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2011年4月25日月曜日

カッコーの巣の上で('75)     ミロス・フォアマン


<「分りやすい人物造形」と「分りやすい物語構成」、そして、「分りやすい『権力関係』」の単純な構図>



1  「アナーキーな革命家」を立ち上げていく「アンチのヒーロー」



良かれ悪しかれ、ニューシネマの最終地点辺りに構築された、ジャック・ニコルソン主演の本作は、そこに濃度の差こそあれ、多くのニューシネマに共通する、「破壊されし、アンチのヒーロー」というシンプルな物語の極点に位置する映像であると言っていい。

刑務所の強制労働を回避するためという、取って付けたような事情を張り付けながらも、本作の主人公は、完璧なきまでに閉鎖系の、抑制的な「体制」=「権力機関としての精神病院」の秩序の内深くに潜入し、そこで「収容」されていると信じる、一見、自己完結的な「日常性」を繋ぐ「患者」たちに、「抑制からの自己解放」の価値を執拗にアジテートし、その連射の果てに、「自己解放の向こうに垣間見える外界」の自由な空気を存分に味わわせるに至った。

それは、自己完結的な「日常性」を繋ぐ「患者」たちにとって、一種蠱惑(こわく)的な未知のゾーンの快楽であったに違いない。


しかし、自分の意志で入院したと認知させられることで、「局所最適」(個人の利益を重視)を犠牲にした、抑制的な体制下での生活の、「全体最適」(組織の利益を重視)の濃度の深化に随伴し、社会的適応能力をいよいよ累加させた「患者」たちにとって、未知のゾーンへの自己投入は、大いなる不安との心理的共存でもあった。


そんな状況下にあって、「確信犯」としての「アンチのヒーロー」である本作の主人公は、既に「アナーキーな革命家」を立ち上げていて、ポイント・オブ・ノーリターンの危うい辺りにまで突き抜けていくのだ。

マクマーフィー
「確信犯」としての「アンチのヒーロー」である本作の主人公の名は、マクマーフィー。

自由奔放に振舞う、そのマクマーフィーが惹起した、最初の「抑制からの自己解放」の試行は、精神病院のバスをジャックして、釣り船に乗り付け、未知のゾーンに踏み入れて興奮する「患者」たちに、自由な海の空気を呼吸させることだった。

当然、この「抑制からの自己解放」の試行には、応分のペナルティが待っていた。

ここに、重要な会話がある。

「釣り船事件」の直後の、院長を含めての会議でのこと。

「危険人物だ。病気ではないが危険だ」
「正常だと?」
「可笑しくはない」
「重い障害がないが、病気だと思う」
「病気?」
「明らかに」
「院長の意向は?」
「使命は果たした。労働農場に送還したい」
「私見ですが、彼を農場に送還しても、転院させても、それは他人に問題を押し付けるに過ぎず、大変不本意です。このまま、この病院に。救えるはずです」

ラチェッド婦長(左端)
最後の発言者は、最も彼らを理解しながら、最も彼らに嫌われていると院長に名指しされた、ラチェッド婦長。

何よりこれは、本作で最も重要な会話であると言っていい。

「病気ではないが危険だ」と認定された、鑑定のための一時預かりの「アンチのヒーロー」である男を、元の刑務所に戻し、労働農場に送還するという院長の判断に対して、「この病院で救えるはずです」と言い切ったラチェッド婦長の発言の本質は、結局、「アンチのヒーロー」である男の危険性を除去する方向にしか流れない現実を意味するもの以外ではない。

そして状況は、仕事熱心なラチェッド婦長の、その相応の「使命感」が縦横に発現される事態を必然化する。

このことは、閉鎖系の「権力機関としての精神病院」という「絶対的な体制」と、その構造を破壊しようと意図する男との、「全面戦争」の様相を呈する状況を決定付けたのである。



2  「アナーキーな革命家」を葬送する男の果敢なる「自立行」



恒例のディスカッション療法の場で、自分の拘留期間が二カ月強なのに、この精神病院では「いつまでも拘束させることができる」と知ったマクマーフィーは、辺り構わず不満を噴き上げた。

