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    4 か月前

2011年9月4日日曜日

クレイジー・ハート('09)     スコット・クーパー


<闇深き病理への治癒の困難さを、簡単にスル―してしまう物語の安直さ>



 1  「男の生きざま」という、「物語の芯」の脆弱さ



 ハリウッド映画の浮薄さを曝け出した、凡作の極みのような一篇。

 地の果てまでも続くと思わせる、広い大地の遥か上空を占有する、ゆったりと流れる雲と抜けるような青空。

 この大自然を背景にして、白人開拓民の中で生まれた音楽であるカントリー&ウエスタンの明るい曲調が、全篇を通して響きわたる。

 そして、「伝説のカントリー・シンガー」という、かつての栄光虚しく、地方都市の場末のステージをドサ回りする、落魄した初老のミュージシャン。

 大抵、こんな男の日常性は、アルコール漬けの自堕落な日々というのが定番になっているが、本作の主人公も、その例に洩れることがなかった。

 飲酒行動を全く抑制し得ないアルコール依存度の極みと、切れ目ないチェーン・スモーキングというマキシマムなリスクテークが、男の身体をすっかりボロボロに蝕み、その精神をも喰い尽しているようだった。

 物語が開かれて、ものの10分もしないうちに、そのストーリーが読めてしまうハンディを、あろうことか、本作の作り手はそれをハンディとも思わないのか、殆ど出ずっぱりの主人公の、呆れるほど非構築的で、フラットな単線形のエピソードを繋いでいくお気楽さ、安直さ。


 然るに、「予約されたストーリー」というハンディに弾かれることなく、そのハンディを巧みに吸収して構築された「物語の芯」があるとすれば、「男の生きざま」という一言に集約されるだろう。

 ところが、この映画には、この類の「物語の芯」を感受させるシーンがあまりに希薄なのだ。

 シナリオと演出の脆弱さが、この映画を相当程度、底の浅い作品にしてしまっている。

 だから、この類の「物語の芯」であるはずの、「男の生きざま」から滲み出てくる「哀感」という、最も重要な情感が伝わって来ないのだ。

 これは、ダーレン・アロノフスキー監督の「レスラー」(2008年製作)と比較すれば、その瑕疵が明瞭に理解できるだろう。

 特段に捻(ひね)った物語ではない「レスラー」の主人公から、なぜ、あれほどの「哀感」が滲み出ていたのか。

 それは、全てを失った男の悲哀を的確に表現する映像構築に成就し得たからである。

 主人公を演じたミッキー・ロークの完璧な内的・外的表現力を、作り手が巧みに引き出す演出に長けていたからに他ならない。

 そしてもう一つ。

 落魄した初老の「レスラー」を演じ切ったミッキー・ロークの、その心の拠り所であった中年ストリッパーを演じた、マリサ・トメイの絶品の表現力が眩いほど輝いていて、観る者に訴える力が大きかったという点が挙げられるだろう。

 何より、そのような絶品の表現力を引き出したダーレン・アロノフスキー監督の演出力が際立っていたのである。

 ところが、本作は、その辺りの表現力の甘さが、単にエピソードを羅列していくだけの物語の甘さとなって、如何にも、「予約された着地点」を保証する「作りもの」の安直さが、この映画を根柢から崩してしまっていたように思われるのだ。


 ジェフ・ブリッジスが演じた「男の生きざま」の骨格となる、アルコール依存症に搦(から)め捕られた男の脆弱さに関わる内面的な掘り下げの劣化が眼にあまり、それを補完する相手役の、地方紙の子持ちの女性記者の身体表現の様態が、単に「男運の悪い、疲弊し切った女の人生」を、雰囲気として描いていただけで、それは到底、「哀感」という、最も重要な情感とは無縁な何かでしかなかったのだ。



 2  闇深き病理への治癒の困難さを、簡単にスル―してしまう物語の安直さ



 何より、本作の最も駄目なところは、「男運の悪い、疲弊し切った女の人生」に惹かれて、恐らく、再婚まで考えるに至るほど入れ込んだ初老のミュージシャンの「純愛」が、そこもまたハリウッド映画の浮薄さを曝け出す象徴としての、「逆転人生の奇跡」を具現する決定的な推進力となって、簡単には治癒し得ないアルコール依存症という闇深き病理を、信じ難い程あっさりと、軽快なまでにクリアさせてしまう物語の安直さと浮薄さ、且つ、御座なりな処理にあると言っていい。

 脳の抑制機構が破壊されかかっている現実を常態化させている、アルコール依存症という闇深き病理への治癒の困難という、そこだけは外せないだろうリアリティを簡単にスル―してしまう描写を見せつけられたとき、正直、この映画の作り手のアホさ加減に憤怒を通り越して、かくも愚かな作品と付き合ってしまった己が行動選択に吹き出さざるを得なかった。

 しかし、これだけは言いたい。

 仮に飲酒行動を止めたとしても、不眠や手の震え等の「離脱症状」で悩まされることで入院が必要とされるばかりか、合併症(肝機能の顕著な劣化)の治療を不可避とするが故に他者からの協力が絶対に不可欠であり、意志の力が殆ど役に立たないと言われる、アルコール依存症の凄まじき破壊力の怖さを舐めるな。

 アディクション治療の絶望的な困難さを、この凡作の作り手はどこまで理解し得ていたのか。


 アルコール依存症のために仕事や家族の一切を失ってもなお、知り合った娼婦に、「俺から酒をとるな」と命じた末に、脳も内臓も自壊し、まるでアルコールと心中を図るが如く、絶命した男の救いなき破滅的人生を描いた「リービング・ラスベガス」(1995年製作)の重苦しさこそ、死ぬまで酒を飲み続けようとする、戦慄すべきアルコール依存症者の凄惨さの極北的現実である。(画像)

 この映画が、映画化決定後に自殺した、アルコール依存症者の原作者の自伝的内容を含んでいた事実に言葉を失うほどだった。


 こんな現実を思うとき、つくづく、「人間はいつでも変われるのだ」と嘯(うそぶ)く幼稚なオプチニスト、と言うより、「人間心理の機微の洞察」に鈍感な者たちの、まさにその鈍感さが垂れ流す、ハリウッド流の、不埒なまでの「逆転人生の奇跡」のお伽噺の連射に辟易(へきえき)する思いである。

 だから、敢えて挑発したい。

 映画を作るなら、少なくとも、物語の心理的骨格に関わる事実くらい、もっと勉強したらどうか。

 やはり私の場合、憤怒の自給熱量の方が上回っていたようだ。

 ラストシーン。

 奇跡的に立ち直った男が、かつての愛弟子のために作った新曲で得た大金を、「地方紙の記者」と切れ、出世した挙句、男と分れて再婚した女に贈るというシーンである。

 「君たちのお陰で生まれた曲なんだ」
 「優しいのね。順調そうでうれしいわ」
 「日々、着実に」

 自暴自棄の荒んだ日々を脱却し、アルコール依存症をすっかり治癒した男と、再婚したキャリアウーマン。

 要するに、コリン・ファレル演じる、かつての愛弟子とのライブ・シーンに象徴されているように、歌が上手い俳優の内的表現力を巧みに引き出すに足る、最低限の構成力と演出力の決定的瑕疵こそが、本作が凡作たる所以であったということである。

(2011年9月)

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