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2008年11月5日水曜日

父、帰る('03)      アンドレイ・スビャギンツェフ


 <母性から解き放たれて>



序  謎解きの快楽にも似た知的ゲームの内的世界で



シンプルな作品ほど、しばしば難解である。

娯楽作品ならともかく、その内容が厳しく含みの多い作品であれば、当然そこに何某かの形而上学的な問題提起が隠されていると見るのが自然である。観る者はそこに隠されている何かを読みとろうとして、しばしば謎解きの快楽にも似た知的ゲームの内的世界で、「現象としての精神」を疲弊させたりもするだろう。

これは、「考えさせられる映画」と付き合ったときの宿命であり、礼儀でもあるかも知れない。映像それ自身から伝わってくる緊張と、その奥にあるものに到達したいという緊張が、否が応でも内側に高い集中力の維持を強いてくるのだ。

それをゲームとして愉しめるかどうか、そういう微妙なスタンスで付き合う映画もあるということだ。

この「父、帰る」という衝撃的な作品は、そんな映画の一つだった。



1  最も屈辱的な一日が閉じていって



―― 7日間で語られる映画の、その印象深いストーリーラインを追っていこう。

【日曜日】


5人の少年がいる。

眼の前には、広大な海と思しき水辺が広がっている。飛び込み台には、4人の少年が水着姿で下を見ている。既に一人のリーダー格と思しき少年が水の中に飛び込んでいて、下から檄を飛ばしている。

「お前らも飛び込め!梯子を使う奴は、弱虫のクズだ」

飛び込み台では、少年たちが互いに譲り合っている。なかなか飛び込もうとしないのだ。

「次はお前」
「何で?」
「怖いのか?」
「行け」
「怖いな」
「根性を出せ」

そう言われて、一人が飛び込んだ。そしてもう一人が飛び込む。残った二人は、後に続かない。続けないのだ。傍らの小さな体の少年が、すっかり声変わりした少年に弱音を漏らした。

「やっぱ、止めよう」
「バカ言え、笑われたいか」
「だけど・・・」
「黙れ。俺の後で飛べよ」

そう言うや否や、大きな少年は、先に真下の水面に飛び込んだ。

「チビ!飛び込め!」

高台に一人残された少年は、もう岸に上がった少年に檄を入れられた。しかし少年は飛び込めない。高台の鉄棒を握り締めて、うずくまってしまったのだ。

「おい!何をやってんだ!ダメなら降りて来い。いつまでも、待たねえぞ!」

リーダー格の少年の檄の後、兄と思しきが少年が口を挟んだ。

「弟も飛び込む。心の準備中だ」

そう言った後、高台に向って叫んだ。

「ワーニャ、早く飛び込め!何してる・・・早くどっちかに決めろ!勝手にしろ・・・」

結局、高台から飛び込むことができなかった弟を見捨てて、兄を含む少年たちはその場を離れて行った。

少年を救い出したのは、少年の母だった。既に日が暮れかけていた。

「飛び込まないと、帰れない」と少年。
「なぜ?」と母。
「降りたら・・・梯子使ったら、弱虫と呼ばれる。クズって・・・」
「分りっこないわ。平気よ」
「ママには知られる。僕が飛び込まずに、梯子で降りたと・・・」
「誰にも言わないわよ。この次飛べばいいわ」
「本当?一人ですごく怖かったんだ。死んじゃいそうで・・・」
「バカね。何言ってるの。ママがいるでしょ」


こうして一人の少年にとって、最も屈辱的な一日が閉じていったのである。



2  全てはここから始まった



【月曜日】


高所恐怖症のためグズと馬鹿にされる少年イワンと、弟を庇いたくても、仲間の手前イワンを排除するその兄アンドレイ。

それが、前日に起こった出来事が内包する繊細な事情だった。男の子の兄弟とはそんなものである。

この日はまだ、昨日の事情を兄弟は引き摺っていた。兄の仲間に入ろうとするイワンに、リーダー格の少年は冷たく反応する。

「クズとは口きかねえ」
「何だよ。誰がクズだ」とイワン。
「お前さ。弱虫のクズ。違うってのか?アンドレイ、どうだ?」

その少年は、イワンの兄に評価を委ねた。

「クズだ」とアンドレイ。

その表情には、本音を隠した少年の見栄が潜んでいる。

「ほらな」
「この野郎!」

そう叫んで、イワンは兄に殴りかかった。兄弟喧嘩が始まったのである。その喧嘩は、明らかにピア・プレッシャーに捕捉された自我の、思春期心理による身体バトルであると言っていい何かだった。

弟は走っている。

兄が先に走って、弟がそれを追う。階段を駆け下って、町の中を走り抜けていく。やがて弟は兄を追い抜いて、その疾走を加速させた。

もうそこに喧嘩は成立しない。誰も見ていないからだ。

二人はこのとき、単に帰宅を競う疾走をみせていたのである。

陽光眩しい寂れた街路を走り抜けて、二人が着いた自宅には、意外な人物が待っていた。

「静かにして。パパが寝てるわ」

母のこの一言に、兄弟は絶句した。


「入りなさい」

母の言葉に促されて、兄弟はまるで他人の家のような家屋の中に入り、そっと父が寝ている部屋の扉を明けた。そのベッドに、十二年間消息を断っていた父が、まるでキリストを思わせるような格好で眠りに就いていたのである。

母はそれ以上何も言わない。

祖母は何かを瞑想するようにして、椅子に座っている。

兄弟は勿論、父の顔を知らない。父を確認するために、彼らがもっと幼かった頃の写真を手に取った。

「パパだ。間違いない」

そこに映っている父親が今ここにいることを、兄弟は得心せざるを得なかったのだ。


その夜の家族の食事の風景は、風変わりなものだった。

殆ど語らない父親が一人一人にパンを与え、ワインを注ぐ。それはまさに、宗教画に描かれるような小さな晩餐の構図だった。

宗教的イメージの色濃いこの一幅の構図の直接性は、既に作品のテーマをなぞっているかのようである。

そこでは、まるで語ることがタブーであるかのように、誰も何も語らないのだ。

僅かにそこで語られたのは、明日父が二人の息子を連れて、車で2日間の旅行に出かけるということのみ。

屋外には、赤い車が駐車してあった。その車でのドライブが始まるらしいのである。

その夜、兄弟は突然起こった事態に戸惑いつつも、言葉を交わす。釣りのための道具の確認の後、兄は弟に父の印象を語った。

「凄い体だな。鍛えているのかな」
「かもね。どこから来たんだ?」
「“帰った”だ。嬉しくないのか?」
「嬉しいけど、ママはパイロットって・・・らしくない」
「どうして?」
「だってそうだろ。パイロットなら制服や帽子を・・・」
「そりゃ、休暇で帰るのに制服なんか着るか?」
「そうか。カメラは?」
「入れた。ノートも」
「何で?勉強する気?」
「日記だよ。代わりばんこに」
「そうだった。つけよう」