「私は自主的に入院しているんだ。いつでも退院できる」と患者のハーディング。
「バカ言え。そんなの嘘だろう」とマクマーフィー。
「いいえ、本当ですよ。拘束患者はごく僅かです」

これはラチェッド婦長。

この話を聞いたマクマーフィーは他の者に確認し、それが事実だと知って落胆するのだ。

「若い盛りに自ら入院だと?」

このマクマーフィーの不満の矛先は、吃音であるが故にコンプレックスを持つ、シャイなビリーに向けられたもの。

「規則なんか、クソくらえだ」

ディスカッション療法の場で、自らの要求したタバコをもらえず、暴れるチェズウィック。

明らかに、「アナーキーな革命家」を立ち上げていたマクマーフィーの影響に因るもの。

この一件で、9名の「患者」が「収容」されている病棟内で小さな暴動が起こり、ネイティブ・アメリカンの大男チーフが、初めて暴れたのもこの時だった。

タバコの不満を噴き上げたチェズウィックは、電気ショック療法を受けるに至り、暴動は形式的に収拾された。

「チーフ、今夜、結構だ」とマクマーフィー。

「アナーキーな革命家」の忍耐が切れた瞬間が出来したのである。

「俺にはできない。親父はデカかった。何でもやれた。だが、最後の頃は酒に溺れた。酒を口にする度に、飲むよりも飲まれて、どんどん小さくなって、衰弱し切ったところを・・・」
「殺された?」とマクマーフィー。
「そうは言わない。始末されたんだ。ごく自然に」

難聴も手伝って、緘黙症(かんもくしょう=心因性の無言症)であると思われていたチーフが、流暢に自己を開いていくのだ。

驚きながらも、「同志」の関係を構築する二人が、そこにいた。

マクマーフィーとチーフによる「脱出行」が近づいた、ある夜のこと。

「権力機関としての精神病院」の看護人を籠絡したマクマーフィは、惜別のセレモニーを気取ったのか、院内に女たちを集めて乱痴気騒ぎを強行した。

パートナーとなった女との別れを惜しんだ、シャイなビリーの想いを忖度したマクマーフィは、別の機会に逢瀬を求めるビリーを説き伏せ、その場で睦み合わせるために、別室に送り込んだのだ。

一切のタブー破壊を正当化する、「アナーキーな革命家」の本領発揮の〈状況性〉の構築に対して、当然ながら、掟破りのペナルティが怒涛の如く襲いかかってきた。

ラチェッド婦長の恫喝に慄(おのの)いた、ビリーの自殺。

それでもなお、封印していた憤怒を爆発させたマクマーフィの破壊的暴力の対象人格は、強靭な女性管理者を堂々と立ち上げていたラチェッド婦長以外ではなかった。

ラチェッド婦長の頚を思い切り締めつけるマクマーフィには、明らかに殺意があった。

しかし、背後から男性看護師から羽交い締めされたマクマーフィは、あっという間に病室から連れ去られて行った。

一命を取り留めたラチェッド婦長は、何事もなかったように、いつもの日常性を回復させ、職務を淡々と繋いでいく。

破壊的暴力によってしか倒せない、「アナーキーな革命家」の脆弱性を露わにする構図だった。

この程度の「大騒ぎ」ではとうてい突き抜けぬ、「権力機関としての精神病院」という、「絶対的な体制」の「記号」である女の強靭さが、そこに凛として立ち塞がっていたのである。

数日後、いつもの病棟で呼吸を繋ぐチーフのもとへ、植物人間と化したマクマーフィが戻って来たが、もう発語すらままならない、「破壊されし、アンチのヒーロー」を目の当たりにして、悲哀を胸に刻んだチーフは、唯一の「同志」を窒息死させたのだ。

チーフ
「ロボトミー手術」によって廃人化したマクマーフィを、葬送の意味を含んで昇天させたチーフの、最初で最後の決定的な自己運動は、映像を根柢から支配した男との訣別によて開かれた「脱出行」だった。

