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    2 か月前

2010年8月15日日曜日

リラの門('57)    ルネ・クレール


<内在する「児戯性」――その「快・不快」という行動原理のアポリア>



1  特定のキャラクターを映像的に考究する作品



これは、特定のキャラクターを映像的に考究する作品であるとも言えるだろう。

万引きや酒の盗み飲みなどの不品行な振舞いを日常化し、労働意欲にも欠け、老いた母から「ろくでなし」と蔑まれつつも、その愛嬌のある非攻撃的な性格ゆえに、下町の悪戯盛りの子供たちから好かれるばかりか、界隈の飲み仲間からも愛される男が、偶然遭遇した殺人逃亡犯との不幸な出会いによって、良かれ悪しかれ、その生来的なキャラクターが全開していく物語であるということ。

それが、この映画の骨子である。

「他人のことは考えないのか」

「お前は薄情者だ」

この台詞は、その男ジュジュが、本作の中で度々使う言葉。

そのとき、この言葉の内に込められた、ジュジュの生来的な性格が全開するのである。



2  内在する「児戯性」 ―― その「快・不快」という行動原理のアポリア



以下、簡単にプロットをフォローしていきながら、本稿のテーマに沿って批評していく。

「皆は俺をろくでなしというが、全くその通りだ」

これは、親友のシャンソンの名手である「芸術家」に、隣家に住むジュジュが捨てた言葉。

「俺は何で生きてると思う?首を吊って死にたいからだ」

これも、ジュジュの口癖だ。

その口癖を聞かされるのも、親友の「芸術家」。

そんな男が、大事件に巻き込まれていく。

2人の警官を殺害して逃げている男とは知らず、ジュジュと彼の親友の「芸術家」は、凶悪な逃亡犯によって拳銃で脅された挙句、「芸術家」の家に作られた倉庫代わりの地下室を占拠されてしまう。

まもなく2人は、逃亡犯の犯行の詳細を、行き付けのバ―仲間の話と、その一人が持って来た新聞記事で知るに至った。

件の逃亡犯の名は、バルビエ。

当初、2人は逃亡犯のバルビエを、「芸術家」の家の地下室から早く追い出そうとするが、手負いのバルビエが病気である事実を知った。

ジュジュの心境に変化が起こったのは、この事態を経由してからである。


ジュジュ(右)とバルビエ(左)、「芸術家」(中央)
それでなくとも、「他人のことは考えないのか」などと言って親友を責めるほどに、人の良いキャラを持つジュジュの心には、逃亡犯に対する同情心が惹起し、それが介抱の過程を通して人間的感情による「交流」が形成されたのである。

その「交流」は、ジュジュ自身の内側にアイデンティティを実感する行為だった。

自分の中にない対象人格に対する破滅的で、男の色気を醸し出す孤独な生き方が、ジュジュの心に「異文化」の香りを乗せながら侵入し、ある種の「親和感」を生み出したのだろう。

しかし、ごく普通の社会規範から逸脱することのない「芸術家」は、度を超すジュジュの振舞いに違和感を覚えるだけだった。

「警察も好きじゃないが、人殺しはもっと嫌だ」

そんな本音をジュジュに漏らす「芸術家」は、ジュジュの異常な行動を難詰するばかり。

当然と言えば、あまりに当然な話である。

「他人のことは考えないのか?俺のことも」とジュジュ。
「お前はもう友達じゃない。お前は奴を尊敬している」と「芸術家」。

この会話が端的に示すのは、「芸術家」の行動傾向が一貫して、現実原則的な「損・得」原理で動いているということ。

それに対してジュジュの行動原理は、厳密に言えば、「善・悪」原理では勿論なく、「損・得」原理でもないだろう。

それは、ジュジュのキャラに内在する「児戯性」である。

「児戯性」の行動原理は、「快・不快」原理であると言っていい。

この男にとって、対象人格の素性が何であったにしても、困っている他人のことを考え、その世話を焼くことは「快感」なのである。

まして対象人格が手負いの病気であって、その介抱を自分に要求し、且つ、その人物から「命の恩人」と感謝され、加えて件の人物が、「異文化」の香りを漂わせる「魅力」を持つと信じているならば、ごく普通の社会規範から些か逸脱する振舞いを常態化させている男にとって、その世話を焼くことは、ごく自然な行動傾向であると言えるだろう。