そこに母がやって来て、早く寝るように促した。母が扉を閉めようとしたとき、イワンは母に尋ねた。

「あの人、どこから?」
「帰ったのよ。さあ、早く寝て」

母のこの一言が、この日の終わりを告げる最後の言葉となった。

そしてこの日は、一週間で語られる映画の、その二日目の夜となった。全てはここから始まっていくのだ。



4  決して越えてはならない大人と子供の境界線



【火曜日】


父は二人の息子を連れて、釣りを目的とするであろうドライブの旅に出た。

寡黙な車内には、殆ど笑いがなかった。そんな澱んだような空気の中で、父が言葉を開いた。

「イワン」
「何?何?パパ。何?」
「何?パパだ。なぜ言わない」
「何?パパ」
「そうだ。なぜ迷う。“パパ”は恥ずかしいのか」
「別に」
「嘘つくな」
「嘘じゃない」
「息子らしく、パパと呼べ。いいな」
「はい、パパ」
「いい子だ」

それが、父と次男の車内での最初の会話となった。

まもなく眠りから覚めたイワンは、車が停車しているのに気づいた。兄は既に覚醒していた。

父が誰かに電話しているのである。車に戻った父は、イワンに酒のボトルを取らせた。それを一口飲んで、父が運転する車が再発車した。

やがて空腹を満たすため途中の町で停車し、父はアンドレイにレストランを探して来ることを命令する。

「どうやって?」
「バカか。人に聞くとかしろ。急げ、さっさと行って来い」

その命令に、兄のアンドレイは素直に反応する以外になかった。彼は必死に店を探しているようだが、車で 待つ父は同乗する次男に言い放つ。

「もう待てん。あいつも子供じゃないし・・・」

3時間経っても戻って来ない長男を置き去りにして、車は動き出したのだ。まもなく街路でソフトクリームを食べている長男を車内から見つけて、父は詰問した。

「何してる?」
「俺?」
「そうだ。ここで何を?」
「レストランは見つけたよ」
「3時間かけて?」
「見てたら、つい・・・」
「人を待たせて“見てた”だと?二度としないな?返事をしろ」
「もうしません、パパ」
「よし、食べに行こう」
「行かない」とイワン。
「なぜ?」
「食べたくない」
「腹ペコだと・・・」
「もう過ぎた」
「放っておこう。頑固なんだ」とアンドレイ。
「ここで待ってる」とイワン。
「一緒に来るんだ」

父は有無を言わさず、イワンの腕を掴んで、レストランに入っていった。レストランで、不貞腐れたような態度に終始するイワンは、食事を途中で止めた。

「イワン、あと2分で食え」と父。
「欲しくない」
「時間がない」

不貞腐れてパンを弄(もてあそ)ぶ次男に、父は命じた。

「パンを食え」
「汚れた」
「誰がそれを食べる」
「誰も。捨てるよ」
「あと30秒しかないぞ。スープとパンを」
「車で待ってる」

そう言って、席を立ったイワンの腕を父は掴んで、更に命じた。

「座ってちゃんと食え。いいな」
「うん」
「“はい、パパ”」
「はい」
「いいから座れ」

この一言で、イワンは命じられるままに席に座るが、全く食事をする気配を見せなかった。

その表情は明らかに反抗的である。一応そこで、「食事」という最も日常的なる儀式は完了したのである。

旅で露わにされる父親の威厳的行動と、それに従順な長男の態度が少しずつ顕在化されていく。

レストランの支払いも長男に財布を委ねて任せ、店の者の呼び方をも正しく教える父。兄弟にとって見知らぬ男は唐突に彼らの思春期に侵入し、初めから父親の権威を押し付けてきたのである。

父親の電話中、長男が町の不良に財布を奪われたとき、助けを求めた長男に、父は何事もなかったように言い放つ。

「自分でできんのか」
「パパ、だって急に襲われて・・・」

父はそれに反応せず、車に乗って不良たちを追い駆けた。舗道に置き去りにされた兄弟。弟に向かって、兄は強がって見せた。

「捕まえて殺すさ。俺だって・・・」

しかし不良を捕まえて来た父は、長男に向かって「殴りたいなら殴れ」と言い放っただけだった。

「いいよ、止めておく」とアンドレイ。
「イワン、仕返ししろ」と父。
「もういい」とイワン。
「なぜ金を?」と父。
「腹が減って」と相手の不良。

父はその不良に金を渡して、そのまま帰したのである。

「根性なしめ。常に備えろ。逃げられたらどうする?」

自分の力で解決できない息子たちに、父は苛立ちを見せるのである。

「見てたのに来なかったろう?」とイワン。

この子だけは常に反抗的である。

「電話中だったんだ」と父。

それ以上何も言わない。その代わり父は用事ができたと言って、車から荷物を降ろし、二人をバスで帰させようとした。

「滝へ行くって約束したろ?」とアンドレイ。
「今度な」と父。
「12年後か?」とイワン。
「何だと?」
「今度、滝に行けるのは12年後かと言ったんだよ。間違ってるか」とイワン。

イワンは一人でバスに乗った。

その後から兄も追って、バスに乗り込んだ。ところが、息子たちをバスで帰らそうとした父は、彼らを連れ戻して再び旅に出ることにした。

それは父の用事の変更に関係しているらしいが、父はそれについて何も説明しないのだ。

旅の本当の目的が分らないまま、父に従うしかない兄弟たち。

年長のアンドレイには状況に適応するだけの知恵が備わっていたが、恐らく母親っ子であったろう十三歳のイワンには、注文した料理を残さずに食べることを強いる父親の態度に最後まで馴染めないのである。

