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  • アジサイはアートである 「我が町・清瀬」2017初夏 - アジサイを接写していると、色相のグラデーションの鮮やかに驚かされること頻りである。 だから、毎年、初夏になったら「我が町・清瀬」で写真を撮る。 この一期一会の思いでアジサイを観賞していると、アジサイが一つのアートであることを実感する。 アジサイはアートなのだ。 時々刻々に変色していくアジサイは...
    2 週間前

2010年7月30日金曜日

パサジェルカ('63)    アンジェイ・ムンク


<「敬服」を手に入れようとする、「権力関係」の構築という戦略の内に>



1  「時間の中の島たる戦場に始まった物語」――「敵対する女二人の駆け引き」の行方



映像は、その製作の複雑な事情を説明していく。

「ムンク監督は、この作品を未完成のまま、自動車事故で死んだ。61年9月20日、31歳。我々は物語に空白を残したまま、ここに提供する。ムンクの死によって、話の結末も不明である。その結末もあえて求めなかった。空白や脱落に拘わらず、我々のできるのは、残された画面から製作意図を読み取ることだ。ムンクの思想、その不安も我々から決して遠いものではない。ムンクの答えは掴めないせよ、問いかけは分るはずだ。

物語は今日に始まる。

そこは、昨日と明日とも断絶した今日のみがある。豪華船。時間に浮かぶ島。船もまた一つの島だ。

(略)だが、我々の長閑な風景に、酔っていないその底を見抜く。この女性に我々の眼は注がれる。ドイツに生まれ、但し、故国とも欧州とも久しく離れていた。夫と共に十数年ぶりの帰国だ。欧州に着く。イギリスの港だ」

ここでナレーションの語り手は「私」に代り、物語が開かれていく。

豪華船の中で、「私」は信じ難き出会いをする。

アウシュビッツ強制収容所で看守として勤務していた「私」が、既に死んだと思っていたマルタを見たのだ。

互いの眼が合ったとき、「私」の心の安寧は一瞬にして崩されていくようだった。

以下、「私」のナレーション。

因みに、「私」の名はリザ。

「あれがマルタなら、私が救った女よ。収容所の事など分ってくれる筈がないと思って。上官の命令は厳守だし、でも話しておいた方が、お互いのためかも。

アウシュヴィッツ第二強制収容所(ウイキ)
アウシュビッツに赴任したのは43年の夏。

仕事は所外にある倉庫の作業監督でした。見張るのは女囚よりも、没収した所持品・・・でも私は責任を果たす一方で、同情や親切を忘れたことはありませんでした。マルタのか弱い娘らしさに、私は哀れを覚えました。書記に採用したのです。私の歓びは、マルタが自由な人間に立ち戻るのを見る事でした。だから、生きる力を与えてやりたかった。タデウシが昔からの恋人と知って、帳簿の手伝いを口実に会わせてもやりました」

ここから、客観的に物語を繋いでいこう。

「囚人と看守の間の戦いでは、残忍よりも手加減が有効と私は悟りました。誰にも知られぬつもりで二人は禁断の恋を楽しんでいました。私の目算では、人の大切にしているものを知り、その与奪の権利を手に握れば、主人公は私なのだ」

