満に推移していたが、驕慢な息子の犯した由々しきトラブルによって、この関係は根柢から瓦解する。師匠であり、父でもある男の「法」を、弟子としての息子が犯したからである。

「法」を犯した才能豊かな若者は、既にその時点で弟子でも息子でもなく、一介の門付け芸人として世俗にどっぷり漬かった運命に流されていくに至った。一切を失った若者の行く末には、希望を灯す未来の保証もなく、煩悶に明け暮れる人生が延長されていっただけだった。

自らが犯した由々しきトラブルの後遺症に悩まされた若者の煩悶の果てに、偶然、贖罪の機会が生まれたことで、「贖罪による人情」の対象人格を救済することを決意した若者は、それを完璧に遂行したのである。

その際、若者の精神世界において、師匠であり、厳父である能楽宗家の「絶対者」への服従意識が全く喪失されていなかった。

「贖罪による人情」の遂行を貫徹するには、その「法」を確信的に破棄するという苦渋の選択が媒介されていて、若者は厳父である師匠の住む方向に向かって跪くのだ。

「人情」によって「法」を犯した若者の行く末に、予定調和のサクセス・ストーリーが待機していたが、ここで重要なのは「法」と「人情」が融合し、高度な均衡を保持しているという関係の本質的な様態である。

「法」の体現者である厳父が、その「法」を犯した弟子であり、息子でもある若者の、「贖罪による人情」の遂行を目の当たりにして、自らが確信的に遮断した関係の修復を受容し、認知した事実の重みは特別の意味を持つだろう。

「法」によって裁いた厳父が、その「法」を犯してまで「贖罪による人情」を遂行した息子=弟子を許容するということは、何より厳父の「法」が、「人情」と親和的で共存関係にあることを意味しているからだ。

恐らく、これが1943年当時のこの国の、「教育勅語を範とする厚情」を基幹文脈にした家父長的で、理想的な倫理観であったに違いない。

元よりこの国では、「法」と「人情」、或いは、「倫理」は、相当に融合し合う関係にあり、良くも悪くも、情報通信革命を経由した現代社会にあって、多くの日本人は、その意識の価値の重要性を決して捨てていないように思える。

だから様々な事件が出来する際に、主観の濃度の深いモラルや「人情」によって安易に「政治」を語り、「法」を語り、些か人騒がせな事態を招来したに過ぎない者を特定他者化することで、いつでも平気で裁いてしまうのである。

ともあれ、映像で描かれた時代状況下において、「法」を代表する厳父は家父長であり、その社会の家父長的支配形態を根柢において支え、「人情」の完全体現者でもあることによって、霊験あらたかな「現人神」である天皇の存在が垣間見えるであろう。

それ故、ここで表現される「贖罪による人情」の対象人格は、自らが受ける「人情」の有難みに感謝し、そこで表現された「人情」によって期待される返報を身体化せねばならないのである。


かくて厳父が許容した「贖罪による人情」の文脈の中で、「法」を破ってまで「贖罪による人情」を遂行した若者と、その若者によって「贖罪による人情」を被浴した女は、「人の玩具になることを拒む、在るべき理想的な日本女性」としての身体表現を貫徹することが要請され、それを具現することによって、目出度く予定調和のサクセス・ストーリーのうちに柔和な軟着点を手に入れることができたというわけだ。

成瀬巳喜男は、こういう映像を世に発表するに至ったのである。

この事実の意味を、私たちは重く捉えねばならないだろう。

日本の伝統文化への礼賛と、この時代に呼吸する者の倫理的規範のモデルを提示したかのような映像の基幹ラインは、太平洋戦争の3年前に作られた同じ「芸道もの」の系譜にある「鶴八鶴次郎」と比較するとき、メッセージ性の濃度に格段の落差が見られることに驚きを禁じ得ないのだ。