そんな父はどこかで停車して、彼の用事らしい件で他の大人と話しをして、何か荷物を受け取って、再び車を出した。

相変わらず父は、自分の用件について何も語らないのだ。それは大人と子供の境界線を決して越えてはならないと、確信的に考える者の振舞いにも見えた。

その晩、父子は野営することになった。

テントを張り、焚き火をして、夜空の下で食事をした。テントの中で、イワンは兄に父の言葉を疑う思いを口にした。

「全部嘘だ」
「嘘なもんか。お前に何が分る」
「何、媚びてるんだよ」
「誰がだ」
「媚びてるだろ。“パパ、パパ”って」
「大人だから」
「僕らはガキか?言いなりだろ。本当は誰だか分らないのに。悪者かもよ。森で切り殺されるかも」
「何だって?」
「聞こえたろ」
「バカだな、チビ」
「見てろよ、どっちがバカか。笑ってろ」

その後、少し年の離れた二人が喧嘩をするが、当然の如く、恒例行事のように処理できる範疇の兄弟喧嘩だった。



5  雨中の危機突破の中の精一杯の反抗  



【水曜日】


目的地が定まらないような車の旅が、この日も継続されていた。イワンにとって、充分に釣りができない旅が不満でならない。だからそれを、車内で吐き出している。

「何が不満だ」と父。
「別に。釣りをしたいだけ。休暇で来たんだろ」とイワン。

イワンの我がままを耳にするや、川に架かる橋の上で、父は次男を車から強引に降ろしてしまったのである。そして、車は長男だけを乗せて発車したのである。

降ろされたイワンに、もう釣りをする意思など残っていない。イワンは唯、彼にとって初めての「父」という権威に反抗したかっただけなのだろう。それは明らかに甘えを含んだ母に対する反抗とは違い、突然出現した権力的な振舞いへの思春期の微妙だが、しかし正当な反応であったとも言える。

不運なことに、無為な少年の小さな身体に激しい雨が襲いかかってきた。少年は橋の上で、膝を抱えて座り込んでいる。一つの意思を含ませたかのような自然の悪戯に、思春期前期の少年はひたすら甚振られるだけだった。

この映画で最も印象的なシークエンスが、そこにあった。

やがて父の車が戻って来て、ズブ濡れの息子を拾い上げた。

「着替えろ」という父の命令に、イワンは従おうとはしない。ここで遂に、少年は切れてしまうのだ。
「何で帰って来た。なぜだ。なぜ、僕らと旅行なんか・・・。今さら何だよ。あんたなしで上手くいってたんだ。なぜ帰ってきた!なぜ、旅行に誘った!何のためだよ!答えろ!」
「ママの提案で」
「ママに言われて?ママにね。あんた自身は?」
「俺もそうしたいと・・・」
「なぜ?いじめるためか?」
「着替えろ」と父。

その態度は一貫して変わらない。

それにも拘らず、イワンのその行為は、「父」という未知の権力に対する最初の異議申し立てだった。この異議申し立ては功を奏したように見えた。

しかし、父の態度は全く変わらないのだ。

権力に必死に対峙しようとする息子の中の緊張感だけが、徒らに膨らんでいったのである。

まもなく、父の運転する車がぬかるんだ溝に車輪をとられるというアクシデントが起きた。

父は息子たちに枝を集めて、それをタイヤの下に敷くように命じるが、要領を得ないアンドレイを「下手くそ」と詰って、殴りつけたのである。

「それなら自分でやれよ」

アンドレイには、これが精一杯の反抗だった。

そのアンドレイに運転を命じた父は、イワンと共に車を後押して、ようやく雨中の危機を突破した。ここぞというときに見せる父の手腕は、その息子たちに鮮明な記憶を残したに違いない。



6  荒海に漂う小船の悲哀



【木曜日】


陽天の朝。車は湖の岸辺に駐車した。

「パパ、ここは?どこに来たの?」とアンドレイ。
「ここに誰か?」とイワン。
「いや、俺たちだけだ」と父。
「ここで何を?」
「ここでは何も。島に渡るんだ・・・降りろ」

父は息子たちを車から降ろして、島に渡るための準備をした。船にタールを丁寧に塗り、それをアンドレイに手伝わせた。

その作業の後、荷物を船に乗せて、モーターをかけて出発した。父は二人を連れて、湖に浮かぶ小島に小船で渡るのだ。

しかし鮮やかなブルーに染まったような美しい水面が、突然驟雨に襲われて、風景はまるで荒海に漂う小船の悲哀を映し出す。モーターが故障してしまったのである。

父はここでも命令者であった。

二人の少年に舟の櫓を漕がせたのである。

困難な局面に敢えて我が子を放り投げ、それを見守る父がいる。この辺りまでくると、映画のテーマが少しずつ鮮明になってくる。これが父性の不在と、その復権の可能性について語られている映画であることを。

何とか息子たちの必死の努力で、小舟は島に着き、そこで再び野営した。

「もう、寝ろ」

この父の一言に、息子たちは従うしかない。

テントの中で、兄は弟を気遣った。

「大丈夫か?」
「今度、触ったら殺す」と弟。

父なる存在を認知しない少年は、兄と約束した日記を付けていくことだけは決して忘れない。



7  闇の中で、死体を運ぶ二人の少年



【金曜日】


前日、島に着いた三人に悲劇的な結末が待っていた。

何処かの土の中から箱を掘り出した父は、息子たちに帰ることを告げた。

恐らく、その箱の掘り出しが旅の目的であったであろう父には、もう島に残る理由がないのだ。

それでも釣りに行きたいと言う彼らに、父は一時間だけ余裕を与えて、息子たちを一時(いっとき)解き放ったのである。

ところが、わざわざ腕時計を持たされたアンドレイだったが、イワンの反抗的な我がままに付き合って三時間半のタイムロスを犯してしまったのである。

父の顔を恐々伺いながら、二人は砂浜に待つ人格的権力の前に立った。

「何時までに戻るべきだった?」と父。
「3時半」と兄。
「でも魚が・・・」と弟。

明らかに憤怒の感情を抑えつつ、息子たちに対峙して遅刻の理由を聞く父。含みを持ったその態度にプレッシャーを感じて、追いつめられた無力なる者の如く、苦しい弁明するアンドレイとイワンがそこにいた。