要するに、ジュジュには、「善・悪」原理が行動の推進力になる程の、ごく普通の「常識的成熟」に欠けるのだ。

だから、バルビエを庇うのである。殺人まで犯した逃亡犯を尊敬するのである。

前述したように、このジュジュの行動原理は、彼の親友の「芸術家」の行動原理によって見事なまでに相対化されている。

「芸術家」の場合は、「常識的成熟」によって自分の行為を決める、ごく普通の成人の行動規範を身体化する。

だから彼は、バルビエを一日でも早く追い出すためにパスポートの作成に奔走した。

それもまた、そのような状況に置かれた者の、ごく普通の行動の範疇であると言えるだろう。

ところが、ジュジュの場合は「常識的成熟」に欠けるため、バルビエを「殺人逃亡犯」という括りによって明瞭に認知できず、却って、バルビエの醸し出す男の色気や「異文化」の香りに惹き込まれてしまうのである。

然るに、そんなジュジュが手痛い失恋を体験するに至った。

彼が密かに恋慕する、バーを経営するマスターの娘のマリアが、バルビエと恋愛関係にあることを知り、衝撃を受けるのだ。

しかし彼は、「あなたは私の大切な友人よ」というマリアに対して、自分の想いを告白できないのである。

「皆は俺をろくでなしというが、全くその通りだ」

「俺は何で生きてると思う?首を吊って死にたいからだ」

このジュジュの口癖の心象風景には、マリアへの片思いを延長させるだけの時間の中枢に張り付く、彼なりのペシミズムが隠れ住んでいるのかも知れない。

ともあれ、そのジュジュは、「マリアの恋」がバルビエの逃亡をサポートするために、彼に利用されている現実を知り、より深く傷つくことになった。

バルビエから「命の恩人」と感謝されたジュジュは、当の逃亡犯の人格の本質と出会ってしまったのである。

バルビエには、「他人とは利用するための存在」でしかなかったのだ。

その現実に直面したとき、ジュジュの未成熟な自我が切り裂かれてしまったのである。

ここで再び、ジュジュの例の言葉が蘇る。

「他人のことは考えないのか」

このときの「他人」とは、マリアのこと。

今や彼は、「マリアを傷つけないため」だけの行動を立ち上げるのだ。

それは、バルビエとの直接対決を意味していた。

以下、その詳細を次章で書いていく。



3  「首を吊って死ぬ」ことへのプロテクトの価値を内化させた経験的学習



以下、ラストシーン近くでのジュジュとバルビエの会話。

「彼のことしか頭にないと伝えて」

このマリアの伝言をバルビエに伝えるジュジュは、自ら「恋のキューピット」の「仕事」を引き受けたのだ。

マリアの言付けを聞いたバルビエは、一言で済ませた。

「金をもらえば充分だ」

マリアを利用することしかしない、バルビエの本性が露呈された瞬間だった。

「マリアを連れて行くのか?」

それでも、ジュジュはバルビエに問いかける。

「彼女がマルセイユに着く頃、俺はとうに海の彼方さ」
「どうして?」
「女は足手まといになる」
「マリアは?」
「家に戻って、親父さんに謝ればいい。人間は誰も自分のことしか考えないんだ」
「他人のことは考えないのか」
「そんな暇はない」

ここでジュジュは、去って行くバルビエを追い駆けて、自分の中で封印していた感情を吐き出した。

「お前は薄情者だ!」

信じ難きことに、この男は、2人の警官を殺害した逃亡犯にモラルの欠如を指弾するのだ。

逃亡犯の反応もまた、凶悪犯罪者のカテゴリーイメージから逸脱するものではなかった。

「説教はご免だ。俺は急いでいる。まだ、何か言いたいのか?・・・マリアのことを考えろ。女なんて皆同じさ」

それでも、ジュジュは言葉を繋ぐ。

マリアへの思いが、この男を執拗な糾弾者に変えていくのだ。

「いいや!」
「同じだと言ってるんだ!」
「マリアは違う!」
「彼女が好きなのか?女にもてようとしたって、お前じゃ無理だ。お前には酒が似合ってる」

ジュジュは、なお執拗に追い駆けて行く。

「金を返せ!」
「マリアの親父の金なのか?」
「マリアの金だ。マリアがこのことを知ったら・・・」
「何だよ」
「お前が金目当てだと知ったら・・・」
「いい勉強になるだろう」