表面的にしか服従しないマルタに対して、リザは強権的な権力を行使しようとせずに、合理的に管理することに努め、その緊張感で映像が引っ張られていく。

しかし、同じ政治犯である恋人との関係を利用することでマルタを支配しようとしたリザだったが、一貫して変わらないマルタの態度に、リザはストレスをストックしていく。

「私とて、弱気になることがある。その場をマルタに見られました」

アウシュビッツ強制収容所に続々送られてくるユダヤ人たちが、多くの子供たちのお喋りを交えながら、しかし殆ど表情もなく地下室に降りていく。

彼らは、そこに待つ自分たちの運命を知らない。

彼らは地下で衣服を脱ぎ、シャワー室に模したガス室に入るのだ。

地上では、防毒マスクをした兵士が、手に持つチクロンB(IG・ファルベンが製造した、シアン化水素を主成分にした毒ガス)を、ガス室の天井の筒から流し込んでいた。

その忌まわしい現実を見つめるリザ。

リザ
彼女の表情は、明らかに見てはならないものを見たときの感情が露わになっていた。

そのリザを、マルタは後方から視認したのである。

マルタに視認された事実を、リザはこのようなナレーションで吐き出していくのだ。

こんな経緯の中で、マルタを全人格的に管理掌握できていないという苛立ちが、リザの自我を強迫的に追い詰めていく。

赤十字国際委員会が収容所の様子を視察に来た際、マルタは委員の質問に、当初、「無言」による抵抗を示していたが、リザの鋭利な視線に屈服するに至った。

「政治犯ですが、囚人の相互訪問は時に認めます」と女性曹長。
「と言うと?」と委員。
「病気の場合などです」
「あなたは?」

委員は、マルタに直接聞いた。

「恋人がここにいまして・・・同じ囚人ですが、2、3日前に見舞いに来ました。でしたね?」

女性曹長は、マルタに確認を求める。

「はい…」

マルタは、力なくそう答えたのだ。

紛う方なく、強いられた者の屈服の如く、強(したた)かな女性政治犯は、そう反応したのである。

「遂にマルタを屈服させた」とリザ。

このときマルタは、リザの鋭利な視線にのみ反応した、今までにないマルタの屈服を一定程度引き出せたのである。

これが、リザの「勝利宣言」の心理的文脈だ。

マルタの卑屈さを引き出せなかったが、少なくとも、彼女との心理的関係において屈服させたことは間違いない。

寧ろ、それこそが彼女の本当の狙いであった。

なぜなら、リザがマルタとの関係において求めたのは、たとえそれが幻想であったとしても、マルタの身体表現の内に、単に「『権力関係』に従属する者」としてではなく、そこに明瞭な優越関係を検証・確認すること以外ではなかったからだ。

ところが、確信犯である政治犯との「権力関係」の構築において、このような心理的関係を作り出すことは容易ではない。

「勝利と思ったのは早計でした。マルタは規則など、どこ吹く風という様子だった」

案の定と言うべきか、リザの「勝利宣言」は、彼女の幻想に過ぎなかった。

左からマルタ、タデウシ、リザ
囚人オーケストラの演奏の中で、恋人のタデウシと距離を縮めていき、見つめ合う二人。

「決着をつけねば・・・」とリザ。

しかし、リザはペナルティで甚振られているマルタの命を救うのだ。

彼女には、「自分に敬服させる」方法論だけが真の勝利の証左であった。

収容所内で、ラブレターの体裁を仮装した外部への連絡らしき紙片が発見され、関係舎内の全員が屋外に強制召喚された。

しかし犯人は分らない。

リザは、自分の班の責任を問われ、思わず自己保身的な言葉を結んだ。

「班の罪は厳罰で臨むべきです。全員を懲罰隊に送って下さい」

懲罰隊に送るということは、死への最近接の行程以外ではなかった。

「自分に敬服させる」方法論を選択してきたリザの咄嗟の判断は、防衛的保身に動いたのだ。

このような極限的状況下にあって、それが、普通の理性を持つ人間の、ごく普通の行為であるとも言えるだろう。

再び、班の全員が広場に召喚された。

その結果、マルタが犯人として名乗り出た。

その自己告発を訝るリザは、マルタを平手打ちにした。

収容所内の看守としての責任が問われる危機に、心理的に追い詰められるリザと、凛とした振舞いを崩さないマルタとの関係構図は、「権力関係」の堅固な継続力を決定的に揺さぶるものだった。

心理的に追い詰められるリザにとって、もうそれ以外にない選択肢に流れ込むだけだった。

それは絶滅収容所への、己が自我のサイズに見合ったギリギリの「適応戦略」であったに違いない。

リザの自己防衛的行為への逃避は、安直なヒューマニズムの観念によって糾弾される狭隘さを突き抜けていたのだろう。

マルタ
結果的に、マルタを懲罰隊に送るに至ったであろう残像の内に、ムンクの映像は閉じられている。

「あくまで追い詰めた。私は保身に出た」

このリザの言葉が、映像に残した彼女の最後のものとなった。

ナレーションの語り手は当初のスタッフの者に代り、「女二人の駆け引き」の物語を総括していく。

「保身とはどういうことか。どうやって身を守ったのか。マルタの運命はどう変わったか。マルタの運命を語り始めて、リザは結末の前で口をつぐんだ。彼女を責めるまい。充分に告白したのだし、言い逃れは人情の常だ。

敵対する女二人の駆け引きは、これが全てなのか。それは人間的な保身と逃避の物語にとどまらず、まだしも人間的な残酷と夢の物語でもある。非現実の中で、黙々と名もなく消えていった命。職責遂行の名の下に、踏みつけた女と、知らずに過ぎる女と」

最後のナレーション

「この物語。時間の中の島たる戦場に始まった物語。過去との出会いは俄に終わった。マルタ ―― 実は、死者の空似かも知れない彼女は、船を降りる。船の旅は続く。二人は二度と会うことはない。死者が蘇って面と向かって告発することもない。リザの過去に無関心な人の中で、リザは平和だ。だが、本当に人々は無関心でいられるだろうか」