「お前に聞いていない。なぜ遅れたんだ?」

父の反応は早かった。

「だから・・・」

その瞬間、父の平手が飛んだ。

「何だよ」と兄。
「呼び声は?」と父。
「全然」と兄。

ここでまた、父の平手が飛んだ。

「まず説明を聞いてよ。魚がかかったから」
「時計は何のためだ」
「戻るため」
「なのに、結果は?」
「魚が・・・」

ここで三度(みたび)、父の平手が飛んだ。

「止めろ!僕が言い張ったんだ!それで廃船に・・・!」

ここでイワンが、兄を擁護するように弁明した。そのイワンを父は突き飛ばし、父の視線は兄のアンドレイのみに向かっている。

「本当だよ。イワンが言い出して・・・」

大人との大事な約束が守れないアンドレイに、弟のイワンのせいにしようとした兄に、「責任転嫁するな」という怒声をあげた父の平手が、更に容赦なく飛んできた。

「どうしろってんだ!悪党!ヤクザ!殺したけりゃ殺せよ!」

アンドレイの一言に、逆上する父。

「兄貴に触ったら殺すぞ!」

弟のイワンが、後方からナイフを持って叫んだ。
逆上したイワンに、父は近づいていく。

「違ってれば好きになれたのに。これじゃあ無理だ!大嫌いだ!お前なんか他人だ!」

泣き叫ぶイワンに、「誤解している」と呟く父。

父を恐れるイワンは、涙を捨てながら逃げていく。

それを追う父。

逃げて、逃げて、逃げて、それでも足を止めないイワンは、展望台となっている鉄塔を上っていく。

高所恐怖症の少年が最後に到達した恐怖の場所に、次男を追って這い登って来る、一貫して権力的な男に対する恐怖が重なった。

「あっち行け!大嫌いだ!」
「開けてくれ!」と父。

鉄塔の上からイワンが閉めていた蓋を、必死に叩いた。

「うるさい、消えろ!」
「頼むから」
「行かなきゃ飛び降りるからな!」
「止せ、待つんだ!」
「飛び降りてやる!」

そう叫ぶや、イワンは更に上に攀(よ)じ上って行こうとする。

「僕にだってやれさ。やれる・・・やれるぞ!何だってやれる、そうさ!やれるんだからな!」

遂に頂上に立って、後ろ手に鉄の囲いを握り締め、少年は空に向って叫んだのである。

下から兄のアンドレイが、不安感を昂らせていた。そして我が子の叫びに慌てた父は、鉄塔の外側に回り込んで、その先端にあった木片に手をかけるや否や、イワンに言葉をかけた。

「ワーニャ、お前・・・」

その瞬間、腐食した木片が外れて、父はそのまま落下してしまったのである。

呆然と見送るイワンが塔の上で震えていた。

父の死体の傍らに、恐怖に引き攣ったアンドレイの表情がアップで映し出されていた。

「死んでる・・・運ばなきゃ」

アンドレイはそう呟いた。

「どこへ?」とイワン。
「ボートまで」とアンドレイ。
「どうやって?」
「手でだ。手で」

そう言って、アンドレイは父の死体を運び出そうとするが、弟のイワンは呆然と立ち尽くしているばかり。

「何見てる?足を持て」

兄の命令に反応して、父の体に触れたイワンは、すぐにその手を放してしまう。

「ダメだ・・・」

弟は泣いている。

「来い。引き摺って」

兄は弟に向かって、強い口調で指示する。弟はそれに応えて、父の死体を運ぼうとするが、二人の少年の力では大人の重い体を全く動かせないのだ。やがて何かを思い出したかのように、兄は弟に指示して、斧を取りに行かせたのである。

闇の中、死体を運ぶ二人の少年がそこにいる。

しかし、作業はなかなか捗らない。大人の死体はあまりに重いのだ。

父の死体の下には、大きな木の枝が敷き詰められている。

アンドレイは斧でそれを切って、運びやすくしようと考えたのだ。彼は、車が溝に嵌ったときの父の指示を思い出したのである。

その思惑は成功した。困難な作業だったが、何とか父の死体を、二人は舟の中にまで運び上げたのでである。

既にこのとき、アンドレイは弟イワンに指示し、命令する一人の兄になっていた。

彼は学習する少年に変貌できたかのようであった。

そして、学習する少年とその弟は、苦労の末にようやく、父の死体を砂浜まで運び出したのである。それは恰も、十二年間の空白を、僅か四日で取り戻した奇跡的な物語のようであった。



8  二十五枚のモノクロの写真が次々に映し出されて



【土曜日】


今まで体験したことがないような疲労の中で眠りに落ちた二人が、薄明の砂浜で覚醒した。

やがて死体を乗せた小舟が、モーターのエンジンで動き出す。暫く進んでいくと、父の死体を乗せた小舟が突然止まった。

浅瀬の岩に衝突して、再びモーターが故障したのである。二人はその小舟を櫓を使って漕いで、対岸に向って進めていく。

一咋日の体験を、二人は完全になぞっていくのだ。

いつの間にかアンドレイは、初めて出会った父から様々に学習していたのである。

しばしば兄を翻弄した弟は、このとき初めて、自分が弟であることを明瞭に意識したのかも知れない。

そして今、小舟の中には思春期の航跡を微妙に分ける兄と弟の二人しかいない。

自分たちに命令し続けた父はもう動かなくなって、舟の端に横たわっているのだ。

それでも兄弟は小舟を漕いで行く。ひたすら漕いで行く。自力で活路を拓いていく以外に、困難な状況を脱する術がないからだ。

まもなくボートが岸に着き、二人は自分たちを運んで来た車を確認した。これから二人だけの、長い帰還の旅が始まるのである。

「パパ」

アンドレイが大声で叫んだ先に、父の死体を乗せたボートが岸から離れ、それが沈んでいくさまが捉えられた。あってはならない光景だった。

「パパ!パパ!」

兄より先に、弟が走りながら叫んでいた。

イワンが初めて、自らの意志で発した父への呼びかけだった。

しかしもう何もかも沈んでしまったのだ。

彼らは生まれて初めて認知しかけた父という存在をを、あまりに呆気なく手放してしまったのである。

或いは、役割を終えた父の魂が息子たちの成長を見届けて湖底に消えていったのだろうか。

車に戻った二人が、そこで何気なく手にした一枚の写真。

そこに映っていたのは、恐らく十二年前の、幼いアンドレイと赤子のイワン、そしてその傍らに立つ兄弟たちの母の姿。五日間、彼らの前に終始権力的に振舞っていた男は、やはり彼らの父親だった。

或いは、そうでないかも知れないが、少なくとも彼らはそう信じたのである。

彼らはもう驚かない。

男が父親でなかったら、今までの男の行動の全てが、合理的に説明できなくなってしまうのだ。男が殺害目的で、息子たちを島に連れて行くはずがないのである。彼はやはりあのとき、イワンを救おうとしたのだろう。「パパ」と叫んだイワンの深い悲しみが、そこに置き去りにされたのである。