祖先の大地を求めて「進軍」する、ネイティブ・アメリカンの「脱出行」で閉じる、印象深いラストシーン。

それは、「托卵」(他の鳥の巣に卵を産み、子育てを托すこと)するカッコウのように、他種の鳥の巣に依存せず、自分の巣を求めて旅立つ「自立行」だった。



3  「分りやすい人物造形」と「分りやすい物語構成」、そして、「分りやすい『権力関係』」の単純な構図



「分りやすい人物造形」と「分りやすい物語構成」、そして、「分りやすい『権力関係』」の単純な構図。

類型的な「権力関係」の安直な設定のうちに、職務に誠実で、相応の「使命感」によって毅然と振舞う冷静な婦長と、自分勝手で、「アナーキーなる、アンチのヒーロー」という分りやすい対立構図が、物語の中枢に嵌め込まれているが故に、どのように鑑賞しても、「善悪二元論」に収斂されていく単純な物語構成には揺るぎがないのだ。

本作で描かれた、閉鎖系で自己完結的な精神病院を、「陰湿な体制の陰湿な秩序の縛り」というイメージのうちに固めた設定自体、そこに特段の意味を持たせる何ものもなく、ただ単に、「人間を管理する職掌に関与する、一切の体制的機関=『絶対悪』」の象徴として、最も利用しやすい「抑圧装置」の意味を付与させる何かでしかなかったと思われる。


大体、本作の時代設定を、本作が公開された1970年代半ばより、遥か10年以上も遡及させたのは、多くの先進国の多くの精神病院で、ごく普通の処置として実施されていた「ロボトミー手術」(感情・思考中枢である前頭葉の切除)が、「狂人」というラベリングを貼られた「患者」に対する、それ以外にない、「精神外科」(1930年代以降に実施された、脳への外科手術治療)の究極の治療として採用されていたからであろう。

フランコ・バザーリア
精神病棟廃絶運動(注)の旗手のフランコ・バザーリア(注)の思想の影響の有無については不分明だが、「ロボトミー手術」という、看過し難い「廃人化治療」を継続させてきた、「精神外科」の現実を背景にすれば、どう贔屓目(ひいきめ)に見ても、「『絶対悪』の精神病院の陰湿な体制」が観る者に鮮烈に印象付けられることで、既に物語の構造は、「人間を管理する職掌に関与する体制的機関」としての「絶対悪」に挑発的に対峙し、それと闘う者たちの「絶対善」という関係構造が固定化されるだろう。

だから、「絶対悪」からの自己解放を求める者たちの「正義の戦争」が、嘘臭い感動譚を殆ど非武装に投入させた、ヒューマンドラマもどきのエピソード挿入のうちに浄化されていくのは必至であった。

その意味で、本作の分りやすい物語設定のうちに隠し込んだヒューマニズムの本質は、ラストシーンのチーフの「脱出行」にシンボライズされたように、どこまでも、「抑圧された患者たちの自己解放」という文脈に収斂されていく以外になかったのだ。

残念ながら、それだけの映画であり、それ以上の奥行きのない、映像構築力の脆弱なフラットな凡作であった。

第48回アカデミー賞(1976年)で、こんな凡作がシドニー・ルメット監督の一代の傑作、「狼たちの午後」(1975年製作)を凌駕するとは到底思えないが、犯罪に走るに至った主人公の心理の襞(ひだ)にまで触れる地味な人間ドラマより、全篇にわたって暑苦しいだけで、人間ドラマとしての深い掘り下げに欠けるばかりか、「映画の嘘」をフル稼働させて、鬱屈した気分をカタルシス処理してくれるサービス付きの、観る者の感動の壺に嵌り得るエピソード挿入を計算づくで作った、いかにも当時のハリウッド好みのあざとい、「アンチのヒーロー譚」を大仰に立ち上げた本作の興業的成功には、人間の問題が抱える複雑な状況性の一切を蹴飛ばすに足る、理非曲直の明瞭性と、減り張りを利かせる単純な物語を待望する時代の後押しが有効だったということだろう。


(注)世界初の精神科病院廃絶法である「バザリア法」で有名なイタリアの精神科医


(2011年4月)

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