2  「関係の優劣性」―― 自己完結感なき「権力関係」の顕現



言いたいことを全て吐き出したら完結を見るという関係には、「権力関係」の顕現は稀薄であると言っていい。

始まりがあって終わりがあるというバトルは、もう充分にゲームの世界なのだ。

然るに、「権力関係」にはこうした一連なりの自己完結感がなく、感情の互酬性がないから、そこに相殺感覚が生まれようがないのである。

関係が一方的だから、攻守の役割転換が全く見られない。

攻め立てる者の恣意性だけが暴走し、関係が偶発的に開いた末梢的な事態を契機に、関係はエンドレスな袋小路に嵌りやすくなっていく。

事態の展開がエンドレスであることを止めるためには、「関係の優劣性」を際立たせるような確認の手続きが求められよう。

「私はあなたに平伏(ひれふ)します」というシグナルの送波こそ、その手続きになる。

弱者からのこのシグナルを受容することで、関係の緊張が一応の収拾に至るとき、私はそれを「負の自己完結」と呼んでいる。

「権力関係」は、しばしばこの「負の自己完結」を外化せざるを得ないのである。



3  「敬服」を手に入れようとする、「権力関係」の構築という戦略の内に



アウシュビッツ強制収容所―― そこは、ヴァンゼー会議で策定され、ハインリヒ・ヒムラーの命令によって作られたと言われる、史上最悪の「権力関係」が猛威を振るったスポットであった。

そこでは、「負の自己完結」を外化する以前に、ガス室・焼却炉送りに至るケースが常態化していたこと。

それが何より、震撼すべき事態であった。

絶対的な「権力関係」の中で、管理番号を刺青され、逆三角形の収容所バッジによって類別された囚人たちは、その人格性を全面的に剥奪され、ひたすら服従することのみが求められる。

アルマ・ロゼ
その中で、グスタフ・マーラーの姪のアルマ・ロゼのように、アウシュビッツ囚人オーケストラを編成・指揮することで、音楽家のガス室・焼却炉送りの延長を図った行為や、労働監視を担う囚人であるカポと呼ばれた者たちのように、ギリギリの状況下で「生存・適応戦略」の機能維持に努めていた者たちもいる。

しかし彼らとて、いつ、自分がガス室・焼却炉送りに至る運命を辿らないとも限らない。

その圧倒的な恐怖の中で、いつしか「生存・適応戦略」の司令塔である自我が感覚鈍磨し、「戦略」の継続力が劣化していく運命から逃れられないのだ。

絶対的な「権力関係」の圧倒的な外部圧力によって、自我が摩耗し、常に内側から崩れ去っていく危機に立たされているのである。

ところで、強い信念・信仰を抱懐して、このスポットに捕縛された者たちの場合は、単なる「生存・適応戦略」への拘泥のみによって呼吸を繋いでいた訳ではない。

とりわけ、収容所内に抵抗組織を作る危険性を持つ政治犯の場合(実際、稀に収容者の逃亡幇助に加担)は、彼らの固有の「プライドライン」が自我を武装しているから、自我の劣化は最小限度で留められたケースが多かったとも言われる。

彼らの「プライドライン」とは、一言で言えば、「卑屈」を身体化することに対する、ほぼ確信的な拒絶反応による防衛ラインである。

少なくとも、その心理的文脈で言えば、彼らにとって、単に表面的に服従のポーズを取る「適応戦略」を認知できても、しかし、「権力関係」の餌食にされることへの恐怖心から我が身を守るために、「卑屈」という態度形成に堕ちることだけは拒絶するメンタリティだけは保持されていたのである。

一方、そんな政治犯を権力的に服従させる側に立つ現場看守たちにとっては、ある意味で、「権力関係」の際どい形成に関する心理戦争が全面展開されていく状況を作りやすいだろう。

現場の看守たちにとって、「卑屈」を身体化することに対する拒絶し、固有の「プライドライン」に拘泥する政治犯を、全人格的に支配し得る権力関係の構築こそ、心理戦争の勝利の実感となるものと言っていい。

 アンジェイ・ムンク監督
「卑屈」を拒絶する自我の内に、「卑屈」の烙印を押し、それを身体表現させた上で、固く張り付けてしまう一連の心理の振れ方を高みから視認することこそ、心理戦争の勝利の実感を至福し得る方略でもあるかも知れない。

しかし、「卑屈」の烙印ではなく、理性的な管理による政治犯からの「敬服」を手に入れようとする、「権力関係」の構築という戦略の内に、相手を支配しようとする現場看守が存在しても特段に不思議ではない。

そのことによって、絶滅収容所の一連の処置のシステムに加担する倫理的債務感を希釈できるからでもある。

前述したように、それは件の者の絶滅収容所への、己が自我のサイズに見合った「適応戦略」であっただろう。

まさに本作は「権力関係」の心理学に関わる様々な人間的感情を分析し得る格好のモデルだったと言える。

(2010年8月)

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