凶悪犯罪者らしい言葉を捨てて、バルビエは去ろうとする。

なお執拗に追い駆けて行って、ジュジュはバルビエの肩を掴んだ。

「これでも帰らないのか?」

拳銃を取り出したバルビエは、ジュジュを恫喝した。

二人が争って、拳銃の音声が夜の静寂(しじま)を切り裂いた。

ラストシーン。

結局、自らの手でバルビエを殺害したジュジュは、複雑な思いで帰途に就き、親友の「芸術家」にそれを打ち明ける。

「芸術家」から酒を勧められても、それを飲もうとしないジュジュがそこにいた。

それは、彼がこの事件を通して変容したことを意味するのか。

彼の中で何かが壊れ、何かが生まれていったのか。

少なくとも、彼の中で壊れた最も大事なものは、マリアへの想いが永久に凍結されたことであるに違いない。

しかし恐らく、彼にはそれでも良かったのであろう。

最も大切な「ガールフレンド」を守り切ったと、本人だけは信じていたと思えるからである。

では、事件によって生まれたものは、「ろくでなし」の人生が「勤勉な男」に化ける程の変化であったのか。

到底そうは思えないが、しかし彼が経験した由々しき現実の中で、「人生は甘くない」という、よりリアルな認識くらいは学習できたであろう。

そんな男にとって、「俺は何で生きてると思う?首を吊って死にたいからだ」という口癖の内実が、今後も幾分かのリアリティを持つに至るか不分明だが、甘くない人生の中で自分を見詰める経験的学習が、「首を吊って死ぬ」ことへのプロテクトの価値を内化させたとは言えないだろうか。

ルネ・クレール監督
そして、男が顔を埋めるようにして、部屋の窓に凭(もた)れるラストカットの構図の見事さ。

映像の余情を決定付ける構図の切り取りは、それまで見せたことのない無言の表情が語るものの内実を、実に能弁に語って止まない程の括りとなってフェードアウトしていった。

本作はトラジコメディのカテゴリーに近いと思われるが、心理描写の精緻な内実の成功によって、詩情溢れるルネ・クレールの晩年の傑作という評価は揺るぎないだろう。

最後に一言。

それにしても、逃亡犯を追って、パリ下町の警官が無断で個々の家屋に踏みこんで来て、終始、命令口調で指示をする冒頭のシーンには驚かされた。

恐らく、パリ北東部に位置し、「リラ門」を意味する「ポルト・デ・リラ」が、子供たちが所狭しと無邪気に遊び回るような下町の労働者街にあったことから可能だったに違いない。

(2010年8月)

1 件のコメント:

ルミちゃん さんのコメント...

ろくでなしの男、ジュジュは、警察に追われる男、ピエロを匿うことになった.
ピエロは、警察に捕まれば死刑を免れない殺人犯であった.
ジュジュの好きだったマリア、けれども彼女はピエロに惹かれて行く.
マリアを騙し、金を奪って南米へ逃亡を図るピエロ.
「金を返せ」
「マリアの父親のためか?」
「マリアのためだ、彼女が知ったら」
それを知ったジュジュは、言い争いの末、ピエロを撃ち殺してしまった.
「ピエロは、金がいらなくなったと言うさ」ジュジュはマリアに金を返すとき、こう言い訳すると言うのだけれど、この嘘に、ピエロを撃ち殺した事実が重くのしかかる.

殺人犯を匿うことは、所詮は馬鹿げた、ろくでもないことであったかもしれない.ピエロは身勝手で迷惑のかたまりに過ぎない存在であった.けれども、人を助けることには、たとえ細やかでも喜びがあったのも確かなことであった.
しかし、その男を撃ち殺したとき、殺されても当然の人間を殺したのだけれど、けれども、その行為によって誰も喜びはしなかった.むしろ、自分の好きなマリアのことを思うとき、マリアに金を返すときの言い訳の言葉を口にするときには、彼女に対して悲しみを与えただけであったのが分ったはず.単に騙され捨てられた時よりも、より深い悲しみを与えることになったに違いない、ジュジュにはこう思われたのではないか?

殺人犯を匿うこと、偽造パスポートを作って逃亡を手助けすること、親の金を盗んで一緒に逃げようとすること、当然のことながら、全て間違った行いです.
こう考えれば、描かれた事柄の中で正しいものは、マリアがピエロを好きになった、そのマリアの心だけ、ただ一つしかないことが解ります.
ごく常識的に考えて、マリアにしても、ジュジュと芸術家にしても、自首を勧めるのが正しい行為でした.ところが、ピエロは警察に捕まれば死刑は間違いなかった.こう考えると、人を殺してもなにもいいことはない、つまり、死刑にしてもなにもいいことはないのだ、と言う主張が浮かび上がってくるのですが.
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ルネ・クレールは、人の死が意味を持つ映画はこの作品まで撮りませんでした.なぜなら、人を殺してもなにも良いことはない.単純明瞭な答えが、この作品に描かれて居ると言えます.
アガサ・クリスティ原作の、『そして誰も居なくなった』は例外と言うか、推理小説の映画化です.
この作品の前作の『夜の騎士道』のラストシーンが二つ撮影されていることは、DVDを買われた方はご存じのはず.はっきりしたことは分りませんが、ひょっとすると撮影してから、ルネ・クレールは、映画監督としての自分の一生を台無しにするところであったのに気がついたのかもしれません.
ルネ・クレールは、人としての優しさを生涯大切にして映画を撮り続けた、映画監督でした.