この二作の作品の時代背景の違いの大きさに、私たちは刮目(かつもく)せねばならない。

太平洋戦争の帰趨を決するミッドウェー海戦で致命的な敗北を喫し、その直後のガダルカナル島の戦いによって、アメリカ軍に戦局の主導権を奪われた日本の末路はほぼ見えていた。この追い込まれた時代状況の中で、本作が製作されたのだ。

「一億で背負え  誉の家と人」

以上の字幕が、映像の冒頭で大きく紹介された事実をみても、映像に向かう作り手の意思とは無縁に、時代の圧倒的な制約の中で本作を発表せざるを得なかった事情が読み取れよう。

当時の映画監督にそれを求める方が無理であるだろうが、明らかに成瀬巳喜男は、検閲の困難なバリアを突き抜ける堅固な精神性によって本作を完成できなかったということである。



5  大衆娯楽の映像作品としての普遍的価値 ―― まとめとして



では、本作を時代背景抜きに批評するとき、時代に媚びた映像作品であったと断ずることが可能だろうか。

「歌行燈」の原作者の泉鏡花
新橋演舞場や、国立劇場などを拠点にして公演を続ける「劇団新派」(注2)の活動に集約されるように、レトロな雰囲気を醸し出すこの希少価値を有する風俗・人情劇が、なおその演劇生命を繋いでいる現実を無視して、私の率直な感懐を言えば、様々な意味で「飽食」な21世紀の現代に本作を鑑賞しても、そこに包含される芸術的完成度という視座を敢えて重視しない限り、大衆娯楽の映像作品としての普遍的価値を壊していないと思われるのだ。

やはり成瀬巳喜男は、屋上屋を架す描写に流れるが如き、過剰に塗りたくる映画監督ではなかった。

その映像表現には、充分な節度が保たれていた。確かに、新派人情劇の文脈に搦め捕られていた欠点は覆い隠せないが、それでも他の成瀬作品同様に、ここでも人間はしっかりと描かれていて、且つ、いつものように過不足なくまとまっていた。

そして何より、本作の養父に象徴される完成型人格像が映像を支配しながらも、主人公の若者には成瀬流のグータラキャラがそっくり被さっていなかったものの、決してスーパーマン然とした人間像として立ち上げられていた訳ではなかった。

それを、集中的に表現した描写がある。

因縁の深い悲哀の娘に完璧な舞の教示を遂行した後、そこに相応な余情を残しながらも、潔く立ち去って行く木漏れ日の表現のシークエンスが印象深く描かれていたが、しかし美しい娘への慕情が断ち切れず、娘が身を寄せる芸者置屋に出没する描写を見る限り、按摩との「恐怖突入」の場面も含めて、いかにも完全系を好まない成瀬らしい人間像であった。

また、この映画のヒロインも、男の玩具にならない清潔な日本女性の理想形を具現する人格像を提示していたものの、梃子でも自分の思いを崩さない芯の強さは、成瀬映画の女性像に相応しいものだった。

確かに本作は、名作・秀作・傑作とはお世辞にも言えないが、だからと言って、駄作・凡作のカテゴリーにも含まれないだろう。

山根貞男
やはり、山根貞男の言うように、「かなりの佳品」という評価が最も相応しい作品であったと思われる。


(注2)「昭和20年(1945)8月15日、敗戦によって焼土と化した東京にただ一つ残った東京劇場に新派が大合同したのは、昭和21年12月であった。『深川女房』『残菊物語』『歳月』『湯島境内』『鶴八鶴次郎』とならべた演目に観客が殺到した。こうして分散していた新派は大合同して昭和24年(1949)、『劇団新派』の名の下に結集した。

(略)喜多村緑郎、花柳章太郎、水谷八重子ら名優達の死を乗り越え、昭和62年(1987)2月、角藤定憲の『壮士芝居』より数えて100年目、新橋演舞場において新派百年記念公演が行われた」(「劇団新派」公式サイトより)


(2009年10月)

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