「戻しておけよ」

いつまでも写真を見つめるイワンに、兄は一言命じた。

父の死後、兄は全く別の人格に変貌してしまったか。彼は、弟が求めて止まない理想的な父を演じているかのようだった。父が運転してきた車のハンドルを、今度は兄が握り、まもなく兄弟の帰りの旅が開かれた。

映像は最後に、二十五枚のモノクロの写真を次々に映し出していく。まずこの旅での母との別れがあり、旅の中での兄弟のスナップショットが流されて、最後に一枚の写真が印象的に映し出された。イワンを抱く父と思しき男の写真である。

これが映画のフィナーレとなった。

そして、この最後のモノクロ写真の流れこそが、恐らく、映画全体のテーマを集約するに違いないであろう。


*          *          *          *



9  この国の時代状況の膨れ方を再考させる、映像の強靭な喚起力



父性社会のように見られがちなロシアが、意外に日本に近い母性社会の側面があることを認知することは重要である。もっとも、あの広大なるロシアという国家が、その歴史の中でエカテリーナ2世に代表される「女帝の時代」を現出させたからといって、決して母権制の社会であるというわけではない。

よく言われることだが、ロシアの女性は非常に強い母性を持っていて、しばしば夫より我が子を選ぶ意識の傾向が、離婚後も職業的な自立を果たしつつ、家事と育児を難なくこなす強さを発揮するのである。まるでそれは、我が子を過剰に囲い込む傾向が顕著な我が国の母子関係と類似するのかのようだ。

思えば、本作で描かれた家庭もまた、本質的にはそんなロシア家庭の一つのイメージを観る者に提出してくれるものであっただろう。

それは映像の最初のシークエンスで、高所恐怖症ゆえ水面に飛び込めない次男を庇う母親の、その優しい心遣いの描写の中に集中的に表現されていて、この僅かなカットが映像の中枢的テーマを能弁に語っていたのである。映像総体の重要な布石になっていたその描写の持つ意味の大きさは、ラストシーンで括られるカットに於いて自己完結する物語の鮮烈さを保証していたということだ。

恐らく、母性を補填的に必要とするほどに複雑、且つ、蛇行的な軌跡を繋いだ社会の中で、そこに欠落した父性の空洞感を埋めるに足る時代の空気が求められ、やがてそれを戦略的に作り出す指導者の出現が絶妙のタイミングで具現したとき、一体そこに何が起こったか。何が捨てられ、何が特定的に拾われていったのか。

映像は、観る者にそんな想像への深々とした残像を張り付けて閉じていったが、そこに張り付けられた残像の含みは、映像の強靭な喚起力によって、この国の時代状況の膨れ方を充分に再考させるに相応しいものだった。



10  「大ロシア」の精神文化の中に、紛れもない緊張関係が生み出されて



―― ここで、本作のバックグラウンドについて少し言及してみよう。

ナーシ(ウィキ)
「大国ロシア」が近年の政治的社会的大変動の中で、エリツィン、プーチンに代表されるような父性の復権とその検証困難な危うさは、例えば、ナーシ(プーチンを支持する熱狂的な青少年組織)の近年の威勢のいい活動を根底から突き動かすエネルギーを逆説的に把握してみれば、その台頭に危惧を抱くジャーナリストの警告を待つまでもなく、激変を遂げる社会の混迷の状況を端的に物語っているように見えるのだ。

2007年5月、在外分派と80年ぶりに再統合されたロシア正教会への、この国の大衆の顕著な原点回帰という現象もまた、大きく社会転換したロシアの精神風土の地殻変動を示すのだろう。

ウラジーミル・プーチンがロシア社会の文化的な主柱とみなす組織の統合は、この国が今、そのような精神的シンボルを切に求めざるを得ない、大きな変形期の渦中に呑み込まれるていることの証左でもあるのか。


―― 因みに、ここにとても興味深い報告がある。

以上の文脈に脈絡すると思われるので、その報告を紹介していく。

その報告のタイトルは、「ロシア正教(注1)・大ブームの裏で何が」。これは私が就寝前に必ず観ている、「BS・きょうの世界」の「11時台の特集」(2007.4・12放送)の中のレポートである。


番組内で報告された内容は、以下の通りである。


近年、ロシア国内で急増するロシア正教徒の推移は劇的であった。


救世主ハリストス大聖堂の夜景
「爆発的な信者の増加は驚きです。ロシア正教は、繁栄当時の伝統的な姿で復活しようとしているのです」(社会学者トローシン氏の報告)。

―― この報告を、具体的に書いていく。

1991年のソ連崩壊の時点で34%であった正教徒の数は、1997年には50%となり(因みに、他宗教の信者は一割に満たず、「特定の宗教なし」は36%)、2005年のデータでは、ロシア正教徒の占める割合は62%にまで増加したということ(この時点で、「特定の宗教なし」は29%)。

何と僅か15年で、ロシア正教徒は2倍にまで膨れ上がったのである。

旧ソ連時代に寺院を破壊され、司祭が投獄されるという激しい弾圧に遭っても、決して「反体制」の砦にならなかったロシア正教会は、時々の政権と何とか折り合いを付けて、激動の20世紀を遣り過ごしてきたことは周知の事実である。

今や、長く封殺されてきたそのロシア正教の鼓動がうねりとなって、多くの国民の心の拠り所として、ホットスポット(マグマの噴出し口)を見出したかのような勢いで噴き上がってきたのである。

中でも注目すべきは、ロシア正教の教えを忠実に守るという厳格な信者が8.5%に上っている事実である。因みに、この8.5%という数字は、900万人という厖大な人口に当るのだ。

この数字が意味するものは、「保守主義、伝統主義とリベラリズム、自由主義の二つの潮流に社会が分裂していく傾向」(NHKモスクワ支局長・石川一洋氏の解説)を顕在化したものであり、まさに、ロシアの精神文化の現実の様態が端的に示されていると言えるだろう。

然るに、これらの人々は必ずしも狂信的な信者ばかりとは限らない。

「宗教に積極的に参加する人々の間で、同時に社会的にも積極的に参加する人が増えているという傾向もあると指摘されている。連邦崩壊後の剥き出しの資本主義と自由に飽き足らず、それを否定するものではないものの、自らの存在理由を求めると共に、国というものの復権を支持する心情も背景にある」(石川一洋氏)

