Ⅰ 「予定調和の逆転劇」の効果を高める伏線としての「対立構図」
本作がミステリー・ヒューマンドラマとして観るとき、とても精緻に構築された映画であることは間違いない。
「予定調和の逆転劇」という軟着点を前提化しているように見えるので、ミステリードラマとしての緊張感の継続力が弛緩気味に流れていく瑕疵を除けば、ほぼ完璧なシナリオと映像構成の秀逸さは、それだけで充分、商業映画としての付加価値を高めるだろう。
だから、本稿では、精緻に練り上げたミステリーの構成力について一切言及するつもりはないし、正直、興味もない。
その点に関しては、5分も経てば忘れる類の、単に「面白いだけの映画」で終わるからだ。
本稿で言及したいのは、ただ一点。
「人生論的映画評論」という視座で本作を観ていくと、この映画が、裏稼業の探偵屋である北沢と、公務員である中学校教師の神野によって成立する作品と考えているので、「人生観」において決定的に乖離している二人の会話にのみ注目し、言及したい。
本作の中で、「事件」に関わるシナリオの存在すらも知らない、ただ一人動かされ続けるばかりの、ネガティブ思考に塗(まみ)れた北沢の、「訳知り顔の人生観」だけが浮き上がってしまっていて、物語の中での、この男の屈折の様態が炙(あぶ)り出されてくる印象が強いのだ。
そんな二人の間に、こんな会話があった。
既に、相手(北沢)が探偵屋であると察知している神野が、ヤクザと連(つる)んで違法行為をする企業幹部の男に依頼され、探偵稼業を引き受けた北沢から、そのネガティブな人生観を滔々と聞かされるシーンがそれである。
美紀(左)と木村 |
「現実なんてこんなもんだ、先生。勉強になったか」
妊婦を放置し、不倫に走る木村の振舞いについて、神野に、「然(さ)もありなん」と訳知り顔で説教する北沢に、神野は正攻法の反応をした。
「お前、何があったんだ。中学では、そんな人間じゃなかったはずだ・・・」
北沢の「訳知り顔の人生訓」が開陳されのは、このときだった。
「お前みたいに、ずーと教室で生きている奴に人間の何が分るんだよ。何にも知らないで、自分の都合の良いように世間見て、人間見て、安心しやがって、お前みたいな奴見てると、ムカムカするんだよな。早く卒業しろよ、中学校から」
そこまで言われた神野は、「どうでもいいや」と捨て台詞を残して、帰って行った。
心中では、警察を背後にした、自分の置かれた立場が理解し得ていても、「自分だけが人生を分ったつもりになっている、こんなアホとは付き合い切れない」という思いが騒いで止まなかったのだろう。
それを見て、勝ち誇ったようにニヤけた表情を浮かべる北沢が、そこにいた。
神野(左)と北沢 |
その辺りは、2で言及したい。
2 狭隘なるラベリング思考から抜け切れない男への情感炸裂
二人の「対立構図」の、「予定調和の逆転劇」の決定打となる、最終局面がやってきた。
まもなく、北沢にとって事件の真相が見え始めたにも拘らず、時、既に遅く、警察に捕捉されるに至ったのだ。
そのときの二人の会話こそ、本作の生命線の幹の一つとも言え重要なシーンである。
以下の通り。
「おい。お前ら、あの女助けて、何の得になるんだ?」
これは、警察に捕捉され、「事件」のからくりを察知した北沢が、警察に保護された女をサポートし続ける神野に放った言葉だ。
「得?」と神野、
「警察の犬みたいな真似して何が楽しい?」
そう言って、警察に連行されていく北沢。
「あんたみたいな生徒、どのクラスにもいるんだよ」
北沢 |
振り返る北沢。
「全部分ったような顔して、勝手にひねくれて、この学校つまんねえだの、何なの。あのな、学校なんてどうでもいいんだよ。お前がつまんないのは、お前のせいだ」
この言葉を、決定的な局面で、主人公に語らせたいための映画でもあったのだ。
「お前がつまんないのは、お前のせいだ」
自分がヤクザに借りて、札幌への逐電を企図して頓挫した北沢の身勝手な生き方を、決定力のあるこの言葉によって、「学校なんてどうでもいいんだよ」と自己相対化してみせた神野の情感炸裂には、「ずーと教室で生きている奴に人間の何が分るんだよ」と言い放った、狭隘なるラベリング思考から抜け切れない男の自我に張り付く、「社会の裏を知っている者の経験則」をも相対化してみせる、一定の説得力を持ち得ていたとも言えるだろう。
内田けんじ監督 |
神野という人物造形が、内田けんじ監督自身であることは間違いない。
二人の会話の、この最終局面に触れて、私の中で得心がいった。
そこには、これまでの邦画の中で、奇麗事ばかり垂れ流し続けてきた文化フィールドを通して、常に、事態の一切の問題を、社会や時代に還元させる責任のすり替えを揶揄する意味合いが含まれていると言っていい。
即ち、一見、〈状況〉との関係で捩(よじ)れて、見えにくくなった厄介なる問題の多くが、自己責任の問題のうちに求められると言いたいのだろう。
思えば、2008年6月に惹起した「秋葉原通り魔事件」のように、どこまでも個人の問題に過ぎないのにも拘らず、その根拠も不分明な時点で、問題の所在を「派遣」に象徴される社会の問題に、短絡的に還元させる風潮への異議申し立てとも感受し得るような流れが、現代の邦画界で読み取ることができるのだ。
イデオロギーという厄介な観念体系に、どっぷりと浸かっていない若手の映像作家が、次々に注目を浴びる発表作品の中に、一切の奇麗事や虚飾を排し、裸形の人間の本音を果敢に拾い上げていく自在な表現が往々にして見られるのである。
まさに、何でも知っているかのように動いて、結局、何も知らずに墓穴を掘った北沢のような生き方を指弾したいという含みが、そこに垣間見えるのである。
ほぼ正解だからである。
(2011年8月)
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