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2010年8月22日日曜日

ブルース・ブラザーズ('80)      ジョン・ランディス


<印象濃度を決定付けた「破壊的シークエンス」の映像構成>



1  マキシマムにフル稼働させた「ナンセンス性」



私にとって、「単に面白いだけの映画」に過ぎない、この映画の異常な人気を考えてみたい。

それが本稿の目的である。

その一。

スラップスティックに内包される「ナンセンス性」を、マキシマムにフル稼働させたこと。

その二。

そして、その「ナンセンス性」をフル稼働させるに最も相応しいと思われる人物造形に成功したこと。

その三。

殆ど完成形のオブジェと化したその人物造形のうちに、「養護施設救済」(固定資産税の完納)という大義名分を張り付けただけの、「破壊的推進力を駆動させる絶対ヒーロー感」を醸し出すに足る、極めてアナーキーなストーリーを構築したこと。

その四。

そのアナーキーなストーリーの中枢に、観る者への訴求力を高め得る、ブルース中心の著名な音楽をラインアップさせたこと(注)。


(注)「ファンクの帝王」のジェームス・ブラウン、「ソウルの女王」のアレサ・フランクリン、「ソウルの神様」のレイ・チャールズ、「コットンクラブ以来のエンターテイナー」のキャブ・キャロウェイの、特化されたワンマンショーのシーンあり。


以上の4点が「奇跡的な融合」を果たしたことで、「単に面白いだけの映画」の感覚的カテゴリーを突き抜けてしまって、数多のリピーターを作り出したのではないか。

それが、私の本作に対する基本的把握である。



2  印象濃度を決定付けた「破壊的シークエンス」の映像構成



前述した4点の「奇跡的な融合」を繋ぐ仕掛けとして、随所に「破壊的シークエンス」を挿入させていた映像構成が、観る者の印象濃度を決定付けたと私は考えている。

例を挙げよう。

謎の女(かつてジェイクが、結婚披露宴を反故にして捨てたフィアンセ)による、爆薬を乗せて噴射ガスの噴出するバズーカ砲の発射、時限爆薬装置による老朽ビルの爆破、電話ボックスごと吹き飛ばす火炎放射器攻撃や、至近距離でのマシンガンの乱射、或いは、一人の死者を出さずにショッピングモールを突き抜けていく、警察車両との超絶的カーチェイスと、その後も、ネオ・ナチや、カントリーウェスタンバンドである「オールドボーイズ」との、繰り返される執拗なカーチェイスによる「破壊的シークエンス」の連射。

更に、軍隊まで出動するアクションシーン以外にも、「破壊的シークエンス」が拾われていた。

カントリーウェスタンしか受容しない西部の田舎町の酒場での、ブルースブラザーズのステージのシークエンス。

彼らがロックを演奏した途端に、ぎっしり詰まった客席から、ビール瓶が次々にステージ目がけて飛んで来たのだ。

予め、ステージをガードするために設けられたガラス防御網が張り巡らされているという過剰さだった。

「養護施設救済」のために再結成したブルースブラザーズのバンドは、下品な観客のニーズに合わせて、テレビ西部劇のテーマである「ローハイド」を演奏し、これがヤンヤの喝采を受けた。

それでも、ひっきりなしに飛んで来るビール瓶の洪水。

カントリーウェスタンの連射によって、田舎町の酒場は興奮の坩堝(るつぼ)と化し、テーブルの上で踊り出したり、嗚咽したり、抱き合うカップルまで現出したりするのだ。

この酒場では、興奮した客が、このような形で感情を炸裂するのが常識的になっているらしい。

思わず吹き出した、数少ないシーンの一つだった。

以上のナンセンスなプロット構成に象徴されるのは、羽目を外したときの、ハリウッド映画の底が抜けたバカバカしさ、厚顔さ、且つ、文化的推進力・飛翔力の凄み。

これは、130分を超える長尺過ぎるコメディの自在性をフル稼働させた、殆どマキシマムな娯楽映画と言えるだろう。



3  究極のスラップスティック・ムービーを体現した、「ラジカルに笑わす天才的コメディアン」



アメリカ映画の検閲制度であった「ヘイズコード」も廃止され(1968年)、フランスや韓国のように、明らかにWTO違反とも言える、「スクリーンクォータ制度」(自国の映画の上映を義務付ける制度)の呪縛を持たないアメリカ映画の娯楽前線が内包する、「殆ど何でもあり」という極北的な一作 ―― それが本作だった。

ジョン・ランディス監督
このようなミュージカル・コメディ・アクション全開の映画を作ってしまう国の、その底知れぬエネルギーを目の当たりにしてしまうと、もはや本作は、「好みの問題」の尺度の矮小感を丸飲みする、ほぼ確信犯的なアナーキー・ムービーと言っていい。

但し、これだけは言える。

この映画の「面白さ」を支えていた決定的な要因が、刑務所帰りのジェイク役のジョン・ベルーシの圧倒的存在感が醸し出す、絶妙な「間」の表現力と、獄内の囚人相手に身体表現した、「監獄ロック」で閉じられていく映画のラストシーンに象徴されるように、肥満成人に似合わず、ステージで躍動するフットワークの身軽さに因っていたということ。

恐らく本作は、「ラジカルに笑わす天才的コメディアン」としての、ジョン・ベルーシなしに成就し得なかった、究極のスラップスティック・ムービーであっただろう。

要するにこれは、アクの強さにおいて抜きん出ていた個性的なコメディアンでありながら、ドラッグの過剰摂取によって夭折したジョン・ベルーシの映画だったのだ。

(2010年8月)

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