その中の、一人のITビジネスマンの印象深い話が紹介されていた。

「周りの世界がどんなに彩られていても、内面は空虚です。騒々しい広告とかね。自らの空虚さを埋めるために、人々は境界に向かうのです」

石川一洋氏
また石川氏は、プーチン大統領(2007年4月現在)を支持する若者たちに大きな影響を与える、一人のカリスマ的な指導者、クラーエフ司祭(モスクワ大学教授)を取材し、彼のコメントを記録した。

「ロシアや、ロシア人とは何か。答えの鍵は正教にあります。アメリカ的とロシア的な考えの人。ロシアには二つの人がいます。ロシア正教は、相互理解に必要なのです。正教が民主主義社会の中で、生きる術を学んでいないのが問題です。ですから、正教自らが変革する必要があるのです」

このクラーエフ司祭は、民主主義を体験していない若者たちの世代感情を理解して、彼らにロック音楽等を通して布教を広げていくという方法で、圧倒的な影響力を持っているということ。しかし、この流れが加速することで、「新生ロシア」の社会に軋轢と対立が生まれ、その尖った現象は、近年、自由な文化行動を表現する人々に対する圧力となって出来したのである。

展示会を催したことで理不尽な圧力を加えられた、博物館の館長の話。

「展示会では、アーティストに自由に宗教などを表現してもらうつもりでした。正教や信者を侮辱するつもりはなく、ただ自由を守りたいだけです」

再び、「自由」についてのクラーエフ司祭の言葉。

「宗教的、政治的自由なくしては人間ではないという考えには同意します。しかし我々は、個人の自由が他人を傷つけてはならないと考えています」

以上のコメントには、明らかに現代ロシアの精神文化に於いて顕在化した一定の緊張感が反映されている。

最後に、ロシア正教会とは微妙な温度差を見せるカトリック系宗教学者のコメント。

「カトリックと正教会は姉妹関係にあり、教えには多くの共通点があります。しかし双方は緊張関係にあります。正教がカトリック拡大に過剰に警戒しているのです」(マルイシエフ教授)

「大ロシア」の精神文化の中に、紛れもない緊張関係が生み出されていて、今なお、その柔和なる軟着点が見出せない現実がここにある。

「信仰によって希望が与えられ、家族の結束も強まります」

この言葉は、番組の冒頭で紹介された若い女性信者の声である。

若者たちだけでなく、多くのロシアの人々は、自らの自我を安寧に導く心の拠り所を切望しているだけなのだ。この番組を見て、そんなシンプルな了解点に辿り着くしかなかった次第である。


―― 以上の興味深い報告と重ね合わせることで、映像への理解は比較的見えやすいものになったと言えるだろう。


(注1)「キリスト教の東方正教会の中で最大の勢力。キエフ・ロシアが10世紀末にギリシャ正教を国教として受け入れたのが起源。15世紀に事実上独立。18世紀に入るとピョートル大帝によって国家支配下に置かれる。ロシア革命後は、政教分離が徹底され、無神論運動により弾圧された。第2次大戦中、愛国主義鼓舞のため利用されたが、本格的に勢力を盛り返したのはペレストロイカ後。信者は推定7500万人。1054年の教会の東西分裂以来、約千年近く、カトリック教会との融和を拒んでいる」(東奥日報HP:ニュース百科「ロシア正教」より)



11  母性から解き放たれて  



ここから、映像の内実について言及していく。

そのテーマは、「母性から解き放たれて」である。

要するに本作は、「大ロシア」の精神文化の現在が内包する困難さについての、切っ先鋭い映像的考察であり、それに対する作り手なりの把握をシンプルに提起した創造的表現の一つの結晶であるということだ。

困難な時代の中の、困難な人々の中で、最もセンシブルな時代を生きる思春期の自我が、それまで拠っていた母性文化の縛りから解き放たれたとき、そこに何が出来したか。

母性文化に抱かれていた自我は、未知なる困難な状況下で迷走し、恰もホットスポットを求めて必死に喘ぐ魂の彷徨のように、その苛酷な迷走をなお繋いでいく以外になかったのである。

この殆ど何も語らない衝撃的な作品は、鋭いテーマ性を孕んだ、極めて形而上学的な映画である。

それは、ラストのモノクロの写真のリレーに集約されているように、母性から解放された小さな自我が、恐らく、「秩序」を意味するだろう父性との邂逅を経て成長していくさまを、象徴的に描き出そうとしたようにも思われる。

その意味で、冒頭のシーンは、映像全体を俯瞰する上で極めて重要な布石となる描写であったと言えるだろう。

高所恐怖症のイワンが、高台から見下ろす湖面の広がりの中に、その身を投げ入れることができずに、ただ怯えているばかりだった。

先に飛び込んだ兄は臆病な弟を懸命に叱咤するが、それでも蹲(うずくま)る弟を、とうとう見捨てる羽目になった。「クズ」と罵る兄の心底には、仲間の前で恥をかかされた屈辱感もある。

だがそれ以上に、高台に残した弟の身を強く案じていたはずだ。それでも兄は、仲間たちへの見栄を通さねばならなかった。

哀れを極めたのは、高台に置き去りにされたイワンである。

日が暮れて、少年が一人、最も恐怖なる空間で怯え、震えている。そこに助けが入った。母の包容力が次男を包み込んだのだ。このときの二人の会話は、思春期前期に入る辺りの男の子にとって、余りに切実であった。

もう一度、この映像の中枢的テーマに関わる会話を再現しよう。

「飛び込まないと、帰れない」と少年。
「なぜ?」と母。
「降りたら・・・梯子使ったら、弱虫と呼ばれる。クズって・・・」
「分りっこないわ。平気よ」
「ママには知られる。僕が飛び込まずに、梯子で降りたと・・・」
「誰にも言わないわよ。この次飛べばいいわ」
「本当?一人ですごく怖かったんだ。死んじゃいそうで・・・」
「バカね。何言ってるの。ママがいるでしょ」

包み込もうとする母と、包み込まれることを望みながらも、それを素直に受容できない次男坊。思春期前期の少年の内面世界を、繊細なまでに再現したこの描写は極めて印象深いものがあった。

繰り返すが、この冒頭のシーンは映像のテーマ性の全てを語っている。

母性にのみ包み込まれて育った、意固地で甘えん坊の少年が、その母性に存分なまでに包まれてオロオロ泣いているのだ。

しかし、母性に抱擁された少年の最も惨めな自我が、次のシーンの転換から悉(ことごと)く試練を受け、いたぶられ、突き放されて、驟雨の中を置き去りにされる。

そして少年は、ラストシーンに象徴される「絶対状況」にまで持っていかれてしまうのである。

母性に抱かれた少年の自我に、突如、父性なる者の圧倒的な人格の化身が殆んど暴力的に侵入してきて、少年の幼い自我を縛り上げ、選択肢の限定された反応のみを強いることになっからだ。

当然の如く、少年はその侵入を拒み、強いられた秩序から脱出しようともがき、幾度か無謀な突破を試みるが、少年を囲繞した状況は常にその幼い自我を屈服させ、それ以外にないという行動選択を固め上げていくのである。

しかしこの少年は、「現実原則」で振れていく自我を習得しつつあった兄と違って、父性とのクロスの中で過剰なほど繊細に反応してしまうのだ。

この少年の自我は反抗期のとば口の辺りにまで、その尖りを見せ始めていたのである。だからより大きな体の兄に体当たりし、その手強い難敵を身体表現に於いて正面突破しようとしたのだ。少年にとって、まさに兄の存在こそ父性の代行であったということだろう。

そしてその兄もまた、父性のモデルを失っていて、仲間の中では充分なポジションを得ていないかのようでもあった。思春期の盛りにあって、兄こそ、或いは、正面突破すべき本来の敵を探していたとも言えるだろう。

そこに唐突に出現した父性に対して、兄が大人としての威厳性を認知できていたのは、より幼い弟よりも、その自我の形成が社会化されていたからである。その二人の自我の形成レベルの差異が、父子三人の旅の中で露呈されることになったのだ。

この微妙な落差を露呈させながらも、二人は兄弟感情の繋がりの中で補完し合い、サポートし合っていく。しかし弟の我がままによって、遂に兄弟と父性との間の緊張関係が破裂し、そこに「絶対状況」を出来させてしまったのである。

「絶対状況」という言葉は少し大袈裟だが、それを私なりに把握したイメージは、「母性からの解放を、父性に対する正面突破によって切り開かれることを不可避とする状況」という文脈を含意している。

そして、その「絶対状況」下で息子たちは吠え、叫び、抗うことで激しく抵抗した。

それは、彼らにとってそれ以外にない身体表現だったのだ。

そこで最も激しく抵抗する次男は、その父性と厳しく対峙し、砕かれそうになる自我をギリギリのところで踏みとどまって、果敢に疾駆したのである。

その疾駆は確信的でなかったが、しかし次男の疾駆の先に待っていた選択は、その少年が最も恐れていた高台の世界に自らを突き上げていくことだった。次男にとって高台の頂点に立ち、そこで吠えることは、この時点で可能な自己解放の最大のマニフェストだったのだ。

少年は遂に自らの意志で鉄塔に登り、その高台の恐怖に満ちた狭い空間を支配し切ったのである。

この描写が持つ意味はとても大きいだろう。なぜならそこには、冒頭のシーンで見せた少年の惨めさが払拭されていて、少年はその空間を支配した思いを、涸れることのない叫びのうちに刻むことで、自分を追って来る父との主観的な対決の世界に対峙して、少年なりの答を出そうとしたのである。

その結果、父は死体となり、兄弟の未知の生命がそこに担保された。然るに、ここでの父の死はどこまでも形而上学的な把握のうちにイメージされる何かであって、映像のリアリズムによる把握は殆んど意味がないだろう。

ここで重要なのは、名前の分らぬ父に象徴される者の出現によって、その息子たちがなお、彼らの自我のうちに十全に形成し得なかった規範と秩序の体系を、その成長に必要な分だけ手に入れることであって、それ以外ではなかったということである。従って、それを保証し得たとき、父なる者の存在は不要になったという訳だ。

本作に於ける父の存在とは、聖書に登場する威厳性を保持した厳父なる者のイメージに近いだろう。その者こそは、そこに秩序と規範を伝える役割を担わされて、まさにそれを必要とする思春期の頃合の状況下で、彼らと対峙し、それを乗り越えていくべきモデルとして形而上学的にイメージされた何者かであったと言えようか。

本作で描かれた父親の表現を検証するとき、彼が息子たちに対して、唯一体罰を加えた描写が重要なものとなる。父と息子との約束を、息子の我がままによって破棄されたその瞬間に、極限的なる「絶対状況」が開かれたのである。

観る者は、その描写の重要性を忘れてはならないだろう。

それは、約束を守ることの大切さを身体化した表現だった。

息子たちに対する父のそれ以外の表現が、どこまでも彼らの自立を望む者の大きな包容力の内に限定されていたことを思えば、父の身体表現が理性的な行動文脈に於いて一貫していたことは否定し難いのである。



12  一貫して権威を持って振舞った男の、その本来の正体



―― ここまで書いたところで、一言付記しておこう。


映像を通して、一貫して権威を持って振舞った男の、その本来の正体についてである。

或いは、二人の兄弟をドライブ旅行の連れ出した男が彼らの実の父親でない可能性もあるが、本作に於いて、その辺の深層の読解は殆ど意味がないであろう。

この物語で何よりも重要なテーマは、父なる男の役割性それ自身であって、それ以外ではないからだ。

だからこの物語はどこまでも、父を演じる男の父性の実在性だけが真実の表現様態であって、単に「父と子供の物語」の悲劇を表現した映像作品ではないということ、それだけが枢要なテーマなのである。

一応本作では、ストーリーラインが確保されていて、鮮烈なラストシーンに流れ込むラインの骨格は、際立って映像的な文脈を構成するものであった。

無人島に渡った父の目的が、息子たちの娯楽に付き合うものでなかったことは明瞭である。

父は無人島の多湿な土壌の中に隠していた小箱を掘り出して、それを小舟に持ち込んだとき、息子たちに帰還を促した。父の用事が完了したからである。しかし最後まで開かれなかった小箱の存在とは、一体何だったのか。

そこに形而上学的なイメージが被されていたことは、観る者には容易に想像される。その謎解きは難解極まりないだろう。その小箱の存在性は、どのような意味にも受け取れるし、具象性の乏しいメタ・メッセージであるとも受け取れるのだ。

分らないなりに言及すれば、その小箱に被されたイメージとは、或いは、このような映像を作らざるを得なかった作り手の問題意識のうちに絡みつく何か、例えば、「ペレストロイカ」(ゴルバチョフによって進められた改革の総称)とか、「新ロシア革命」(注2)とか、大がかりなレジーム・チェンジを必要とせざるを得ない現代ロシアのカオス的状況下で、人々が失いつつある民族的メンタリティ、即ち、「大いなるロシアの精神」とか、先述したように、近年、復元力を露わにしつつあるロシア正教の精神というものの象徴性や、それに繋がる秩序と規範の体系を、ある種の秘儀のようにシンボライズさせたものであるのかも知れない。

それが何を意味するかは不分明だが、ラストシーンで、父と共に水底に沈んだ小箱の描写の意味は、それを既に不要とするというメッセージの仮託であるのか。

それとも、息子たちにそのエッセンスが継承されたという括りによって、自己完結的に閉じていくイメージを表象するものであるか。

それらを含めての解析を、観る者に委ねるかのような映像表現は、蓋(けだ)し挑発的でもあったと言えようか。



(注2)1991年8月に、モスクワで勃発したクーデターのこと。「ペレストロイカ」を進めるゴルバチョフに対し保守派が起こした軟禁事件だが、最終的に失敗に終わり、逆にエリツィンに指導された勢力によってソ連崩壊をもたらす結果となった。



13  鮮烈な映像文化の尖りから分娩された、最も衝撃的な一作



資本制社会への急速な発展の中では、父性と母性の安定的な均衡を維持するのはとてつもなく困難なのである。しかしその困難さが常に新しい文化を生み出していく。鮮烈な映像文化の尖りから、しばしば最も衝撃的な一作が分娩されるのだ。「父、帰る」という、様々に含みの多い一篇ががそれだった。

ここに、本作を絶賛した一人の著名人の簡潔な言葉がある。

「ロシア映画の多大な創造性とその精力的な発展の可能性の証拠を示した」(「父、帰る」公式サイト・レビューより)

これは、多くの映画ファンなら周知の情報であろう。ウラジミール・プーチンの言葉だからである。

良かれ悪しかれ、2007年状況に於いていよいよその絶大なる影響力を発現する男の心情を、プーチン本人のこの言葉が正直に吐露するものになっていて、まさに彼の国の文化の現在が何を求め、何を手に入れようとしたいのかというメンタリティを検証するものであった。

この年の12月に実施された下院選挙の報道を、私はかなりフォローしていたが、「統一ロシア」(注3)の殆ど予定された圧勝の結末という筋書きとは無縁に、その中でとりわけ印象深かったのは、欧米のメディアで指摘された民主的な選挙への疑惑という問題よりも、選挙に一票を投じる人々が、そこに「強い指導者」を求めて止まない感情の明瞭とも思える振れ方であった。

思えば、「エストニア大使館事件」(注4)に象徴されるように、若者たちがうねりを上げて政治行動に走るその様相は、多分に情報操作された為政者たちによる巧みな戦略の結果とは無縁でないだろうが、リスキーシフト(集団に吸収されることで、より過激な行動を示す現象)すら垣間見られるかのような国民感情の振れ方は、変動著しい時代下にあって、それ故にこそ、その平均的な自我の拠って立つ中心軸を求めて止まない感情傾向の発露であったと言えるのだろう。

見る見るうちに破綻国家の現実を脱却して、今や、世界のエネルギー供給の一大拠点となった感の深いこの国の変貌は、恐らく、そんな時代のシフトの過剰さが置き去りにした精神文化の空洞感を埋めるに足る、振幅激しい心が依拠し得る何かへの、切実なる希求を身体化せざるを得ないに違いない。そう思えるのだ。

「父、帰る」という映像は、時の大統領の愛国心を刺激するのに充分な直接性を含んだ作品だったのだろう。それは紛れもなく、以上の文脈に窺える変形期の時代が生んだ一つの文化的な表現だった。


(注3)2001年に、「統一」と「祖国・全ロシア」が統合されて結成された政党で、その代表はグルイズロフ(下院議長)だが、実質的にプーチンの政党と言っていい。

(注4)2007年4月末から5月にかけて、モスクワのエストニア大使館前でナーシが連日抗議集会を開き、深夜まで騒いだ事件で、事件の背景には、エストニアの首都タリンで、ロシア系住民らと警察官との衝突によって両国の緊張関係が高まっていたことにある。


因みに、資本制社会の過剰な展開が父性と母性の安定的な均衡はおろか、その両性の衰弱を来してしまった国がある。わが日本である。

だからこの国の映像文化の現在には、鮮烈な尖りが全く見られない。呆れるほど娯楽にのめり込むか、過剰なほど情緒に流されるか、乱暴に言えば、この国で垂れ流される映像作品の殆どが、そのいずれかに含まれてしまうのだ。

最も現在的なテーマで真っ向勝負し切る作品が、あまりに少ないのである。一向に、「考えさせられる映画」と滅多に出会うことがないのだ。本作のような映像を求めて止まない私にとっては、極めて寂しい文化の現況である。



14  表現への熱気が漲っている会心のデビュー作



―― 最後に本稿を括るに当って一言。

本作で描かれた内面的世界を常識的に考えれば、島での僅かな生活の中で、たとえそこに、父の衝撃的な死という事態が媒介されたとしても、母性によって安堵されていたアンドレイの未成熟な自我が、限りなく大人の自我に近づいてしまうなどということはあり得ない。

繰り返すが、この作品が人生のリアリズムを切り取ったものではないことは明白なのである。それ故にこそ、形而上学的な映像構成の中で描写のリアリズム(展開のリアリズムではない)が完璧に嵌って、かくもシャープな作品が仕上がったのだ。少なくとも、私はそう思う。

アンドレイ・スビャギンツェフ監督
「父、帰る」は、私が久しぶりに出会った、「考えさせられる映画」だった。

「考えさせられる映画」は、同時に「感じさせる映画」でもあった。

観る者に考えさせ、感じさせることができた映画は、もうそれだけで、勝負の帰趨の定まった映画であると言える。

タルコフスキーを思わせる、これほどの作品をデビュー作にした、アンドレイ・スビャギンツェフという監督の次回作が切に待たれるところであるが、それを過剰に期待するのは止めておこう。

最も描きたいことを表現する熱気が漲っているであろうデビュー作の、その鮮烈なまでの会心の一撃のみで、表現世界の根底的な継続を実質的に終焉してしまう映像作家が数多(あまた)いるからである。

(2007年12月)

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